成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

Atom主義とRatio主義

2010年9月10日

近代西欧的世界には2つの「主義(イズム)」がある。Atom(原子)主義とRatio(比)主義である。この2つのイズムを正確に把握しないかぎり、私たちが生きているこの近代西欧的世界を本当の意味で理解したことにはならない。

「Atom(原子)」は「物質を構成し、それ以上の分割が不可能とされる元素」のことである。ギリシャ語のátomos(分割されない)を語源とする。実体や現象をatomにまで分割し、それを再統合することで真理に到達できるというイズムがAtom主義である。

Ratio主義は実体や現象にみられる「Ratio(比)」のなかにこそ真理が存在するというイズムである。Ratio(比)はReason(理性)のもとになった語である。西欧世界においてはRatio(比)とはReason(理性)である。

西欧世界のことであるからAtom主義もRatio主義も起源をさかのぼればギリシャにまで行き着く。だがギリシャの哲人たちがこれらの主義を思考の一プロトタイプと考えていたのに対して、デカルトを始祖とする近代西欧の知性たちはこの2つのイズムを真理探究への唯一絶対の方法と捉えてしまった。ここに根源的な過ちがあった。

現在の世界にはAtom主義とRatio主義が蔓延している。経済学者たちは諸々の経済現象をAtomに分割してRatioに置きなおすことで人間の社会活動が正しく把握できると信じている。言語学者たちは言語をAtomに分割して再統合することで人間の言語活動を洞察できると主張する。教育学者たちは偏差値というRatioで人間の持つ知的能力を測定できると規定する。

こうしてあらゆる知的活動が断片化され、全体性を失っていく。あらゆる自然物は水素や窒素などの元素の集積体とされ、人間はDNAという名の設計図による構築物とみなされる。世界は切り刻まれ、人間は物質化する。

Atom主義とRatio主義に染まってしまえば、そこにみえる世界はAtomとRatioで満ち溢れている。自己利益最大化を人間の本性と規定した経済学者たちは、それを証明するべくそれにふさわしい証拠を次々と見つけだしていく。そして自己利益最大化こそが人間の本性という確信をますます深めていく。言語には主語が存在すると規定した言語学者は、あらゆる言語のなかに主語を見出していく。そうして主語こそが言語の本質的要素だと固く信じるようになる。

近代西欧主義者たちは自分が見たいものしか見ない。自分には見えないけれども確かにそこにあるものを信じることができない。

自然や人間の本当の姿を見いだすためには何をすればよいのだろうか。Atom主義とRatio主義に凝り固まった近代西欧的世界観を捨て去り、そのかわりとして瞑想(禅)に代表される東洋的世界観へ回帰すればよいのだろうか。そんなはずはない。それは逃避にすぎない。

いま私たちがなすべきことはAtom主義とRatio主義を捨て去ることではない。それを正しく乗り越えていくことである。Atom主義とRatio主義が持つ意義とその限界を正しく理解し、そのうえで、それをうまく使いこなしていくことである。

だがそれにはまず思考の中心に断片性ではなく全体性を据える必要がある。専門力ではなく教養力を深める必要がある。断片化された細切れの知識ではなく全体を広く見渡せる豊かな知性と感性を、みずからのうちに育てていく必要がある。この真の意味の教養力をつうじて世界の全体性を復権することこそ、私たちに課せられた最大の課題である。

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