成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

認知、創発、動的理解

2011年8月1日

前回の道中記にひきつづき平子義雄さんの『翻訳の原理』について、もう少しだけ解説を加えておきたい。

『翻訳の原理』の最大の特徴は、認識論から具体的な翻訳手法にいたるまで翻訳にかかわる広範なトピックをほぼカバーしている点である。したがって本書を読むことで、翻訳学の一部分に偏らない総合的な知識を得ることができる。しかしその裏返しとして、ひとつひとつのトピックについては、残念ながら深く掘り下げることができなかった。それぞれのトピックに割り当てられている文章は非常に少なく、例えていえば、さまざまな料理が一口ずつ味わえる大きなプレート料理のようである。その結果、たしかにそれぞれの料理は絶品なのだが、いかんせん一口ずつにすぎないために、全体としてはなんだか味がよくわからないというきらいがないでもない。本書は約200ページの本だが、おそらく平子さんとしては1000ページも2000ページも書きたかったにちがいない。ただそんなボリュームになってしまっては商業ベースにのらないので、結局のところ200ページということになったのだと思う。このような膨大な原稿量を必要する研究書は、今後はオンライン出版が最適の発表の場になるだろう。もし平子さんがご存命であれば、おそらくこれからオンライン出版で膨大な成果を残されていったにちがいない。本当に残念である。

上に書いたように本書は翻訳研究のほぼ全域をカバーしているが、しかしそれでもいくつか抜け落ちているトピックがあるように思う。それは平子さんのせいではなくて、そうしたトピックはおもに本書が出された1999年以降に研究が急速にすすんだ分野のものである。したがって本書で取り上げられていないのは当然である。以下、そうしたトピックとして「認知」「創発」「動的理解」という3つの概念について述べてみたい。

まず「認知」(Cognition)であるが、認知言語学が大流行のいま、ここでご説明するまでもないだろう。ただ私の感覚では、認知言語学はあくまでも西欧的世界観の枠組みのなかでの学問であり、翻訳のように世界観そのものを飛び越えなければならない営みに対してそれを全面的に適用するのは、かなり危険であるように思う。もちろん、適用できるところは積極的に適用すべきではあるが。

つぎに「創発」(emergence)である。これはすでに生物学、組織論、情報工学などに積極的に取り入れられている概念であるにもかかわらず、翻訳研究に対してはまだ十分に取り入れられていないように思える。「創発」という概念は、思い切っていえば「認知」以上に翻訳研究と相性がよいのではないかというのが私の直観である。したがって私自身にとっても今後の翻訳研究の重要なテーマとなっていくと思う。

最後に「動的理解」だが、これは生物学では福岡伸一のいう「動的平衡」、組織論ではピーター・センゲの「学習する組織」とほぼ同じ概念である。これまでの言語理解研究は静的側面からのものがほとんどであり、理解の動的側面に考察を進めた例はまだ数少ないと思う。英語理解の世界では故伊藤和夫が「直読直解」の延長線上として1980年代後半からそうした研究を進めていたようだが、「動的」という概念を翻訳研究に持ち込んだ例は私個人は残念ながらまだ見つけていない(不勉強だからかもしれないが)。「創発」と同様に「動的」という概念も翻訳研究とはたいへん相性が良いと私は直観している。したがって、これもまた私自身の翻訳研究にとっての重要なテーマとなっていくはずである。

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