成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

新たな世界史観をつくろう

2011年8月29日

今回の福島原発事故に対する反応から明白になったのは、経済人間、科学人間、社会人間、芸術人間のそれぞれの特性と、そのあいだの本質的なギャップである。

まず経済人間、科学人間、社会人間、芸術人間とは何かについて説明する。ここでいう「○○人間」とは、○○のところに入る領域を人間活動において最も重要なものとみなす世界観をもつ人間のことである。

経済人間とは、人間活動の中心は経済活動にあり、それ以外の活動は経済という基盤のうえでおこなわれていると考える人たちである。したがって今回の原発事故をきっかけにして経済活動を停滞させてしまえば、それは他のすべての人間活動も停滞してしまうと彼らは認識している。なんとしても原発を動かそうというのはそうした意図からである。金儲けという目先の欲もあるが、主たる動機ではない。彼らを動かす主たる動機はあくまで「経済こそすべての人間活動の基盤」という認識である。

科学人間とは、人間活動の中心は科学活動にあると考える人たちである。彼らは、科学の進歩こそが社会の基盤であって、さらにその進歩を止めることは社会のみならず人間存在そのものにとって害悪だと考えている。今回の原発事故を経ても原子力の開発継続を強く主張するのは、それが彼らの人間としての使命である科学の発展を阻害する可能性があるからである。

社会人間とは、人間活動の中心は広義の社会活動にあると考える人たちである。ここでの広義の社会活動には一般的な日常生活も含まれる。彼らの考えは、一般生活や文化を充実させることこそが人間活動の中心であって、経済や科学はそうした活動を支えるものだというものである。今回の原発事故まで彼らが原発を容認してきたのは、それが社会活動に役に立つと認識してきたからであり、今回の事故の後に原発の否認に主張を変えたのは、それが社会活動に有害であると認識を変えたからである。

芸術人間とは、人間活動の中心は広義の芸術活動にあると考える人たちのことである。ここでの広義の芸術活動には音楽や絵画、文学といった狭義の芸術活動だけではなく、学者による新理論の構築や企業による技術革新なども含まれる。彼らは「創造」が人間活動の中心であって、従来からの活動は創造活動を支えるためだという認識がある。今回の原発事故に対しては創造と直接関係がないために基本的にニュートラルな立場だが、古いものを壊すことが創造につながると考えられるので、どちらかといえば原発反対の立場をとることが多い。

この4つのタイプの人間像およびその考え方にはそれぞれに一理があるが、それぞれに一理しかない。

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ここまでは人間活動という観点から論を進めてみたが、ここからは「活動」という観点を「存在」という観点に変え、人間活動ではなく人間存在という観点から、今回の原発事故について考えてみることにする。

うえの4つのタイプの人間像のなかで人間活動を超えて人間存在にまで踏み込んだ観点をもっているのは、科学人間と芸術人間である。彼らはいずれも創造こそが人間の存在証明であると認識している。科学人間においては科学の進歩であり、芸術人間において新しい美の創造である。

一方で経済人間と文化人間には人間存在にまで踏み込んだ観点はない。彼らの関心はあくまで現在の人間活動にあり、人間の存在にあるのではない。彼らは良くも悪くもつねに現世的である。

今回の福島原発事故の対応においては、この人間存在の認識に関するいびつな構造が表面化した。というのは今回の原子力事故は現世的な人間活動としての意味合いを持つと同時に人間存在そのものにもかかわる事故だからである。

人類は、今回のような人間存在にまで関わる種類の事故をこれまで経験したことがない(広島長崎に落とされた原子爆弾は事故ではない)。ところが、科学人間と芸術人間は創造活動が人間存在の原点であるという観点を持っているのに対して、経済人間と社会人間は人間存在にまで踏み込んだ観点を持っていない。

ここにおいて今回の原発事故に関する議論での本質的な歪みが生じた。今回の事故を踏まえて原発に今後いかに対応していくかという議論になると、人間存在にまで踏み込んだ思考をもっていない経済人間と社会人間は、人間活動の観点からのみ議論する。そのため、論点は「経済優先か社会の安全優先か」というものに絞られる。いま繰り広げられている議論の多くがこの観点からなされている。一方で、科学人間と芸術人間にとっては人間活動だけでなく人間存在の認識もまた重要である。そしてその認識の中心となるのが「創造力をなくせば人間は人間でなくなる」というものである。この認識はあるときは原発の擁護に向かうだろうし、あるときは原発への反対に向かうだろう。

ここで重要なことは、経済・社会人間と科学・芸術人間とでは、原発事故を論じる観点そのものに根本的なずれがあるということである。一方は人間活動だけに焦点を絞り、他方は人間存在までを視野に入れている。

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これからの原発論議は人間活動と人間存在の観点の両方から論じられるべきである。その際にまず必要なのが、いまは人間活動としての観点しか持っていない経済社会人間が、科学芸術人間の人間観に対抗できるような新たな人間観を持つことであると私は考える。それができないかぎり議論は空転するだろう。

決しておおげさな言い回しをしているのではない。この数十年で人類は原子力や遺伝子工学などこれまでの人間活動と本質的に異なる活動をはじめている。今後人類は人類としての存亡にかかわる大事故と向き合いながら生きていくことになる。その際に必要なのは人間活動を超えた人間存在そのものを見つめる視点である。その視点がないままに人間活動を続けていけば人類は大きな禍根を残すだろう。一方で科学人間や芸術人間の持つ人間観には、人類は進歩しなければならないという強迫観念が色濃く反映されていると私には感じる。今回の福島原発事故が示したものは、進歩にあまりにも重点を置きすぎたこうした人間観に対するアンチテーゼではないのだろうか。

ようするに、従来の進歩史観に対抗するべき新たな史観、世界観をつくろうではないかというのが私の主張である。今回の福島原発事故は、そうした人類としての歴史的な転換点を如実に示したものだと私は捉えている。

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