「こいさん、頼むわ。」――『細雪』の出だしを訳してみると

2011年8月17日

「こいさん、頼むわ。――」
鏡に中で、廊下からうしろへ入ってきた妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、それらは見ずに、目の前に映っている長襦袢姿の抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何してる」と幸子はきいた。

谷崎潤一郎の名作、『細雪』の出だしです。以下はサイデンステッカーの訳です。

“Would you do this please, Koi-san?”

Seeing in the mirror that Taeko had come up behind her, Sachiko stopped powering her back and held out the puff to her sister. Her eyes were still on the mirror, appraising the face as if it belonged to someone else. The long under-kimono, pulled high at the throat, stood out stiffly behind to reveal her back and shoulders.

“And where is Yukiko?”

日本語では一文ですが、サイデンステッカーは、それを5つの英文センテンスとして訳しています。『細雪』では、谷崎自身、わざとひとつの文を長く長くするように工夫をこらしています。それが、美しく没落していく大阪の商家の三姉妹を描写する最適の文章手法だと、谷崎はみなしていました。サイデンステッカーは、そうした谷崎の手法を知りつつも、それを英文にそのまま移しかえることができないことも、知っていました。そこで5つのセンテンスにしたのです。日本語と英語の持ち味の違いが文章づくりの名人たちの手によって意図的に反映されている恰好の例だといえます。

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