成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

ネイティブチェック幻想

2011年5月25日

日英翻訳でうんざりするのは納品時に「ネイティブチェックはすんでいますか」と顧客からいわれることである。お仕事なのでニコニコ顔で対応するが、心のうちでは、この時代になってもまだネイティブチェックなのかと、かなり複雑な気分だ。

そもそも“ネイティブ”などという名の人間はいない。そこにいるのはAさんであり、Bさんであり、Cさんだ。Aさんはイギリスで生まれ育った大学教師、Bさんはマレーシアとオーストラリアで育ったサーファー、Cさんはニューヨーク育ちの工場労働者だとしよう。それぞれに人生のバックグランドが違い、言語能力も違う。だがその誰にチェックをしてもらっても「ネイティブチェック」なのである。じつに馬鹿げた話だ。

ネイティブチェックにこだわる立場からみれば、しかしノンネイティブの書いた英語にはネイティブ(たとえどのような人物であっても)からみれば必ず間違いが見つかるものだから、最終チェックとしてネイティブチェックは欠かせないということになる。この考え方には次のような間違いがある。

第一に、現在の英語はすでに英語ネイティブだけのものではない。ある資料によると、いま世界で行われている英語コミュニケーションの8割以上が、英語ネイティブ同士のあいだではなく、ネイティブとノンネイティブまたはノンネイティブ同士のあいだで行われている。すなわち現在の英語使用は「母語としての英語」ではなく「世界共通語としての英語」が圧倒的に主流なのである。そのため、ノンネイティブの多種多様な英語もまた英語として受け容れるべきだというのが、現在の世界の英語専門家たちの共通した意見だ(イギリスやアメリカの英語学者には、こうした英語の国際化を頑として拒否する人々もいる)。こうした状況を鑑みると、英語ネイティブだけを対象とするコミュニケーション(アメリカ向けの広告文など)を除けば、ネイティブチェックという名のネイティブ規範への追従には、国際的観点からみて合理性がない。

第二に、ネイティブチェックに固執することで、日本からの情報発信と日本人の英語力の育成が大きく阻害されている。まず、ネイティブチェックという工程を加えることで、翻訳ジョブに多大な手間と費用が発生し、それが日本から世界に向けての情報発信に対する大きな阻害要因になっている。ネイティブチェックがなければ、日本からの情報発信がはるかに迅速になり、その量も大きく増える。また、ネイティブチェックに頼ることで日本人自身がみずから英語をチェックする意欲が削がれている。自分たちの英語を自分たちの手でもっとよいものにしようとする気概と努力が失われているのである。そしてこのことこそ日本人がいつまでも英語が不得意である最大の要因のひとつだと私はみている。

第三に、ネイティブチェックには大きな限界があるということがよく理解されていない。次の2つのセンテンス

They gazed over the valley.(彼らは谷を眺め渡した。)
They gazed across the valley.(彼らは谷の向こう側を見つめた。)

は、意味は違うが、いずれも英語として正しい。したがって日本人が「彼らは谷の向こう側を見つめた。」を意味するつもりでThey gazed over the valley.と書いたとしても、ネイティブにはチェックできない。同様のことが多種多様な領域で起こっている。ネイティブチェックをしたからといって誤訳はなくならないのだ。

ようするに「ネイティブチェック」とは単なる幻想にすぎない。チェックしてもらうにしても、その相手は「ネイティブ」ではなく「日本語と英語の両方に精通した人」に頼むべきである。そうすれば翻訳の品質は間違いなく大きく向上する。

しかし国際英語としての翻訳ジョブの場合には、そこまで品質を上げる必要もないのである。それよりも、もっとスピーディかつローコストで世界に向けて大量に情報を発信することのほうが、はるかに重要なのだ。その意味では日本語と英語の両方に精通した人にチェックを頼むという行為も、場合によっては「過剰」品質のもとになりかねない。

もうそろそろネイティブチェック幻想から脱しようではないか。そうすれば日本からの情報発信は大きく改善し、日本人の英語ライティング力も大きく向上するに違いない。

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