成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

「あの例の」と「というもの」

2010年12月2日

いま、ある翻訳クラスで日英翻訳トレーニングがやっているところだが、なかなか面白い状況になっている。たとえば授業が終わると、いつもより部屋がいくぶん暖かい。これは受講生の皆さんの頭がかなり発熱しているからだと思われる。頭が発する熱量というのは馬鹿にならないもので、エクササイズをしたときに体が熱くなるように、学習に打ち込んでいるときには脳みそが熱くなる。とくに今回のようにいつもあまり利用していない脳神経回路を使うと、脳から発生する熱量は格段に多い。その結果、部屋がぽかぽかと暖かくなったというわけだ。というわけで、日英翻訳のトレーニングはじつはダイエットにもよいのである(ホントかなあ)。

今回の日英翻訳トレーニングの目的のひとつは、日英翻訳作業を通じて受講生の皆さんに日本語と英語の本質的な差異を身をもって感じてもらうことにある。今回使っている日本語テキストはとてもよいものだが、それでもそのままでは英語テキストにはならない。

たとえば名詞(モノ)表現についていえば、英語における既知/未知、可算/不可算、単数/複数といった認識プロセスと表現形態が日本語にはそもそもない。したがって英語にする際にはこうした認識手段と表現手法を付加していかなければならない。ところがこれがなかなか一筋縄ではいかない。なにしろもともと日本語テキストにないのだから、付加するといってもどこから手をつけてよいかがわからないのだ。そこで多くの受講生の方が名詞表現にはとりあえずtheやaをつけたり複数形にしたりする。こうして不要なtheや複数形が増えてしまうことになる。

名詞表現にtheやaをつけたすぎたり複数形にしすぎたりするというのは、じつは日本人全体にいえる傾向である。日本人英語の名詞表現には冠詞がついているものや複数形のものがきわめて多く、逆に冠詞がなく複数形でもない「丸裸の名詞表現」がきわめて少ない。日本人英語は冠詞や複数形がお好きなのである。

さて名詞表現にやみくもにtheやaをつけたり複数形にするというこの悪弊から逃れるにはどうするかだが、ひとつの手として「あの例の」と「というもの」を名詞表現につけてみるというやり方がある。たとえばここに「資産」という日本語があるとする。さてこれはassetなのか、assetsなのか、an assetなのか、それともthe assetまたはthe assetsなのか。うーん、なんとも悩ましい…。

そこで「あの例の」をその前につけて「あの例の資産」、あるいは「というもの」をその後ろにつけて「資産というもの」にしてみる。そして「あの例の資産」として具合がよさそうなら、the asset(assets)にする。一方「資産というもの」としたほうが具合がよさそうな場合には、何もつけないでassetのままにする。

理屈はカンタン。theというのは名詞表現が書き手/読み手の双方にとって既知であるという認識に対する表現であるから、それに対応する「あの例の」を前につけてしっくりくるようなら、theをつける。いっぽう丸裸の名詞はそれが未知かつ不可算(多くは抽象概念)であるという認識に対する表現であるから、それにほぼ対応する「というもの」を後ろにつけてしっくりくるようなら、そのままでよいということなる。もちろんすべてがすべてうまく当てはまるわけではないが、しかしかなりの確率でヒットする。実利から考えて、これを使わない手はない。おすすめだ。

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