成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

『論語』

2010年12月20日

(以下、加藤徹、日経新聞のコラムより引用)
先生は言われた。「勉強したことを、時がきたら実践して復習する。うれしいじゃないか。遠くからきた人と知りあい、友だちとなる。楽しいじゃないか。他人に理解してもらえなくても、恨まない。りっぱな人間といえるじゃないか。

「わしは今でこそ先生と呼ばれておるが、14まで学問をしなかった。29まで自立できなかった。39まで自信がなかった。49まで天命をわきまえなかった。59まで人の意見をすなおに聞けなかった。69までは、何でも自分がしたいことをすると、ついやりすぎてしまった。ま、人生なんてそんなものだよ。」
(引用おわり)

『論語』に最初にふれたのは高校の漢文の授業である。当然のことながら何もわからなかったし、もちろん面白くもなんともなかった。また当時の若者たちのあいだにはなぜか反体制の気分が満ち溢れていたので、少し上の全共闘世代がとてもかっこよくみえていた私にとって『論語』は保守反動の理論でしかなく、ナンセンスかつ学ぶに値しないものだった。

『論語』を読んでみたいと思いはじめたのは、中島敦の『弟子』を読んでからのことである。『弟子』は、孔子の弟子である子路を主人公とした短編小説だが、そのなかに登場する孔子は、比類なき聖人君子でありながら、同時に、ほんの一点だが本質的な“いかがわしさ”を持つ人物として描かれていた。この人間くさい人物の言行録としての『論語』であれば、読んでみたいと思った。

その後は、岩波文庫の『論語』を手元において、ときどき思い出したように読んでいる。内容はいまだによくわからないが、ひとつわかったことは、『論語』にはさまざまな解釈の仕方があるということだ。教科書に出てくるような堅苦しい解釈だけではなく、さまざまな人がさまざまなやり方で解釈をしている。聖書も同じだが、どうやら古典とはそういうものらしい。

冒頭にご紹介したのは、日経新聞(2010.12.19)に載った加藤徹のエッセイからの抜粋である。最初のほうは「学而篇」の最初の一節だ。以下、白文と読み下し文を載せておく。

子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。

よくある解釈は、これを成功の条件とみなすことである。立身出世するためには、子供のときから学問にはげみ、よく復習をし、友人をたくさん持ち、人を恨んだりしてはいけない、ということである。

だが加藤徹はそうした解釈をしない。これを人生賛歌だとみなすのである。そして加藤はこう解説する。

(ここから引用)
まるで孔子の笑い声が聞こえてくるようだ。人生は楽しいものなんだ。つらく、さびしくても、いつかきっと友だちがあらわれる。前向きに生きよう。そんなメッセージが伝わってくる。
ふつうの古典は、人生の苦しみや悲しみから、お説教をはじめる。それにくらべ『論語』のこの能天気な明るさは、なんだろう。
(引用おわり)

加藤によると、『論語』とは「能天気な明るさ」をもつ古典なのである。

あとのほうの白文と読み下し文は以下のとおりだ。

子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

『論語』でもっとも有名な部分だが、一般的な解釈はおよそ次のようなものである。

古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。(略)この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。

まことにつまらない。しかし加藤の解釈によると、たしかにこれは「一般論としての人生の指標」であり「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」ではあるのだが、しかし、その含意は一般に考えられているものとはまったく違う。ようするに、ま、人生なんてそんなもの、なのである。

エッセイの最後を加藤はこう締めくくっている。

(ここから引用)
『論語』は奥深い。四季ごとに表情を変える富士山のように、『論語』も読者の人生の春夏秋冬にあわせて違う顔を見せる。一生の友のような、自分とよりそう一冊をもつこと。それも読書の醍醐味かもしれない。
(引用おわり)

私自身、『論語』を読むなかで感じていた本質的な“いかがわしさ”をマイナスのイメージでみることが、このごろは少なくなってきた。『論語』のもついかがわしさこそが人間の本質であり、それはそれでよしと、ようやく思えてきたからだろう。

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