成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

動詞の「能動性」「所動性」について

2011年8月21日

一般に学校英文法では英語動詞には他動詞と自動詞があり、他動詞とは目的語をとるもので、自動詞とはそうでないものと説明される。しかしこの説明はまったく十分ではない。

まず、英語動詞に「他動詞」「自動詞」があるのではないことを再確認しておく。すなわち他動詞と自動詞という「かたちの違い」があるわけではない。実際にあるのは他動詞用法と自動詞用法という「用法の違い」である。たとえばwalkという動詞は、I walk in the park every day.(毎日公園を散歩する)であれば自動詞用法であり、I walk my dog in the park every day.(毎日犬を公園で散歩させる)であれば他動詞用法である。またI don’t hear well.(耳がよく聞こえない)だと自動詞用法であり、I hear some noise.(すこし雑音が聞こえる)であれば他動詞用法である。

つぎに、動詞には「他動性」と「自動性」のほかに「能動性」と「所動性」という区分もあることを説明する。「能動性」の動詞とは、動詞の影響力の発信元が主語である動詞のことである。うえにあげたI walk in the park every day. / I walk in the park every day.のwalkが「能動性」動詞の例である。一方、「所動性」の動詞とは、動詞の影響力の発信元が主語ではない動詞のことである。うえにあげたI don’t hear well. / I hear some noise.のhearが「所動性」動詞の例である。このタイプの動詞の影響力の発信元は「自然」や「神様」であり、それは言語内には表現されていない 。

動詞の「能動性」「所動性」については、欧米系の言語研究者たちはこれまでほとんど注目していなかった。そもそも主語以外に影響力の発信元があるという発想そのものが彼らのあいだにはなかった。彼らは主客の二項対立こそが世界の根源的なあり方だとかたくなに思い込んでいた。したがってコトが起こるからには、そこには主客の二つの実体(SとO)が必ず存在し、そのあいだに関係性(V)が必ず生じなければならないと考えていた。

しかし上に述べたように、「コト」というのは、それを引き起こす主体を必ずしも必要とはしない。それはある場のなかで自然に起こる場合もある。何かによって起こされる(他動)のではなく、みずから起こす(自動)のでもなく、「おのずとから」起こる(所動)のである。こうしたコトを表現する動詞が「所動性」動詞である。ちなみに「所」という漢字には「ある動作を受けるそのもの」という意味がある。

欧米系の言語研究者とは異なり、この「所動性」の動詞について50年も前から研究をしていた日本人言語研究者がいた。三上章である。日本語の研究者である三上が動詞の所動性に着目した最大の理由は、日本語という言語が所動性のきわめて強い言語だからである。この動詞の所動性の強さは、トピック・コメント構造の強さとともに日本語の持つ大きな特徴であり、また日本語における世界認識の基盤をなすものでもある。

しかし三上が「所動性」動詞についての研究を発表した以降も、日本の大半の言語研究者たちは盲目的な欧米追従の姿勢を変えず、日本語を欧米語の観点から研究するという愚を繰り返してきた。そして三上の独創的な研究成果はほぼ半世紀ものあいだ等閑視されてきた。三上の主語・主題の研究や所動詞の研究は最近になって研究者のあいだでようやく受け入れられつつあるようにみえる。今後の研究がうまく進むことを期待したい。

つぎに、翻訳という観点から動詞の「能動性」と「所動性」について考察してみる。日本語という言語は「所動性」の動詞を使う傾向がきわめて強い言語であり、一方で英語という言語は「能動性」の動詞を使う傾向がきわめて強い言語である。たとえば、「わたしには姉が一人、弟が一人いる。」という日本語の「いる」は所動性の強い動詞表現だが、I have an elder sister and an younger brother.のhaveは能動性の強い動詞表現である。このように日本語から英語、英語から日本語への翻訳では、動詞の所動性と能動性を変換しなければならないケースがよく出てくる。

問題は、こうした動詞の所動性と能動性の変換が翻訳という行為のうえでどのぐらい許容できるのかという点である。所動性と能動性はそれぞれの言語の世界の認識のあり方の根幹にかかわることであるから、それを変換することは、たんに表現を入れ替えることとは次元の異なるものである。

現実をみてみると、英語から日本語への翻訳ではこの変換作業を意訳のしすぎとみなして英語的な能動性を残しておくケースがかなりみられる。いわゆる「翻訳調」文体である。一方で日本語から英語への翻訳では、日本語の持ち味である所動性をほぼすべて能動性のものに変換することがきわめて一般的である。もしそうした変換作業をしなければ、それは「まともな英語ではない」とみなされる。

このように英日翻訳と日英翻訳とではその手法において本質的な違いがある。そしてこうした本質的な翻訳手法の違いは、なにも所動性と能動性のあいだの変換だけではなく、「~は…である」構造とSVO構造のあいだの変換、日本語の時間認識と英語の時間認識のあいだの変換などさまざまな分野でもみられる。

ようするにどんな場合でも日本語のほうが全面的に譲歩し、英語のほうはまったく譲歩しないのである。このように翻訳における英語と日本語との関係とは、思い切っていってしまえば主人と召使の関係である。そして皮肉なことに、こうした関係を決めているのは主人である英語のほうではなく、召使である日本語のほうである。すなわち私たち自身が召使の立場をみずから選んでいるのである。

最後に、柳父章が三上について述べた文章を紹介しておく。

(以下、引用)

三上が生涯賭けて戦った当の相手は、学界、教育界の当時の通説だった。では、日本語に主語があるという、その通説は、どうしてできたのか。どこからやってきたのだろうか。

日本語研究者たちは、いったいなぜ、日本語の「主語」、日本文の主述関係という前提にとらわれているのか。三上の代表的著書『現代語法序説』から、引用しよう。

ヨーロッパ語のセンテンスが主述関係を骨子として成立することは事実であるが、それは彼等西洋人の言語習慣がそうなっているというにすぎない。決して普遍国際的な習慣ではないし、また別に論理的な規範でもない。わが文法界は、それを国際的、論理的な構文原理であるかのように買いかぶってそのまま自国文法に取り入れ、勝手にいじけてしまっている。だから、主述関係という錯覚を一掃し、その錯覚を導入しやすい「主語」を廃止せよ、というのは、いわば福音の宣伝なのである。
(三上章 『現代語法序説』、刀江書院、1959年、29頁)

この「主述関係」という先入観を改めるには、学校の英語、国語教育から変えていかなければならない、というわけで、さらにこう述べている。(略)

主述関係の害毒は、英文法の授業が平行して行われているという環境のために、いよいよ顕著になる。

英語の主述関係は整然としていてわかりやすい。日本語には、もし本気になれば師弟もろともモヤモヤしなければならないような文例がいくらでもある。彼我対照してどういうことになるか。日本語の授業で主述関係をウンヌンすることは、劣等感を助長するだけのことである。(略)

たまに文法論議が始まると、だれもかれも頭の中でパターンだけの和文英訳をやってみて、これが主語だとか、いや副詞だとかと意見を述べ立てる。よその国の言葉遣いのキマリを後生大事にした結果、自国語文法(ひいて自国語)の不振不信を招いているのである。

中学校以上での英文法の勢力を考えに入れると、単に主述関係を引っ込めるだけでは不十分である。英文法と違って日本文法には主述関係が存在しないという事実を、知識としても叩き込むくらいにしないとだめだろう。そうするには、むろん英語の先生の協力も絶対必要となるが、ここは順序としてまず日本文法の関係者に訴えているのである。
(同上 pp.72-3)

三上は、英語文法の影響ということを強調する。これは鋭い意見で、国語研究者や日本語研究者もまた、日本語の文法を考えるとき、英語に訳してみて、英文法に則って、日本語文法を考える、というのである。
(柳父章、『近代日本語の思想』、法政大学出版会、pp.3-4)

(引用おわり)

Categories: ことのは道中記 英語と日本語