成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

『狂人日記』

2011年1月27日

1月9日の日経新聞の書評欄で、作家の松井今朝子が色川武大の『狂人日記』について書いていた。その文章を読みながら、いまから20年以上前にこの作品に出会ったときのことを思い出した。読みおわったあとに、この作品とは一生つきあっていくことになるだろうと強く思った覚えがある。本はいまでも私の本棚のなかにある。

『狂人日記』は、精神病院に入院した50代の男が他者のやさしさに目覚めながらも孤絶を深めていく様子を描いたものである。主人公像には、無頼の生活を繰り返してきた色川自身(別名、阿佐田哲也)が強く反映されており、ある種の私小説といってよい。色川の絶筆であり、読売文学賞を受賞している。

『狂人日記』の文体は無骨である。いわゆる文学的な洗練さは、どこにもない。いままでに文章をほとんど書いたことがない中年の男が、生まれてはじめて本当の気持ちを書こうとすると、こういった文体になるだろうと感じさせる。

そしてそうした無骨で文学らしくない文体があってこそ、この『狂人日記』という作品は成立する。このとつとつとした語り口こそが、他者との連帯を狂おしいまでに望みながらも弧絶をさらに深めていかざるを得ない男、そのものだからである。

色川がこうした無骨で文学らしくない文体を意識的に使っていることはいうまでもない。そしてその文体の選択が、この作品を名作のひとつにしている大きな要因のひとつである。この作品を読むと、きれいごとの文体がいかに力のないものかを思い知らされる。

『狂人日記』が発表された1988年には、耕治人が『そうかもしれない』を発表している。この作品も、文学的洗練からほど遠い文体を使用することで、人間の心の深淵を表現した作品である。放埓な生活を送ってきた私小説家と認知症を患ったその妻との関係を描いたもので、2005年に映画化もされている。

1980年代後半は日本が大きなターニングポイントを迎えていた時代であるが、そのなかで生まれたこの2つの名品をこれからの世代にもぜひ読み継いでいってもらいたいと思い、ここに紹介する次第である。

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