成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

“That picture was drawn by Picasso.”を、どう訳すか

2010年10月16日

That picture was drawn by Picasso.

というセンテンスには以下の2つの訳文が考えられる 。(もちろん他にも訳文はいくつでも考えられる(「その絵はピカソ作だ。」「その絵の作者はピカソだ。」)。しかしその点についてはここでは考慮しないこととする。)

1.その絵はピカソによって描かれた。
2.その絵はピカソが描いたものだ。

どちらの訳文がよいかと問われれば、翻訳の少しでも学んだことがある人であれば、おそらく2の訳文のほうだと答えることだろう。では、なぜ2の訳文のほうが1の訳文よりもよいのだろうか。その言語的な理由は何だろうか。

まずこのセンテンスがなぜ受動態になっているのか、つまりPicasso drew that picture.というように能動態にはなっていないのかを考えてみる。これは作者がこのセンテンスの「トピック」をPicassoではなくthat pictureのほうにしたかったからである。

したがって訳文においても文のトピックは「ピカソ」ではなく「その絵」であったほうがよい。とすれば、日本語におけるトピック表示のマーカーである「~は」を利用して「その絵は…」とするのは自然なことである。そしてこの点においては1も2も同じ処理をしている。そこに違いはない。

1と2で違いがあるのは、その後の処理である。つまりwas drawn by Picassoを「ピカソによって描かれた」とするか「ピカソが描いた」とするかの違いである。

ここで第一に考えるべきは、1において、なぜ「~によって描かれた」という表現が使われたかである。これは受動態イコール「(~によって)…られる」という英文和訳の手法に則ったものである。

しかしこれまで何度も説明しているように日本語の「られる」という表現は英語の受動態とは一対一対応しない。英語の受動態のおもな機能が「トピックの変換」であるのに対して、日本語の「…られる」のおもな機能は、表現される動詞(コト)に対する「話し手/書き手の無力化」である(「雨に降られた」。「泥棒に入られた。」)。そもそもまったく違う機能を持つのである。したがって、ここでこの2つ(受動態と「られる」)を対応させる必要性はない。

次に考えるべきは、「…が」の使い方である。英文和訳では「…が」は主語に一対一対応する格助詞とされている。したがってby Picassoに対して「ピカソが」とすることはできないということになる。しかしこれも完全な間違いである。英語の主語と日本語の「…が」は一対一対応はしない。「…が」の基本機能は「焦点化」であり、その一部として英語の主語に対応することがあるだけである。したがってここで「…が」を用いることには何の問題もない。

最後に考えるべきは、最後の「…ものだ」を付加するかどうかである。1のような英文和訳の場合、対応する英語がないとして、こうした表現を付加することはない。しかし「ピカソによって描かれた」や「ピカソが描いた」といった文の終わり方は日本語としては元来不自然であり、最後に「…だ」「…である」といった表現を付加するのが日本語のもっとも自然なかたちである。

以上からわかることは、1のような訳文は日本語の言語としての特性に反しているということ、いっぽう2の訳文はそうした特性に則していることがわかる。これが2の訳文のほうが1の訳文よりもよい言語的な理由である。

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