成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

感じるな、考えるんだ

2010年5月12日

日本の英語教育が知的訓練の場を放棄してしまった背景にコミュニカティブ・アプローチの支配があることについては別コラム「新しい英語の学び方」で論じた。そこで私は次のように書いた。「英語教育の歪みを正すべく旧来の英語教育法を捨て去る過程において、我々はその言語的知的訓練の場も、同時に捨て去ってしまったのである。産湯(うぶゆ)とともに赤ん坊を流してしまったのだ。」

こうして赤ん坊までを流してしまった結果、中学での英語教育の現場はどうなってしまったのか。まず文法を体系的に教えるということはまったくしなくなった。そもそも文法という項目は現在の学習指導要領に存在しない。指導要領に存在しないことを教えることは教師として逸脱行為であるから、文法は教えないのではなく、教えては「ならない」のである。

誇張していっているのではない。先日、ある有名私立中高の英語教師をしていた方とお話をする機会があった。彼女がいうには、その学校では英語の授業で文法用語を使うと同僚から非難の目でみられるという。文法教育も重要だと考えていた彼女は、そこで同僚の目を逃れてこっそりと文法を教えていたそうである。まるで隠れキリシタンだ。

では、中学の英語授業では何を教えているのか。英会話である。そしてそのために「ネイティブ」教師が必要となるのである。こうして教育者としての正規の訓練など受けたことがなく、生徒の全人教育にいかなる責任も負わない、アングロサクソン文化を背景とする外国人が、中学校という日本の公的教育現場の最前線で、日本の子供たちと接することになった。そして、こうした愚かで滑稽としかいいようのない光景を、多くの日本人は、期待と羨望のまなざしをもって見つめているのである。

かくて中学校の英語授業は、考えるためのものではなく、感じるためのものとなった。なにを感じるのか。アングロサクソン系の言語と文化である。伊藤和夫は、考えるのではなく感じとる現在の中学の英語授業について、次のように述べている。

(ここから引用)
しかし、もっと大きな問題は、音声と会話の重視が機能語と語法一般の軽視につながってくることである。日本人が英語を話すこと自体が想像外である外国人は、生徒の発言がいかにカタコトであっても目を輝かせてほめてくれる。子どもはそれに満足してカタコトこそすべてだと思いこんでしまうのである。また日常会話に多用される表現自体、多用のゆえに通常の語法の枠をこえたところで固定している場合が多いため、この種の固定表現を数多く教えても、英語を貫く法則性の存在に気づかせるのは困難である。さらに、会話では即時の応答が必要なため、文構造からする思考よりも反射的な対応が重視されること、音声による言語では機能語は強勢がおかれぬため重要でありながら意識されることが少ないこと、そして何よりも、中学の英語では内容が単純なため、文構造からする思考がなくても、文意の大体は見当がつくことがこれに加わってくる。かくて、中学段階を終了した生徒の多くにとっては、英語は感じるもの、フィーリングの有無がすべてということになり、thatやas(はなはだしい場合はbeやhave)などの出没は口調にいかんで定まるちう認識しかないことになっているのである。
(伊藤和夫 『予備校の英語』 研究社 p.8)
(引用おわり)

『燃えよドラゴン』という映画のなかでブルース・リーは武道の極意として次のように喝破した。「考えるな、感じるんだ」。私は長く柔道をやっていたので、たいへんよくわかる言葉である。考えてから体を動かすようでは、すでに遅い。考える前にまず感じて、体が勝手に動くようにするのが、武道の目標である。

しかし、じつはここに大きな落とし穴があるのだ。ブルース・リーがこの「考えるな、感じるんだ」という忠告をおこなった相手は、はたして誰なのか。それは、武道をすでに高いレベルで習得していた人間たちであった。すなわち、武道というものを長い時間をかけてすでに習得し、そして、さらにその上の究極を目指そうという人間たちなのである。

もし彼らが武道を習いはじめた最初の段階から「考えるな、感じるんだ」と教えられたとすれば、どうなるか。まちがいなく彼らは一生涯かかっても武道を習得することはできないだろう。

柔道や空手をやった方なら誰もがご存知だと思うが、最初はとにかくまずさまざまな技の「型」や動きの「型」を習うのである。そしてそうした型を繰り返し繰り返し練習する。そしてそのような繰り返しの練習を通じて型が本当に身についたとき、はじめて自分が型どおりに動いているということを忘れてしまうことができるのである。

英語学習においては、この「型」にあたるものが「構文」「文法」である。したがって、構文や文法をなにも教えないで英語を習得させようとするのは、技の型を何も教えずにただ自由稽古をさせておけば柔道は強くなると考えるに等しい。武道だけはない。ボクシングでもサッカーでもテニスでも、あらゆるスポーツに型の反復練習が欠かせないことは誰もが承知のことだろう。ところが、このあまりにも当たり前のことが、いまの英語教育界では通じない。

「中学段階を終了した生徒の多くにとっては、英語は感じるもの、フィーリングの有無がすべてということにな」ってしまった惨状を変えるには、「型」の再生が不可欠である。ただ、これも繰り返しになるが、旧来の「型」である「学校英文法」に回帰することは、絶対に避けなければならない。私たちがいま必要としているのは、新しいかたちの「型」なのである。

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