成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

「タコツボ」翻訳

2011年1月31日

丸山真男という学者が『日本の思想』(岩波新書)という本で近代日本文明と近代西欧文明のちがいについて「タコツボ型とササラ型」という比喩で紹介している。有名なのでご存知の方も多いだろう。「タコツボ」とはその名のとおり蛸壺のことである。いっぽう「ササラ(簓)」とは細かく割った竹などを束ねた道具のことで、ここでは根元が一つであるのに先端が細かく分かれているかたちを指している。竹箒を思い浮かべてほしい。丸山は、日本の学問はそれぞれの分野が一匹のタコのようであり、それぞれに自分のタコツボに入ってしまって何があっても(たとえ漁師に吊り上げられても)決して外に出てこないと述べる。一方で、西欧の学問はそれぞれ外見が違うようにみえても、もとをたどれば必ずひとつの共通のルーツにいきあたるとも述べている。

西欧の学問世界の基底にはキリスト教が横たわっている。キリスト教は一神教で、神と人間の契約が世界観の大前提である。近代になると、そのキリスト教的世界観のうえに科学主義的な世界観が付加され、その時点で近代合理主義的な西欧学問の原型が成立する。しかしこの時点ではまだ学問の分化は起こっておらず、当時の学者たちの多くがさまざまな分野の研究を同時に手がけていた。その後18世紀ごろになると学問の分化が進み、それぞれの専門学問分野が生まれてくる。19世紀(1800年代)に入るとほぼ現在のようなかたちの分野(物理学、化学、医学、工学、経済学、法学、商学、言語学、歴史学、他)が確立された。

つぎは日本の学問世界についてである。その基底は二重構造になっている。最下部に土着の大和文化がある。そのうえに漢文明がのっかっている。漢文明は日本が大陸から取り入れたものだが、いまでは土着の大和文化とともに近代日本文明の基底をなしている。大和文化と漢文明という二重基盤に支えられた日本の学問体系が根本からひっくり返されたのが、19世紀の「文明開化」である。このとき、西欧の知的資産が日本の社会へと怒涛のごとく流れ込んできた。その知的資産の受け皿となったのが「翻訳漢語」である。こうして日本文明は大和文化と漢文明という基盤のうえに西欧文明がのっかるという、世界に類をみない三重構造を持つものになった。

この三重構造を詳しくみてみると、大和文化と漢文明とのあいだに存在しない現象が大和文明/漢文明と西欧文明のあいだには存在することがわかる。それが丸山のいう「タコツボ」化である。日本が西欧文明を本格的に受け入れはじめたのは19世紀(1800年代)だが、その時点で西欧世界の学問分化はすでに終了しており、物理学、化学、医学、工学、経済学、法学、商学、言語学、歴史学といった学問分野がほぼ確立されていた。そうした学問分野にはそれぞれに専門家がおり、それぞれの学問体系があった。日本はそれらの学問分野をそれぞれに別々のものとして受け容れた。これがタコツボ化の第一歩であった。その後、タコツボ化はさらに進み、それぞれの分野が独自の規範を持つようになった。たとえば翻訳漢語をみると同一語彙が分野によって別の翻訳語に訳されていることがわかる。以下のとおりだ。

Circulation 「循環」(医学他)、「流通」(ビジネス)
Function 「機能」「作用」(一般)、「関数」「演算子」(数学)
Factor 「因数分解する」(数学)、「〈受取手形の〉買い取りや集金を行う、〈受取手形に対して〉融資する」(ビジネス)
Value 「価値」(経済)、「値」「数値」(数学)
Input 「インプット」(コンピュータ)、「資本財」(経済学)
Equilibrium 「平衡」(物理)、「均衡」(経済学)
Security 「安全」「治安」(一般)、「保証」「証券」(経済)

西欧文明でものごとの規範となるもののことを「カノン(canon)」という。もともとはローマカトリック教会の教皇によって認可されたものという意味だが、「正典」の意味で社会的に他の分野でも幅広く用いられている。タコツボ化の進む近代日本では、タコツボごとの小さなカノン、つまり「プチカノン」をつくっていったといってもよいだろう。こうしてそれぞれの分野独自の翻訳語を使ってのプチカノンづくりが推し進められた。その結果、日本の学問のタコツボ化はさらに強まっていった。そして知的専門家たちは、自分のタコツボから外に出られなくなった。専門家とはどこでもそんなものだという意見もあるが、それは違う。ここまでみてきたように、西欧のササラ型の学問体系には戻るべき場所がある。一見それぞれまったく違うようでも、それらの知的活動はキリスト教と西欧科学主義という共通基盤のうえに成り立っているのである。そうした共通基盤が、日本の「タコツボ型」学問には決定的に欠けているのである。

以上のことを実務翻訳者という立場からみてみると、日本の翻訳ビジネスは必然的に「タコツボ」翻訳にならざるを得ないということがわかる。それぞれの分野の「プチカノン」に精通して、それに違反せずに翻訳作業をこなせる人間こそが、優れた翻訳者ということになる。たとえば上の例でいうとEquilibriumという語を訳すときには物理分野の仕事ならば「平衡」、経済学分野の仕事ならば「均衡」と訳せることが肝要である。Securityという語であれば一般テキストなら「安全」「治安」、経済分野テキストなら「保証」「証券」、Circulationという語であれば医学テキストなら「循環」、ビジネステキストなら「流通」と、それぞれに訳せなければならない。それがよい翻訳者としての必須条件なのである。

バカバカしい話だが、これが現実である。もし翻訳でメシを食うつもりならば、こうした不条理さも受け容れていくしかないだろう。ただ心得ておかなければいけないのは、そうした訳語の使い分けなど本質的には愚かしいことだということである。さらにいえばそうした訳語の使い分けは日本人の知性のタコツボ化をさらに強めるだけなのだから、実際のところは百害あって一理なしなのである。そうしたことをつねに忘れずに、しかし現実は現実としてしっかりと見据えながら、自分なりに納得できるスタンスで翻訳をやっていくしかないだろう。

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