成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

「女房に死なれる」のも「女房を死なれる」のも、まっぴらごめん

2011年10月4日

一般的に「~れる/られる」は「受け身」、「~せる/させる」は「使役」とされている。英日翻訳では、英語の受動態を「~れる/られる」、英語のmake O Vを「OをVさせる」と訳すことが多い。

だがこれが日英翻訳となると、話が少しややこしくなる。たとえば上記の「……「~せる/させる」は「使役」だとされている。」の「されている。」は、どのように訳すのだろうか。あるいは「お客さんから文句をいわれちゃった。」「まあ勝手にいわせておけばいいさ。」は、どのように訳すのだろうか。「いわれた」も「いわせる」も、たんなる「受け身」「使役」ではない 。

たしかに「受け身」「使役」は「~れる/られる」「~せる/させる」の用法の重要な一部ではある。しかしそれらの本質を示すものではない。「~れる/られる」「~せる/させる」の本質は、やはり認識レベルにまで考察を深めてみて、はじめて理解できるものである。

「舞台」モデルの認識での「~れる/られる」とは、「コト」に対して話し手/書き手の力が及ばないことの意思表示である。以下の例文をみてほしい。

昨日、泥棒に入られた。
女房に先に死なれてしまってねえ。
外出先で雨に降られちゃった。
お客さんから文句をいわれた。
日本でもIFRSが2012年に導入されるそうだ。
今回の課題には、ずいぶん苦労させられている。

ここでは「入る」「死ぬ」「降る」「いう」「導入する」「苦労させる」のいずれの「コト」に対しても、話し手/書き手の力は及ばない。この「どうしようもない」感が、「~れる/られる」の本質である 。





韓国出身の呉善花によると、こうした「自分ではどうしようもない」感覚は韓国語にはないという。韓国語では「泥棒が入った。」とはいうが、「泥棒に入られた。」とはいわないそうだ 。日本語とほぼ同様の格助詞体系をもつ韓国語にもみられないものだとすると、この感覚は日本独特のものである可能性が高い。日本文明の根源につながるものかもしれない。

繰り返すが、「舞台」モデルの認識では「~れる/られる」は「コト」に対する話し手/書き手の無力感の意思表示である。これを「主体・客体」モデルにあてはめてみれば、それが「受動態」となる。

「舞台」モデルの認識では舞台で起こる「コト」そのものが認識の中心だが、「主体・客体」モデルで認識の中心となるのは、主体と客体のあいだの関係性である。その際、主体から客体に向けて力が及べば「能動(Active)」、逆に客体から主体に向けて力が及べば「受動(Passive)」と呼ばれる。




この関係を日本語で表現するには、能動には「~する」を、受動には「~される」を用いることになる。これが「~れる/られる」イコール「受動態」の意味である。

たとえば In Japan, IFRS will be introduced in 2012. という英文を日本語に訳すと「日本では国際会計基準が2012年に導入される。」となることが多い。学問・ビジネス関連の日本語は「主体・客体」モデル認識に強く傾斜しているので、これはこれでよいだろうが、もっと一般的なテキストの翻訳の場合にはなかなかこうはいかない。「主体・客体」モデル認識ばかりで書かれた日本語はどうしても乾いたイメージの文体になる。恋愛小説にはあまり向かないかもしれない。

いっぽう日英翻訳では「~れる/られる」イコール受動態ではまったくうまくいかないことがきわめて多い。上記の「女房に先に死なれてしまってねえ。」とつぶやく男の心のうちは、英語の受動態を使って表現できるものではない。

つぎは「~せる/させる」である。「舞台」モデルの認識での「~せる/させる」とは、「コト」に対して話し手/書き手の力がきわめて強く及ぶことの意思表示である。以下の例文をみられたい。

女房を先に死なせてしまってねえ。
そんなお客には文句をいわせておけばよい。
今回の課題では、ずいぶんと苦労させたようですね。

ようするに「~せる/させる」とは「~れる/られる」の真逆なのである。「~れる/られる」が「自分ではどうしようもない」感覚であるのに対して、「~せる/させる」は「すべては自分の手の内」感覚なのだ。「女房に先に死なれてしまってねえ。」と「女房を先に死なせてしまってねえ。」の2つの表現は、この自己責任の有無の違いを明確に表している。

いずれにしても、いつかこんなセリフをはくのは、まっぴら御免である。

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