成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

『生死の思索』

2010年5月3日

若い頃からずっと読み続けている本のひとつに亀井勝一郎の『生死の思索――歎異抄のこころ』(大和書房)がある。最初に読んだのは20代後半だったと思うが、それから数十回は読んでいる。特に精神的に苦しい時期になると、必ずこの本に向うことになる。

この本は、亀井が昭和38年の5月に大阪の相愛学園でおこなった連続講演のまとめである。内容は「生死の思索」というタイトルのとおりで、人生と宗教、とくに親鸞の教えについて述べている。学生向けであるから、たいへんにわかりやすい表現であることも特徴のひとつである。

講演の冒頭のほうで亀井は言語表現の本質について詳しくふれている。この部分はこのコラムを読んでおられる皆さんにとって特に興味のある部分であろうから、以下にご紹介をしておきたい。

(ここから引用)
言語表現の一番正常な姿というものを申しあげますと、七つの過程を経ます。これは複雑な楽器をひいているようなものであります。第一は、根本にあるのは苦悩と感動、これは当然です。第二の段階に沈黙の状態が来ます。それは苦しみとか感動というものをそう簡単に表現できないから沈黙せざるを得ない。それから第三番目に表現欲望、言おうと思ってもうまく言えないことを言ってみたいのが本当の表現意欲というものです。表現したい、本当に人に聞いてほしい、あるいは人に言えないことというものは一番上手には言えないもので、これはどなたでもご経験になっていると思います。その次に四番目に、表現してみる。口に出して言ってみる、あるいはものに書いてみる。そうしますと、私たちの言語表現というものは、ひどく不自由で不完全きわまるものだということがわかります。自分の言いたいことの十分の一も言えないのです。これはわれわれものを書く人間でもそうです。いろいろものを書いてみて、自分の言いたいことを百パーセント表現することができたかというと、そういうことは一度もありません。ですから、常に推敲に推敲を重ねます。皆さんもそうだと思います。大事なことを言うときには、同じことを何遍でも言い直してみたり、くり返してみたりします。文章でも、書いたり消したり、つけ加えたりいたします。これを推敲と申します。それでは推敲に推敲をどこまでもくり返していって、もうこれで自分の言いたいことは百パーセント言いつくしたかというと、そういうことはあり得ません。人間の表現には完成ということはないのです。人間の表現というものは永久に未完成であって、完成したように見えるのは、中止した場合です。今われわれが漱石や鴎外の文学を完成したものとして読んでおりますけれども、これは本人からいうと、完成したのではない、中止したわけです。時間が来たり、疲れてきて中止した。従って人間の言語表現というものの中には、どんな場合でも、その人が言おうと思っても言いきれなかった恨みというものが宿っております。ですから、人間の言語表現が一番正常な場合は、第一には苦悩と感動が根本にあり、二番目に沈黙の状態がきて、三番目にその沈黙を破った言語欲望というものが起こって、四番目に表現してみて表現の不自由さというものを自覚して、それから五番目に推敲に推敲を重ねて人間の表現というものは永久に未完成だということを自覚する。六番目に中止の状態があって、七番目に、だから言おうと思っても言いきれない恨みというものが残る。(略)
考えてみると、人間というものは自分の希望を全部果たして死ぬということはあり得ないので、恨みを抱いたまま、自分の夢を実現できないまま死ぬのが人間の運命でありまして、これを同じことが人間の言語表現についてもいえると思います。
(引用終わり)

このしばらくあとに亀井は、こうした認識をもとに現代という時代について以下のように論ずる。

(ここから引用)
これが逆になりますと、それが精神の危機です。現代に生きている私たちの精神状態に、明らかに危険な徴候が現れております。まず、苦しみの深さとか、感動の深さというものがなくなってしまう。外部から刺激を受けないと精神が反応を呈さなくなる。何か刺激を受けないとなんにもできない。まあそれは映画とかテレビとか、そういうものが発達した結果でもありますし、いろいろなものが便利になったということもありますが、誰かが刺激を加えてくれるか、自分で刺激を求めないと精神が精神らしくならないというのは、これは精神衰弱の一歩です。その次の特徴は、沈黙の状態というものが消滅いたしまして、なんでも軽くおしゃべりしてしまう。まあ現代は狂信と軽信の時代です。これは宗教だけなく、すべてにわたって軽々しく私たちは信じている。そして沈黙の状態を失って、なんでもおしゃべりになってしまう。それから一番大きな欠陥がどこに出てくるかといいますと、推敲の精神というものが消滅いたします。これは言語表現だけではありません。私が、すべての仕事について一番尊敬しておりますのは職人でありまして、これはお医者さんでも学校の先生でも、大工さんでも誰でもいいのですが、二十年も三十年も一つの仕事に年期を入れて、そしてその道で熟練した人というのは、私は理想の人間だと思います。そういう人間を見ていますと、必ず推敲の精神を豊かに持っております。一つの仕事ですぐ満足するということがあり得ない。何遍でもやり直してみる、くり返してみる、折角できたものをまた壊して、またやり直す、それが人間の熟練というものの基本にある精神でありまして、それが人間を人間たらしめるのであります。そういう推敲の精神というものが消滅して、なんでも簡単に割り切ってしまう。即成、即断。従って、後に恨みが残るというようなこともあり得ない。自分で自分のやった仕事、自分で自分の言ったことを全部忘れてしまう。刺激と饒舌と即断と忘却、これが精神の危機というものの端的な現れであります。残念ながら現代は、この四つの危機をますます深めるような方向に向っております。ですからわれわれは、精神の危機を克服する抵抗力というものを養う必要があると思います。自分の言語表現が正常であるかどうかという反省、それが克服力になります。
(引用終わり)

私自身についていえば、この本に出会えたことで人生は大きく変わった。救われたというのは言いすぎかも知れないが、しかしそれに近い実感はある。

いまインターネットで調べてみたところ、『生死の思索――歎異抄のこころ』はすでに絶版で、古本でしか手に入らないようである。電子出版でもよいから、もういちど世に出せないものだろうか。

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