成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

ユリイカ「日本語が亡びるのか?」特集号について

2011年10月30日

ジュンク堂でたまたまユリイカの「日本語は亡びるのか?」特集号(2009年2月号)をみつけた。水村美苗の著書『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』について、水村自身のインタビュー形式での解説と、同書に対するさまざまな人物の論評が掲載されていた。

水村のインタビュー記事は、とても面白かった。『日本語が亡びるとき』を読んだときには気づかなかった水村の意図を知ることができた。インタビューで水村が述べていることを思い切ってまとめてみれば(たぶん思い切りがよすぎだが)およそ次のようなことである。

第一に、日本語が亡びるというのは日常の日本語がなくなるという意味ではなく、高度に知的な日本語文章がなくなってしまうということである。

第二に、もしそうなれば、それは世界的な損失である。なぜならば、日本語の文章世界はきわめて独自の進化を遂げたものであり、また世界の主流となった英語的な文章世界とはまったく異なる世界観のもとに成り立っている。その意味で英語的(西欧的)文章を十分に補完できる存在である。

そして第三に、しかしこのままでいけば日本語の高度な文章世界は亡びてしまう可能性が高い。そこで、それに対する具体的対策として次の3点を挙げている。(1)日本語文章のカノン(規範)をつくる。それには漱石や鴎外がふさわしい。(2)真の意味のバイリンガルを育てる。彼らが本当の意味のエリートとなって日本語の知的文章を護っていく。(3)翻訳を改善する。それによって日本語だけでも英語と同等の知的レベルに達せられるようにする。

インタビューのなかには引用したい部分が非常に数多くある。そのうちの一部のみを紹介する。

「いまがんばらなければ、日本語が<現地語>に堕ちる可能性がある。歴史を振り返り、日本に近代文学があったのを思えば、それではあまりに勿体ないではないかということなんですね。」

「このようなことは、英語のとてつもない力を知っている<二重言語者>の方が理解しやすいかもしれない。日本語を護るために、その意味でも、<二重言語者>が増えることに意味があるかもしれません。」

「フランスはさまざまな方法でフランス語を護ろうとしています。でも、フランス語が残るより日本語が残ることのほうが世界にとっては重要なんです。五感の感覚も含めて、世界を理解する言語としての非西洋語を意識的に残す必要があると思います。」

「自然科学においても翻訳文化を維持するのは大切だと思うんです。もちろん、母語で思考する方が人間にとって楽だということもあります。外国語で思考するとどうしても言葉を操ること自体に知的なエネルギーをとられてしまう。でも、さらに心すべきは、非西洋語で思考することによって、西洋語では見えにくいものが見えてくるという言葉の固有性が持つ力だと思います。日本の自然科学者は、学問の<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためにはなんとかがんばって英語で書かなくてはなりませんが、日本語で思考するということは、発想の転換を可能にし、自然科学そのものに貢献できると思うんです。」

一方、水村の『日本語が亡びるとき』に対する他の論者の文章については、あまりのつまらなさに非常に驚いた。あの蓮実重彦の文章でさえも、真正面から水村の提起した問題に立ち向かっているとは到底思えない。ましてや他の論者においてをや、である。正直なところ、みんなこの程度なのか、という印象である。日本語と英語(を含む西洋語)との関係性に関する思索において、水村のレベルにまで到達している論者は一人として見当たらない。これでは水村の『日本語が亡びるとき』が誤読されるのも当然である。

水村はインタビューで今後は日本語の問題から少し離れたいと述べているが、日本語と翻訳ばかりを追いかけている私としては、たいへんに残念なことである。水村がふたたび日本語の世界に戻ってきてくれることを心待ちにしたいと思う。

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