成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

『日本の翻訳論』

2011年1月7日

『日本の翻訳論―アンソロジーと解題』(柳父章/水野的/長沼美香子=編、法政大学出版会)という本を見つけた。これまでの日本の主要な翻訳論テクスト31編を選んで解題を付して収録したアンソロジー(選集)である。2010年9月が初版だから出たばかりだ。私としては読むしかない。ということでさっそく購入してざっと目を通してみた。

第一部の柳父章の「日本における翻訳―歴史的前提」は柳父翻訳論の全体の要約である。柳父翻訳論の理解は翻訳研究者だけでなく実務翻訳者にとっても必須条件と私は考えているが、柳父の著書のすべてに目を通すのは実際のところたいへんだ。実務翻訳者として少なくともこれだけでも読んでみればいかがだろうか。

第二部の「近代日本の翻訳論―原典と改題」には谷崎潤一郎の『文章読本』、福澤諭吉の『福澤全集緒言』、二葉亭四迷の『余が翻訳の標準』などが含まれている。個人的にはこれらのほかに中村白葉の『翻訳文の表現と指導』、大山定一・吉川幸次郎の『洛中書簡』などが印象に残った。実務翻訳者がこうした翻訳論すべてに目を通す必要はないが、気になる部分だけでも読んでおくとよいのではないかと思う。

本書はこれまでの翻訳論を集めたものなので斬新な意見や画期的な理論が述べられているわけではない。あくまでもこれからの翻訳研究の基礎資料として用いられるべきものである。私にとっての大きな収穫はここに述べられていることではなく、述べられていないことにあった。

述べられていない第一の点は日本語である。誰もが翻訳の理念や方法について自説を述べているが、日本語について詳しく言及している翻訳論はほとんど見当たらない。これまでの日本の翻訳研究者たちは翻訳や外国語の深い考察はおこなっても日本語についてはあまり深い考察をおこなってきていないようである。よい翻訳をするには日本語の深い理解が必須条件というのが私の考え方だが、こうした考え方を共有している翻訳研究者はこれまで日本にあまりいなかったようである。

述べられていない第二の点は、心の動きの翻訳、動的な翻訳ともいうべき視点がほとんどみられないことだった。この点については、近年になって伊藤和夫の動的な読みなどの先駆的な研究として残されているが、それ以前には動的という視点がまだ確立されていなかったことがよくわかる。

こうした事実を本書を通じて確認できたことは、私にとってたいへん有意義だった。翻訳研究者としてやるべきことがまだたくさん残っているということが確認できたからである。この本に収録された翻訳論を参考にしながら、翻訳の新しいあり方を今後も追求していきたいと思う。

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