成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

伊藤がやり残したこと

2010年5月11日

伊藤和夫は「直読直解」のための方法論について1977年初版の『英文解釈教室』で基本的骨格を完成させたのち、1988年初版の『ビジュアル英文解釈』でそれをさらに動的なものへと発展させた。伊藤の遺稿となった1997年出版の『予備校の英語』のなかのエッセイのひとつである「『英文解釈教室』を斬る」には、以下のように伊藤の英語教育方法論の破壊と創造の様子が伊藤自身によって述べられている。

(ここから引用)
既に述べたように、文法の視点は、言語の線を離れた高所から言語を俯瞰し、抽象する立場である。しかし、それは言語を使う者の立場ではない。言語の使用にあたって我々は、たとえアタマに無数の想念がひしめいていても、一度に一つのことしか言えない。一本の線の上にそれを継時的に配置してゆくしかないのである。そのかぎり、言語は静止状態にあって全体を同時に眺められる線ではない。時の流れと等しい方向に流れる、「方向」を持った線なのであり、言語の使用にあたって、我々はその線に束縛されつつ、みずからも流れることを強制されているのである。

「使う」場合を裏返しにすれば「読む」場合になる。「読む」という作業は、方向を持った線の中に閉じ込められた想念を線の束縛から解放して立体的なものに復元する作業である。「読む」時、我々は線の最初から出発してそれを進行方向にたどってゆくが、その際、次々に出現する要素は受動的に送迎されているだけではない。我々は既に与えられた部分に基づいて、そこから先の思想の流れと言葉の組み立てを予想している。自分の予想が正しいか裏切られるかを、新たに出てくる部分と突き合わせて確認し、その正しさに満足したり、基本の枠組みは変わらぬままにそこに付加される情報を受け入れたり、予想が大きく狂うことによって読みの誤りに気づき、前へ戻って読み直しかつ訂正したりすること、それが具体的かつ創造的な読み方である。言語が方向を持った線であるのに対応して、読むこともまた、方向性を持った線状の活動なのである。

読むための文法と参考書は、この活動に密着したものでなければならない。線の全体を俯瞰するよりも線の流れに沿った文法、たとえば、英語のセンテンスの先頭に来られる言葉が何種類あり、そのそれぞれに対応した文の構成にどんなものが考えられるかという問題を叙述の中心にすえるような文法が必要なのである。(略)

筆者が1977年に出した『英文解釈教室』にこのような視点が全く欠けていたわけではない。(略)しかし、「直読直解への具体的な方法の一つの提示」(同書「はしがき」)と名乗るにはこの本は徹底性を欠き、線の方向性にこだわることによって開かれる展望がいかに豊かであるうるかについての見通しもなかったこと、それが二十年の歳月を通してふり返った場合の筆者の最大のうらみであった。(略)

ただ、その反省の上で、筆者が現在のどのようなシステムと教え方を使っているかに興味がおありの方は、『ビジュアル英文解釈』(駿台文庫、1988年)や1994年に刊行した『テーマ別英文読解教室』(研究社出版)を参照していただければ幸いである。
(伊藤和夫 『予備校の英語』 研究社 pp.52-5)
(引用おわり)

言葉に対する静的・俯瞰的な認識と分析から動的・予測的な認識と分析へ、というのが、伊藤の歩んだ道である。私自身も、きわめて不完全なものにすぎないが、後期の伊藤が目指した英語の動的・予測的な認識と分析を『新しい英語の学び方』の中でおこなっている。こうした手法に私が着手したのは2000年前後のことであった。当時は、まだ誰も着手していない分野に自分が最初に手をつけたのだとうぬぼれていたが、じつはその十数年前に伊藤がすでに着手していたのである。汗顔の至りというほかない。

こうして「直読直解」の静的分析から動的分析へと歩を進めた伊藤だが、その後、無念にも病にたおれ、その探求の道程は閉ざされるに至った。だが、もし伊藤がさらにその歩みを進めていたとすれば、それはどのような方向に向っていたのであろうか。それを私なりに考えるのが、本論の目標である。

まず伊藤が目指した領域として私が考えるのは、言葉と社会との関係、具体的にいえば「文体論」である。これを意外と感じられる方もおられるかもしれない。というのも、伊藤がおこなってきた分析は、静的であれ動的であれ、センテンスを単位としたものであり、とすれば、その次にくるのは複数のセンテンスの関係のあり方、つまりパラグラフ論やテキスト論に進むと考えるのが、どちらかといえば自然だからである。

しかし伊藤はそちらの方向には向わなかっただろうというのが、私の考えである。理由としては、もし伊藤がパラグラフ論やテキスト論に強い興味を持っていたとすれば、はるか以前からその領域の分析をおこなっていたに違いないと思うからである。

そもそもセンテンスの分析と解明もまともにできていない段階で、パラグラフやテキストの分析や解明に着手することなど、できるはずがない。ところが日本の英語研究者の多くは、英米での研究の潮流に追随するかたちで、そうした研究へと傾斜している。このような相も変らぬ輸入学問のあり方を、伊藤はおそらく苦々しい気持ちで眺めていたのではないだろうか。

文体論に話を戻すと、日本人が英語を読むときに決定的に欠けているのが「文体感覚」である。日本人の外国語理解における文体感覚の欠如は英語理解に限られたことではなく、じつは漢文理解においても同様の事態が生じている。というよりも、千数百年にわたる漢文訓読の伝統が英語理解での文体感覚の欠如を生み出したと考えるべきである。この漢文訓読での文体感覚の欠如については、高島敏男の『漱石の夏休み――房総紀行「木屑録」』に詳しい。

このように日本人には英語の文体感覚が決定的に欠けているので、文体的に優れた英語もそうでない英語も、すべて同じものとして処理してしまうのである。これでは本当の意味で英語が読めたということには決してならない。

文体感覚の欠如は、英語を書くときにも大きな障害となる。自分の書いた英語がどのような文体なのかが自分自身で把握できないのであるから、言語感覚の鋭い人であればあるほど、なかなか筆が進まないのも当然のことである。それでも英語が平気で書けるとすると、よほど言語感覚の鈍感な人であるにちがいない。

以上のようなことを考えると、文体論を伊藤が次に目指したであろうと推測することにそれほどの無理はないというのが、私の考えである。もちろん、こんなことはあくまで私個人の思い込みにすぎないのだが。

この個人的な思い込みをもう少し続けさせていただくとすれば、伊藤が文体論のほかにも取り組みたいと思っていたものがもしあったとすれば、それはおそらく日本語の研究ではなかったかと思う。

伊藤は日本人が英語という外国語を読む際の「直読直解」の方法を確立しようとしたわけだが、しかし私たちはその前にすでに日本語という母語を「直読直解」する方法を無意識下において完全に習得している。そしてこの無意識下にある日本語の「直読直解」の能力が英語という外国語の「直読直解」に大きな影響を与えていることは明らかである。

ところが、日本語での「直読直解」が日本人の無意識下でいかにおこなわれているかについては、まだ十分に解明がなされていない。つまり私たちは、自分たちがどのように言語を通じてものごとを理解しているのかを、じつはよくわかっていないのである。このような状況で、外国語である英語を読むときの無意識下の動きを解明しようとするのは本末転倒であり、滑稽といわざるを得ない。そしてこの無残な滑稽さに伊藤が気づいていなかったはずはないと、私は考えるのである。

「文体感覚」「日本語探求」という2つの領域は、私自身が考え続けている課題でもある。その考察の一部については、『新しい英語の学び方』『準備科講義録』『翻訳講座道中記』などにまとめてある。いずれもまことに不完全なものではあるが、先学の学問成果を足がかりに新しい領域へ踏み込もうという気持ちだけは忘れないでいるつもりである。その意味で、私もまた伊藤がやり残したことを引き継いでいくものの一人であると自分自身では考えている。

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