成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

カブトムシ騒動記

2011年6月27日

夕方からの授業を終えて家につくと、台所のテーブルのうえに洗いカゴがうつぶせにおいてあった。のぞいてみるとカブトムシがいる。こぶりのメスで、まったく動かない。買いものから戻ってきたら玄関のところでひっくりかえっていたのだと、妻が説明した。どうやら玄関の蛍光灯にぶつかって、そのまま動けなくなったようだ。
「かわいそうだから、ここにつれてきたの。大きなコガネムシよねえ。」
「コガネムシじゃない、カブトムシだ。」
「でも、ツノがないじゃない。」
「メスにはツノがないんだ。」
「あら、そうなの。」
「生まれたばかりだな。公園に落ち葉置き場があるだろう。あそこで孵化したんだ。」
「生きてる?」
「どうかな。とにかく餌をやっておこう。なにか果物はあるかな。」
妻が冷蔵庫からメロンをとりだした。そのうえにカブトムシをおいてやる。
「今日はこのままにしておこう。」
「食べてくれるといいね。」
「うん。」

翌朝、先に起きた妻がうれしそうに寝室にもどってきた。
「カブトムシ、生きてたよ。」
「そりゃ、よかった。」
「すごい食欲。メロン、全部食べちゃった。」
台所にいくと、メロンの実の部分がすっかりなくなっている。残った皮のうえで、カブトムシはごそごそと動いている。
「こりゃ、すごい。」
「こんなに食べるのねえ。」
「生まれたばかりだから、エネルギーがたくさんいるのかな。」
「でも、こんなに食べてくれると、なんだかうれしい。」
妻が新しいメロンをもってくる。その上にカブトムシをのせてやる。カブトムシはしばらくじっとしていたが、そのうちにまたごそごそと動き出す。
「虫カゴが必要だな。」
「買ってくる?」
「いや、なにかの空き箱でいいだろう。」
妻がお菓子の空き箱をもってきた。蓋にいくつか空気穴をあける。メロンとカブトムシをそのなかにいれてやる。
「あなたのお部屋ができましたね。」と、妻がカブトムシに話しかける。
「しばらく下宿をさせてやろう。」
「そうですね。」
その日、妻は一日中とてもうれしそうだった。

その夜の明け方、大きく奇妙な物音で目が覚めた。台所のほうから聞こえてくる。
「なに?」
妻がおびえたようにささやく。
「みてくる。」
台所にいって電気をつける。カブトムシの箱のふたが少しずれている。なかにカブトムシはいない。あの物音はカブトムシが台所のなかをぶんぶんと飛び回る音だったようだ。
「カブトムシくん、どうやら脱走したみたいだ。」と、あとからやってきた妻にいう。
「外には出られないから、どこかにいるだろう。」
二人でさがすと、カブトムシはレンジ台のすみにいた。つかまえて箱に戻してやる。
「でも、元気になってよかった。」
「ちょっと、元気すぎるがね。」
「どうしよう。」
「とりあえず箱を輪ゴムでしばっておこう。」
何本かの輪ゴムで箱をぐるぐる巻きにする。
「これで脱走できないだろう。」
「そうね。」
そうではなかった。寝室に戻ってから1時間もたたないうちに、また台所で大きな物音がする。こんどは妻が先に台所にいく。遅れていくと妻はカブトムシをすでにみつけていた。
「輪ゴムぐらいじゃ、ダメだったんだ。」
「カブトムシは力持ちって、本当ねえ。」
「さて、どうするか。」
「これだけ元気になったんだから、もうかえしてあげましょうよ。」
「そうだな。」
私がカブトムシをつかまえる。妻が窓を大きくあける。早朝の冷気が台所にどっと入ってくる。
「じゃあ、はなすよ。」
そういうと、私はカブトムシを窓から外に向かって、高く放り投げた。カブトムシはブーンという力強い羽音をたてながら、公園のほうへ飛んでいった。
「カブトムシさん、かえっていきましたね。」
「ああ。」
「元気で暮らしてくれるといいね。」
「そうだな。」
「いつかお礼にきてくれるかしら。」
「そうなるといいね。」
「できれば子供をつれてきてくれるとうれしいんだけど。」
「ああ。」
そんな話をしながら、私たちはカブトムシが飛んでいった木々のほうをずっとながめていた。

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