成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

思いやりのある論証

2011年9月24日

はじめに

本論は、私が2008年に書いた『新しい英語の学び方』のなかの論説の一部を改訂したものである。日本人の論証下手について解説し、その後、論証下手が単に日本人の非論理性に由来するのではなく、日本人の「思いやりの心」に由来するものであることを説明した。

本論では、1995年に起こった阪神淡路大震災の際に発揮された日本人の思いやりの心について触れているが、今回の東北の大津波においても日本人の思いやりの心は十分に発揮された。日本人の思いやりの心は決して劣化していない。そのことを私たちは誇りに思うべきであり、そしてそれを今後もしっかりと守っていかなければならない。

と同時に、論証の技法もこれからの日本人にとってどうしても習得していかなければならないものである。かけ離れた理性や感性を持ったもの同士の共存共栄を図るひとつの強力な手段が論証であるが、現在の日本人はそうした他者との共存共栄を強く迫られているからである。こうした状況は長い日本の歴史上でもはじめてのことであり、これまでに日本人が培ってきた思いやりの心だけでは十分に対応できない。私たちが論証の技法をどうしても習得しなければならない理由はここにある。

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論証とは何か

「論証」(Argumentation)とは、言葉(ロゴス)の価値に絶対的な信頼を置き、そのうえで、その操作から導き出される結論を社会及び個人の最上位の規範として認めるという思考のあり方をいう。

論証は、ギリシャ時代から続く西欧社会の伝統である。ソクラテスの弁証法も論証形式のひとつであり、彼が毒杯をあおったことも言葉に対する絶対的な信頼あるいは盲従をあらわすものといってよい。現代では政治家の演説が論証の代表格である。政治家は言葉が命だというが、それはこうした西欧の伝統に負うところが大きい。一方で日本の政治家の言葉があれほど軽いのは、日本社会がそうした伝統を持たないためだとも考えられる(もちろん資質の問題もあるだろうが)。

具体的には論証とはどのようなかたちで行われるのだろうか。論証の主要要素をみてみよう。

1. 論題の解説
2. 主張(Thesis Statement)の提示
3. 反対論証(Opposing arguments)の要約
4. 反対論証に対する反論(Rebuttals)
5. 自分自身の論証

これをもう少しくだいていえば、

1. まず何を議論するかを述べ、
2. 自分の主張を述べ、
3. 自分とは異なる主張を紹介し、
4. それを批評し、
5. 自分の主張の根拠を述べる

というやり方である。論証のやり方はこれだけではないが、これが最もオーソドックスな論証のあり方といえよう。

まず論証のテーマを宣言する。議論に一定の枠組みを設定するのである。これをしないと議論が思わぬ方向へ進んだり、いろいろな方向へと勝手に拡散してしまう恐れがある。

つぎにそのテーマにおける自分の意見や主張を述べる。ここが論証の中核となる部分だ。誰にでもわかるように明快かつ簡潔に述べるのが基本である。

つづいて自分とは異なる意見や主張を紹介する。これが西欧的な論証の特徴のひとつだ。自分の意見や主張を述べるだけでは主観的とみなされてしまう。他者の意見や主張についても触れることで客観性が担保される。自分の視点を離れて神の視点でそのテーマをみていることを他者に知らしめることができるのである。

つぎにそうした他者の意見や主張を否定する。他者を否定することによって自己の意見や主張の優位を際立たせるのである。こここそが西欧的な論証における最大のポイントのひとつといえる。この他者の意見や主張の否定には背理法の応用手法がよく用いられる。つまり、もしその意見が正しいとすれば矛盾が生じることを論じるのである。

こうしてライバルとなる他の意見や主張を否定しておいてから、最後に自分の意見や手法の論拠を述べる。これによって自分の意見や主張の正当性をさらに強化するのである。

日本人の思いやりの心

こうした議論の進め方をすることが、ふつうの日本人はとても苦手である 。なぜ苦手かというと、相手のいうことを否定するなどということはあまりにも極端であり、そもそも相手のいうことにも必ず一理はあるからである

それに、こうした論の進め方をすると自分がとてもいやな人間になったような気がする。この手の議論では相手の意見を否定して自分の意見をなんとしても通そうとする。ふつうの日本人はこうしたことをする人間が心情的に嫌いである。そこに他人に対する「思いやり」といったものが感じられないからだ。人間としてどこか歪んでいるように感じてしまう。だからこうした議論の進め方をしたくないのである。できないのではない。やろうと思えばできる。だが、したくないのである 。

論証には自分以外の他者が必要不可欠である。自己と他者。この二者が対立するところにこそ論証が生じる。逆にいえば、他者の存在しないところには論証というものは存在しない。そして日本人は本当の他者というものを基本的に知らない。争いの少ない枠組みのなかで数千年も生きてきたものだから、自己と他者を厳しく対立させつつもその一方でお互いに可能なコミュニケーションをとるというテクニックを日本人は身につけてはこなかった。

そのかわりに、自分と相手をなんとか融合させようというテクニックを日本人は育ててきた。それが「思いやりの心」である。相手をつねに思いやって接することこそが日本人のコミュニケーションの基本形であり、そこには自己と他者との融合はあっても対立はない。これでは相手の意見を否定して自分の意見を通すなどというテクニックが育つはずもないし、またそういうことをすることを歪んで感じるのも自然なことである。

このように日本人が思いやりの精神を伝統としていることを私たちは誇りにすべきである。たとえば1995年の阪神淡路大震災の際、そこでは略奪行為がまったく起こらなかった。あの極限状態のなかでみんながお互いを思いやって日々の暮らしを送っていた。あるいは東京の真ん中でも畑のちかくに小屋をたてて無人で野菜を販売している光景がみかけられる。その野菜は誰もみていないにもかかわらず、ほとんど盗まれることはない。その野菜を育てたお百姓さんの気持ちを私たちは自然と思いやることができるからである。東京の真ん中で落し物をしても多くは戻ってくる。落としものを見つけたひとが落とした人の気持ちを思いやることができるからだ。

近年こうした思いやりの心が日本人のなかで少し危機的状況にあることは確かであろう。しかしそれほど心配することはない。阪神淡路大震災や無人野菜販売や落し物にみるように私たちの心の奥底にはこうした思いやりの心がまだしっかりと根づいている。いま表面の枝葉にあたる部分が少し枯れはじめているようにみえるのは、それは現代社会という土壌が荒れ果てているからだ。そのため間違った個人主義や拝金主義などという雑草たちがはびこっていて、思いやりの心にまで十分な栄養がいかなくなっているのだ。だがそうした雑草をていねいに引っこ抜き、社会という土壌の手入れをきっちりとしていけば、私たちのなかにある思いやりの心はもとのように元気になるはずである。私はそういった部分での日本人の強さを信じている。

思いやりのある論証

このように日本文化は相手を思いやる文化である。あるいは思いやることが可能であると信じている文化である。たしかに、まわりの人間がすべて自分にある程度近い感性や理性を持っているのであれば、それは可能であろう。だが、もしもまわりの人間が自分とはまったくかけ離れた感性や理性を持っているとしたら、この日本人の「思いやり」システムは、はたしてうまく機能するであろうか。まったくかけ離れているのだから、そもそも思いやるにも思いやりようがないのである。

では自分とはまったくかけ離れた感性や理性を持っている人間と出会ったとき、日本人はいったいどうしているのか。その伝統的なやり方が「いないことにする」である。たとえばある集団にまったく異質の人間が入ってくるとする。異質とはなにも日本人以外のことではない。その集団のウチではなくソトにいる人間のことである。

ウチには思いやりがきくがソトにはきかない。ではどうするのか。日本人は基本的に争いごとは好まない。そこで、いないことにする。そしてなるべく「あたりさわりのない」対応に務める。これですめば争いごともなくみんなハッピーというわけだ。だが、いないことにすることができるのは、よそものがまだきわめて少数派のときでしかない。もしよそものがかなりの数になったとしたら、いないことにするのはもはや現実的に不可能だ。いやがおうでも、よそものと対応せざるを得ないのである。

ではどうすればよいのか。その対応策のひとつが論証である。欧米世界とは歴史的にさまざまな異文化、つまりお互いによそもの同士が直接的に対峙してきた世界である。そのなかで殺し合いや略奪を避けるためには異文化間での最低限のコミュニケーションが必要だった。そのため彼らは思いやりではなく論証を発展させてきたのである。これを使うことで、お互いにまったくかけ離れた理性や感性を持った同士であっても共存が、そしてひょっとすると共栄が可能となるのだ。

16世紀以降に科学主義が勃興すると論証のかたちは分析統合という西欧科学の基本形にあわせて整理された。論証文はまさにその延長線上にあるものだ。議論の対象を可能な限り小さな要素に分析し、それを矛盾のないプロセスのもとに再統合していく。これが西欧的論証文の基本形である。論証文でやっているのは基本的に科学研究と同じ手法なのである。

お互いにまったくかけ離れた理性や感性を持った同士の共存共栄を図るひとつの手段が論証であると述べた。そして現在の日本人は、まったくかけ離れた理性や感性を持った他者との共存共栄を迫られている。こうした状況は長きにわたる日本の歴史のなかでもはじめてのことで、これまでに私たちが営々として培ってきた思いやりシステムだけでは十分に対応できない。私たちが西欧的な論証の技法を学ばなければならない理由がここにある。

ただし間違ってはいけないのは、西欧的な論証の技法を学ぶということは、なにも日本的な思いやりの心を捨てるということではないということだ。西欧的な論証の技法と日本的な思いやりの心は二者択一ではない。まったくかけ離れた理性や感性の相手にも理解できる技法を用いつつも、その相手に対する思いやりの心を忘れるべきではない。たしかに日本人同士のようなわけにはいかないかもしれないが、それでも相手の心をなんとか思いやろうという姿勢は相手の心に届くものである。21世紀の現在、世界の各文化の差異は以前と違って大きくせばまった。200年ほど前までのお互いにまったく理解不能であるというような事態はもう存在しないはずである。したがって21世紀の世界では日本的な思いやりこそがますます重要になってくるはずだ。先達が遺してくれた思いやりという貴重な文化を西欧的な論証の文化と融合させ、「思いやりのある論証」を確立することが現代の日本人に課せられた課題である。そしてそれができたとき、日本人は世界の文化に大きな貢献をしたことになる。

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