成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

中井久夫の『私の日本語雑記』

2010年7月7日

伊藤和夫の『英文解釈教室』につづき、また素晴らしい本に出会った。中井久夫の『私の日本語雑記』(岩波書店)である。中井は1934年生まれ、日本を代表する精神医学者の一人であり、同時に、現代ギリシャ詩やポール・ヴァレリーの詩の翻訳者としてもよく知られている。英仏独語はもちろんのこと、ギリシャ・ラテン語その他の言語にも精通する、外国語の達人中の達人でもある。

その中井が、雑誌『図書』(岩波書店)に2006年7月から2009年5月まで連載してエッセイをまとめたものが、この『私の日本語雑記』である。読みはじめたその瞬間から、たちまち夢中になった。私の場合、本を読んでいて印象に残る箇所には赤線をひいたり付箋をつけたりするのだが、この本はもう赤線と付箋だらけである。全ページの全行に赤線を引いてもよいと思っている。

したがってどこか一部分をピックアップしてご紹介するというのはかなり難しいことなのだが、全ページをご紹介するわけにもいかないから、ここでは散文の翻訳に関する部分について取り上げることにする。以下、「最初の精神医学書翻訳」の一部分(pp.120-2)である。

まず背景を説明しておく。この「最初の精神医学書翻訳」というエッセイは、中井が少壮の精神科医として市井の病院に勤めていたときにおこなった、はじめての翻訳体験について述べられたものである。原著はサリヴァンという米国の精神科医のもので、中井はこの後もサリヴァンの本をつぎつぎと訳していくことになる。

いくつかのパーツに分けて、それぞれのテーマに関して、私なりの解説を加えていきたい。

<ここから引用>
こうしているうちに、翻訳といえば「不実な美女か忠実な醜女か」、あるいは直訳と豪傑訳との二者択一というのは単純すぎるのではないだろうかと思うようになった。逐語訳とはできるだけ語と語を対応させながら、原文の文法構造にできるだけ近いセンテンスを生み出す訳である。そこでは語とセンテンスは特権的な存在であり、翻訳は内容の伝達であると同時に文法構造の伝達となっている。たしかに、センテンスの構造をそのまま訳しても、思考なりイメージの遠近法の中を歩むセンテンスとなる場合が多かろう。しかし、そういう方法での成功例は文法構造も語彙も似ている、たとえばフランス語とイタリア語でも意外に少ない。むしろ、直訳への努力は日本語が多く、これは日本文化の一部かもしれない。
<引用おわり>

不実な美女か忠実な醜女か、直訳か豪傑訳か、という表現は、翻訳業界ではよく使われる比喩である。

だが、中井はこうした二者択一的な発想に対してまず意義をとなえる。それから英文和訳(直訳)では語とセンテンスに特権が与えられていることを明示し、そしてその特権を保ったままでの翻訳(つまり直訳)の成功例は、文法構造も語彙が酷似するフランス語とイタリア語のあいだでさえも意外に少ないことを示す。そのうえで「むしろ、直訳への努力は日本語が多く、これは日本文化の一部かもしれない」と考察する。

ようするに、こういうことだ。直訳という翻訳処方は、フランス語とイタリア語といった近接の言語間でも、ほとんど成功しない。しかし日本語と他言語との翻訳では、その成功しないはずの翻訳手法が、きわめて一般的に用いられている。とすれば、それはもはや独自の文化というしか、ほかに説明のしようがないではないか。

一部省略して、次の部分に進もう。

<ここから引用>
私は思った。語と語の対応だけがなぜ特権的なのか。フレーズ(phrase)とフレーズとの対応、クローズ(clause)とクローズとの対応、センテンス(sentence)とセンテンスとの対応、パラグラフ(paragraph)とパラグラフとの対応も、同じ権利を持っていないか。それだけではない。これらを「平行対応」とすれば「交差対応」もある。語とフレーズ、フレーズとクローズ、クローズとセンテンスなど、可能なだけの組み合わせがありうる。一センテンスが一語になることもクローズになることも、逆に理論的にはパラグラフになることだってありうる。言語が違えば、ある言語では迂遠に表現しなければならない内容を単純に表現できることがいくらでもあるのではないか。
<引用おわり>

それにしてもなぜ語と語の対応だけがそれほどまでに特権的でなければならないのか。これが中井の疑問である。その他の対応(フレーズ対フレーズ、クローズ対クローズ、センテンス対センテンス、パラグラフ対パラグラフ)も語と語の対応と同等の権利を有してはなぜいけないのか。さらにいえば中井のいう「交差対応」も同等の権利を有するべきではないのか。

中井が別のところで述べているのだが、こうした「~なのか(ではないのか)」といった疑問形の表現は、実際には強い肯定/否定の表現なのである。つまり「語と語の対応だけがなぜ特権的なのか」=「語と語の対応だけが特権的ではない」であり、「フレーズとフレーズとの対応、クローズとクローズとの対応、センテンスとセンテンスとの対応、パラグラフとパラグラフとの対応も、同じ権利を持っていないか」=「フレーズとフレーズとの対応、クローズとクローズとの対応、センテンスとセンテンスとの対応、パラグラフとパラグラフとの対応も、同じ権利を持っている」であり、「言語が違えば、ある言語では迂遠に表現しなければならない内容を単純に表現できることがいくらでもあるのではないか」=「言語が違えば、ある言語では迂遠に表現しなければならない内容を単純に表現できることがいくらでもある」なのである。

こうして語の一対一対応に特権を与える翻訳つまり直訳を否定したのち、つづいて中井は、語順の問題に焦点を移す。

<ここから引用>
文法が違えば語順が違うのはふつうの事態である。どのように変えるか。それは論理構造が、あるいはイメージが、歩むにつれて眺望がひらけていくように、おのずと頭に収まる「パースペクティブ」の順序にである。このような文章が自然な文章である。
<引用おわり>

中井が目指すのは「論理構造が、あるいはイメージが、歩むにつれて眺望がひらけていくように、おのずと頭に収まる「パースペクティブ」の順序」である。

これは、これまで道中記でとりあげてきた「動的読み」そのものである。そしてこの動的読みを許す「文章が自然な文章である」と中井はいう。逆にいえば、こうした自然さに欠けている文章は翻訳であっても作ってはいけないということである。

ここまで述べたうえで、中井はこの部分のまとめとして次のように締めくくる

<ここから引用>
こうしてみれば、翻訳とは、まず、平行対応と交差対応とを柔軟に駆使して一つの新しい建築(アーキテクチャー)を作ることである。この建築がもとの言語の建築と骨格が対応すれば、翻訳の論理あるいは感情あるいはイメージ喚起的な面は翻訳(translation=転送)されたことになると私は考えた。
<引用おわり>

中井によると、翻訳とは「平行対応と交差対応とを柔軟に駆使して一つの新しい建築を作ること」である。もう一度確認しておくが、「平行対応」とは、語対語の対応だけでなく、フレーズ対フレーズ、クローズ対クローズ、センテンス対センテンス、パラグラフ対パラグラフの対応も含み、それらがすべて同等の権利を持つものである。そして「交差対応」とは、語とフレーズ、フレーズとクローズ、クローズとセンテンスなどなど、きわめて多様な組み合わせがありうるものである。そのうえで「一センテンスが一語になることもクローズになることも、逆に理論的にはパラグラフになることだってありうる」し、「ある言語では迂遠に表現しなければならない内容を単純に表現できることがいくらでもある」と中井は指摘している。「文体脂肪率」でご紹介したThe history of new regulatory provisions is that there is generally an immediate resistance to them.に対する訳文「新規制に反対はつきものだ。」などはその一例といえよう。

ここまでで中井のいう「平行対応と交差対応とを柔軟に駆使して一つの新しい建築(アーキテクチャー)を作る」という意味での翻訳は完了する。だが翻訳という営みはここで終わりなのではない。これではただ「骨組み」ができたにすぎない。そして骨組みだけでは建築物は成り立たないのである。

では骨組みのほかに建築には何が必要なのか。それはデザインと内装であると中井はいう。中井の論をみてみよう。

<ここから引用>
しかし、これだけでは建築の骨組みにすぎない。建築にはデザインがあり、内装が必要である。

これは全く別種の仕事である。論理でなくセンスの仕事であり、五官が動員される。

文章は一次元の構築物であるから、まず、デザインで重要なのはリズムである。原文の言語のリズムと日本語のリズムとの橋渡しをしなければならない。これも欠かせない翻訳(転送)である。英語は基本的に三拍子、日本語は基本的に二、四拍子である。ここを越えるのが難所である。三拍子の日本語を作ることは非現実的である。たくみに偶数拍子に移さないといけない。

ここで重要なのは読点である。読点のもたらず沈黙は一拍分である。読み進む際に一息つくならば読点がなくてもよい。沈黙が一拍であることが三拍子のリズムを四拍子に変換するのを楽にしてくれる。
<引用おわり>

中井はまず翻訳におけるデザインと内装は骨組みづくりとは別種の仕事であると言い切る。そしてそれは「論理」ではなく「センス」の仕事であるという。ここでいうセンスとは言い換えればイメージ喚起力のことであり、センスのよい人とはイメージを豊かに作り出せる人のことである。

イメージ喚起力は論理力とは関係がない。いやむしろ逆相関の関係にあるのかもしれない。同書の別の箇所で中井はイメージ喚起力のない人物の代表として、あのバートランド・ラッセルのことをとりあげている。その部分を少しみてみよう。

<ここから引用>
ただイメージレスの人がいる。脳波学の初期の研究者ウォルターによれば、「立法体を思い浮かべて下さい」という問いに対して、ふつうの透視図を線描で描くのが八割、一割は影があり、色があり、表面の質まで感得される生々しいもので、残りの一割は図形が一切思い浮かばず、面が六、稜が十二などと数字を考える。これは脳波のアルファ波の出方でわかる。

その自伝によればバートランド・ラッセルが無イメージ派である。そうと知ると彼の名文にイメージを喚起する力がないことを改めてなるほどと思う。ただ彼はその欠陥を自覚しており、名文を暗誦することでそれを補ったそうである。代わりに、彼は青年時代から七十過ぎまで毎晩、おのれが殺害される悪夢をみていた。これ(成瀬注:名文の暗誦のこと)にイメージの生産力が消費し尽くされたのであろうか。一面では、つらい人生であったろう。
<引用おわり>

たしかにバートランド・ラッセルの文章にはイメージ喚起力が欠けていると私も思う。一方で文学者の書く文章はイメージ喚起力に秀でているものが多い。そのかわりにラッセルの文章のような論理性に欠けている。天は二物を与えずである。

さて本論に戻ろう。つまりデザインとは理性の仕事ではなく感性の仕事だということである。そして「文章は一次元構築物であるから、まず、デザインで重要なのはリズムである」。

「文章が一次元構築物」というのは、言語表現に“Linearity”(線条性)があるということである。絵画・写真と言葉・音楽は、いずれも人間の思考や感情を伝えるコミュニケーションツールだが、絵画・写真は面的な情報であるのに対して、言語・音楽は一連の語や音が線的に並んだものである。言語・音楽が持っているこうした性質のことを“Linearity”(線条性)という。ようするに、言語や音楽は順番によって意味が変化するが、絵画や写真はそうではないということだ。

そして線条性があるがゆえに「デザインで重要なのはリズムである」と中井はたたみかける。そして「原文の言語のリズムと日本語のリズムとの橋渡しをしなければならない。これも欠かせない翻訳(転送)である」と結論づける。リズムの翻訳。これもまた翻訳作業の一部として欠かせないと中井はいうのだ。

別の箇所で中井は、リズムのない原文はとても翻訳しにくいと述べている。詩の翻訳者でありイメージ喚起力に秀でている中井のような翻訳者ならではのコメントではないだろうか。

ところでイメージ喚起力に欠けた翻訳者は、そもそも原文のリズムを感知することができない。そしてビジネス・学問分野の翻訳者は、理知的能力には優れていても、イメージ喚起力に欠けていることがきわめて多い。

問題は、そうした翻訳者の多くが、リズムの翻訳はビジネス・学問分野には必要がないとみなしており、ラッセルのように毎晩殺される夢をみながらでも自分の欠陥を矯正していくといった努力をしないことである。そのため、ビジネス・学問分野の翻訳のほとんとが、リズムのない文章となってしまっている。ビジネス・学問分野の翻訳がきわめて読みづらい原因のひとつは、ここにあるといってよいと思う。

では、英日翻訳における「リズムの翻訳」とは何か。それを示すのが「英語は基本的に三拍子、日本語は基本的に二、四拍子である。ここを越えるのが難所である」という中井のコメントである。これについては「日本語は四拍子、英語は三拍子」で詳しく説明したのでそれをみてほしい。それに続けて中井はリズムの翻訳における読点の役割について述べ、そして次のようにこの部分を締めくくる。

<ここから引用>
実際には、三拍子を二、四拍子に変換してくれる装置は原文と日本語とを往復しているうちに私の生理的言語意識の中に生まれた。私は英語のリズムをとりながら、これを日本語にしていくのだが、そうすると自然に四拍子になる。私の中には内的な二、四拍子のリズムが流れていて、ちょうど動いているベルトコンベヤーの上に語を、フレーズを、クローズを、センテンスを、パラグラフをひょいひょいと載せていく感覚である。(略)

リズムは聴覚だけではなく、基本的には共通感覚的なものである。聴覚、視覚(喚起されるイメージから共通感覚としての色彩まで)の他に、口腔感覚、発声器の運動感覚、時には総毛立つような皮膚感覚までが加わっている。(略)共通感覚の足並みが揃うと快感が生まれ、不揃いでばらばらであると、不快感が生じる。時には翻訳どころか、読むこともできなくなる。私には感覚的に読めない本がいくつかある。
<引用おわり>

リズムの翻訳は最終的に「私の生理的言語意識の中に生まれた」ものだと中井はいう。私も同感である。たしかに読点の使い方などを工夫することで英語の三拍子を日本語の四拍子に「翻訳」することが、ある程度は可能だろう。しかしリズムの翻訳の良し悪しを最終的に決めるのは、結局は自分の中に流れている言語感覚そのもののようである。これをもし「センス」と呼ぶのであれば、最終的にはやはりセンスの問題なのである。

そしてこの「リズムのセンス」を決めるのは、なにも聴覚だけではない。皮膚感覚までを含めた、あらゆる感覚がかかわってくる。「私には感覚的に読めない本がいくつかある」と中井はいうが、じつは私にもそうした本がかなり多くある。内容ではなく、その文豪の持つリズム、あるいはリズムのなさを、自分の感覚が受けつけないのだ。やっかいなことに、私のもうひとつの専門分野である経済、金融、会計関係の翻訳書には、そうしたものが特に多い。

最後に中井は「内装」について軽く触れている。

<ここから引用>
後は内装である。もっぱら文書を磨きニスを塗ることである。もうほとんど原文を見ず、日本語としての建築性とリズムの向上を目指した。
<引用おわり>

「ほとんど原文を見ず、日本語としての建築性とリズムの向上を目指」すというのは、もはや翻訳者というよりも編集者の立場である。この翻訳者から編集者への人格の入れ替えが文章のクオリティをもう一段アップしてくれる。中井は校正刷りを製本してずっと持ち歩いてチェックしたという。このように時間と手間を十分にかけるのが「内装」の極意である。

上に取り上げた部分のほかにも中井久夫の『私の日本語雑記』は読みどころが満載である。優れた臨床精神科医としての中井、現代ギリシャ詩やポール・ヴァレリーの詩の翻訳者としての中井、サリヴァンを中心とする研究書の翻訳者としての中井、英仏独語、ギリシャ・ラテン語にくわえ中国語、韓国語、インドネシア語までカバーする言語の達人としての中井、そして一人の日本人としての中井が、この本のなかに融合され、凝縮されている。翻訳や言語に関心を持つすべての方々に読んでいただきたい本である。

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