成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

火の鳥

2010年5月20日

大のマンガファンである。小学生のときから大学生まで毎日マンガを読んで暮らしてきた。一時はマンガ評論家になりたいと思ったこともある。最近はほとんど読まなくなったが、それでも気が向くと書店でマンガを立ち読みしたりする。ジャンルは少年もの、少女もの、青年もの、成人ものを問わない。少女ものでは、坂田靖子、こうの史代のファンである。坂田はイギリス幻想文学、こうのは平安日記文学の系譜を引き継ぐ作家だと思う。こうのの『夕凪の街 桜の園』は、皆さんにもぜひ読んでもらいたい作品である。少年ものであれば、岩明均が気に入っている。『寄生獣』は傑作である。

これまでに読んできた作品の数は数千に及んでいるはずだが、そのなかで一つだけを選び出せといわれたら躊躇なく手塚治の『火の鳥』を選ぶ。『火の鳥』は間違いなく日本マンガの最高峰である。いや現代日本文学の最高峰のひとつといって過言ではない。その意味で手塚は漱石や鴎外や賢治と並び立つ巨人である。

『火の鳥』は手塚が人間のすべてと宇宙のすべてを描こうとした作品である。そこには人間の持つ愚かさといとおしさ、そして宇宙の永遠が描かれている。人間存在の細部を見つめる微視的視点と宇宙の時空の果てを見とおす巨視的視点が見事に融合している。人間は、生まれ、もがきながら生きて、死んでいく。人類も他の生命体も、あるいは地球も宇宙もみな同じことだと、火の鳥つまり手塚自身が私たちに語りかけてくる。最近では井上雄彦や浦沢直樹などが人間を描こうとしてよい仕事をしているようだが、彼らの作品には人間を見つめる視点はあっても透徹した宇宙的視点がない。そのため本当の文学にまで昇華しきれていない。分野を越えて文学の世界をながめても手塚の域に達している作家はいない。山田詠美や村上春樹のような人間存在に焦点を絞る作家はそもそも系統が違いすぎるし、司馬遼太郎や村上龍ぐらいの世界観では手塚の足元にも及ばない。現代の日本では手塚の真の後継者は残念ながらまだ出現していないといってよいだろう。

手塚の絵は下手である。ストーリー展開も精緻さに欠ける。だがそんなことはどうでもよい。最も重要なことは、手塚が他の誰にも行き着けなかった地点にまでみずからの歩を進めたことである。それは苦しみの連続だったのだろうか。それとも楽しみの極地だったのだろうか。おそらくその両方であったに違いない。

亀井勝一郎がいうように、人間の表現に完成ということはなく、完成したように見えるのはただ中止した場合にすぎない。手塚の作品もまた漱石や鴎外の作品と同様に、作者の死によって中止された未完成作品である。だがそれが未完成であるがゆえに、私たちはそこで成し遂げられなかった何かを新たに作り出していくことができるのではないだろうか。そしてそれが文化の正しい継承の仕方なのではないだろうか。

マンガが世界的な存在になりつつあるいまであるからこそ、手塚がなそうとしてなし得なかったものについて、深く見つめなおしていくべきではないかと思う。

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