成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

Nominalization (2)

2010年6月28日

「Nominalization」では名詞化(Nominalization)について一般的な解説をおこなった。ここでは、それに続いて名詞化の具体例をみていくことにする。例文としては、オバマ大統領政権初のEconomic Report of the Presidentのものを用いることにする。Economic Report of the Presidentとは米国政府の年次経済報告書のことで、荒っぽくいってしまえば日本の「経済財政白書」のようなものと思えばよい。まず第一のセンテンス例である。

These actions as well as the very existence of a better-funded global lender may have helped to keep the contraction short and to prevent sustained currency crises in many emerging nations.

今回の世界金融危機におけるIMFの役割に関して述べたパラグラフの一部分である。今回IMFは危機対応として資金量を3倍に増強し、新興国への与信枠の拡大などの対応策をおこなった。このパラグラフではそうした危機対応策を具体的に説明したのち、上記のセンテンスが述べられている。These actionsとはIMF対応策のことであり、a better-funded global lenderとは実質的にはIMFのことである。

このなかのthe very existence of a better-funded global lenderの部分が名詞化の例である。the very existence のveryは形容詞で「真の(意味での)、まさしく本物の、正真正銘の、そのものずばりの、本当の」(ランダムハウス英和辞典)といった意味。句全体の意味は「資金量の潤沢なグローバルな貸し手が間違いなく存在するということ」で、名詞化をやめて動詞を使って表現するとすればthe fact that a better-funded global lender exists undoubtedlyあたりがふさわしい。the very existence のかたちになっているのは、そのほうが賢そうにみえる(と書き手が思っている)からである。こうした文体は学者が好んで用いるのでAcademese(学者文体)と呼ばれている。そのほかに法律家が好んで用いる文体はLegalese(法律文体)、官僚が好んで用いる文体はBureaucratese(官僚文体、お役所言葉)と呼ばれる。いずれも受動態と名詞化の過剰使用が特徴である。

つぎに考えるべきはこのセンテンスをいかに日本語に訳すかである。まずEconomic Report of the Presidentの翻訳版である毎日新聞社発行の『米国経済白書』の訳文をみてみよう。

「これらの措置は、基金が充実した世界の貸し手の存在そのものとともに、多くの新興経済国において収縮をとどめ、持続的な通貨危機を予防するのに役立ってきたのかもしれない。」(『米国経済白書2010』、萩原伸次監訳、毎日新聞社、p.110)

経済学者が翻訳したものであるから当然ながら英文和訳体である。ゆえに当然ながらよくわからない。とくに「基金が充実した世界の貸し手の存在そのものとともに」という日本語はかなりシュールである。英語の名詞化をそのまま漢語化するとこうした日本語になる。柳父がいう「カセット効果」(自分に理解できないものほど高尚で価値が高いという日本人の意識)を利用した学術系翻訳文の典型例である。

わたしの翻訳例は以下のとおりである。まだ改善の余地は多々あるが、英文和訳体よりはわかりやすいと思う。

「資金量の潤沢なグローバルな貸し手が確かに存在するという安心感にくわえて、上記のようなさまざまな具体策が講じられたことは、多くの新興国において、信用収縮を短期的なものにとどめ、ひいては通貨危機の長期化を食い止めることにつながったといえよう。」

名詞化の部分については動詞表現にパラフレーズして訳している。A as well as Bというかたちは、「BのみならずAも」「BにくわえてAも」というように、Aが旧情報、Bが新情報というのが基本的な意味である。最近ではA as well as BをA and Bとほぼ同様の意味で使う例も多くみられるが、このセンテンスでは、まず信頼できる貸し手がたしかに存在し、それが具体的な危機防止策をとったという順序を表すことが重要である。

述語動詞部分のmay have helpedという表現の裏側にあるのは、書き手のきわめて慎重な態度である。とくにhelpの使い方にそれが顕著に現れている(helpについては別項にて詳しく説明する)。なにしろ米国政府の公式文書であるから、うかつなことはいえない。訳文としては「~といえよう」というかたちにしておいた。いずれにしろ、公式文書としての慎重さ(臆病さ)を日本語の世界でうまく表現できればよい。

そのほかの表現は、なるべく和語を多く使うようにした。そのほうが日本語として自然であり、誰にもわかりやすいからだが、その一方で、節目節目の概念には漢語表現を使っている。漢語表現は日本文化の要であり、とくに実務分野の翻訳で漢語を使わないで済ますことはほぼ不可能である。したがって、いかにうまく漢語を使いこなすかは英日翻訳者にとって最大の課題のひとつである。

第二の例は次のものである。

The failure of this shock to turn into a series of deep sustained financial collapses across the emerging world was a welcome development that left the world economy better positioned for a quick turnaround.

今回の金融危機では、1997年のアジア金融危機のときとは違って、各国の金融市場が次々と連鎖的に崩壊していくという事態には陥らなかった。このセンテンスは、その理由について述べたパラグラフの最後のものである。

このセンテンスはSVC構文である。The failure of this shock to turn into a series of deep sustained financial collapses across the emerging worldがS、wasがV、a welcome development that left the world economy better positioned for a quick turnaroundがCである。こうしたbe動詞は “Copula”(コピュラ)と呼ばれる。ラテン語で「連結」の意味を表す名詞で、日本語では繋辞(けいじ)と訳されている。

このように極端に長いSとCをbe動詞でくっつけて一文にするというやり方は、受動態や名詞化などととともに、Academese、Legalese、Bureaucrateseの典型的な特徴のひとつである。英語ネイティブのあいだではセンテンスは長ければ長いほど「知的」であるという考え方が根強い。逆に短いセンテンスは「子供っぽい」というイメージである。そこでなんとかしてセンテンスを長くしようとする。結果として生まれたのがこの長いS、コピュラとしてのV、長いCという構文である。

実際にはこのセンテンスは以下の2つのセンテンスの複合体である。
This shock didn’t turn into a series of deep sustained financial collapses across the emerging world.(このショックは、新興諸国のあいだで深刻かつ持続的な金融崩壊が次々と生じるという事態には向わなかった。)
·It is welcome that the development left the world economy better positioned for a quick turnaround.(事態がこのように進んだことは世界経済の迅速な回復に向けての基盤強化につながるものであり、喜ばしいことである。)

この2つの内容を別々に述べるのではなく名詞化を使って一体化することによってセンテンスを長くしたのがオリジナルの英文センテンスである。その結果、センテンスの長さは34ワードになった。上記の2つのセンテンスはいずれも20ワード以下であるから、十分に長い。一般的に30ワードを超えれば長いセンテンスといってよいようである。

訳文については、やはり『米国経済白書』の訳文からみていくことにしよう。

「このショックが新興市場を通じた一連の深刻かつ持続的な金融崩壊へ転化しなかったのは、喜ばしい事態であり、世界経済は素早い反転に向けて比較的良い態勢にあtった。」(『米国経済白書2010』、萩原伸次監訳、毎日新聞社、p.96)

ここで訳者は英文和訳の世界から一歩踏み出して、The failure of this shock to turn into…という名詞化表現に対して「このショックが(略)転化しなかったのは」という動詞表現を使っている。おそらく名詞化のままでは訳語が見つからなかったのだろう。「このショックの失敗」は日本語としてさすがに無理である。一方、a welcome developmentについては「喜ばしい事態」と名詞表現のままで押し通している。日本語として許容範囲だという判断なのであろう。そのかわりにdevelopmentの訳語については「事態」とせざるを得なかったようだ。「発展」「進展」としたいところだろうが、それでは日本語として成り立たない。

わたしの翻訳例は以下のとおりである。

「こうして、このショックによって新興諸国のあいだで深刻かつ持続的な金融崩壊が次々と勃発するという事態は避けられた。さらに喜ばしいことに、状況がこのように進展したことで、世界経済の迅速な回復に向けての条件がいっそう整ったといえる。」

名詞化やCopulaなどを使ってセンテンスを長くするという英語ネイティブの手法を英文和訳手法と漢語化をつうじてそのまま日本語の世界に持ち込むのは、かなりの無理筋である。英語には英語の世界があり、日本語には日本語の世界がある。そのあいだをつなぐのが翻訳の役目だが、英文和訳手法と漢語化だけでは、そのツールとして明らかに不十分だ。いま必要とされているのは、英文和訳手法と漢語化をも含む、より包括的で精度の高い翻訳手法とツールである。

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