成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

『教えるということ』

2010年10月6日

国語教師であれば誰もが知っているであろう、大村はまの『教えるということ』をはじめて読んだのは、30年ほど前のことである。当時の私は都立高校の英語教師になったばかりで、日々の授業をどのようにするべきかをつねに暗中模索していた。そこで教科こそ違うが、誰もが認める最良の国語教師、大村の教育のあり方を少しでも自分の授業の参考にしたいと考えた。読みはじめてすぐに夢中になり、読み終えたとたん、自分も大村はまのような教師になりたいと強く思った覚えがある。『教えるということ』は、その後十年足らずの高校教師生活のなかで何度も何度も読み返した。教育関係の本はかなり数多く読んできたつもりだが、この本以上に影響を受けた本は他にはない。その後、高校教師を辞めて翻訳者となったことから『教えるということ』を読み返すこともなくなっていたが、翻訳講座を受け持つことになってから、また折に触れて読み返すようになった。

最近読んだ『評伝 大村はま――ことばを育て 人を育て』は、大村はまの教え子で、現在は「大村はま記念国語教育の会」事務局長である苅谷夏子の書いた大村の伝記である。『教えるということ』からは見いだせない大村の生い立ちや周囲との関係が見事に浮き彫りにされていた。

なかでも面白かったのは学校現場での大村と周囲の人間との軋轢である。同書には、次のような記述がある。「ある人は、はっきり「私は大村はまは嫌いだ」と言い、ある人は「尊敬はするけれども……」と言葉を濁す」 。65歳を越えた大村が勤務していた学校 の教頭は、研究授業ばかり開催する大村に対して次のように言っている。

「やらせないとは言っていない。いつでもあなたのわがままと高慢ちきな仕事を許してきた。学校に遅くまで残っていて、警備員の苦労も考えない。若い人を育てようという気持ちも足りない。みんなが勉強が足りないということで軽蔑しているのだろう。そもそも、あなたが辞めないことが、どれだけの人の害になるかを、考えたほうがいい」 。

どうやら、大村という教師は「空気が読めない」タイプだったようである。ただただ授業をよりよいものにするために全力を尽くし、それ以外のことについては眼中になかった。そしてそれが周囲の目には「わがままで高慢ちきな仕事」と映ったのであろう。

学校教師という「アマチュア」集団のなかにおいて、大村はまは、あまりにも「プロフェッショナル」すぎたのである。だから、そこに収まりきれなかったのだ。ひとつの授業のために何十冊の本を読み、何百もの作文すべてに添削をほどこすといった、大村からみればプロとして当たり前のことが、他の教師にとっては不可能であることが、大村にはわからなかった。いやしくもプロであるならば、こうしたことはやって当たり前という感覚が、大村のなかにあった。そこで、その当たり前のことをしない仲間に対して、つねに厳しい態度や言葉で接してしまったのである。

私は総合商社に勤務したのちに教師になり、その後にフリー翻訳者になったことから、学校教師という存在がよい意味でも悪い意味でもいかにアマチュア的であるかをよく知っている。英語教師を例にとると、私の場合、10年ほどの教師生活のなかで本物のプロフェッショナルと呼べる英語教師には、一人も出会わなかった。

教師がアマチュア的であることは決して悪いだけのことでない。そもそも学校現場にいて学級担任などの仕事をしながら英語教育のプロフェッショナルになることなど、およそ不可能なことなのだ。もしいまでも学校の教師たちがいくらか「金八」的でいられるのだとすれば、それは彼らが教科指導においてプロではなくアマだからである。本当に大村のような「教科のプロ」になりたければ、学級担任、進路指導、生活指導といった学校現場の仕事など、絶対にこなせない。現場にいた人間として、それは断言してよい。教師は天才ではない。みんな普通の人間なのだ。

教科指導にもっと力を入れたい、でも目の前の子供たちの人間としての問題をまず解決しなければならない――そうした普通の人間としての教師の悩みを大村は無視した。そして「子どもが好きだとか、あたたかい心があればとかいう甘い考え方」 は教師として失格だと言い放つのである。みもふたもないとは、まさにこのことである。

いま教育現場でなすべきことは、学校の教師たちが大村はまのような教科のプロフェッショナルになることではなく(それは現実的に不可能である)、外部にいるプロフェッショナルたちを学校現場でうまく使いこなすための「コーディネーター」になることではないだろうか。

大村はまの頃とはちがって、現在は学校の外部に数多くの知識のプロフェッショナルたちが存在する時代である。そして専門知識という点においては、そうした外部の専門家たちのほうが学校の教師よりもはるかに上である。学校教師よりも世間一般の人々のほうが知識が豊富だという状況は、これまでの歴史のなかで一度も生じたことがない。そうした未曾有の社会のあり方に、いま私たちは直面しているのである。当然、教育現場のあり方も、それにあわせて根本的に変わっていかなければならない。

ではそのなかで学校教師が果たすべき役割とは何か。それがコーディネーターとしての役割である。そうした外部専門家の多くは専門知識には優れているが、その一方で教育について素人であり、その本質がわかっていない。なかには、テストでの点数や有名学校への合格率といった誤った評価規準だけにとらわれている人も多いことだろう。そこで学校の教師たちが、そうした欠点を過剰に抱える外部人材については選別のうえきっちりと排除し、あるいはそれが強制できる場合にはていねいに矯正したうえで、それらの人材を学校現場にうまくはめ込み、その専門知識を教育現場のなかで機能させていくという役割を担うのである。このように学校現場を一般社会とうまく連携させてしまえば、大村と他の教師のあいだで生じたような軋轢はなくなっていくに違いない。実際のところ、一部の地域では外部専門家を学校現場に取り込む試みがすでになされているようである。こうした試みがこれから全国的に広がっていけばよいと思う。

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