成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

in front ofの思い出

2010年6月10日

20代になってから英語を本格的に勉強しようと思い立ち、最初にはじめたのが聴きとりのトレーニングだった。なにしろお金がなかったので神田神保町の古本屋でEnglish Journalの古いバックナンバーをカセットテープ付きで数十冊購入して(全部で1万円もしなかったと思う)、それをとにかくかたっぱしから聴いていくことにした。

最初は、本当に何も聴きとれなかった。ディクテーションをするのだが、10分ほど聴いても結局ひとつの単語も書きとれないこともあった。これでは英語で飯を食っていくのはとても無理かなあと思った覚えがある。

それでも一年、二年とたつうちに、少しずつだが、英語の音が聴こえてくるようになった。高校時代までに完璧にマスターした「カタカナイングリッシュ」発音のほかに、本当の英語発音が少しずつ身につきはじめていると感じた。

しかしそれでも、何度ディクテーションしても聴こえてこない表現が、たくさんあった。そのなかでももっとも手ごわかったのが、in front ofである。

あるとき、テープの一部を何度聴いても聴いても聴きとれないことがあった。しかたがないのでテキストをみてみると、in front ofと書いてある。しかし、これはおかしい。その聴きとれない部分というのは、時間にすれば、ほんの一瞬にすぎなのだ。つまり、どう考えても、in front ofのような長い音声がそこに入る余地などない。そう考えながら、さらに何度も何度も聴くのだが、やはりin front ofなど聴こえてはこない。そこにあるのは、なにかもごもごっといった感じの音のかたまりにすぎないのである。これは一体なんなのだ。

当時、聴きとりと同時に英語音声学の勉強もはじめていたから、英語の音には結合や脱落といった音の変化があることはすで知っていたが、それでも聴こえないものは、聴こえない。

そうやって100回、いや200回ぐらい聴いただろうか。あるとき、あれっ?と思った。あれほどワケのわからなかったin front ofが、なんとなくだが聴こえてくる気がするではないか。そのうちに、たしかにin front ofとしてはっきりと聴こえはじめた。じつに不思議な感覚だった。

ようするに聴きとりとは音声におけるパタン認識なのである。視覚における文字の読みとりと同じことだ。たとえば私たち日本人には、ひらがなであれば、ある程度くずしたかたちをしていても、なんとか読むことができる。しかし外国人にはそうしたマネはできない。いっぽう英語の手書きの文字はまさにその逆で、私たちのような英語ノンネイティブには何が書いてあるかさっぱりわからないが、英語ネイティブには読めてしまう。パタンとは、物理的にそこにあるものではなく、それぞれの文化に根ざしたものなのである。

さて、こうしてin front ofの音に慣れてしまうと、ほかの表現、たとえばsome ofやinstead ofも聴こえるようになっていった。おそらくinやofの音声パタンに少し慣れたのである。より具体的にいえば、inが「イン」、ofが「オブ」とは、音としてつながらなくなったのである。

その後も英語の聴き取りのトレーニングを続けるなかで、聴こえない表現をひとつずつ分析し、理由を突き止め、その後に繰り返し繰り返し聴くことによって、その音声パタンの習得を目指していった。もちろん外国人のことだからネイティブのように英語を聴きとることは不可能なことだが、ようやくある程度ではあるが英語を英語として聴けるようにはなったのかな、と思う。

こうした経験から、外国語の音声学習における私の黄金律は「アタマで理解し、カラダでおぼえる」である。リクツばかりを勉強しても外国語の音韻パタンはマスターできない。しかし、逆にただ浴びるように聴いているだけでも、やはり外国語の音韻のマスターはむずかしい。とくに成人の場合には、まずそれぞれの音韻パターンをすみずみにいたるまで理解し、そのうえで、繰り返し繰り返し練習してカラダに叩き込むのがよい。その意味で歌の歌詞をきっちりと分析し、そのうえで何度も歌いこむのは、外国語の音声習得にとって最良のトレーニングのひとつである。

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