成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

池澤夏樹の文章が素晴らしい

2011年7月13日

日本語の文章としてたいへん素晴らしいものをみつけた。朝日新聞7月5日付夕刊の池澤夏樹のコラム「終わりと始まり」の文章だ。以下、全文を転載する。

(以下、朝日新聞7月5日付夕刊 池澤夏樹「終わりと始まり」より引用 )

政治というものの原理はわかっているつもりだ。大は国家や国際機関から小は従業員数名の会社まで、複数の人から成る共同体では誰かが代表となって運営の方針を決めなければならない。その方針は参加者みんなの総意を反映することが望ましい。

しかし人が十人いれば意見は十通りある。大人数なら必ず党派ないし派閥ができる。意見を整理して総意をまとめるプロセスが必要になる。そのプロセスのことを政治と呼ぶ。

代表に圧倒的な権力があれば政治は容易だろう。多数の支持でその座に就いたのでもいいし、暴力で
それを得たのでもいい。ともかく反対意見を力で封じて共同体を一定の方向に進めることができる。(例として隆盛期のナチス・ドイツを挙げておこう)。

強力な指導者がいないと、政治の場は乱戦となる。決定的な力を持たない指導者たちがボールを奪い合う。審判はいるのかいないのか。国家レベルの政治の場合混迷はいよいよ深くなって、時にはゴール・ポストが逃げたりして、行く先はなかなか見えない。

菅直人の政府が迷走しているとメディアが伝える。彼の性格に対する攻撃もずいぶん激しい。会ったことはないが、ひょっとしたら友人にしたくないような人なのかもしれない。

明らかなのは、彼には圧倒的な支持はないということだ。最盛期の小泉政権のような安定は望むべくもない。さまざまな力が彼を首相の座から降ろそうとしている。ポスト小泉の小型の首相たちはみな政権を投げだしたというので批判された。今、菅首相は政権にしがみついていると批判されている。

政治はまず力である。産業界の求めるものと環境問題に関心のある市民の求めるものは違う。その間で何らかの結論を出さなければならない。互いに理性的に説得し合うのは無理だから、露骨なパワーのバトルになる。見ていておもしろいからメディアは詳細に伝える。

外から見ればゲームだ。名を成す政治家の多くはゲームに強い。発言のスタイルで大衆の人気を博するタイプもいるし(例えば小泉淳一郎や石原慎太郎)、裏からの工作で多くの議員をまとめて強い派閥を作る者もいる(例えば小沢一郎)。

正直に言えば、ぼくはこの種のゲームに関心がない。勝敗の行方を追うのはおもしろいとしても、国家は個人の資質によって左右されるにはあまりにも大きい。王政は暗愚な王が出た時が悲惨だから消えたのではなかったか。

首相の性格はどうでもいい。政策だけで政治を見よう。

小泉政権がしたことはぼくは評価しない。生活保護世帯の増加などで明らかなように、日本は所得格差が広まって住みにくい国になった。

今、菅首相は「再生可能エネルギー特別措置法案」を通そうとしている。この問題への彼の姿勢は一貫している。初当選した翌々年の1982年に、衆院科学技術委員会で再生可能エネルギーの普及を訴えた。

今回も5月6日には浜岡原発の停止を中部電力に申し入れ10日には政府のエネルギー計画を白紙とした。送電事業を電力会社から独立させる「発送電分離」に言及し、26日のG8サミットでは一千万戸の家にソーラー・パネルを置くという構想を発表した。

ぼくはどれにも賛成する。

その上であまり勘ぐりたくないと思いながら、この「政局の混乱」というのは要するに、電力政策の転換への抵抗が理由なのではないかと考える。主体は産業界、経済産業省、自民党ならびに民主党の一部であるのだろう。

これはあまりに単純化した図式だ。すべてを敵と味方に分けるのはまるでジョージ・ブッシュの世界観だと自分でも笑ってしまう。しかし、そう見ると納得できる部分があるのも確かだし・・・などと思いは揺れるのだ。

このゲームにはメディアも参加している。週刊誌の見出しは創意工夫の限りを尽くして菅直人の悪口を書いている。悪辣で狡猾な人物だと言う。

しかし、悪辣で狡猾だろうがなかろうが、それはどうでもいいのだ。彼には失策も多々あるだろう。溜飲を下げたいのならペテン師とでも何でも呼ぶがいい(ただし投げた泥は自分にも返る)。

今、菅直人には罵詈雑言に耐えて電力政策の転換の基礎を作ってほしい。策謀が必要ならそれも使い、とんでもない人事も実行し、ぎりぎりまで居座り、改革を一歩進めてほしい。

なぜならば、福島の惨状を見れば明らかなとおり、原発には未来はないからだ。ドイツとスイスとイタリアに次いで、原子力からの賢明な撤退を選ぼう。

(引用おわり)

この文章は素晴らしい。主張そのものには賛否があることだろう。私自身は池澤さんとほぼ同じ意見だが、正反対の意見があるのは当然だし、そうでなければならない。しかし正反対の意見の持ち主であっても、この文章がよい文章であることは認めるにちがいない(その人に十分な知性があるならば)。よい文章とはそういうことだ。

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