成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

吉本隆明氏に反論する

2011年8月5日

(ここから引用)
科学法則というものを、「絶対にそうなる事実」だと理解している人は、このことに戸惑うかもしれません。統計学の方法論というのは、これまでの科学法則(たとえば、「地球上の物体は放っておけば地面に向かって落下する」のようなもの)とは少し違った形式をとっています。それはつまり、「はじめから100パーセント当てることをあきらめている」という意味です。95パーセント予言的中率区間の考え方は、5パーセントはずれるという「いい加減さ」を許容することで、かなり狭い区間の予言を可能にするのだ、と理解すべきなのです。
(小島寛之、『統計学入門』、ダイヤモンド社、p.83)
(引用おわり)

(ここから引用)
2003年に日本の原子力委員会は、原子力施設の事故によって生じた放射線被曝がもたらす災害は百万年に一度の割合でしか起こらないと明言しています。これが日本における原子炉を管理する際の基準になっていたのです。今回の事故による犠牲者はまだいないものの、“百万年に一度”の悪夢のシナリオがたった8年後に現実となりかけていることは周知の事実です。
私はこれを統計科学上の犯罪に等しい愚行と呼びます。こういった場合のモデルは平時を想定しており、予期せぬ衝撃の強い事象には対応できないのです。どこかの誰かが、公式に従ってリスクを測定して「百万分の一に収まるかな」などと言うのです。しかし、ごく稀なケースについては、そのリスクを科学的に測定できません。そしてその可能性も損害も過小評価してしまうのです。
(Nassim Nicholas Taleb, Fortune, April 11, 2011,What’s Next for Nuclear Power?)
(引用おわり)


原発をこれからどのようにしていくかは、すべての日本人が向き合わなければならない課題である。本論では、その原発の今後について、いくつかの側面から考察していく。

その際に、2011年8月5日の日本経済新聞朝刊の文化面(40面)に掲載された吉本隆明氏のインタビュー記事『科学に後戻りはない 原発 完璧な安全装置を』の一部を取り上げ、それに対する批判的な考察をおこなっていく。私はこれまで個人的な意見に対して批判的な考察をおこなったことはほとんどない。しかし吉本氏はたいへんに高名な評論家であり、その意見はいまも社会に大きな影響力を持つと考えられる。その吉本氏が、原発についてあきらかに間違ったことをいっているのであるから、これは見過ごせないと判断した。失礼を顧みずに反論することにする。

論に先立ち、私自身の立場を明確にしておく。私は「脱原発派」である。今後、できるかぎり早い時期に原発をゼロにしていくことを主張するものである。と同時に、現在の原発をすべていまこの時点で全廃してしまうことには反対の立場である。現在の原発依存の日本社会は例えていえば時速200キロ近いスピードで暴走している自動車である。何かの事故があればそれですべて終わりである。しかしだからといって急ブレーキを踏むわけにはいかない。そうすれば車はコントロールをたちまち失い、やはりすべてが終わってしまう。いまできることは慎重かつ確実にブレーキを踏み続け、車を安全速度にまでできるかぎり速やかにもっていくことである。

私の立場を明確にしたうえで、まず、すべての原発維持派あるいは推進派の方々に、お尋ねしたいことがある。それは、上の引用で述べられている統計科学の限界と原発のリスクの関係について、どのような考えを持たれているのか、ということである。

上の引用で小島氏が述べていることは、統計学という科学は他の科学と本質的に異なるものだということである。すなわち統計学は、はじめから100パーセント当てることをあきらめている学問なのである。したがって統計学的に99.999999999999パーセント安全という結果が出ても、それは「絶対に」安全ということを意味しない。学問として本質的に意味しないのである。同様のことを『ブラックスワン』の著者であるナシーム・タレブも指摘している。すなわち、ごくまれなケースの事故のリスクは科学的に測定できない。そして人間はその可能性も損害も過小評価してしまうのが常である。

ここから引き出されるのは、「この世の中に絶対に安全なものは絶対にない」という真理である。すなわち、今回の事故を受けていくら原発の安全対策を強化したとしても、それが「絶対の」安全につながることは決してないのである。

この世には絶対安全なものなどないことは、なにも統計学など持ち出さなくとも、常識で考えてわかることである。しかし世の中には、わざわざ統計学を持ち出して原発の安全管理が「科学的に」可能であるかのような意見を述べる人も数多い。そうした人々は、統計学の本質を知らないか、あるいは知っていてわざと知らないふりをしているかのいずれかであろう。

つまり何をどうしようとも、原発は依然として事故を起こす可能性がある。そして原発事故が自動車事故やコンビナート事故などと根本的に異なるところは、事故が起きてしまったときの損害が時空を超えて桁違いに大きく、そしてそれが科学的に推定できないことである。

以上のことを踏まえたうえ、次に吉本隆明氏の原発擁護の意見に対しての反論をおこなう。まず、吉本氏のインタビュー記事『科学に後戻りはない 原発 完璧な安全装置を』の一部を以下に引用する。

(ここから引用)
――事故によって原発廃絶論がでているが。
「原発をやめる、という選択肢は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。」
(引用おわり)

まず、事実としての間違いを指摘する。吉本氏は「燃料としては桁違いにコストが安い」と述べられているが、原発が燃料として桁違いにコストが安いというのは間違いである。たしかに経済関連機関が発表しているコスト計算数値では、原発のコストは他の発電のコストよりも安くなっている。しかしそれは「桁違い」と表現するほどのものではない。またその計算式には安心安全の確保や社会的な価値といった経済以外の問題に関わるさまざまな重要なファクターが完全に抜け落ちている。さらには、時間的ファクターのインプット方法(現在価値への算出方法)にも大きな問題がある。今後、今回の事故を受けて新しいコスト算出が行われるだろうが、その際には、原発の発電コストと他の発電コストの差はほとんどなくなる、あるいは原発のコストのほうが高くなると十分に予想できる。

また吉本氏は原発を存続させるために「科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない」と述べられているが、すでに上に述べたように「完璧な防御装置」は、つくることができない。あるいはそれでもなお統計科学に絶対の信頼を置くとしても、完璧な防御装置をつくるために「お金をかけて」しまえば、上に主張されている「原発が燃料として桁違いにコストが安い」という論のほうが今度は破たんしてしまう。

つぎに吉本氏の思想について反論する。まず吉本氏は「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じ」と述べられているが、これは間違いである。

まず吉本氏の論では、科学を後戻りさせることは人類をやめることだということになるが、そんなことはない。近代科学とは、この数百年のあいだに人類が作り出した貴重な文化ではあるが、当然のことながら、それが人類のすべてなのではない。どうやら吉本氏は科学があってこその人類だという思想をお持ちのようだが、それは一部の宗教者が持っている宗教があってこその人類だという思想と同じ種類のものであり、いわばある種の信仰である。私たちは「危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪」などとみなす必要はまったくない。

つぎに、原発をやめることと科学を後戻りさせることとは同値ではない。それは、原子力爆弾や毒ガスや生物兵器を廃絶することや、遺伝子工学の暴走に一定の歯止めをかけることが科学を後戻りさせることと同値ではないのと同じである。

科学はあらゆる領域がつねに均一に発展するのではなく、ある領域のみが突出して発達することがよく知られている。いわば金平糖のようなもので、偶然あるところに突起ができると、その部分のみがどんどんと伸びてしまうのである。そのようにして偶然に伸びてしまったところが人間にとって有益かどうかはわからない。

今回は、そうして偶然に伸びてしまった原発という分野が人間にとってきわめて危険なものであったということである。いま原発をやめるということは、こうした科学発展における歪みを是正するという意味もある。その意味で、原発をやめることは科学を後戻りさせることではなく、逆に、科学を正しい方向へと向かわせるものである。

今朝、吉本氏の意見を新聞でみたときには、かなり動揺した。私はこれまで吉本氏の著書をずいぶんと読んできているし、ある種の共感も抱いてきた。その吉本氏が今回のような論評をされたことに対しては、きわめて複雑な気分である。このような反論もできれば避けたかったのだが、吉本氏の社会的な影響力を考えると書かざるを得なかった。失礼にあたる部分がなければよいと思うのだが。

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