成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

動的理解と無意識化

2011年1月19日

英語のセンテンスを理解しようとするときに最初におこなっている認識プロセスのひとつは、動的理解による構文の把握である。

たとえばセンテンスの最初の部分としてLearning Englishと聞きとったり読んだりしたとしよう。その段階で、この意味チャンクの構文的機能は、おそらく動名詞句のかたちをした主語であろうと、予測ができる。それとともに、しかしひょっとするとそうではなく、現在分詞句のかたちをした副詞句や、あるいは語順が逆転しての目的語なのかもしれないとも予測できる。また逆にいえば、センテンスの最初に出てきたこのLearning Englishが述語動詞や形容詞句であることはまずないだろうとの予測もできる。

このLearning Englishの次に出てくるものについても、この時点でそれなりの予測ができる。次に出てくる最も確率の高いものは述語動詞である。だが形容詞句や副詞句がやってくる可能性も、もちろんある(Learning English as an international languageなど)。一方、このあとに目的語がやってくる可能性はかぎりなく低いことも予測可能である。

このようにして、出てきた意味チャンクの構文的意味をまず予測し、同時に、その情報をもとに、次に出てくる意味チャンクの構文的意味を予測する。そして、次に出てきた意味チャンクから、それ以前におこなった予測の内容を修正し、そしてまたその次に出てくる意味チャンクを予測する。この行為を、新しい意味チャンクが出てくるごとに次々と繰り返していく。前に出てきた意味チャンクの数が増えれば増えるほど、予測の範囲は狭くなり、その確率は高まっていく。そして最後にピリオドがやってきたとき、センテンス全体の意味すべてが確定する。

これが「動的理解」の具体的プロセスである。日本語ネイティブである皆さんがこの文章を読んでいる際にも、そうした動的理解のプロセスを踏んでいる。そうでなければ、この文章を読み返さずに理解することはできない。

ここからわかるように、ネイティブが言葉を理解するプロセスとは、言葉を聞き進める、あるいは読み進めるなかで、次々と予測と修正を重ねていく行為のことである。そして、この予測と修正という行為を適確に重ねていくことのできる能力のことを、私たちは「文法力」と呼ぶ。文法力とは、学校文法の項目をただ暗記していることでは決してない。そんなものは本当の意味の英語理解にとって役に立たないばかりか、場合によっては有害でさえある 。私たちが英語をマスターするために必要な文法力とは、動的に理解するなかでの予測と修正をより適確におこなうためのものであり、そしてこの真の意味での文法力が身についていなければ、私たちは英語を本当には理解できない 。

動的理解においては英語ネイティブの心は予測と修正の連続のなかでつねに活発に動いている。ところがノンネイティブが英語を使う場合にはそうはいかない。ノンネイティブの多くはこうした動的理解をおこなっていない。いや、おこなうことができない。

英語がまだ十分に身についていない日本人が英語を聴いたり読んだりするときの心の動き方について考えてみよう。ここにLearning Englishという意味チャンクが出てきたとする。英語初学者の日本人の多くがこれを聞いたり読んだりしたとき、それに対して上記のような動的理解ができるのかというと、おそらく不可能である。では、その際の心の動きはどのようなものかというと、じつは何もしていない。次にくるべき何かをただじっと待っているだけである。心はほとんど動いていない。そしてセンテンスが最後まできたときに、はじめて構文の分析に入る。こうした静的な理解プロセスのことを一般的に「英文解釈」という。

この理解方法には致命的な欠陥がある。まずこの方法ではリスニングができない。音声としての言語は次々と表れては消えていく。したがってセンテンスの最後まで心の動きを止めておいてその後にまとめて理解しようなどとすると、理解しようとするあいだに次のセンテンスがきてしまう。この悪循環が多くの日本人の英語リスニングにみられる致命的な欠陥である。

リーディングにおいても欠陥がある。たしかにリーディングではリスニングのように英語が次々と表れては消えていくということはなく、分析のための時間的余裕が与えられている。しかし私たちが言葉を理解するというのは、前に出てきた内容を前提として、その後の内容を理解しているのである。出てくる順番を考慮せずに全部を一括して静的に理解しようとすることには、本質的な欠陥があるといわざるを得ない。

動的理解の不足は、聴く読むというインプットだけではなく、話す書くというアウトプットにおいても深刻な影響を及ぼす。私たちはセンテンスをまずつくってから発話したり書いたりしているのではない。ある部分を話したり書いたりしながら、それに続く部分を動的につくりだしている。したがって動的という能力が欠けていると、私たちはスムーズに話したり書いたりすることができない。日本人が英語で話したり書いたりするときに言葉がうまく出てこない理由のひとつはここにある。

もうひとつ重要なことは、こうした動的理解をネイティブは「無意識」におこなっているということである。私たちは日本語で生活しているが、そのなかで自分の日本語運用力をつねに意識しているわけではない。日本語を意識するのは、聴く、話す、読む、書くといった言語運用のなかでトラブルに遭遇したときだけである。このようにいつも無意識的に運用できるからこそ、私たちは日本語と自己とが一体であるという強い自信と確信を持つことができる。母語話者とは、このような自己と当該言語との一体感を強く保持している人間のことである。

一方、日本人が外国語である英語を使うときには、このような言語と自己の一体感を持つことができない。私たちにとって英語の運用はつねに意識的であり、そのため自己と運用言語のあいだには厳然たる壁が存在する。こうした状況では、私たちは英語「で」話しているのではなく、英語「を」話しているのである。そして話している内容ではなく、英語そのものに関心が集中している。その結果、英語で何かを伝えることが重要なのではなく、英語がうまく使えることが重要であるという一種の錯誤が生まれてくる。これが多くの日本人英語学習者の陥っている罠である。

この罠を抜け出す第一歩は、みずからの内部に存在するこの錯誤をまずしっかりと自覚することである。しかし問題の解決にはそれだけでは十分ではない。英語を意識的に運用しているかぎり、内容ではなく英語に注意が向ってしまうのはどうしても避けられない。したがって本当の英語力を身につけるには、英語を意識的ではなく無意識的に運用できるようにならなければならない。それが、動的理解の「無意識化」である。動的理解を無意識化することで、英語にではなく、話している内容に心が集中できる。文章をタイピングしてつくる際に指をどのように動かすのかに心を奪われているようでは、まともな文章は書けない。同様に、英語そのものに心を奪われているようでは、まともに英語は使えない。

とすれば動的理解能力を獲得し、それを無意識レベルにまで高めていくことこそが英語学習において最も重要な課題である。とくに日本人にとって英語の動的理解能力の獲得は難関である。私たちの母語である日本語の動的理解プロセスが英語の動的理解プロセスと本質的に異なっているからである。

ところが現在の英語教育ではこの動的理解の無意識化を明確な学習ターゲットとしては捉えておらず、それを分析したり促進したりするための理論や学習手法が十分に開発されていない。というよりも、この分野に対して研究者やプログラム開発者の関心がまだ十分に向いていない。そのために英語学習者が動的理解の無意識化を強化しようとすると、その手段は結局のところ伝統的な「繰り返し」と「暗記」ということになる。

たしかに時代がどう変わろうとも繰り返しと暗記こそが言語学習の王道であることは間違いない。私もつねづねそう主張しているが、しかしこの王道を進むにしても、ただがむしゃらに突き進むのはあまり得策ではない。王道を効率的に進むための教育的サポート方法があるはずである。その教育的方法を早急に開発していくことこそ、英語教育関係者の取り組むべき最重要課題のひとつではないかと思う。

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