成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

二本足の思考

2011年10月15日

先の道中記で野中郁次郎(一橋大学名誉教授)と徳岡晃一郎(多摩大学教授)の「共通善への回帰」と「論理思考偏重からの脱出」という主張をご紹介した。このうちの「共通善への回帰」についてはおそらく多くの方々が違和感なく受け止められることと思う。共通善とは呼ばれてこなかったが、日本にはもともとそうした文化が深く根付いているからである。

その一方で、「論理思考偏重からの脱出」については違和感を持たれる方も多いのではないだろうか。論理思考からなぜ脱出しなければならないのかという素朴な疑問を抱かれるのも、ある意味で無理のないことだ。だが、野中と徳岡はなにも論理思考がまったく無意味だなどといっているのではない。欧米の学問のように論理思考を金科玉条のごとく取扱い、すべてを西欧的論理にゆだねることに対して異論を唱えているのである。同論文で二人は次のように書いている。

「もう一つは主観を排除した論理思考偏重の破綻だ。企業経営は現実から乖離した論理分析をもとにした戦略を策定し、それを実践する予定調和的な道具に堕したのではないか。目標や評価尺度の収益への一元化、世界の歴史の多様性を無視した利己主義、そして現場の現実からの遊離につながった。米ハーバード大学のマイケル・ポーター教授流の合理的戦略論、演繹法と二項対立に単純化する論理分析至上主義の経営からイノベーションは起きなかったことを再認する必要がある。そこからはマネーゲームが発生しただけだった。」
(野中郁次郎、徳岡晃一郎、日経新聞 2011.10.14)

論理思考偏重の戦略論がつくりだしたものは「目標や評価尺度の収益への一元化」「世界の歴史の多様性を無視した利己主義」「現場の現実からの遊離」であり、それは「演繹法と二項対立に単純化する論理分析至上主義の経営」として実践され、その結果としてイノベーションは生まれず、かわりに生まれたのがマネーゲームだった、というのが野中と徳岡の見立てである。

こうした状況を克服するべく欧米で取り組まれているのが、「目標や評価尺度の収益への一元化」にとって代わる「トリプルボトムライン」、「世界の歴史の多様性を無視した利己主義」から抜け出すための「フィランソロピー」、「現場の現実からの遊離」を補完すべき「ソーシャルビジネス」である。

だがそうした取り組みを行いつつも欧米ビジネスの本質は何も変わっていないと野中と徳岡はいう。さきの金融危機において論理だけで組み立てた金融商品がいかにいかがわしいものか、演繹的論理の帰結としての巨額報酬がいかに愚かしいものかを実感したにもかかわらず、欧米ではまたもや収益至上主義へとビジネス全体が戻りつつある。欧米はいまもなお「主観を排除した論理思考偏重」「演繹法と二項対立に単純化する論理分析至上主義」という旧来の思考の枠組みから抜け出せないでいるのである。

では欧米の枠組みに足りないものは何か。野中と徳岡は、それをかつての日本企業と対比させながら、次のようにいう。

「(日本企業を成功させたものは)それは分析や戦略計画ではなくリーダーたちの未来創造への執念だった。そのような高みに立った時に初めて既存の競争戦略を超える関係性が明らかになる。論理分析をはるかに超える現場での発見の過程で浮かび上がる、現実の背後に潜む関係性の洞察こそがビジネスモデルイノベーションである。震災時の対応や復興で示された現場力の強さもそうであり、論理分析至上主義の破綻をわれわれに直観させた。」(同上)

論理思考を見下ろす高みにまで至った未来創造への執念、それを実現するための現場からの実践知。それこそが欧米のビジネス理念に決定的に欠けているものであり、そして日本のビジネス、いや日本という国の独自かつ最大の強みであった。

だがその強みを、欧米流経営を無批判に模倣し欧米的論理思考を盲目的に賛美することによって、日本の企業と日本人はみずからの手で捨ててしまった。「ビジネスモデル」「ロジカルシンキンキング」などというカタカナ語の蔓延はそうした現代日本人の精神のいかがわしさと安っぽさの象徴である。

私たちは独自の価値を取り戻さなければならない。野中と徳岡の言葉でいえば「根底にある価値観に立ち返って徹底的に見直す自らを見直すべき」時である。だがそれは決してかつての日本精神に回帰することではない。目指すべきは新たなかたちでの再生である。日本の伝統の良さを継承しつつ、同時に欧米など異文化の良さをも十分に取り入れた、新しい日本人としての再生だ。

欧米ビジネスにおける論理思考偏重の弊害を指摘する野中と徳岡の主張は、そうした観点から読み解かなければならない。では欧米の論理思考偏重の理念に代わるべきものとは何か。それが欧米の論理思考と日本の全体思考との融合、すなわち「思考のバイリンガル化」である。

論理思考は役に立つ。それは間違いない。ただ、論理思考にあまりにも頼りすぎたことが大きな弊害をまねいているのである。したがって論理思考だけに頼るのではなく、もうひとつ別の思考形式を持つことが重要である。一本足では不安定だが、二本足なら倒れることもない。その別の思考形式のひとつが日本的な全体思考である。

日本的な全体思考とはどのようなものかについては稿を改めて詳しく説明をしたいが、まず大事なことは西欧的な論理思考に対する盲信や盲従をやめることだ。そしてそのうえで論理思考の有用性をきっちりと認識し、それをしっかりとマスターすることである。私たち日本人が新たなかたちでの再生をはかるには、そこが正当な出発点となるはずだ。

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