成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

夢十夜

2011年7月25日

夏目漱石の『夢十夜』は近代日本文学の傑作のひとつである。1908(明治41)年に書かれたものだが、100年以上を経た現在もその価値は減じていない。私自身、10回以上は読んでいると思う。漱石作品のなかで特に好きなもののひとつである。

なかでも第一夜は秀逸である。どう秀逸かというと、まあ、原文を読んでいただくのが、一番はやいだろう。以下、第一夜の全文である。
(以下、引用)

第一夜

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにしたまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
(引用、おわり)

最近、ある英語ライティングプログラムで、この『夢十夜』をテキストとして使えないかと思いたち、アマゾンで英訳本をさがしたところ、以下の本に出会った。Takumi Ksshima and Loretta R. Lorenz訳のTen Night’s Dreamだ。イギリスのTrafford Publishingから1995年に出版されたもので、訳者のお二人は長崎外国語大学の教員である。なお私の調べ方が不足しているのかもしれないが、『夢十夜』の英訳本は、これ以外には見つけることができなかった(タトル社からの訳書があるようだが、残念ながら絶版のようだ)。

さて肝心の訳文だが、以下のとおりである。これも、まあ、まずはとにかく読んでみていただきたい。
(以下、引用)

The First Night

 This is the dream I dreamed.
 I was sitting at her bedside with my arms folded. The woman lying on her back said quietly that she was going to die. Her long hair lay on the pillow softly framing her oval face. There was a warm flush on her white cheeks and her lips were, of course, red. She scarcely seemed about to die. But the woman said quietly and clearly that she was going to die. I began to think she would indeed die, so I looked down into her face and asked her plainly if she was really going to die. The woman said she was and opened her eyes wide. Her eyes were charming, deep black ringed by long lashes. I found, reflected clearly at the bottom of those black pupils, myself.
 I saw their dark luster, almost transparent, and found myself still wondering if she would actually die. I bent close to her and asked again, politely, if she would die, and I asked her if she was all right. The woman, opening her dark sleepy eyes wide, said low voice she would indeed die and that there was no way out.
 Well, then, I asked her attentively if she could see me. She smiled and said I was reflected there. Without a word, I drew my face from the pillow. I sat there, my arms folded, wondering again if she could die.
 After a while, the woman spoke again.
  “If I die, please bury me yourself. Dig the grave with a large pearl oyster shell. Put a fragment of a fallen star on my grave as a tombstone. Then wait for me there. By and by I will come to see you.”
 I asked her when.
 “The sun rises. And the sun sets. And the sun rises and sets… When the red sun rises in the east and sets in the west, then I will… Will you wait for me?”
I nodded. Her voice became louder and she said with decision, “Wait for me for a hundred years. Sit at my graveside and wait for me one hundred years and I will surely come to see you.”
 I told her I would wait. I saw my reflection, so clear in her black pupils before, begin to grow hazy and distorted. Still water replaced the moving shadowy reflection. The eyes closed. From beneath the long lashes tears rolled down her cheeks… She was dead.
 I went out into the garden and began to dig the grave with a pearl oyster shell. The shell was sharp with a smoothed edge. Moonlight played on the inside of the shell with each scoop of the damp-smelling earth until the grave was dug. I laid the woman inside. Then I spread the soft soil over her. Moonlight played on the inside of the shell each time I smoothed down the earth.
 I picked up a fragment of a fallen star and place it gently on the grave. It had an oval shape. I supposed that its long course through the night sky had worn away its sharp edges into the oval. When I held it and arranged it on the soil, I felt my hands and my heart become a little warmer.
I sat on the mossy ground, my arms folded, and wondered if I would wait for her this way a hundred years, gazing at the rounded tombstone. Meanwhile, the sun rose in the east, as the woman had said. It was a large, red sun, and as the woman had said, it set in the west. It dropped suddenly, still red. I counted one.
 After a short time, the red sun rose again impassively and set again silently. I counted two.
It was impossible to keep track of how many I had seen. Countless red suns passed over my head, but still the hundredth year did not come. In the end, seeing the rounded stone, now covered with moss, I thought the woman had deceived me.
At last, a green stalk sprouted and began to grow, slanting towards me from under the stone. In an instant it was almost long enough to reach me and stopped just at my chest. At the top of the long straight stalk, an oblong bud hanging at a slight angle, came into flower. It was a white lily and had a strong fragrance. As dew from the heavens fell upon it, the flower nodded under its weight. I put my head forward and kissed the dewy white petals. I drew back. And when I looked at the distant sky, only one star was twinkling in the morning.
 “One hundred years have passed.” That was when I first realized it.
(引用、おわり)

いかがだっただろうか。

私自身の率直な感想をいえば、いくらなんでもひどすぎる、というものである。これはどこからどうみても漱石の『夢十夜』ではない。別ものである。それもかなり程度の低い別ものだ。もしこの英訳だけを読んで漱石という作家を評価すれば、まったくの三流作家と断ずるのが妥当となるだろう。『吾輩は猫である』の英訳のタイトルがI am a Catだと知った時もかなり驚いたが、今回もそれに劣らぬ驚きである。

私が疑問に思うのは、漱石の作品がこのような劣悪な翻訳とともに出版されることに対して、なぜ日本の文学関係者は文句をつけないのか、ということである。これはどうみても漱石作品に対する冒涜ではないか。そんなことぐらい英文学の専門家であれば誰でもわかることだろう。それなのに、そうした意見が見つけられないのはいったいなぜなのか(私の耳に入っていないだけなのか)。さらには、なぜもっと優れた『夢十夜』の英訳書に出会うことができないのだろうか。どうにもよくわからない。文学関係の方でそこらへんの事情に詳しい方がいらっしゃれば、ぜひお教えいただきたい。

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