成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

伊藤和夫の『英文解釈教室』

2010年5月5日

先日の英語教室立ち上げミーティングの際にHさんから受験英語の参考書についていろいろと教えてもらった。Hさんは以前に学習教材づくりを仕事としていたことから、その方面に非常に詳しい。私自身は受験英語という世界をまったく知らないので、Hさんのお話はすべて参考になることばかりだ。

そのなかでHさんは伊藤和夫というひとを紹介してくれた。伊藤和夫は受験英語界では知らない人のないカリスマ的存在であり、その著書は英語受験参考書のバイブルとなっているのだという。「受験英語のカリスマ」ときいて最初はかなりとまどったが、とりあえず伊藤の本を何冊か買ってみた。そのうちの一冊が『英文解釈教室[改定版]』(研究社)であった。

読んでみて、驚いた。素晴らしいの一言に尽きる。内容も素晴らしいが、なによりも、その根底を流れる伊藤の英文読解に対する考え方そのものがじつに素晴らしい。初版の日付をみると1977年とある。こうした本がいまから30年以上も前に出版されていたとはまったく考えてもいなかった。みずからの無知を恥じるばかりである。

伊藤の英文読解に対する考え方を知るには『英文解釈教室』の「はしがき」を読めばよい。これほどまで深くわかりやすく英文読解の課題と対処方法をまとめた文章は、ほかにはない。以下、その全文を紹介しておく。

(ここから引用)
はしがき

誰でも歩くことはできるが、歩くときの筋肉の動きを説明できる人は少ない。呼吸は生存に必須の要件であるが、そのメカニズムを解明できる人はまれである。生活に必要な活動であればあるほど、その過程は無意識の底に沈んでいる。しかしこれらの生得の活動の場合とはちがって、幼児期を過ぎてからの外国語学習では、意識の底にやがては定着し知らず知らずに働くことになる頭の動きを一度は自覚し、組織的に学習することが必要である。言語はもともと自然界の事物とはちがって、単語の意味から語法のはしばしにいたるまで、長い時間をかけて成立した社会的な約束事の集積であるが、これらの約束は雑然たる集合ではなく、基本的な約束と派生的な約束、必然的な約束と偶然的な約束が集まって1つの有機体を構成している。言語が使えるとはこの有機的体系が自己の血肉となっていることであり、英語の学習とは英語の約束の体系に自己を慣らすことである。

では、具体的にこの約束の中心となるもの、つまり語法上の約束とは何であろうか。それは文法の体系であると考える人もあろう。しかし、ラテン語の文法を範型として成立した現在の学校文法は、そのままの形では我々が英語を読む際の有効な道具たりえない。換言すれば、我々が英語を読む場合の頭の働きに対応する構造を持っていないのである。英文読解の方法を確立しようとして文法のみに頼れなかったわれわれの先輩は、明治以来多くの努力を重ねてきた。英文解釈の公式と呼ばれるものを中心とするいくつかの「英文解釈法」はその苦心のあとであるが、筆者の見解では、そこには熟語表現への過度の傾斜と、日本語を媒介とすることへの無邪気な信頼がある。No more … thanを代表とする、日本語の思考様式になじまない熟語的表現が日本人の目を奪ったのは当然であるが、これらの表現は英語の中心ではなく、四季折々に現れる料理の彩りにすぎず、それに習熟することと英語そのものが読めることとは、ある程度別の次元のことである。また、いわゆる公式が、so … that=「非常に…なので」のように、単に日本語への言いかえを示すことで満足していることの背景には、漢文の摂取に見られた「外国語→日本語→事柄」という図式がある。英語自体から事柄が分かること、つまり訳せるから分かるのではなく分かるから必要なら訳せることが学習の目的である以上、この方法に根本的な倒錯があることは否定しえない。

訳読中心の学習法を批判することは戦後の流行である。しかし、批判者は新しい学習法として何を打ち出したのであろうか。「英語で考えよ」と言われる。だが、方法を教えずにただ考えよと言ったところで絵に描いた餅にすぎない。「直読直解」と言われる。たしかに読むに従って分かるのは理想である。しかし、それはどのような頭の働きなのか、何を手がかりとし、どのような習練を積めばその域に到達しうるかの具体的道程を示さずに、念仏のように直読直解を唱えたところで初心者には何の助けにもならない。「多読が重要である」と言われる。だが、そもそも読むことができない者に多読と言ったところで、それは多くを読んでいるのではなく多くを誤解しているにすぎない。誤解の集積がどのような過程で正しい理解に転化しうるかの説明は聞けないのである。訳読法批判の結果、現実にはわれわれは方法以前、つまり、「読書百遍、義おのずから通ず」の域に退行したのではないだろうか。最近の文法軽視の傾向と相まって、現在の英語教育の成果はかつての訳読中心時代のレベルにも達していないのではないかとの危惧を筆者は抱かざるをえないのである。

筆者が本書で試みたのは、英語を形から考える練習、つまり、英語を読んでいるかぎり決してそこから離れることができない基本的な約束を明らかにすることから出発し、その原則に基づいて英語の構造を分析し、読者とともに考えることを通して、英語を読む際に具体的には頭はどのように働くのか、また働くべきなのかを解明することである。あまりに根本的であるため取り上げられることがかえって少ないが、実は最も重要な事項の徹底をはかることによって、英語を読む際の呼吸の仕方を考え、「英語→事柄→日本語」という図式での思考法を確立することと言ってよいかもしれない。「基礎」が分からないと思いこんでいる学生の中には、文の5文型・時制・不定詞・関係詞などについて一応の知識を持っている人が意外に多い。この段階の人に必要なのは、「基礎」と実際の英文をつなぐための新しい次元の学習である。「基礎」を構成する個々の要素は単純であっても、それが複雑に組み合わさり、言語表現という制約の中に組みこまれるとき、そこには「基礎」と別の次元の問題が生じている。このレベルの問題を分析すること、いささか大げさにいうならば、直読直解への具体的な1つの方法の提示と受けとめてもらえば、筆者の願いは達成されたことになる。
(伊藤和夫 『英文解釈教室(改定版)』iii-v、研究社)
(引用おわり)

これにつづけて伊藤は「使用上の注意」を述べたあと、最後にこういう。

(ここから引用)
(略)なお、筆者は学生のころ入院生活を送ったことがあるが、その時耳にした「医者は患者によって作られる」という言葉を忘れることができない。今にして思えば、教師もまた学生によって作られるものではないだろうか。その意味では本書は、筆者がこれまでに直接間接に関係のあった多くの学生諸君との交流の結果生まれたものである。ここに厚く謝意を表して結びとしたい。
1977年1月
伊藤和夫
(同上v-vi)
(引用おわり)

経歴を調べたところ、伊藤は長く肺疾患に苦しみ療養生活を送り、そのため学者への道が困難となったとあった。だがこのつらい経験が伊藤を人間として成長させ、「教師も学生によって作られる」という言葉を生み出させたものと思われる。

こうして名著『英文解釈教室』が完成したわけだが、伊藤はその「あとがき」で、さらに次のように英文読解の本質について述べる。

(ここから引用)
あとがき

(略)第2の道は、この書物から得た知識をもとに、原書を読む道、自分が読みたいとかねがね思っていた本を読む道へ踏み出すことである。筆者のこの書物の中で英語の構文を理論的に解明することを主眼とし、英文の読解にあたってその構造をできるかぎり意識的に分析しようとした。しかし、「はしがき」でも述べたように、英語の力は理解が半分、習練による慣れが半分である。英語を読むことによってのみ英語は読めるようになる。読書にあたって、われわれはたえず形式と内容の両面から考えているはずであるが、本書の内部にいるかぎり、常に形式面の考慮が優先していた。しかし、数多くの書物を読み、多くの英文にふれて英語に慣れることによって、形式に対する考慮はしだいに意識の底に沈んでゆく。やがては、形式上特に難解な文章にぶつからぬかぎり内容だけを考えていればよくなる。その時、つまり、本書の説く思考法が諸君の無意識の世界に完全に沈み、諸君が本書のことを忘れ去ることができたとき、「直読直解」の理想は達成されたのであり、本書は諸君のための役割を果たし終えたことになるであろう。
(同上p.314)
(引用おわり)

人間の認識方法と言語の構造にもとづく分析をまずしっかりと行い、しかしそのことをすべて忘れ去ることができたときにこそ、本当の意味の「直読直解」の理想が達成される。そして、翻訳という営みはそのあとにはじまるものである。いや、そのあとに「しか」はじまらないものなのだ。なぜなら「訳せるから分かるのではなく分かるから必要なら訳せる」からである。

『英文解釈教室』の出版以降も、日本の英語教育と翻訳の世界は延々と退歩を繰り返してきた。「最近の文法軽視の傾向と相まって、現在の英語教育の成果はかつての訳読中心時代のレベルにも達していないのではないかとの危惧を筆者は抱かざるをえないのである」という1977年の伊藤の言は、それから30年以上たった現在もそのまま当てはまる。

伊藤の考え方には現代言語教育学の成果が反映されていないなどと批判するのは簡単だが、そうした批判者は伊藤の「訳読中心の学習法を批判することは戦後の流行である。しかし、批判者は新しい学習法として何を打ち出したのであろうか。」という言葉をよくかみしめるべきだろう。大事なことは「新しい学習法として何を打ち出すのか」である。伊藤に深く学び、そして伊藤を乗り越えること、それが英語教育と翻訳に携わる私たちすべてに求められている課題である。

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