成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

「と思う」とI think

2010年5月7日

日本語の特徴のひとつに文末の情意表現がある。日本語は対人性をきわめて重視する言語であり、その表現形式として文末の情意表現を著しく発達させてきた。日本語の会話を聞いていると文末が「だ」「です」などで簡単に終わるケースは案外に少なく、多くの場合に「~よ」「~ですけど」「~よなあ」といった「断定」「推量」「詠嘆」などの情意表現がそのあとについている。文法学者の多くは日本語を「客観」「情意」がほぼ同等の重みをもつ「二本立て」言語とみている。私もこの意見に賛成である。

いっぽう英語は日本語と対照的にいわゆる「事実」を重視する言語として発達してきた。そのため日本語の「~よ」「~ですけど」「~よなあ」などにあたる情意表現はあまりない。誤解しないでほしいが英語話者がこのような情意を持っていないというのではない。もちろん彼らにも断定、推量、詠嘆などの気持ちはあるが、それを表現する言語形式が少ないといっているのである。

こうした観点から「~と思う」という日本語表現をみてみると、これが情意表現のひとつであることがすぐにわかる「と思う」(ここで「すぐにわかる。」と書くには日本語話者としてかなりの勇気が必要である)。

ここでの「思う」の意味は「以上のことが私の考えである」という事実表現ではなく、その前に述べたことをやわらかく受けとめる役割をもつ情意表現のひとつといってよい。たとえば授業で私が誰かの誤訳を指摘するとき「この訳は間違っています」とはいわずに「この訳は間違っていると思います」、あるいはもっとやわらかく「この訳には問題があるように思います」というのも、こうした日本語のもつ特質からである(こんなことを書くと、先生はいつもはっきりと「間違っている」といっています、という声が、どこかから聞こえてきそうだが)。

いっぽう英語のI thinkという表現にはそうした情意的な含みがほとんどない。通常センテンスの最初におかれて「以下のことは私の考えである」という事実を表明するものである。

この日英の言語的な本質的違いがトラブルを生む。英語話者が日本語話者の情意に富んだ発言を「あいまい」と捉え、その考えを英語という情意表現の少ない言語形式で表現すると、それをきいた日本人はその英語話者を「攻撃的」と捉える。

いっぽう日本人が日本語で考えたことを英語に「翻訳」して表現する場合にも同様のトラブルが生じている。たとえば初級や中級の英会話学習者のレッスンでは、日本人の発言が“I think”からはじまるケースが非常に多い。ほぼすべての発言の最初に“I think”をつける人がいたり、なかには“I think yes”などという人もいる。後者はおそらく「そうだと思います」という日本語の「直訳」と思われる。英会話講師のほとんどは日本語と英語の本質的差異は知らないだろうから、こうした現象が日本人一般にみられる問題点とわかっていても、その原因に思い至らないのが普通である。

以上のことは「思います」という日本語の情意表現とI thinkという英語の事実表現とを同値とみなして「翻訳」したことによるトラブルだが、同様のトラブルはこのほかにも数多い。だがそのひとつひとつを捉えて個別に取り扱うことにはあまり意味がない。重要なことは日英の言語としての本質的差異を理解することであり、そのうえで両者をいかにつなげていくかを考えることである。日本語と英語のあいだを流れる河は(男と女のあいだの河と同様に)深くて暗いのだということを肝に銘じておくべきである。

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