成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

思考のバイリンガル化

2011年10月17日

西欧の科学的思考方法の基盤は分析と統合である。ものごとをまず最小単位にまで分割し、もういちど組み立て直すことで全体の理解をはかる方法である。デカルト以来の近代西欧の知性のあり方であり、近代科学の発展の原動力といって過言ではない。

だが、科学だけで世界のすべてが処理できるわけではない。ましてや人間の心を科学ですべて解明できるはずもない。本当の科学者は、科学の有用性とともにそうした限界を明確に認識していた。アインシュタインしかり、湯川秀樹しかりである。ところが、一部の本物ではない科学者たちが世界はすべて科学で解明できると誤解し、さらには経済活動や社会活動についてさえ科学的手法ですべて管理できると曲解した。そして科学だけでは到底制御できない事象でさえも、科学的手法のみで処理しようとした。その結果として生じたのが金融市場の崩壊であり、原発事故である。いずれも科学的手法だけでは制御できないことは明白にもかかわらず、それを無視したことによる惨事であった。まことに愚かしいことであるが、これが野中と徳岡のいうところの論理思考偏重の帰結である。

一方で、近代以前の日本や東洋では分析統合を思考基盤とはみなさず、ものごとの全体を把握することを思考の基本とみなしていた。全体とは部分の組み合わせではなく、部分は全体の一断片なのだという認識である。東洋的な全体的思考は西欧的な論理的思考と対極に位置するとみなされ、ときに論理思考を阻害するものとして批難されてきた。その典型的な批難例のひとつが、日本人の思考形式は論理的でなく曖昧であるといった日本人論である。

もちろんこうした非難は誤りである。東洋の全体重視の思考と西欧の分析統合重視の思考は別種のものであって、それぞれに世界観があり思考方法がある。どちらも長所があり短所がある。どちらへ偏りすぎても弊害が出る。両方を使えるようになるのが最良である。これが私のいうところの「思考のバイリンガル化」である。

東洋の全体思考と西洋の分析統合思考の対比的な考察はこれまで数多くの人々がおこなってきた。その一人が量子物理学者のデヴィッド・ボームである。ボームは理論物理学者として著名な人物だが、同時にニューサイエンスの理論的支柱としても有名である。分析統合という科学的アトミズムによる世界観を否定し、世界を分割不可能な全体として捉える立場をとっている。きわめて荒っぽい言い方をすると、科学者であるにもかかわらず、西洋主義者ではなく東洋主義者なのである。

ボームによると世界とは「分割不可能な全体的運動」であり、一見分離した事物と見えるものは全体的運動の相対的に安定な側面の抽象にすぎない。ボームの言葉でいえば「川が流れているのではない。相対的に安定した流れが川である」。

そしてここからが私のような言語および翻訳の研究者にとって最も面白いところなのだが、ボームによると科学的アトミズムを生み出した根本的な原因は、既存の西欧言語が名詞にあまりに重要な役割を与えすぎていることにある。そしてそうした名詞中心主義が世界の断片化を再生産している。したがってその状況は変革するには、名詞中心主義の言語様式を捨てて動詞を基本とする新しい言語様式を採用しなければならない。ボームは実際に「レオモード」と名付けた新しい言語様式を提唱している。

ボームは既存の言語観が既存の物理観と同一のアトミズムの発想であるとして次のようにいう。

「科学における支配的な形而上学においては、すべてのものが「素粒子」という基本単位の結合として記述できるとされている。日常的言語様式においては「基本的な単位」としての単語の結合によって何でも表現できると一般に考えられている。これは、科学における支配的な形而上学と同一の発想に立つものである。」(『断片と全体』デヴィッド・ボーム、佐野正博訳、工作舎、pp.162)

そして既存の物理学と同様に既存の言語観もまた単語という名の「意味のアトム」に呪縛されているとして次のようにいう。

「日常的言語様式においては、単語間の分裂に過度の意味が付与されている。しかし実際には、一つの単語を構成する諸部門間の関係も、異なる単語間の関係と同じである。それゆえ、単語を分割不可能な「意味の原子」と考えることはできない。単語は、言語という全体的運動の中の便宜的な指標にすぎないと考えられる。(略)こうした観点によれば異なる単語の意味の間に断絶を想定し、各単語の意味を相対的に安定な「一かたまりのもの」とみなすことは適切ではない。言語に関する全体的で分割不可能な秩序だけでなく、言語の流れ自体の全体的で分割不可能な秩序に十分な注意を払わねばならない。」(同上、pp.163)

ボームが上で述べていることを翻訳の観点から読み解けば、ようするに直訳とはウソだということである。単語という断片の統合化されたものが全体なのではなく、全体は全体としてそのまま存在する。それ以外の何者でもない。ところが、既存の翻訳もまた意味のアトムである単語に呪縛され、その本質を見失ってしまっている。

翻訳という観点からボームの論を読み解く際のもうひとつの重要ポイントは、世界は分割不可能な全体的運動であり、その世界を言語的に正確に把握するには名詞中心から動詞中心へと言語の捉え方そのものを変えなければならないという主張である。ボームはこの主張を実践へとつなげるべく「レオモード」という新しい言語様式を発案する。だが、じつはそのようなことをする必要はなかったのである。なぜなら動詞中心の言語様式はすでに存在するからである。日本語である。

日本語が英語と本質的に異なる点は次の2つである。ひとつは「単語」という概念があいまいであること。もうひとつは動詞中心の言語であることである。

日本語で単語をどう定義するかは文法学者のあいだでいまも論争が続いている。特に問題となるのは「が」「に」「を」といった格助詞である。これを独立した単語とみなす学者もいるが、一方で単語の語尾変化とする学者もいる。

日本語が動詞中心かどうかについては一部を除いて論争はない。日本語はあきらかに動詞中心の言語だからである。日本語では「する?」「する。」といったような動詞だけの会話がまさに自然に成立する。英語では“do?”“do.”という会話は成り立たない。

したがって英語と日本語とのあいだの翻訳とは原子論的で名詞中心であることと全体的で動詞中心であることとのあいだの「思考」の変換のことである。

私は先に次のように述べた。「東洋の全体重視の思考と西欧の分析統合重視の思考は別種のものであってそれぞれに世界観があり思考方法がある。どちらも長所があり短所がある。どちらへ偏りすぎても弊害が出る。両方を使えるようになるのが最良である。これが私のいうところの「思考のバイリンガル化」である」。

翻訳とはこの思考のバイリンガルになるための最良のツールのひとつである。

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