日本人英語で行こう|JAPANESE ENGLISH INSTITUTE

成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

フォニックス

2012年6月19日

朝トレの生徒のS君は某大学の4年生である。知情意のバランスがとれた前途有望な青年だ(ちょっと褒め過ぎかな)。先日、そのS君との授業で英語の発音と綴り字(spelling、以下「スペリング」)の規則性について触れたところ、S君は「こんな話、はじめて聞きました。驚きました。」とコメントした。

驚いたのは、私のほうである。私が彼に説明したのは、英語の母音字(a, e, i, o, u)には長母音読みと短母音読みがあること、それを識別するには音節末のSilent E(「黙字のe」)の有無をチェックすればよいという、ただそれだけのこと。いずれも英語のスペリングの発音ルールとして基本中の基本だ。これを知らないで英語のスペリングが正しく読めるようになるのは至難の業である。ところがその基本中の基本を聡明なS君が知らないのだ。中学、高校、大学とS君を教えてきた英語の教師は何を教えてきたのだろうか。

ご存じのように、英語のスペリングと発音の乖離はあまりにひどい。私たちは英語の授業でアルファベットの発音をまず習うが、それを覚えたところで、英単語の発音ができるようにはならない。日本語でひらがなを習うと、すべての語の発音ができるのとは対照的だ。Iは[ai]。たしかにアルファベットどおりだ。ところがitになると[ai][ti:]ではなく[it]と発音する。thisになるとtもhもiもsもアルファベットでの発音とはまったく違う発音になる。英語では日本語の仮名のように「文字どおり」には発音できないのだ。

これを茶化したのが、ジョージ・バーナード・ショーの”ghoti”なる語である(もちろんこんな語は実際には存在しない)。ショーによると”ghoti”の発音は”fish”の発音と同じである。なぜならlaughではghをfと読み、womenではoをiと読み、nationではtiをshと読む。したがってghotiとfishとは同じ発音というわけだ。ようするに英語のスペリング体系はこれほどひどいといいたいのだ。

英語のスペリングと発音に乖離が生じた背景にはいくつかの要因がある。第一に、英語は自前の文字体系を持たず、英語と発音体系がまったく異なるラテン語の文字を借用して書き言葉を発達させた。その無理がスペリングと発音の食い違いを生みだした。第二に、英語のスペリングは15世紀のほぼ固定化されたが、その後、英語の発音そのものが大きく変化してしまった。そのためスペリングと発音が乖離してしまった。第三に、ノルマンコンクエストやルネサンスといった大きな歴史的出来事をつうじて英語はラテン語やギリシャ語といった「外国語」の語彙を膨大に取り込んでしまった。それが英語のスペリング体系をさらに複雑のものにしてしまった。

英語のスペリング体系の複雑さは、英語ノンネイティブにとっての学習障害であるだけでなく、英語のネイティブにとっても学習障害である。通常、英語ネイティブの子どもたちは、英語テキストとの膨大な接触のなかで一語一語の発音を個別に覚え、帰納的にスペリングと発音の規則性を習得していく。これは、日本の子どもたちが漢字を覚えていくプロセスによく似ている。だが、なかにはそうした習得が困難な子どもたちもいて、そうした子どもたちは英語のテキストをうまく読めるようにならない。つまり、勉強ができない。かつては、こうした子どもたちは知的障害とみなされていた。しかし1950年代になると、米国で英語の発音とスペリングの規則性を重視する指導方法が提唱された(ルドルフ・フレッシュのWhy Johnny Can’t Readなどが有名である)。こうした発音とスペリングの規則の指導方法は、一般的に「フォニックス」(Phonics)という名称で呼ばれ、その後、紆余曲折を経ながら、現在では多くの国での英語初等教育に取り入れられている。

「フォニックス」は日本の英語教育にも導入された。特に1980年代からは東京外国語大学の竹林滋先生などが積極的にその普及に努められた[1]。私が英語と積極的に関わりはじめたのは、ちょうど竹林先生がフォニックスの普及をはじめられた頃のことだった。私自身、中高生のときには英語がたいへんに苦手だったが、そのひとつの原因が英語の無秩序なスペリング体系にあったので[2]、これで中高生たちの英語学習もずいぶんと楽になるだろうと思ったことを覚えている。

ところが1980年代以降も学校英語教育ではフォニックスはあまり普及しなかったようである。不思議に思って詳しく調べてみると、「発音と綴りとを関連付けて指導すること」という文言が指導要領に加えられたのは、なんと今年度からスタートした中学校の新学習指導要領がはじめてのことであることが判明した。言い換えると、これまでの中学の英語授業では、発音とスペリングの関連付けを特に指導する必要はなかったのである。私がフォニックスに出会い、これで中高生たちの英語学習は楽になると思ってから30年以上にわたって、日本の英語教師たちは発音と綴りの関係を積極的には教えてこなかったのである。

さらに詳しく調べていくと、フォニックスの利用に積極的でない英語教師たちがかなりいることもわかってきた。彼らは英語学習の基本は「音」であるという信念から、スペリング指導は英語の音韻体系が十分に習得できてから行われるべきだという考えを持っている。以下に挙げる論述はその一例である。

「(フォニックスの導入時期について)アメリカの子供たちのように生まれた時から英語音声をたっぷりインプットしてきて、話すことに不自由ない場合は問題ないのですが、英語に触れる時間と量の少ない日本の子供にいきなり導入すると言語障害を起こす事例もでています。ある専門家は日本の子供たちにフォニックスを学習する時間を物語や絵本の聞き込みにまわした方が長期的に良いと言っています。それは音韻体系、言語体系が充分に育ってからフォニックスを始めたほうが自然で無理がなく、学習効率がよいからです。フォニックスはあくまで音声と文字一致をはかる為の音声規則学習です。規則を知るにはたっぷり英語に触れることが前提条件であり、多量の音声インプットを先行する必要があります。(略)よく、フォニックスが出来ると英語が読めるようになると金科玉条のごとく言う教育機関があるようですが、たっぷり音声をたくわえていない段階での導入は時間ロスが大きいこと。仮に単語が読めても意味がわからないないなどということになったら本末転倒ですね。また日本人から教わる場合は、発音の優れている講師選びが重要ポイントです。」(http://miraipegasus.com/wefile/yphoni.html より抜粋)

読んでいただいてわかるように論理的には無茶苦茶な論述である。英語関係者に論理性を求めること自体がそもそも無理筋ではあるが、それにしても「英語に触れる時間と量の少ない日本の子供にいきなり導入すると言語障害を起こす事例もでています」というのは興味深い。ぜひ「言語障害」の実例を知りたいものだ。

フォニックスが1980年代以降も公的な英語教育のなかで普及しなかった理由は、1980年以降の日本の英語教育でのコミュニカティブアプローチの普及と大きな関連性があるではないだろうか[3]。コミュニカティブアプローチでは音声でのコミュニケーションを重視し、文字による学習を軽視あるいは敵視する。そしてフォニックスとは文字学習のためのツールであり、従ってそれを学習すると最も大切な音声学習に悪影響を及ぼすと考えたのであろう。前述の「英語に触れる時間と量の少ない日本の子供に(フォニックスを)いきなり導入すると言語障害を起こす事例もでています」という荒唐無稽なコメントも、ここに思考のルーツがあるように思われる。

今回、新指導要領を詳しく調べてわかったことは、現在の日本での公的な英語教育がいまもなおコミュニカティブアプローチの支配下にあること、しかしながらその弊害に対する「揺り戻し」的な文言もまたかなり盛り込まれているということであった。「発音と綴りとを関連付けて指導すること」という文言もそのひとつといえよう。私自身はコミュニカティブアプローチをいかに乗り越えるか(いっておくが、これは昔の文法訳読に戻ることではない)が現在の日本の英語教育の最大の課題だと思っているので、今回の指導要領の改定の方向には賛成である。特に発音とスペリングの規則性の指導を指示した上記の文言には賛意を表する。これによってフォニックス的な指導がきっちりとなされ、上記のS君のようなケースが減ってくれることを心から願いたいものだ。





[1]竹林先生の著書には『英語のフォニックス 綴り字と発音のルール』( ジャパンタイムズ 1981)、『英語音声学入門』(大修館書店 1982)、『英語のつづり字と発音の指導 『ライトハウス英和辞典』を使って』(研究社 1984)などがある。いずれも名著と呼ぶにふさわしいのだが、なかには絶版になっているものもある。私は竹林先生とは一面識もないが、なぜこのような名著が絶版になるのかがわからない。日本の出版界はどうなっているのか。

[2] どちらかといえば通学や物理の好きな少年であった私は英語のスペリングのでたらめさに辟易し、英語の勉強というのはなんとも不合理なものだと感じ、すっかり嫌いになった。

[3] この点についての詳しい説明は、私の「新しい英語の学び方」の「これまでの英語教育」の項を参照していただきたい。