成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

翻訳にケチをつけよう

2011年7月31日

前回の道中記で対照言語行動学研究会のことを書いたが、同研究会がらみで、もうひとつご報告とご提案をしたい。翻訳に対する読者からの批判、つまり「ケチ」についてである。

研究会のディスカッションでは、参加者から次のような意見が出た。翻訳書を読んでいると、読みにくい、日本語としておかしいなどと感じることが、よくある。しかし翻訳なのだから、ある程度は仕方がないと思って読み進めていると、そのうちに読みにくさやおかしさに慣れてくる。でも、今日の議論をきいていると、そうした態度はよくないのではないかとも思った。実際のところ、翻訳の読み手としては、どうすればよいのか…。

これに対して、私がおよそ次のように答えた。翻訳文が読みにくいと感じたときには、どんどんと翻訳者に文句をつけてほしい。一般に、日本の読者は翻訳者に対してやさしすぎる。まちがった訳やおかしな訳に出会っても、文句もいわずに読んでくれる。翻訳者からみればまるで仏様のようであるが、しかし、この仏の行為が翻訳者を堕落させている。読者から文句をいわれないのをいいことに、誤訳や拙訳をつくっても平気でいる翻訳者がたくさんいるのだ。これでは翻訳そのものがちっとも進歩しない。読者からどんどんと文句をつけられれば、翻訳者はそれなりに反省をして、次からはもっとよいものをつくろうとする。いま日本の翻訳に最も必要なのは、読者からの厳しい批判の目である、と。

その後、懇親会のなかで、では読者としては具体的にどのように翻訳に文句をつければよいのですかという質問を受けた。そのときにはうまく答えられなかったが、あとで考えてみると、読者が翻訳に文句をいう場というのは、それなりにあるような気もする。たとえば、読者カードを出版社に送って翻訳の問題を指摘する、友人たちに対してあの翻訳がひどかったと話す、ブログやフェイスブックやツィッターであの本は翻訳がひどいと書く、などなどだ。

じつは本当の問題点は、翻訳のおかしさを指摘するチャンスの少なさにあるではなく、翻訳を批判することを躊躇してしまう心理面のほうにあるのではないだろうか。なにしろ原著では読めないから、翻訳で読んでいるのである。それなのに、その翻訳に対して文句をつけるのはおこがましいといった、一種の慎みである。

しかし、そんなことはないのである。1959(昭和34)年に三島由紀夫は『文章読本』のなかで次のように述べている。

一般読者が翻訳文の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐに放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。日本語として通じない文章を、ただ原文に忠実だという評判だけでがまんしいしい読むというようなおとなしい奴隷的態度は捨てなければなりません。(略)
語学ができないことは何ものでもありません。語学ができないからと言って翻訳文にケチがつけられないなどという馬鹿なことはありません。翻訳文はかりにも日本語であり、日本の文章なのであります。語学とは関係なくわれわれは、自分の判断でよい翻訳文と悪い翻訳文を区別することができるのであります。
(『文章読本』、中公文庫、p.94-5)。

三島のいうとおりである。これからは三島のアドバイスにしたがって、翻訳文にどんどんケチをつけていこうではないか。それこそが原作者への礼儀であり、また日本語をもっとよくするために必要である。

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