成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

認識、思考、表現

2010年6月6日

言語には3つの機能がある。認識、思考、表現である。

人間は言語をつうじて世界を認識する。ものや現象に名前をつけることで世界を分節化する。逆にいえば人間は言語というフィルターを通してしか世界を認識することができない(その限界を越えることが音楽、絵画、舞踏といった芸術の果たすべき役割である)。

人間は言語を使って思考する。言語を使わなければ考えることはできない。考えているとは言語を使っていることの同義語である。考えていることはあるのだが言葉にならないというのは単なるごまかしにすぎない。言葉になったことが考えていることである。

人間はひとりでは生きていけない。だから人間は他者とつながるために言語を使う。言葉を使ってなにかを表現し、いっぽうで他者を言葉をつうじて理解しようとする。

こうしてみてみると人間とは言語をもつ存在である(homo loquens)という定義には大きな説得力がある 。

だが、これほどまでに人間にとって重要な役割を果たす言語が、民族によってそれぞれ異なるというのは、いったいどういうことであろうか。神を畏れぬ所業をしたために人間に下された罰であるというバベルの塔の神話が生まれたのも、むべなるかなである。

さて外国語教育、通訳、翻訳という観点からいえば、言語には認識、思考、表現という3つの機能があるということをつねに強く意識しておくことが、きわめて重要である。

英語教育や通訳の現場にいると、この3つの言語機能のうちの表現機能だけが強く意識され、その一方で、認識、思考という他の2機能がほとんど意識されないことが多い。その結果、音声体系や個々の表現の習得といったことばかりが重視されることになる。認識、思考の領域にまで踏み込んで3つの言語機能を統合的に扱う包括的教育体系は、まだ開発されていない。

いっぽう翻訳の現場では、英語教育や通訳の現場とは異なり眼前には他者が存在しないという環境にあることから、表現だけでなく思考や認識の領域にまで踏み込んだ考察も、かなりみかけられる。私が翻訳講座で配布している「翻訳講座道中記」でおこなってきた考察も、そのひとつである。

「道中記」においてここまで私が書いてきたことは、日本語と英語の表現の違いについてではなく、認識と機能の違いについてであった。認識については現在の認知研究をベースに考察を行い、機能については三上章などの日本語文法論をベースに考察したうえで、翻訳という観点から体系化しようとするものである。

現在、文/センテンスのレベルでの考察がひととおり終わったところである。今後は文/センテンスの表現の領域、すなわち「文体」についての考察を行っていく予定である。文/センテンスの複合体であるテキストについての考察はその後のことになる。

文体についての考察が終われば、文/センテンスレベルでの考察全体が、ようやくまとまる。そうすれば、日本語と英語のあいだを往来するための新しいツール、従来の英文和訳にとって代わる新たな翻訳メソッドのかたちが見えてくるはずである。そしてその新メソッドは、翻訳だけではなく英語教育も根本的に変える強力なツールとなるのではないかと思っている。

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