成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

線状性と動的理解

2011年5月17日

ハチ公:ご隠居はん、いてはりまっか?

ご隠居:なんや、植木屋のハチ公やないか。どないした?

ハチ公:今日は、ご隠居はんに、ちょっとおたずねたいことがおますのや。じつは、うちのヨメはんが、「ホンヤク」を習いはじめましてな。

ご隠居:ほう、「ホンヤク」てか?

ハチ公:そうでんねん。ヨメはんが「ホンヤク」ていうから、ワシ、てっきり厄払いのことや思いましてな。「お前、35やろ。女の本厄は33やで。もう遅いわ」て、いうたりました。するとヨメはんが「本厄とちゃうがな。翻訳や。英語を日本語にするやつや」いいますねん。ワシは中学しか出てまへんけど、ウチのヨメはんは、大学出てますのや。まあ、自分のヨメを褒めるのもなんですけど、チョーヨーがおますのや。

ご隠居:チョーヨー? そら、キョーヨーやろ。

ハチ公:そう、それですわ。このところワシの稼ぎが悪いもんやさかい、ヨメはんもなんぞ仕事せんといかんと思うたみたいで、そやけどワシみたいに手に職があるわけでもおまへんさかい、ええ仕事がなかなか見つからん。そこでまず手に職をつけたいんやけど、はて自分になにができるかと考えたら、昔から好きやった英語で仕事ができればこんなええことはない、ちゅうわけで、とにかくまず翻訳の学校に通うことにしたんですわ。

ご隠居:ほうほう。

ハチ公:いろいろ学校さがして、結局、サイマルたらいうとこに決めたみたいです。

ご隠居:ほう、サイマルかいな。そら、有名どころやな。

ハチ公:そうでっか。まあ、有名やからええちゅうわけやおまへんけどな。で、先月から学校に通ってまんねやけど、これがどうもヘンなんですわ。

ご隠居:ほう?

ハチ公:受け持ちがナルセとかいう先生で、この先生がどうもわけのわからんことをいうらしいんですわ。言語にはセンジョーセイがあるとか、ドーテキリカイが大事やとか、ヨメはんが学校から帰ってきてから一緒にメシ食いながら話を聞かされまんねんけど、なにいうてんのか、さっぱりわかりまへんねん。ヨメはんに「お前のいうこと、さっぱりわかれへんで」いうと、ヨメはんも「そら、そやろ、ワタシにもさっぱりわからん」というもんやさかい、二人で笑うてます。そやけど、ご隠居はん、先生て、ええ商売でんな。生徒がわからんかても、お金がもらえるんですわな。うらやましいこっちゃ。

ご隠居:まあ、昔から「教師と乞食は3日やったらやめられん」というわな。

ハチ公:いままで2、3回、授業を受けてますけど、ヨメはんもどうもようわからんらしいのです。ひょっとしたら、そのナルセいう先生、偽モンちゃうかてワシがいうたら、ヨメはんも首をかしげて「そんなことない、思うけど」て、いいますねん。うちのヨメは人の悪口は絶対いわん女やさかい、キツいことはいいまへんけどな、不安には思うとるらしいんですわ。そこで、ご隠居さんにご意見をうかがおうと思うて、やってまいりました。

ご隠居:なるほど、そういうことかいな。おまはんとこのアサエさん、翻訳者になりたいてか。そら、ええことや。なにしろ翻訳は家におってできる商売やさかい、あんたとこみたいに子供のたくさんおる家には、ぴったりや。元手もいらんし、それに年くってからでも商売ができる。ほんで、おまはんの持ってきた、これが、そのナルセ先生の教科書かいな。なになに「翻訳のための基本知識」てか。ちょっと、読ませてもらうで。

ハチ公:で、ご隠居はん。どうでっか、そのナルセとかいう先生、やっぱり、偽モンでっか?

ご隠居:まあ、ちょっと待ちなはれ。ふむふむ…。ふーむ、なるほど。

ハチ公:どうでっか、どうでっか、ご隠居はん。

ご隠居:そうやな、ワシのみるところでは、このナルセ先生いうのは、偽モンではないな。

ハチ公:偽モンやおまへんか。

ご隠居:うん、偽モンではない。ただ…。

ハチ公:ただ、なんでんねん?

ご隠居:かなり、変わっとる。

ハチ公:変わりもんでっか。ヘンでっか。

ご隠居:そやな。ヘンといえば、ヘンやな。あんまり人のいわんことが書いてある。

ハチ公:そら、えらいこっちゃ。そんな偏屈モンの先生に、うちのヨメをまかすわけにはいきまへん。すぐ、やめさせますわ。

ご隠居:まあ、ちょっと待ちなはれ。先生なんぞというもんは、だいたいがヘンなもんや。そもそもヘンで世の中ではまともに通用せんから、先生やってるわけやからな。

ハチ公:そんなもんでっか。

ご隠居:うん、そんなもんや。たしかに、この先生の教科書には、あんまり人のいわんことが書いてある。そやけど、ただ自分の意見を勝手に並べたててるのとちごうて、いろんな学者さんの意見をちゃんと勉強したうえで、自分の意見を述べてはるみたいや。その点では、まあ、ええんとちゃうかな。

ハチ公:そうでっか、ワシには、そういうことは、さっぱりわかりまへんけどな。それにしても、センジョーセイて、いったいなんでんねん。なんでホンヤクとやらで洗え洗えて、いわれなあきまへんのや。

ご隠居:センジョーいうんは、洗うことやない。線条性、つまり一本の線みたいなかたちをしてるいうことや。英語でいうと、リニアリティやな。リニア新幹線のリニアや。

ハチ公:そういうたら、うちのヨメはんも、リニャなんたらとか、いうてました。

ご隠居:そうや、そのリニャなんたらが、センジョーセイや。うーん、どない説明したらええかな…。そうやな、たとえば、おまはん、車を運転するやろ。

ハチ公:へえ、運転します。

ご隠居:そのとき、前に進むように運転するわな。

ハチ公:当たり前でんがな。後ろにいってどないしまんねん。それやったら、となりのウチいくのに、地球一周せなあきまへんで。

ご隠居:しゃれたこと、いうやないか。そのとおりや。車を運転するときは、横にも後ろにいかずに前にどんどん進んでいくしかあれへん。もちろんユーターンも右折も左折もできるけども、前と横と後ろにいっぺんに進むことは無理や。道路いう一本の線のうえを、前進するしかあれへん。これが、センジョーセーや。ところであんた、庭をつくるときには、どこからつくりなはる。

ハチ公:どこから、でっか。うーん、だいたいは決めてますけど、庭によって違いまんな。それぞれの庭には、それぞれの持ち味がおまっさかい、なんでもかんでも、ここからこうやってつくったらええというわけにはいきまへん。

ご隠居:そやろ。それぞれの個性にあわせて、どこから手をつけてもええ。つまり、庭造りには、センジョーセーがないんや。こんなふうに、世の中にはセンジョーセーのあるもんもあれば、ないもんもある。そのなかで、人間が言葉を話したり聴いたり書いたり読んだりするいうのは、車の運転と同じで、センジョーセイがあると、このナルセ先生は、いうてはる。

ハチ公:言葉を話すのは、車を運転するのと同じやて、いうてはるんですか。そらまた、けったいな考えですな。それにしても、このナルセ先生、かなり頭の悪いお人ですな。

ご隠居:ほう、なんでや?

ハチ公:そうでっしゃろ。言葉を話したり聴いたりするときに、前から順々に聴いたり話したりせんといかんて、当たりまえやがな。当たりまえだのクラッカーや。そんなん、うちの5つのガキでも知ってまっせ。それを、センジョーセーとかいう訳のわからん言葉を使うてわざわざ説明してはるのやから、ずいぶんとアホくさい話ですわ。

ご隠居:おまはんのいうことも、わからんではない。言葉は前から前から理解せなあかんというのは、たしかに5つの子どもにでもわかることや。そやけども、その5つの子どもにでもわかることが、英語となると、なかなかそうはいかんのや。

ハチ公:そら、どういうことでっか。ひょっとしたら、英語いうのは前から前から順々に聴いたり話したりしたらあかんのでっか。そんなことしたら、お巡りさんに捕まりまんのか。

ご隠居:いやいや、警察には捕まらん。ただ、日本人が英語を勉強するときには、じつは前から前から順々に聴いたり話したりしてへんのや。じつはワシも若いころに英語を少し勉強したことがあってな。そのときに教えてもろうたのが、直訳というやり方やった。ところで、おまはん、なんぞ知ってる英語はないか?

ハチ公:英語でっか。なんし中学のときの英語の授業はずーっと寝てましたさかいに、なーんも覚えておまへんけどな。それでも、「ジスイズアペン」「アイハブアブック」ぐらいなら、わかりまっせ。

ご隠居:それやったら、その「ハイハブアブック」で説明しよか。まず、アイというのは、「わたし」にあたる英語やな。それで、ハブが「持っている」、アが「一冊」、ブックが「本」や。それを全部くっつけると「アイ・ハブ・ア・ブック」となって、「わたしは一冊の本を持っている」という日本語になるんやな。こんなふうにして、英語の言葉を日本語の言葉にそれぞれに直接に置きかえてつなぎあわせていくやり方を、直訳というのや。

ハチ公:直接に置きかえて訳するから、直訳でっか。そのまま、でんな。

ご隠居:ところで、この直訳というやり方では、言葉の順番が変わってしもうとる。英語では「アイ・ハブ・ア・ブック」の順番やけども、もしそのとおりに日本語を並べてみると「わたし、持っている、一冊、本」となる。ところが、直訳では「わたしは一冊の本を持っている」とするから、「持っている」が一番最後にいってしもうとる。つまり、直訳を使うて、英語をいちど日本語に変えてから意味をわかろうとすると、英語の本来の順番とは違う順番で意味をわかろうとしてることになる。まあ、このぐらい簡単なもんやったら、これでもなんとかなるやろ。そやけど、これがもっとややこしいもんになってくると、前にいったり後ろにいったりを、何度も何度も繰りかえさなあかん。そうなると、英語を理解しとるのではのうて、謎解きをしているみたいになってくる。そんなんでは、まともに英語をわかったことにはならん、そうではのうて、言葉には線条性があるんやさかいに、英語を英語の語順のままで理解するようにせんといかん、とまあ、このナルセ先生は、そういうことをいわれてはるんやな。

ハチ公:ご隠居はん、いや、さすがでんなあ。ようわかりますわ。うちのヨメも、サイマルとかいうとこにいかんでも、ここでご隠居はんに教えてもろたほうが、ええんとちゃいますかな。タダやし。で、ご隠居はん、センジョーセーとやらはこれでわかりましたんで、もうひとつのドーテキリカイのほうを教えてもらえまっか。この「リカイ」というのは、理解のことでっしゃろ。このぐらいはワシでもわかりまっせ。わからんのは「ドーテキ」のほうですわ。いったい、なんでんねん?

ご隠居:ほな、これも車の運転に例えて説明しよか。おまはんが車を運転するとき、ふだんから運転してる道と、はじめて運転する道とでは、どっちが運転しやすい?

ハチ公:そんなもん、いつも運転している道に決まってまんがな。

ご隠居:なんでや。

ハチ公:なんでやって、そらまあ、よう知っとるからですわ。次にどこがどうなってるか、わかってますからな。はじめての道は、それがわからんさかいに、神経つかいますわ。

ご隠居:その神経つかう、ちゅうのは、どういうことや。

ハチ公:いろいろありまっけども、たとえば、ここまでは上りやったから、そろそろ下りになるやろとか、これまでの様子からみると、そろそろ信号があるんとちゃうかとか、そんなことでんな。

ご隠居:そやろ。そこまで走ってきた道のようすから、次にどないなるかを先読みをしておいて、それで、それなりの心構えをしておく。その先読みが正しかったら、そのように運転して、もしそうでなかったら、そのときには自分の先読みのほうを見直して、新しいかたちでの先読みをして、またそれなりの心構えをする。そうやって運転をしていくうちに、だんだんと先読みの当たり具合が増えてきて、そうなると、運転もだんだんとラクになっていく。これが「ドーテキリカイ」というやつや。ドーテキの「ドー」は動くという意味の動、「テキ」はナントカテキの的や。それまでにわかっていることを土台にして、その場その場で臨機応変に判断していく、というわけやな。
 このドーテキリカイの反対が、セーテキリカイや。「セー」は静かなという意味の静で、ここでは止まってるという意味やな。車の運転でいうたら、車に乗る前に、地図できっちりと道の様子を調べておくというやり方にあたる。これならば、その場その場で臨機応変に判断する必要はない。

ハチ公:なるほどなあ。そやけど、ご隠居はん、それやったら、そのドーテキリカイとかいうやつよりも、セーテキリカイのほうが、ええのんとちゃいますか? なにしろ、最初から全部が見通せてますからな。ワシも車で新しい道を走るときには、その前に地図でちゃんと調べときまっせ。

ご隠居:さあ、そこや。たしかに、最初から全体を見渡せたほうが、わかりやすい。そやけど、考えてみい。ここまで二人でいろいろと話をしてきたんやが、おまはん、最初からこんな話になると思うてたか?

ハチ公:そんなこと、おまへん。ご隠居はんのいわはることに、もっともやー、もっともやー、とうなずきながら、ここまできたんですわ。

ご隠居:そやろ。これを車の運転でいうたなら、知らん道を走りながら、だんだんとまわりの様子が見えてきたということや。ワシのほうも、最初からこんな話をするつもりやなかった。おまはんがいろいろと訊いてくるさかいに、こないな話をすることになったんや。
 こんな具合に、言葉を使うときには、次にどないなるかが、そもそもわからんもんなのや。そのわからんなかで、それまでにわかってることを土台にして、それなりに理解を深めていくしかあれへん。とどのつまりは、言葉を使うときには、セーテキリカイはそもそも無理やというわけや。その場その場で臨機応変に対応する、つまり、ドーテキリカイをするしかあれへんのや。

ハチ公:そやけど、ご隠居はん。そないいうても、日本人が英語を勉強するときにはドーテキリカイをするんやのうて、セーテキリカイをすることのほうが多い、これが日本の英語教育の困ったところやて、授業でナルセ先生がいうてはったと、うちのヨメはんがいうてましたで。

ご隠居:それはやな、これまでの日本の英語教育では、英語の本を読むことばかりを教えてきたからや。いま、あんたとワシとしゃべってることは、どんどんと前へ進んでいって、終わったことはどんどんと消えてしまう。そやから、ドーテキにリカイするしかないのやが、本を読むときには、そうではない。いつでも、返り読みができるのや。わからんと思うたら、前へ戻ってもういっぺん読めばええ。それでもわからんかったら、また読んだらええ。こんなふうに、なんべんでも読み返しができるさかいに、必ずしもその場その場でわからなあかんということはない。つまり本を読むときには、セーテキリカイも使えるということや。

ハチ公:そやけど、それやったら、それはそれで、ええんとちゃいますか。

ご隠居:ところが、そうもいかん。なにしろ、その場その場でパッパッと理解していくドーテキリカイとちごうて、セーテキリカイは、やたらと時間がかかるのや。わからんかったら、何度でも読み返すのやからな。車の運転でいうたら、知らん道を走っておって、ちょっとでも道筋がわからんようになったら、もときた道を引き返して、そこからもう一度走り出すみたいなもんや。

ハチ公:そんなことしてたら、いつまでたっても目的地に着きまへんで。休みの日にガキつれてユニバーサルスタジオいこ思うて、朝に家でたら、着いたんが夕方やった、みたいなことになりまっせ。

ご隠居:そのとおりや。英語を読むんでも、そんなことやってたら、いつまでたっても本が読み終わらん。ヘタすると、一冊の本を読むのに半年も一年もかかる。まあ、そんな英語授業を、日本の英語教育はしてきたわけやな。それではあかん、本を読むときでも、もっとスピーディに読まんと実際に読んだことにはならんし、そもそも仕事で使いものにならん。そのためには、話すときだけやのうて、読むときにもドーテキリカイが大事やと、まあ、それがナルセ先生のいわはりたいことやな。

ハチ公:なるほど、そういうことでっか。うーん…、なるほどなあ、うーん…。

ご隠居:なにを、うんうん、うなっとるのや。

ハチ公:こうやってご隠居はんの話をうかがってみますと、ナルセ先生というお人のいわはることにも、それなりにスジがとおってるなあ、思いましてな。

ご隠居:そやから、最初にいうたやろ、この先生は偽モンやないて。

ハチ公:そうでっけども、ヨメはんの話をきいてて、なんとのう偽モンちゃうかなー、思うてたもんでっさかい。ということは、もう少しヨメはんに、いまの学校、続けさせてもええですかな。

ご隠居:そやな。もう少し続けさせて、それでも納得いかんようやったら、そこで、もういっぺん考えてみれば、ええんとちゃうか。

ハチ公:ほな、そうしますわ。それから、いま聞いた話でっけどな、さっそくヨメはんにも話してみます。

ご隠居:ほう、どないに話すのや?

ハチ公:そうでんな。センジョーセーというのは、洗うことやのうて、車走らすのに後ろにはいけん、ドーテキリカイがでけんかったら、ガキをユニバーサルスタジオに連れていくと夕方になってしまう…。

ご隠居:ハチ公はん、悪いことはいわん、なんにもいわんとき。

Categories: ことのは道中記 日本人の英語教育