成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

「書」

2011年1月6日

年賀状が届いた。処々の事情からこの10年ほど自分からは年賀状を出していないので、当然ながらやってくる年賀状の数はごく少数である。一枚一枚に丁寧に目を通して返事を書く。当然、手書きである。

この手書きというのがクセモノだ。なにをかくそう私の書く手書き文字はじつにひどい。そもそもかたちがまったく崩れている。崩れた文字でもそれなりの魅力があれば救われるが、そうした魅力も皆無である。自分でいうのもなんだが、これほどの悪筆は、他になかなかないのではないか。もし手書きの文字が知性や人格を表す鏡だとすれば、私は最低の人間である。

本人としても、気にしていないわけではない。解決策としては「書」を習えばよいのだが、それが現実化することなく、今に至っている。

現実化しない理由のひとつは、小学生の頃に通った書道教室のせいではないかと思う。あれはひどかった。まず正座をして足がしびれるのがいやだった。先生が朱で直しを入れてくれるのだが、その直しの意味がまったくわからなかった。理屈のわからないことをただやらされることは、私にとって苦痛以外の何者でもない。またその苦痛を他の生徒たちがあまり感じていないらしいことも不気味だった。自分は仲間たちと違うという孤立感が沸いてきたものだ。こうしたことが重なったことで、私には文字を書くことに対するトラウマがあるようである。

もうひとつの理由は、お手本となる「書」そのものに魅力を感じていないせいであろうかと思う。一般に書のお手本となるのは王羲之らしいが、その整ったかたちを私はどうも好きになれない。ある解説によると、王羲之の書はすべてに秀でているために、逆に無個性なのだそうである。儒教でいうところの「中庸」の美である。私としてはこうした考え方を、なんだかやだなあ、と感じているのだと思う。といっても、それに代わるお手本も見つけられず、今日まで究極の悪筆のままでいるというわけだ。なさけない。

さて今年の年賀状の話に戻るが、自分のあまりの悪筆に自分自身でうんざりしながら書きすすめ、あと数枚というところにまできたとき、ふと、ビルマ文字のように書くのはどうかな、と思いたった。ビルマ文字はインド系文字の一種だが、そのなかでも跳び抜けて丸っこいのが特徴である。そのビルマ文字のような丸っこい文字、つまり「丸文字」を書いてみようと思ったのである。

丸文字といえば女の子たちの専売特許という固定観念があったので、これまで自分が丸文字を書くなどとはまったく思いもつかなかった。ところが実際にやってみると、驚いたことにこれが大当たりだった。丸文字はふところが広く、読みやすい。角ばっていないので、すらすらと書ける。右肩上がりではなく平行が基本なので、緊張感はないが安定感がある。日本語の手書きならではの温かみもある。

読みやすく、すらすらかけて、安定感があり、日本語ならでは温かみがある――これこそ自分が求めていた書の方向性なのである。そしてこの方向は、考えてみれば、私が文章を書くときにいつも求めてきたものと同じである。

どうやら自分の書に関する方向性が、ようやく決まりそうである。ただし、これまで思いもしていなかった方向に向ってだ。ま、人生はそんなもの、である。

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