成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

日本で最も重要な翻訳プロジェクト

2011年3月4日

歴史上、日本で最も重要な翻訳プロジェクトといえば、憲法の翻訳であろう。具体的には、1946年におこなわれた英語草案から現行日本国憲法への翻訳である。GHQが一週間ほどで書き上げた英文ドラフトを日本側が数日で日本語に翻訳したというものだ。その際に意識的あるいは無意識的に数多くの「誤訳」が生じ、それが現在にまで引き継がれている。私たちにとって、これは決して忘れてはならない事実である 。なぜならそうした誤訳が、いまの日本の「国のかたち」を決めているからである。

そこまでの重要さはないが、しかし歴史的にみてきわめて重要な翻訳プロジェクトが、いま進行中である。それが国際会計基準の翻訳プロジェクトだ。ご存知のように、国際会計基準は世界の会計基準統一化という目標のもとに世界中で導入がなされている。日本でも導入が進められ、すでに任意適用が認められている。

ところでこの国際会計基準の原文は英語であるが、実務としては各国言語に訳した「公式訳」を用いてよいことになっている。そのため英語原文から各言語への翻訳プロジェクトが世界中でおこなわれているところだ。日本でも企業会計基準委員会と財務会計基準機構が日本語への翻訳をおこない、「公式翻訳版」として発行している。なお翻訳公式版は一言語にひとつだけと定められており、別バージョンをつくることは許されない。この国際会計基準の翻訳プロジェクトこそ、いま日本で最も重要な翻訳プロジェクトであることは間違いない。

ところが、この国際会計基準の翻訳にも日本国憲法のときと同様に、意識的あるいは無意識的な「誤訳」が数多くみられるのである。具体的な例についてはここではふれないが、そうした部分が少なからずあることは断言してよい。このままでいけば、そうした誤訳が今後の日本の「ビジネスのかたち」を決めることになる。

これはなんとかしなければならないということで、私が講師を務める翻訳講座では1年をかけて国際会計基準の翻訳版の見直し作業をおこなってきた。やってみると予想以上にたいへんな作業だったが、それでもほんの少しの部分ではあるが、見直し作業の結果が出つつある。今後はそれをなんらかのかたちで発表できないかと考えているところだ。

いずれにしても私のやれることなどたかがしれている。しかし国際会計基準が強制適用になると、この翻訳版こそが「会計の憲法」になるわけである。これほど重要な翻訳プロジェクトが現在のようなかたちであってよいはずがない。できるだけ多くの関係者にこの実情を知ってもらいたいと思う。

会計に携わる関係者の大多数は翻訳に関する正しい知識を持っていないことだろう。翻訳については無関心であるか、少しは関心があるとしても、たかが翻訳ではないかとたかをくくっているに違いない。しかし、たかが翻訳、されど翻訳なのである。憲法論議では翻訳に関する考察と反省がされていないことが不毛な議論や対立を生む要因のひとつになってきたことは間違いない。今回はそんなことがあってはならない。国際会計基準をどのようなかたちで日本語のなかに受け容れていくべきかを、これから日本人のなかでしっかりと議論していくべきだと思う。

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