成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

新しい文法教育

2011年10月1日

英語教育論では、発音や語彙といった領域での学習に関しては、その意義や手法について論者のあいだで意見が大きく分かれることはほとんどない。発音についていえば、いわゆるネイティブ発音にどこまで近づけるべきかという点で意見の相違はあるとしても、カタカナ発音でもよいとする意見はまともな論者からは出てこない。


ところが英文法の学習に関しては、文法を学習の中心におくべきだという文法重視派の意見から、文法学習は逆にコミュニケーションの害となるという文法批判派の意見まで、多種多様な意見が存在する。


文法重視派と文法批判派は1970年代に学校英語教育での覇権をかけて壮絶なバトルを繰り返したが、結果は文法批判派の圧勝に終わった。その結果、1978年に文部省は学習指導要領を改訂して高校での英文法の科目を削除した。戦いに惨敗した文法重視派は学校英語教育での地位を失い、落武者となって各地に散じた。


それから30年以上が経過したが、学校英語教育における文法批判派の覇権はいま磐石なものとなった。小学校には英語コミュニケーション教育が導入され、高校では2009年の新高校指導要領でリーディングとライティングの科目が削除され、英語の授業はすべて英語で行うという方針も打ち出された。


多くの一般市民は、この英語授業の構造改革を大いに歓迎しているようである。これでようやく自分たちの子供たちは(自分たちとちがって)英語を使える国際人になれると考えているようだ。悪いのはいままでの文法偏重の英語教育であり、英語をまともに使えない英語教師たちであるから、それが変わればすべて変わるはずだという期待感である。


だが文法偏重の英語教育などいまの日本に存在しない。この30年以上にわたって学校英語が目指してきたのは文法重視の英語教育ではなく、コニュニケーション重視の英語教育である。したがって現在の動きは構造改革ではなく体制の強化である。


この30年間の日本の英語教育の在り方が日本人に与えた負の影響は大きい。コミュニケーション重視で英語力の読解力が落ちたこと自体はたいしたことではない。きわめて乱暴にいってしまえば英語が読めなくても日本人は困らない。世界の知識が必要なら翻訳で読めばよい。


英語教育の変革によって日本人が失ってしまった最大のものは、言葉の学習を通じての知的訓練の場である。以前の文法訳読主義が言語教育として歪んだものであったことはいうまでもないが、その一方で、それは言語を通じての知的訓練の場を学習者に提供していた。国語という科目が言語教育ではなく文学教育である日本の教育的伝統のなかでは、言語の分析運用を通じて知性を伸ばす訓練を行える教育の場は英語の授業がほぼ唯一のものだった。英語教育の歪みを正すべく旧来の英語教育法を捨て去る過程において、我々はその言語的知的訓練の場も同時に捨て去ってしまったのである。産湯(うぶゆ)とともに赤ん坊を流してしまったのだ。


その結果、どうなったか。日本人の知的言語運用能力が大きく劣化したのである。現代の日本人は自分の考えを知的に言語化することが苦手になってきている。なぜならそうした訓練を十分に受けてきていないからである。能力の問題ではなく、訓練つまり教育の問題である。


振り返ってみれば1970年代における文法重視派と文法批判派との論争は日本の英語教育を本当の意味で改革する絶好のチャンスだった。ところがそこから生まれた結果は伝統手法の完全否定と欧米手法の無批判な導入にすぎず、それがその後の日本の英語教育を大きく劣化させることとなった。現在文部科学省が進める英語教育「改革」はこうした劣化をさらに加速させようとするものである。


私たちはもはや暗号解読の道具である文法訳読法に英語教育を戻すことはできない。一方で、学校教育の原点である知的訓練を無視した欧米直輸入の英語教育法の跋扈をこのまま放置しておいてよいはずがない。


いま私たちに求められているのは文法かコミュニケーションかといった不毛な議論ではなく、良き日本人としてのグローバル人材を育てていくための、日本人による日本人のための英語教育の構築である。そのためには新たな文法教育がどうしても必要なのである。だがそこで教えられるべき文法は従来の文法ではない。私たちの母語である日本語の文法をベースとして、そのうえで英語の理解を深めるための、新しいかたちの英語文法である。そうした新たな文法が確立され、それが英語と日本語の教育に応用され、そして社会に根づいたとき、日本の英語教育に新たな時代がやってくるはずである。


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