成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

翻訳調

2011年7月24日

昨日(2011.7.23)、通訳翻訳学会の主催するセミナーに参加しました。そのなかで、文芸翻訳者の鴻巣友季子さんが「訳しにくさの正体」というタイトルで講演をされましたが、これがとても面白い内容でした。いまの文芸翻訳の内実もよくわかり、大満足でした。鴻巣さん、ありがとうございます。

講演の具体的な内容の一部のみを、はしょって、はしょって、ご紹介します。翻訳調の問題です。

「1980年代から日本の文芸翻訳の世界では、「翻訳調ではない日本語らしい日本語」を目指すというスタンダードが確立し、その方向性で動いてきたけれども、その方向性ばかりになってしまって、文芸翻訳者としてはあまり面白くない(とは、鴻巣さんはいっていませんが)。もちろん翻訳調が罪になるときもあるけれども(鴻巣さんからは、その具体例もいくつかあげていただきました)、そうではなく、功になるときもある。もっと自由に考えてよいのではないか。」

別宮さんや安西さんなどがご活躍された1980年代以降の数十年間は、日本の文芸翻訳の世界では、明治以降の日本語の歪んだ西欧化(翻訳調化)を強く反省し、それを改善する傾向(たとえ翻訳といえども、日本語らしい、こなれた日本語をつくること)が強かったわけです。それがある部分、揺り戻しを起こしているのだなと感じました。言語を創造(アート)のためのツールとして用いている作家にとって、ある意味、これは必然の動きかもしれません。外山滋比古さんが、あるところで「翻訳調が創造につながるという意見もあるが、それをいうなら、まともな日本語が書けるようになってからいってもらいたい」といった趣旨の発言をしていますが、鴻巣さんのご意見は、まさに「まともな日本語が書けるようになってから」のものですので、そこには強い説得力があります。

セミナーでは、これに対して、実務翻訳者の参加者からの意見が出ました。これも、はしょってはしょっていってしまえば、翻訳調が罪となることはあっても、功となることはないのではないか、ということです。

この実務翻訳者側の意見には、つぎのような背景があります。1980年以降、たしかに文芸翻訳の世界では「脱翻訳調化」のムーブメントが起こりました。しかし、それは実務翻訳の世界にはほとんど影響を与えませんでした。たとえば別宮貞徳さんは『誤訳・悪訳・欠陥翻訳』といった著書で、文芸翻訳書のみならず実務翻訳書についても痛烈な批判を加えましたが、それを真正面から受け止めた実務翻訳者はまずほとんどいなかったといってよいと思います。

当時、別宮の翻訳批評は実務翻訳の世界の人々からは単なる「誤訳狩り」だとみなされていました。英語のたいへんよくできる学者が、実務のことは何もしらないのに実務者の誤訳に対して大所高所から文句をつけるという構図だと捉えられたのです。その結果、実務翻訳の世界で「脱翻訳調化」のムーブメントが起こることはありませんでした。その後も実務翻訳の世界では、英文和訳つまり翻訳調が主流を占め続けています。そして、それはいまもなお、変わらないのです。たとえば、いま国際会計基準の翻訳がおこなわれていますが、これはまったくの英文和訳です。なぜなら英文和訳こそが「正しい」のであり、それ以外は「正しくない」からです。すくなくとも会計業界ではそうなのです。そして、この「直訳=正しい」「自由訳(意訳)=正しくない」という図式は、程度の差はあっても、実務翻訳の世界では、いまもなお、あらゆる領域に厳然として存在します。

そういった事情を背景にして、セミナーに参加した一人の実務翻訳者は「翻訳調が罪となることはあっても、功となることはないのではないか」と発言したのです。

それから、鴻巣さんと発言者とのあいだで議論がなされましたが、なかなか話がうまくかみ合いませんでした。お互いがよって立つバックグラウンドがまったく違うからです。ただ、横できいていて思ったのが、じつはお二人ともに同じ方向性を向いているということでした。つまり、いまの翻訳はもっともっとよくなるはずだ、という方向性です。

ただ、それぞれに抱えている課題が違うのです。文芸翻訳では、これからいかにして訳文を直訳調をも利用して日本語の世界をさらに豊かにしていくかであり、一方、実務翻訳では、これからいかにして訳文を直訳調から抜け出させて本当の日本語にしていくかということです。

私自身は実務翻訳者ですが、小さなころから、文芸にはたいへんに興味がありますので、両方の気持ちが、よくわかります。翻訳という座標軸をつかって文芸と実務という2つの世界に有益なつながりができ、そのことが、今存亡の危機に立っている日本語という言語の生き残りと発展につながればと思います。

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