成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

直訳文を駆逐せよ

2010年7月16日

まず、以下の翻訳文を読んでみてほしい。

図4-3は貯蓄率の計測値を資産/所得比率、微調整済みミュルバウワー信用枠指数、及び失業率に貯蓄率を関連させて得られる簡単な統計モデルとの関係で示している。
(『米国経済白書2010』、毎日新聞社、p.122)

ひどい悪文である。原文を読んでいないかぎり、ほとんどの人には理解できないのではないだろうか。内容が難しいといったレベルなのではない。それ以前の問題である。

そしてこの文が悪文だということは、この訳文をつくった翻訳者もよくわかっているはずだ。わかっていながら、しかしこれを書いたのである。またこの文でよしとした編集者も、これが悪文であることはわかっているはずである。わかっていながら、しかしこれを認めたのである。そしてこの文を読んでいる読者の多くも、この文が悪文だということをわかっている。わかっていながら、しかし文句もいわずに読んでいるのである。こうした状況が、明治以降、もう百数十年も続いている。

1934(昭和9)年に谷崎潤一郎は、こうした翻訳文体について『文章読本』のなかで次のように書いた。

<ここから引用>
体裁は日本文でありますけれども、実は外国文化の化け物であります。そうして化け物であるだけに、分からなさ加減は外国文以上でありまして、ああいうのこそ悪文の標本というべきであります。
(『文章読本』、中公文庫、p.70)
<引用おわり>

また1959(昭和34)年には三島由紀夫が、やはり『文章読本』のなかで次のようの述べている。

<ここから引用>
一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐに放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。日本語として通じない文章を、ただ原文に忠実だという評判だけでがまんしいしい読むというようなおとなしい奴隷的態度は捨てなければなりません。
(『文章読本』、中公文庫、p/94)。
<引用おわり>

近代日本の文豪のこれらの意見にもかかわらず、日本の学術翻訳は、なにも変わっていない。現在出版されている学術翻訳者のほとんどが、いまもなお「外国文化の化け物」文で訳されているのだ。

なぜこれほどまでに変わらないのか。それは学術翻訳が基本的に「一般読者」のためではなく「専門読者」のためのものだからである。つまり学術翻訳とは、専門家の専門家による専門家のための翻訳なのである。

なるほど、そうであれば納得がいく。この場合、翻訳とは原文を読むためのひとつのツールにすぎない。であれば、できるかぎり原文が透けてみえるほうがよい。逆に、読みやすくするために原文の構造を壊してしまったりすると、原文が透けてみえなくなってしまう。それでは専門家として困るのだ。

外国の文化文明を直訳文を通じて透かしてみること――それが明治以降の日本の学問のあり方であった。そしてそのあり方は、いまも連綿として続いているのである。

たしかに西欧に追いつけ追い越せの時代であれば、それでもよかったのであろう。また一部の専門家だけが外国の文化文明を知っていればよかった時代であれば、それでよかったのかもしれない。だが、もはやそんな時代なのではない。グローバル化と技術革新が急速に進む時代である。外国の文明文化を直訳文を透かしてみているような、そんなヒマはないはずである。

大事なことは、まず英語をしっかりマスターするである。直訳という歪んだ日本語をとおして読んでいる場合ではない。そもそもいまの日本人は翻訳に頼りすぎである。もっと自分で英語を読み、そして英語を書くべきだ。

もうひとつ大事なことは、日本語を進化させることである。このままでは英語という強大な言語に圧倒されて、知的分野における日本語は近いうちに死滅する。冗談ではない。本当のことである。そして知的分野の日本語が死滅すると、日本の文明文化の多くもまた死滅する。そうすれば、将来の日本は香港やシンガポールのようになるだろう。

そうならないためには、これから日本語を鍛え上げて、英語に負けない言語にしていかなければならない。そしてそのためには、まず直訳文という歪んだ日本語を一刻も早く駆逐し、一掃しなければならないのである。

谷崎や三島がいって駄目だったことを私がいったところで何の役にも立たないことはわかっている。それでも懲りずに何度でもいうことにする。直訳文は悪文の標本であり、それを拒否することが読者の原作者に対する礼儀であり、そして日本語と日本の将来のためにも直訳文を駆逐すべきである、と。

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