新しい英語の学び方 ――英語学習は読み書きから――

2011年9月26日

(これは私のつくった講座テキストである『新しい英語の学び方』からの転載です。300ページ以上の原稿を一挙にアップしているため長大なファイルになっています。またワード原稿からの転載のためにレイアウトの乱れなどが数多くみられることをご容赦ください。完全版をご覧になりたい方はJEIアーカイブからPDFファイルをダウンロードするか、あるいはhttps://sites.google.com/site/newwaytostudyenglish/homeをご覧ください。)

 

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新しい英語の学び方
――英語学習は読み書きから――

成瀬由紀雄

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目次

はじめに

<解説編>
I.英語学習は読み書きから
なぜ会話よりも読み書きを優先すべきか
読み書き重視への批判に対する再批判
日本に蔓延する英会話病
真の読み書き重視の英語教育の確立

II. 新しい英語学習のすすめ
英語ができない日本人
コミュニカティブ・アプローチの限界
1. これまでの英語教育
文法/訳読
現場で役に立たない
80年代が英語教育の一大転機
コミュニカティブ・アプローチとは
「英語を使える」ようにはならなかった
移民のための教授法
知的訓練の衰退
大学側が求めるもの
英語教育の危機
2. これからの英語教育
欧米崇拝をやめる
伝統回帰を避ける
知的訓練を優先する

III.英語の音
1. 英語学習はまず発音から
2. 日本人と英語の音
英語の音とコンプレックス
日本人アクセントは個性
カタカナ英語は英語ではない
日本語の音はシンプル、英語の音は複雑
英語の音は不安定、日本語の音は安定

3. 英語発音のポイント
英語の表記と発音
英語のリズム

4. 英語の音の学び方
従来の方法
表記を音に近づける

5. 具体的な学習法
ディクテーション
声を出して読む
うまくなるには繰り返すこと
教材

IV.センテンスの構造

1. 学習英文法
学校英文法を越える
文法観
文法で「心」は理解できない

2. 心の構え方
日本語の心の構え方
英語の心の構え方
心の構え方の日英の違い
「センテンス」と「文」
英文和訳は誤訳

3. センテンスの組み立て方
英語では並べ方が最も重要
サブジェクト
プレディケイト
モディファイア
組み立て方の骨格
S, P, Mの実際
並べ方を変える

4. センテンスの学び方
意味のかたまりの把握と予測
語・句・節
並べ方のパターン

V.センテンスの良し悪し

1. 英語の「良し悪し」
英語にも「良し悪し」がある
「良し悪し」感覚の身のつけ方

2. 良し悪しの基準
無駄がないこと
わかりやすいこと
魅力的なこと

3. 避けるべき表現手法
無駄なペア表現
重複表現
無駄な一般表現
無駄なモディファイア
大仰な言い回し
無駄な前置詞句等
無駄な否定表現
表現力の弱い動詞
受動態
名詞化
細切れセンテンス

VI. 時間・受動態・冠詞

1. 時間
物理的時間と心理的時間
英語の時間、日本語の時間

2. 受動態
受動態の働き
働きをよく見極める

3. 冠詞
世界の捉え方
数えられる、数えられない
特定化
つねに冠詞を強く意識する

VII テキストの構造

1. 英語テキストはブロック構造
英語はヨーロッパ庭園
日本語は日本庭園

2. アカデミック・ライティング
ふつうのテキストのためのモデル
基本構造
Introduction
Body
Conclusion

3. テキストタイプ
Process Essay
Cause/Effect Essay
Comparison/Contrast Essay
Argumentative Essay
日本人の思いやりの心
思いやりのある論証

VIII.テキストの良し悪し
1. 無駄がないこと
繰り返し表現
メタディスコース
2. わかりやすいこと
論理的
流れがよい

3. 魅力的なこと
めりはりとリスム
比喩

IX.文体
1. 文体教育の不備
学校でなぜ文体を教えないのか
文体教育のない弊害

2. 文体をいかに学ぶか
筆写の効用
文体の種類
読み手と文体
アングロサクソンvsラテン
職業方言
新しい時代の文体

X.日本人と英語
1. 国際語としての英語
English as an International Language
EILと文化
EILと規範
ネイティブ崇拝

2. 日本人の英語
World Englishes
イングリック
日本人のめざすべき英語
XI. 教材と学習方法
教材
学習方法
おわりに

<リーディング実践編>

はじめに

I.「読む」準備
読む際の注意点あれこれ
時間はどのくらいかかったか
わからない単語はどのくらいあったか
どのくらい理解できたか
返り読みはしなかったか
訳さなかったか
重要と思うところ下線は引けたか
実践演習

II.なめらかに読む
多読は長距離走
娯楽書を読む
実務書を読む
時間読み
オーディオブックを利用する
実践演習

III.分析的に読む
点検読書
表面読み
内容解釈
実践演習

IV.速く読む
自分のリーディングスピードを知る
速く読むための7つのコツ
(1)「リーディング視野」を広げる
(2)スピードを臨機応変に変える
(3)理解が深まる適正なリーディングスピードがある
(4)本はどこから読んでもかまわない
(5)わからない語や表現が出てきてもそのまま読み続ける
(6)ポインターとして指やペンを積極的に使う
(7)読書の目的を峻別する
速読のための英文テキスト

実践演習

V.対話的に読む
印をつける
欄外にコメントを書く
書評を書く
実践演習

<ライティング実践編>
はじめに

本編の使い方

I.センテンス
1. SVO
2. SVC
3. キャラクター・アクション
4. トピック・コメント
5. クローズ/フレーズレベルのトピック・コメント
6. 受動態
7. 時制/アスペクト
8. 進行形
9. 叙想法
10. 名詞化
11. 冠詞
12. 助動詞
13. 前置詞
14. センテンスの接続
(1) 接続詞を使う
(2) セミコロンを使う
(3) 副詞節を使う
(4) 形容詞節を使う
(5) 名詞節を使う
(6) 分詞構文を使う
(7) 独立分詞構文を使う
(8) 挿入表現を使う
15. 「よいセンテンス」とは

実践演習
例題1
練習問題1
例題2
練習問題2
練習問題3
例題3
練習問題4
例題4
練習問題5

II.パラグラフ
1. アカデミック・ライティング
2. パラグラフと段落
3. パラグラフの構造
(1) トピックセンテンス
(2) サポートセンテンス
(3) コンクルーディング・センテンス
(4) つながり

実践演習

例題1
練習問題1
練習問題2
例題2
練習問題3
練習問題4

III.エッセイ
1.エッセイとは
2. イントロダクション
3. ボディ
4. コンクルージョン
5. エッセイの4タイプ
(1) プロセス・エッセイ
(2) コーズ/イフェクト・エッセイ
(3) コンパリズン/コントラスト・エッセイ
(4) アーギュメンタティブ・エッセイ

実践演習

練習問題1
練習問題2
練習問題3
練習問題4
練習問題5

IV.総合演習
問題A
問題B

 

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はじめに

現在の日本の英語教育には本質的な欠陥がある。コミュニカティブ・アプローチの採用である。1980年代にこの移民向けの英語教授法をただ無批判に受け入れたことで、日本の英語教育は根本的なボタンのかけちがいを犯してしまった。

その結果、日本人の実践的な英語力はこの数十年で向上するどころか逆に低下しまった。ここでいう「実践的」英語力とは、日本社会の発展と日本人個々人の成長に寄与できる英語力のことである。いわゆる「英会話」力などただの幻想である。

この状況を打破するには小手先の改善では役に立たない。かけちがったボタンをすべてはずし、最初からもう一度かけなおさなければならない。すなわちコミュニカティブ・アプローチの破棄と新しい教授法の確立である。

だがその際に、コミュニカティブ・アプローチ以前の文法訳読方式に戻ってはいけない。文法訳読方式は、明治期における欧米文化摂取のための英語学習法であり、現在のグローバル時代には役に立たないばかりか有害でもある。いま必要なのは、日本社会の発展と日本人個々人の成長に寄与できる新しい英語学習法の確立である。

ではその新しい英語学習法とはどのようなものであるべきなのか。そのひとつが本書で示す読解/作文優先の学習法である。

内容としては音韻論、統語論、文章論、文体論、社会言語論など言語の学習に必要な領域をほぼすべてカバーした。こうした関連分野を一望できることが言語学習には不可欠と判断したからである。また従来の英語学習書が英語を「正誤」という規範的観点からみているの対して、本書では「良し悪し」という価値論的観点を強調している。

読者対象としては英語学習の中級者以上を中心に考えている。構成としては、<解説編>で学習内容をひととおり解説したのちに<リーディング実践編><ライティング実践編>で実際のトレーニングを行うかたちになっている。

どんな勉強にも近道や王道はない。やるべきことをきちんとやる。学ぶとはそれに尽きるのではないだろうか。「楽しい」「よくわかる」といったキャッチコピーが氾濫する最近の教育事情だが、そこには学ぶということの本質が見失われているように私には思えてならない。本書がそうした時勢に流されないオーソドックスな英語の勉強の道具となってほしいと思う。

2008年7月
成瀬由紀雄

 

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<解説編>

 

なぜ会話よりも読み書きを優先すべきか

まず英語の勉強において会話よりも読み書きを重視するべき理由を3つ挙げておきたい。

第一は実利面である。グローバル化が急速に進む現在、英語の高度な読み書き能力はもはやビジネスや学問の必須条件となった。英文を速く的確に読み、説得力ある英文を書くことできなければ、質の高い仕事はもはやできない時代になりつつある。いっぽうで会話にはそうした重要性はない。時として海外旅行で、あるいはビジネス交渉や学会の発表で英語が必要となるケースもあるかもしれない。だがそれは非日常的な事態にすぎない。日常のなかで英会話が必要となる状況など日本ではまず考えられない。ようするに英会話よりも英語の読み書きのほうが私たちの生活にとってはるかに現実的に役に立つということである。

第二は効率性である。そもそも会話とは学習するものではなく現場の実践のなかで慣れていくものである。英語が日常的に用いられている状況に入らないかぎり、会話力を向上させることは基本的に無理である。逆に、そうした状況のなかにいれば会話力は自然に向上する。いっぽう読み書きの力は学習を通じて向上するものであり、自己流で読み書きの力を向上させていくことはきわめて効率が悪い。英語を学習するのであれば読み書きを中心に行ったほうがはるかに効率がよい。

第三は内容面である。たとえビジネスや学問に関するものであっても会話の内容とは基本的に狭くて浅いものでしかない。ましてや単なる日常会話では深い内容の意見を交換するなどほぼ不可能だ。いっぽう読み書きでは深く広い情報や意見を交換することが可能となる。英語の読み書き力を磨いていくことで、これからのグローバル時代に対応できる知性や教養を育てていくことができるのである。

読み書き重視への批判に対する再批判

会話よりも読み書きを重視する英語学習にはいくつかの観点から批判がなされている。

第一の批判は、日本ではこれまで読み書き重視の英語教育を行ってきたにもかかわらず十分な成果をあげてこなかったというものである。しかしこの批判はつぎの2点において間違っている。第一に、これまでの日本の英語教育は読み書き重視の英語教育ではない。「読み」については英文和訳という「暗号解読」にすぎず、「書き」にいたっては何も行ってきていない。ようするに「擬似」読み書き重視教育であったにすぎない。第二に、後にくわしく説明するように1980年代以降にはそうした「擬似」読み書き教育さえ行われず、会話重視へと日本の英語教育は大転換をしてしまった。しかしその結果として日本人の英語力が伸びたかというとそんなことはまったくない。「擬似」読み書き重視であろうと会話重視であろうと、いずれにおいても、日本の英語教育は十分な成果を挙げてきてはいないのである。

第二の批判は、読み書き重視の英語教育をすると知性や知識の習得ばかりが強調され、人間的なコミュニケーションの教育が欠けてしまうというものである。しかし読み書き重視の英語教育は知性や知識の習得ばかりを強調しているのではない。読み書きは知性とともに感性をも育てうるものである。また、読み書きを重視することと人間的なコミュニケーションの教育が欠けるということのあいだに論理的な整合性はない。

第三の批判は、言語の基本は話し言葉であり、書き言葉は二次的なものであるから、言語教育はまず話し言葉から行うべきだというものである。たしかに言語学からみれば言語の基本は話し言葉である。話し言葉のない言語は存在しないが、書き言葉のない言語はいくらでも存在する。しかしそうした学問的根拠から、すぐさま日本における英語教育は話し言葉から行うべきという結論を導き出すことは論証として正しくない。それはまるで、人間の音楽性の原点は心臓の拍動に代表される二拍子のリズムであるから、日本における音楽教育も二拍子リズムのカスタネットからはじめるべきであると主張するようなものである。理論と実践とを安易に結びつけることは無理筋であり、かつ危険である。

日本に蔓延する英会話病

以上、英語の勉強では会話よりも読み書きを重視するべきであるという主張の根拠を述べ、その批判に対する再批判を述べてきた。この主張は多くの方々に支持していただけるものと信じている。

だがいまの日本では、読み書き重視の英語教育という主張は、まったくといってよいほど人気がない。私は翻訳という英語関連の仕事をしているものだから、ときとして英語はどのように勉強すればよいのかという質問をされることもある。そんなときに「英語はまず読み書きから勉強すべきです」と主張して、まわりからよい顔をされたことはほとんどない。なんとも古い考え方の人だなあ、やはり翻訳家というのは特殊な人間だ、などと思われているようである。

いっぽういまの日本では英語学習といえばなんといっても「英会話」であろう。街には英会話学校が乱立し、本屋には英会話の本が氾濫している。そしてその宣伝文句の第一が「役に立つ英語を身につけよう」なのである。日本という非英語環境で週に数時間だけおこなう英会話のマネゴトなど学習の名にも値しないことは明らかである。もちろん本当の意味で役に立つ英語など身につくはずもない。ところがその無益かつ無駄なことに多くの日本人があまりにも多大な時間とお金をつぎ込んでいるのである。日本全体が「英会話病」ともいうべき一種の伝染病にかかっていると思うほかはない。

真の読み書き重視の英語教育の確立

この「英会話病」から抜け出すためには、私たち自身の手で真の読み書き教育の手法を確立していくほかに道はないというのが私の考えである。

残念なことにこれまでの日本の英語教育には、擬似の読み書き教育はあっても、本当の意味での読み書き教育が存在しなかった(いやこれはおそらくいいすぎで、存在はしたのだろうが、しかしそれが広く一般に普及することはなかった)。そのため多くの日本人が英語を本当の意味で読むことも書くこともできないことになった。さらに過去の擬似の読み書き教育では音声教育をほぼ完全に無視してきたために、会話能力も育てることもできなかった。

この状況を打破するには、擬似ではない真の読み書き教育の原理と手法を英語教育において確立することである。それは、おそらく読み書きそのものの原点にまでさかのぼるべき行為であり、また日本語教育との連動も必要不可欠になるものだろう。

本書がめざしているのは、そうした新しい英語教育の原理と手法、そして訓練方法である。身の程をわきまえぬ、まことにだいそれた話なのだが、しかし、そのだいそれた話を、私はきわめて真剣に考えている。

英語ができない日本人

先日、ある最先端科学に関する国際セミナーの仕事をした。世界を代表する科学者たちが東京に集まり、講演とパネルディスカッションを行なうというイベントであった。日本からもトップサイエンティストが参加していたが、問題は英語力である。会議はすべて英語で行われたのだが、日本人の英語のレベルは参加者のなかで間違いなく最低であった。もちろん発表や発言の中身ではない。あくまで英語力だけの話である。だがそれにしても最低というのはやはりさびしい。なにしろ日本の最高の知性たちだ。それがなぜあれほどまでに英語ができないのか。日本の英語教育になにか大きな欠陥があるとしか思えない。

コミュニカティブ・アプローチの限界

現在の日本の英語教育は「コミュニカティブ・アプローチ」を採用している。コミュニカティブ・アプローチでは「文法/訳読」よりも「実践的コミュニケーション能力」を重視する。ということは国際セミナーでも今後は日本人の英語力が大きく向上していくことになるのか。残念ながらそうはならない。

じつはコミュニカティブ・アプローチの「実践的コミュニケーション」能力には高度なスピーチや質疑応答の能力は含まれていない。だからいくら学習してもそれだけで国際会議でのスピーチや質疑応答ができるようにはならない。ビジネスレポートや学術論文を書けるようにもならない。そうなるには英語学習に対する新しい考え方が必要だ。
その新しい考え方が、これから紹介する聴解/会話ではなく読解/作文を優先する学習である。そして読解/作文の能力が向上すれば聴解/会話の能力もそれに伴って向上していくはずである。

1. これまでの英語教育

新しい英語学習を考える前にこれまでの学習方法をみておくことにしよう。

文法/訳読

まず文法/訳読である。文法/訳読とは、英文の各単語を日本語に置き換え、それを文法規則にあわせてつなぐことで全体の意味を把握していくやり方である。

1980年代になるまで日本の英語学習方法といえば文法/訳読であった。利点はなによりも学習が簡便なことである。どんなに難解なテキストであっても手元に文法書と辞書さえあればとにかく「読む」ことができる。明治期以降、日本ではこの方式で西欧文化が学ばれ、そして日本語へと訳されていった。この意味で文法/訳読は文明開化を支えてきた陰の主役といってもよい。

現場で役に立たない

だが1970年代になると文法/訳読に対して世間から厳しい批判が集まるようになった。最大の批判は文法/訳読が現場で役に立たないということだった。70年代といえば日本経済の国際化が本格的にはじまり、海外旅行が普及しはじめた頃である。多くの日本人が海外へと出ていった際、学校の文法/訳読で習った英語がほとんど役に立たなかったのだ。商談も買い物もまともにできないというこの苦い経験が、文法/訳読への批判として火を噴いた。

「現場で役に立たない」という文法/訳読への批判は正しい。なぜなら文法/訳読はそもそも現場で役に立たせるためのものではないからである。それは西欧の書物を「暗号解読」していくためのものであってそれ以上でもそれ以下でもない。文法/訳読を「現場で使う」という発想自体が最初から無理なのである。

この批判は理論的にみても正しい。たしかに文法/訳読でも意味(の一部)は把握できる(のかも知れない)。だがそのためには英単語を日本語単語に置き換えて、それからその順番を入れ換えるという「暗号解読」処理を経なければならない。そうした処理には一定の時間がかかるため、目の前の外国人との当意即妙の会話に際には使えるはずもない。

80年代が英語教育の一大転機

文法/訳読に対する厳しい批判の時期がしばらく続いたあと、1980年代になると日本の英語教育は一大転期を迎えることになった。中学・高校の授業に「コミュニカティブ・アプローチ」が導入されたのだ。コミュニカティブ・アプローチについては次節で説明するが、その原則は「文字よりも音」「形よりも内容」だ。つまり読む書くよりも聞く話すを優先し、文法的に正しいかどうかよりも内容が伝わっているかを優先するということである。現在の中学・高校の英語授業はこのアプローチをベースにして行なわれている。文部科学省の学習指導要領がそう決めているからである。

コミュニカティブ・アプローチとは

コミュニカティブ・アプローチは、ヨーロッパで1960年代に開発がはじまり1970年代に完成された英語教授法のひとつである。日本で文法/訳読批判が激しくなった1970年代に欧米で最も人気を博していたのがこのコミュニカティブ・アプローチであった。コミュニカティブ・アプローチの目標が「実践的コミュニケーション能力の育成」であることから、まさに「使える英語」を熱望していた当時の日本の世論に応えるかたちで日本にも導入されたのである。

「英語を使える」ようにはならなかった

コミュニカティブ・アプローチがどのようなものかといえば、1980年以降に中等教育を受けた世代の人であれば、自分が受けた中学・高校の英語授業を思い出せばよい。「ロールプレイング」などを授業でさせられた覚えがあるだろう。あれがコミュニカティブ・アプローチによる英語学習の一手法である。

こうして「使える英語」への切なる期待をこめて大きく舵を切った日本の英語教育だが、その後どうなったかというと、ほとんど誰も英語を「使える」ようにはならなかった。もしそうなっていれば現在の英会話ビジネスの隆盛はなかったはずだ。

さらに問題だったのは、中学・高校の英語教育と大学以降の高等英語教育のあいだに大きなギャップができてしまったことである。すでに述べたとおりコミュニカティブ・アプローチは「実践的コミュニケーション能力の育成」を目標としており、それ以上でもそれ以下でもない。高度な英文を読んだり書いたり、高度な議論を英語でするということは、そもそもコミュニカティブ・アプローチの目標の埒外にある。コミュニカティブ・アプローチ的にいえばそんなことは「実践的コミュニケーション能力」とは関係がない。

移民のための教授法

コミュニカティブ・アプローチが言語の知的運用を目標としない理由は、その成立過程をみてみるとよくわかる。コミュニカティブ・アプローチは1960年代にヨーロッパではじまり70年代に完成したのだが、当時のヨーロッパでは域外からの移民を積極的に受け入れているところであった。イギリスでは大戦後の復興期である1950~70年代に労働力不足解消のために旧植民地から大量の移民を積極的に受け入れていた。50年代にはアフリカやカリブ海諸国の人々がイギリスに移民し、60~70年代にはパキスタンやバングラデシュなど南アジア諸国からの移民が増えた。フランスでも同様の動きが起こった。

こうした社会状況のなか、当時の外国語教授法に対する不信不満が大きく高まっていった。移民に文法重視の伝統的な言語教授法で教えても、実際のコミュニケーション能力の向上にはつながらなかったのだ。そしてその反省を踏まえて、言語「分析」ではなく言語「使用」のための新しい教授法が研究者のあいだで検討されることになった。これがコミュニカティブ・アプローチの発端である。1971年にはヨーロッパ協議会が新しい言語教授法の開発を目指して専門家チームを結成し、その成果としてコミュニカティブ・アプローチが完成した。

このようにコミュニカティブ・アプローチとは、もともと移民のための外国語教授法なのである。そして移民にとっては日常生活をいかに円滑に行なえるかが最重要な課題であることから、コミュニカティブ・アプローチの目標も当然そこに集約される。これが「実践的コミュニケーション能力の育成」の本来の意味である。したがって高度な英文を読んだり書いたり、高度な議論を英語で行なう能力の育成がコミュニカティブ・アプローチで重要な到達課題とはなり得ないのは、しごく当然のことである。

知的訓練の衰退

コミュニカティブ・アプローチを無批判に導入した結果、80年代以降の中学高校での英語授業は、いわば「生活訓練」の場と化した。生徒たちが「ジョージ」や「メアリー」となって英語での生活を「仮想体験」することが英語授業の中身となったのだ。そしてその代償として中学高校の英語授業は「知的訓練」の場としての役割をほぼすべて放棄したのである。

大学側が求めるもの

だがそのいっぽうで大学での英語教育は知的訓練という使命を放棄しなかった。当たり前である。もし放棄したとしたらそれは大学ではない。そして現在でも大学側が学生に求める英語力とはコミュニカティブ・アプローチのいう「実践的コミュニケーション能力」ではなく、英語の専門書が読めて、英語の論文が書けて、英語で学問的な議論ができる、そうした知的能力なのである。

ただし大学側にも従来の文法/訳読に代わる新しい英語学習方法を提示することはできなかった。たしかに文法/訳読がひとつの知的訓練であることは間違いないが、それには大きな欠陥があることも明らかだ。したがって本来であれば文法/訳読に代わる新たな英語学習法を大学側が開発すべきだったのだが、残念ながら日本の大学英語教育関係者はそれを十分にしてこなかったのは事実である。

英語教育の危機

こうして80年代以降の日本の英語教育には、中学高校の英語教育がコミュニカティブ・イングリッシュ、大学の英語教育が英文訓読というギャップができあがった。

そして現実はどうなったかといえば、英語は英会話学校と受験予備校で本格的に学ぶものになったのである。つまり中学高校で中途半端にしか身につかないコミュニカティブ・イングリッシュについては英会話学校で、そして学校では教えてくれないくせに大学入試では求められる英文訓読については受験予備校で、というわけだ。

こうして現在の日本の英語教育界は完全に「オモテ」と「ウラ」の世界に分かれてしまった。そして「オモテ」の世界だけではコミュニケーション力と知力のどちらも身につかなくなったのだ。いいすぎではない。これは事実である。

2. これからの英語教育

欧米崇拝をやめる

では日本の英語教育はこれからどうすればよいのか。まずいいたいのは、そろそろ無益な「欧米崇拝」はやめようということである。

英語教育関係の文献をのぞいてみると、コミュニカティブ・アプローチ、オーラル・アプローチ、ダイレクト・メソッドなどカタカナ語のオンパレードだ。そのいっぽうで日本人の日本人による日本人のための英語教授法はほとんど出てこない。欧米文化のなかで考えられた言語教授法をそのまま紹介しているだけにすぎないのだ。

だが日本人が英語を学ぶ際、このような「請け売り」理論が通用するのだろうか。日本には長い歴史と独自の文明があり、日本人はその歴史、文化、伝統を基盤として日々を生きている。したがって英語の学習においても日本人には日本人としての目標があり、日本人としての独自の学習方法があるはずである。

もう無益な欧米崇拝はやめようではないか。そして日本人にあった日本人のための英語教授法をみずからの手でつくりだそうではないか。

伝統回帰を避ける

いっぽうで1980年以前の文法/訳読の世界に戻ることも絶対に避けなければならない。
30年以上前になるが、私の高校時代の英語授業はコミュニカティブ・アプローチ導入以前の典型的な文法/訳読の授業だった。それは授業時間の大半を難解な文法事項の解読に費やすという理不尽かつ無意味な学習であった。その後、自分なりに英語の勉強をはじめた後も英文和訳や戻り読みをしてしまうなど文法/訳読の深刻な後遺症にずいぶんと苦しめられたものだ。脳内に焼きつけられたカタカナ英語の残像に苦しめられながら、公教育でこんなでたらめがまかり通っていいのかと大いに憤慨していたものだった。

知的訓練を優先する

第三にいいたいのは、これからの英語教育はコミュニケーション訓練ではなく知的訓練を優先せよということである。

たしかに移民として英米文化のなかで実際に生活するならばコミュニカティブ・アプローチのようなトレーニングが必要だろう。また社交的な性格ならば楽しみながらそうした体験を共有できるにちがいない。だがほとんどの日本人は海外移住をしたいとは思っていないはずだ。それほど社交的な性格でもない。

もうそろそろこんなことはやめにして、英語学習に知的訓練の時間を取り戻そうではないか。私たちはなぜ英語を学ぶのか。それは私たちの人生をより豊かなものにするためであり、生活や仕事において役立たせるためである。海外旅行のときにお買い物をしたり、街中でガイジンたちとお話をしたいのならば英会話学校に通えばよい。だがいま私たちに本当に求められているのは、私たちの知性をより豊かにし、グローバル化のすすむ環境のなかで高度な仕事を行なうための英語教育である。そのためには知的訓練を軸とした新しい英語教授法がどうしても必要なのだ。

欧米崇拝をやめる、伝統回帰を避ける、知的訓練を優先する――新しい英語学習法はこの3つの原則を踏まえながら構築していくべきものだと私は考えている。

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A:先生、きいていいですか。
N:はい、なんでしょう。
A:読ませてもらって感じたのは、これってかなり攻撃的ですよね。いまの英語教育はなっとらん、どれワシが本物の英語教育を教えてやろう、というような雰囲気がプンプンただよっています。なんだかエラソーで、正直なところ、あんまり好きになれません。
N:あはは、正直でよろしい。じつは、わたし自身もそう感じてます。これを書いた人間は、かなりいやなヤツです。でも、じつはこれを書いたわたし自身、そうとうに無理をしているんですよ。こんなに挑発的な文章を書いたのは、たぶん生まれてはじめてじゃないかな。
A:ということは、そこになんらかの意図があるということですね。
N:とにかくこのぐらいのことを書かなければ、いまの日本の英語教育の潮流を変えることは、まず不可能だと思ったからです。
A:先生、カゲキですねえ。
N:そうです、とてもカゲキなんです。というか、この数年でとてもカゲキになりました。以前はもっとオンケンだったんですけどね。大西泰斗さんの影響が大きいのかな。英語教育業界の内部にいる大西さんが、あれほどファイトしていますからね。わたしなんぞは英語教育業界の部外者なんだから、ファイトしたって失うものなど、ほとんどなにもない。それでいてファイトしないのは卑怯じゃないかと、ハラくくりました。だからこれからのわたしは、ファイターです。アイアム、ア、ファイター、です!
A:なんだか、気合、はいってますねえ。で、その潮流と変えるっていうのが、聴解/会話重視よりも読解/作文のほうを優先させるってことですか。でも、だからといって聴解/会話を軽視するってことでは、当然ないですよね。であれば、べつに「4技能のバランスのとれた学習を行なう」ということでもいいんじゃないですか?
N:そういったバランスのとれた英語教育論など、意味がありません。結局なにもいっていないのと同じなんですよ。大事なことは、まずは白黒をはっきりさせることです。そこからスタートして、つぎの高いレベルへと進んでいけばいい。アウフヘーベンさせるのです。
A:それ、バームクーヘンの一種ですか?
N:まあ、そんなものです。とにかくわたしの主張は、英語を聞いたり話したりするよりも読んだり書いたりするほうが、いまの日本人にとってははるかに大事である、だから読み書きのほうを重点的に勉強しましょう、と、ただそれだけのことです。べつに、どこもヘンじゃないでしょ?
A:ヘンじゃないっていえば、ヘンじゃないけど。でも、なんだかやっぱり、極端すぎる気もします。
N:でも考えてみてください。わたしの主張よりも、コミュニカティブ・アプローチのほうが、さらに極端ですよ。なにしろ英語を実際に使っていくなかで英語の仕組みを自然と覚えていこうっていうやり方でしょ? こんなこと、この日本のなかで、できるはずないじゃないですか。またできたところで、それが読み書きの力に直結するわけでもない。だから、みんな塾に通ってわざわざ時代錯誤の英文訓読を勉強したりしている。このほうが、よっぽどヘンですよ。
A:うーん、そういえばそうですね。

 

III.英語の音

1. 英語学習はまず発音から

では新しい英語学習法がどのようなものかを具体的にみていくことにしよう。

英語を学習する際にまず習得しなければならないのはなによりも「英語の音」である。なぜ音かといえば、正確な音の理解がなくては、聴解/会話だけではなく読解/作文も不可能だからである。

私たちは読んだり書いたりしているときにも声を出している。ただし心のなかでだ。これを読んでいる皆さんもいま声を出しながら読んでいるのである。したがって音が理解できないとじつは読むこともできない。したがって英語学習においても英語の音を学習することがまず大前提となるのだ 。

2. 日本人と英語の音

英語の音とコンプレックス

ところで日本人のなかにある英語コンプレックスの第一の要因は、英語の音が正確に聞きとれない、そして正確に発音できないということにあるのではないかと私はつねづね考えている。なぜかというと私がそうだったからだ。

私が本格的に英語の勉強をはじめたのは20歳をすぎてからのことだ。最初のうちは英語を一言たりとも聞きとることができなかった。すべての会話が「×××××××」だったのだ。これは私にとってとても大きなショックだった。まさかここまで聞こえないとは思っていなかったからだ。

さらにショックだったのは、自分にまったく聞えとれないこれらの音が英語ネイティブには苦もなく聞きとれることであった。ネイティブには聞こえてノンネイティブの自分には聞こえない。冷静に考えれば至極当然のことなのだが、英語を勉強しはじめたときにはなかなかそう思えなかった。それだけのことで、なんだか自分がネイティブよりも一段レベルの低い人間のようにも思えたものである。

さらに重要なことは、この英語の音に対するコンプレックスは同時に日本人の英語ネイティブ崇拝の源でもあるということである。誰しも自分にできないことを簡単にやってしまう人間にはあこがれを抱くものである。野球少年はイチローに、サッカー少年はロナウジーニョに、そして英語の場合には自分にはどうしてもできない英語発音をいとも簡単にやってしまう英語ネイティブに――たとえそれがどんな人物であれ――あこがれを抱くというわけだ。

英語コンプレックスにしてもネイティブ崇拝にしても、冷静に考えればバカバカしいの一言だ。だから自分だけはそんなことはないと一人一人が思いがちである。だがそんなことはない。日本人の英語観には英語に対するこのコンプレックスと崇拝が必ずどこかに潜んでいるものだ。私たちはその事実をまず認め、どうすればこのコンプレックスと崇拝から脱却することができるのかを真剣に考えていかなければならない。そしてそこから本当の意味で脱却できたとき、私たちは英語を本当にマスターしたということができるのである。

日本人アクセントは個性

ただ間違ってはいけないのは、それは英語の発音がネイティブ並みとなったときではない。そんなことにはそもそもならないし、たとえそれに近くなったとしてもそれが英語をマスターしたことにはならない。それは単にネイティブもどきになっただけのことだ。英語をマスターしたのではなく、英語にマスターされたのだ。

そうではなく、日本人アクセントが残っている自分の英語を自分の個性なのだ正しく受け入れられたとき、そして自分の日本人アクセントがなにも気にならなくなったとき、そのときこそが私たちが英語を本当にマスターした時なのである。

カタカナ英語は英語ではない

そのいっぽうで、いわゆる「カタカナ英語」もまた駄目である。なぜならカタカナ発音はそもそも英語ではないからだ。英語ではないのだから日本人としてのアクセントもなにもあったものではない。論外というほかはない。ところがこの点を誤解あるいは曲解して「日本人はカタカタ発音でも十分」と主張する人々もなかにはいるようだ。そこで念のために英語と日本語の音の違いについてここで少し説明しておく。

日本語の音はシンプル、英語の音は複雑

まず認識しておくべきは、日本人は手や目はとても器用だが、口や耳はとても不器用だという事実である。なぜ日本人の口や耳が不器用かというと、それは器用になる必要がないからである。

日本語の音の種類はきわめて少ない。「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ、……、りゃ、りゅ、りょ、……じゃ、じゅ、じょ、……、ん」など100音少しである。これは世界の言語のなかでもきわめてシンプルな部類だ。日本語よりも音の数の少ない言語はそれほど多くない。

いっぽう英語には数千の音がある。a, an, the, is, are, move, take, brings, splash, strengthenなどだ。すなわち日本人の耳は人間の口から発生する音声を約100種類に弁別しているだけなのに対して、英米人の耳はそれを数千にも弁別しているということである。
これだけで「カタカタ発音で十分」が成り立たないことかわかると思う。カタカナ英語とはカタカナという近似値でも英語として十分に通用するということだが、日本語の音に比べて桁違いに多い英語の音を日本語の音の体系内で代替することは、あきらかに無理筋である。カタカナ発音は英語発音の近似値にはなり得ない。

 

<コラム>
「母音」と「子音」

言語音は「母音(Vowel)」と「子音(Consonant)」から構成されるというのが言語学の常識だ。だがこの「母音」と「子音」という概念自体、日本人は本当のところはわかっていないのでないか。

私自身長い間、母音と子音という概念をどうにも納得できなかった。音声学の教科書には英語の音も日本語の音も母音と子音からできていると書いてある。しかし日本語は「あ」「い」「う」「え」「お」「か」「き」「く」「け」「こ」といった音からできており、それ以下には分析できないのではないかというが私の感覚であった。「か」と[ka]とは本質的に異なるという感覚だ。

日本人にとって、子音は母音に依存する存在でしかないように思える。子音と母音は「母子」であり切っても切り離せない。ましてや他の「母子」とくっつくことなどあり得ない。たとえば、以下のような現象は日本語では絶対に起こらない。

KAK IK  UK EK  O

だがこれは英語でつねに生じている現象なのだ。英語では母音と子音は対等な存在であり、決して「母子」などではない。対等なもの同士ならば、どのようにくっついたとしてもおかしくはない。

「母音」「子音」という翻訳語そのものが、日本語の感覚を見事に表わしているように思える。母音はvowel、子音はconsonantを訳したものだが、この2つの語に「母」「子」という語を入れたのはvowelが英語音節の中核になるというだけでは説明がつかない。そこには日本語からの影響があったのではないだろうか。

そしてこの翻訳語のために、本来ならば対等であるはずのvowelとconsonantがまるで母子関係のようにみえてしまった。この無意識な「母子」感覚が日本人の英語発音学習における基本的な壁になっているような気がする。

英語の音は不安定

つぎに認識しておくべきは、英語の音は不安定だということである。同じ語であっても時と場合によって英語はその音を変えてしまう。だから目で読む表記がそのまま音とは直結しない。すなわち表記どおりに発音するという発想が英語では通用しないのだ。

英語の表記と発音

「英語は表記どおりに発音できない」についてここで少し詳しく説明しておこう。

英語の発音と綴り字の関係がきわめて非合理的であることは周知の事実だ。英語発音の学習を困難にしている理由のひとつでもある。だがこの点に関しては「フォニックス」などを使えばある程度は克服できるだろう 。

しかしフォニックスによって綴り字の非合理性をある程度克服できたとしても、それだけで英語を表記を通じて正確に発音することはできない。なぜなら英語では個別の音の発音がきわめて不安定で、なおかつその音が消えたり、変わったり、くっついたりするからだ。
たとえばtodayという語の発音は多くの場合[tədéi]ではなく[t’déi]となる。弱母音の[ə]など簡単に弱化したり消えたりしてしまうのだ。American Accent Training(Ann Cook, Barron’s)という英語発音教科書では、このような弱化または消える音に対して次のような表記方式を使用している 。なお太字のところは強く読むところだ。

We’re at home. [wirət home]
Can you do it? [k’niu do(w)’t]
Give it to me. [g’v(t)’ me]
It can wait. [‘tc’n wait]
This is for you. [th’s’z fr you]
Which one is better? [which w’n’z bedder]
One of them is broken. [w’n’v’z brok’n]
How was it? [hæow’z’t]
What time is it? [w’t tye m’zit]

左がスペリング、右が実際の発音をAnn Cook,がビジュアル化したものである。発音のビジュアル化といっても音声学で使う発音記号を使っているわけではなく、Ann Cookなりのビジュアル化である。私個人としてはこのやり方のほうが好きだ。わかりやすく、教育現場のニオイをここからは感じる。発音記号にはそういった現場のニオイがしない。

これらの例文をみているといろいろな英語の音の変化がわかる。なかでも目立つのは母音の弱化(リダクション)である。たとえばThis is for you.[th’s’z fr you]であれば、4つの母音のうちの3つが弱化してyouの[ou]しか残っていない。One of them is broken.[w’n’v’z brok’n]もそうである。

もうひとつの大きな特徴が子音の変化だ。たとえばWhich one is better? → [which w’n’z bedder]のなかでのbetter→bedderがそれにあたる。[t]が[d]になるのだ 。

[t]という子音はノンネイティブにとって本当にやっかいな子音だ。上のように[d]になるだけでなく、飲み込むように発音したり、あるいは完全に消えてなくなってしまったりもする。American Accent Trainingからいくつか例文を出しておく。

<t→d>
Betty bought a bit of better butter. [Beddy bädə bida bedder budder]
Pat ought to sit on a lap. [pædädə sidänə läp]
What a good idea. [wədə gudai deeyə]

<t→(t)>
Written=[ri(t)n], sentence=[sen(t)ns], lately=[la(t)lee]

<t→ >
interview=[innerview], interface=[innerface], Internet=[innernet]
advantage=[əvdæn’j], percentage=[percen’j], printout=[prinnout or prindout]

He had a great interview. [he hædə gray dinnerview.]
Try to enter the information. [trydə enner the information]
Turn the printer on. [trn thə prinnerän]

<コラム>
パターン認識能力

英語はこれほどまで音が大きく変化するのに、なぜ英語ネイティブにはその音が聴き取れるのか。

これは日本人が「今日は日曜日で祭日です」を「きょーわにちよーびでさいじつです」とすぐ読めるのと同じだ。ここに出てくる4つの「日」はすべて読み方がちがう。それをすらすらと読んでいるのが日本語ネイティブなのだ。であれば英語ネイティブがHe had a great interview. [he hædə gray dinnerview.]をトラブルもなく聞き取ることもおかしくないだろう。

「ネイティブ」は自分の文化に特徴づけられた微細パターンの変化を読み取る能力にきわめて秀でている。日本人が特別な意識もせず「今日は日曜日で祭日です」を読み取るだけの視覚パターン認識感覚を習得しているように、英語ネイティブも特に意識もせず[he hædə gray dinnerview]を聞き取れるだけの聴覚的パターン認識感覚を習得している。日本文化は人間に視覚認知パターンの洗練化を要求するのに対して、英語文化は人間に聴覚パターンの洗練化を要求しているのだ。

人間のパターン認識能力の精度は慣れに連動する。私たちが牧場にいって牛をみても一頭一頭の区別はつかないが、牧場の人には一頭一頭の見分けがつく。慣れれば慣れるほどパターン識別能力は高まっていくのである。

 

英語のリズム

ここまで英語の音の変化をみてきた。日本人にとってまことにやっかいな現象だが、そのルーツをたどっていくと英語が強弱の一定リズムを持っているという事実に行き当たる。ちょうど西洋音楽のように一小節のなかで2拍、3拍、4拍、6拍といった一定のリズムを刻んでいるのである。

また一小節のなかにどれだけ多くの音節(音符)を詰め込んだとしても、その時間の長さはつねに一定である。この事実は日本人にとってまさに驚くべきことである。等拍言語である日本語では絶対に起こらない現象だからだ。

以下、American Accent Trainingから例を挙げることにする。

The dogs eat the bones.
The dogs ate the bones.
The dogs’re eating the bones.
The dogs’ll eat the bones (if…)
The dogs’d eat the bones (if…)
The dogs’d’ve eaten the bones.
The dogs that’ve eaten the bones(are…)
The dogs’ve eaten the bones.
The dogs’d eaten the bones.
The dogs’ll’ve eaten the bones.
The dogs ought to eat the bones.
The dogs should eat the bones.
The dogs shouldn’t eat the bones.
The dogs should’ve eaten the bones.
The dogs shouldn’t ‘ve eaten the bones.
The dogs could eat the bones.
The dogs couldn’t eat the bones.
The dogs could’ve eaten the bones.
The dogs couldn’t’ve eaten the bones.
The dogs might eat the bones.
The dogs might’ve eaten the bones.
The dogs must eat the bones.
The dogs must’ve eaten the bones.
The dogs can eat the bones.
The dogs can’t eat the bones.

上記の25の例文の時間の長さがすべて同じという事実はノンネイティブにとって脅威としかいいようがない。本当かとも思ってしまうが、付属のCDを聞いていると確かにある程度は同じ時間内に収められている。そしてこのリズムを一定にきざむ強弱のうねり、確かなメリハリこそがまさに英語の音の本質なのだ。だからこそ日本人が英語の音を出すときには、この強弱の「うねり」を過剰なまでに意識することがきわめて重要なのである。

4. 英語の音の学び方

英語の音の特徴について説明してきた。まとめてみよう。

 英語の音はつながる(ひとかたまりになる)のが普通である。英語では子音と母音が対等の関係にあるからだ。文ひとつが音のひとかたまりというケースもよくみかける。ネイティブはそれに慣れているのでとくに困らない。
 英語の音は変化するのが普通である。たとえば[t]は[d]になり、飲み込まれ、なくなる。それでも英語ネイティブに意味がとれるのは、彼らが慣れを通じてこの変化パターンの認識に優れているからである。
 英語は強弱の一定のリズムを刻む言語である。The dogs eat the bones.とThe dogs couldn’t’ve eaten the bones.はリズム的にまったく同じものだ。リズムを一定にきざむ強弱のうねり、確かなメリハリこそ英語の音の本質である。

英語の音のイメージはできただろうか。 といってもそんなに簡単にできるわけもない。もしできるなら英会話ビジネスがあれほど活況ではないはずだ。

従来の方法

ではどうすれば英語の音をマスターできるのか。一般にいわれているのは以下の2つの方法だろう。

方法その1:
できるかぎり英語を使えるチャンスを自分で積極的につくっていくこと。ベストが海外留学だが、英会話教室にいくのもよい。英語講座や英語教材、メディア教材も積極的に利用していく。とにかく英語をシャワーのように浴びるしかない。習うより慣れろだ。

方法その2:
戦略もなく英語をシャワーのように浴びても効果は少ない。英語の音の構造を理解して効率的に学習するのがよい。ディクテーションやシャドーイングなどのテクニックは有効だ。教材も精選するべきだ。

「その1」が体育会系、「その2」が学問系という感じにもみえるが、現実はそうでもない。スポーツもがむしゃらに練習をすれば強くなるというものではない。がむしゃらな練習もある程度は必要だが同時に理論も重要である。つまり「その1」「その2」の合体系がよい。

表記を音に近づける
だが「その1」「その2」ともに読み書きとはまるで関連がない。そもそも「英語を勉強」ではなく「英語で勉強」が我々のメインテーマだ。本を読むなかで英語の音も身についてくれるのであればこれほど嬉しいことはない。そのためにはどうすればよいのか。それを実現するのが以下の「方法その3」である。

One of them is brokenという例文を覚えているだろうか。この例文を使ってやり方を説明しよう。まず下の図をみてほしい。

ワンオブゼムイズブロークン ←One of them is broken→ w’n’v’z brok’n

カタカナ英語とは「←」の方向に進むことをいう。つまりOne of them is brokenというビジュアルイメージから「ワンオブゼムイズブロークン」に相当する音声イメージが頭に浮かぶ仕組みのことである。それをOne of them is brokenから[w’n’v’z brok’n]というビジュアルイメージが浮かぶ「→」へ進む仕組みに変えたいのだ。
ではどうやるかというと、One of them is brokenというビジュアルイメージ自体に次のような手順を加える。

まず強いところを太く、弱いところを細くするようにイメージする。
One of them is broken. → one of them is broken.
つぎに語と語とあいだのスペースをすべてとるようにイメージする。
one of them is broken. → oneofthemisbroken.
つぎにいらないVowelを削除するようにイメージする。
oneofthemisbroken.  → onfthmsbrokn.
最後にConsonantの有声化(f→v、s→z)を行なうようにイメージする。
onfthmsbrokn.   → onvthmzbrokn.

これで完成だ。最初と最後のビジュアルイメージはこうなる。

One of them is broken. → onvthmzbrokn.

難しそうにみえるが、そんなことはない。私たちはOne of them is brokenというビジュアルイメージから「ワンオブゼムイズブロークン」というビジュアルイメージを簡単につくりしているではないか。考えてみればそれもかなり難しい作業なのだ。

ここでのポイントは、英語の表記体系をイメージのなかで表音記号体系にできるかぎり変えてやることにある。できる範囲で英語の表記を表音形式にしてみるのだ。私の場合、こうしたイメージトレーニングをして、かなりのメリットが出た。読むという行為では声にこそ出していないが心のなかでは必ず発音をしている。「方法その3」を使うようになってから、その心のなかの発音がスムーズになってきたのだ。

もちろん、これだけで英語発音が完璧にマスターできるものではない。ただ「方法その1」「方法その2」のように発音練習にエネルギーをあまり費やしたくないタイプの人間には、この「方法その3」がお勧めだ。

5. 具体的な学習法

次に英語の発音の具体的な学習方法をご紹介する。

ディクテーション

最良の方法はなんといってもディクテーションだ。英語の音声を何度も聞きながら、それを書き写し、どうしても分からない部分についてはテキストで確認し、最終的に文章を完成させる。

ディクテーションがなぜ最良かというと、耳で聞き、手で書き、そして目で見るからである。この3つの作業が同時にできるのがミソである。自分の気に入った本のオーディオテープがあればそれを買ってきてぜひディクテーションをしてみてほしい。とても一冊全部というわけにはいかないだろうが、最初の数ページだけでも十分な訓練になる。

声を出して読む

つぎに重要なのは自分で声を出して読むことである。自分だけで読んでもよいし、オーディオブックと一緒に読んでみてもよい。いまは「シャドーイング」という手法も開発されているが、それもひとつのやり方だと思う。それぞれにうまく工夫すればよい。

うまくなるには繰り返すこと

大事なのは何度も何度も繰り返すことである。何度も何度もというのは2度や3度のことではない。少なくとも5度、6度、あるいはそれ以上のことをいうのである。

一般に英語学習の際の最大の間違いは「繰り返し」に対する認識が間違っていることだ。繰り返しとは数度のことだと考えられている。だから2、3回繰り返してそこでやめてしまう。考えてみてほしい。バットを2、3回振っただけで野球がうまくなるだろうか。2、3回ボールを蹴っただけでサッカーはうまくなるだろうか。なにかに習熟するには何十回、何百回、何千回、何万回という繰り返しの訓練が必要だ。英語でも同じである。うまくなるにはとにかく繰り返すこと。残念だがそれしか道はない。

教材

学習書については、すでにご紹介したAmerican Accent Training(Ann Cook, Barron’s)をお勧めする。学問的に勉強したほうがわかりやすいという人には、竹林滋の『英語音声学入門』がお勧めだ。私自身とてもお世話になった本である。

音声訓練のための教材は、当然のことながら本である。映画やインタビューや会話を教材にするのではないということだ。私が英語の勉強をはじめた当時は、オーディオブックがまだほとんど手に入らなかった。といって英会話テープを音声教材に使っても、知的訓練を目指す身としては何の意味もない。

しかし、現在は状況がずいぶんと改善された。アマゾンの洋書を検索するとさまざまな種類のオーディオブックが出ていることがすぐわかる。ネット上でも知的な英語が聞けるようになってきた。ケーブルテレビやNHKでも英語教養番組をずいぶんとやっている。

これはじつにすごいことである。いまや英語を知的に勉強する環境は十分に整ったといってよい。よい時代になったものだ。ここまで時代が用意してくれているのである。これで知的に英語を勉強しないとすれば、それは我々の方の怠慢というほかはない。

☆☆☆

N:Aさん、なんだか元気がないですね。どうしたんですか。
A:だって、かなりショックなんです。先生、日本人って、そんなに「耳と口が不器用」なんですか?
N:はい。それも、ただ不器用なのではなく、ものすごーく不器用です。
A:……ものすごーく、ですか。
N:なにしろ日本語では100ちょっとの音を聞き分けて話し分けるだけです。これは世界の言語のなかでも一番簡単な部類に入ります。いつも一番簡単なことしかしていないんですから、日本人の耳や口が器用になるわけ、ありませんよね。それにくらべて英語は数千の音を聞き分けて話し分けなければなりません。当然、英語のネイティブは耳も口も器用になります。ちなみに韓国語や中国語も千レベルの音を聞き分けます。ようするに私たちがおもに習っている外国語にくらべて日本語の音韻はダントツに簡単なんです。だから日本人の耳や口は不器用です。ものすごーく、不器用です。
A:そんなに何度もいわなくても……。それで先生、その耳と口がものすごーく不器用な日本人のわたしが、英語の発音をうまくなるためには、いったいどうすればいいんでしょうか。
N:第一に、まず日本語の音の仕組みと英語の音の仕組みそのものを勉強することです。理屈もわからなくて最初からただガムシャラにリスニングの練習なんかしたって、実際にはたいした効果はありません。ただBGMのように聞き流しているだけになってしまいます。英語の音声については、すでにご紹介したAmerican Accent Trainingや『英語音声学入門』をしっかり勉強するのがよいでしょう。日本語の音については、『日本語概説』(渡辺実、岩波書店)の第一部「音韻論」がよくまとまっていると思います。ぜひ読んでみてください。大事なことは、英語の勉強だからといって、英語の音声だけを勉強するのではなく、わたしたちの母語である日本語の音声についても同時にしっかりと勉強することです。ほら、「己を知り、敵を知れば、百戦あやうからず」っていうでしょ? いままでの英語の勉強にもっとも欠けていたのが、この「己を知る」という部分なんです。じつはそれは音声だけでなく、文法や文体の勉強にもいえることですが。
A:なるほど……。でもそれだったら、なぜ学校では日本語の音についてなんにも教えてくれないんですか? 学校の英語の授業で日本語の音の構造のことなんか説明を受けたことありません。そういえば、国語の授業でも聞いていないなあ。
N:それはですね、いまの英語教育と国語教育が、なっとらんからです!
A:うわっ、先生って、ほんと、エラソーですねえ。
N:はい。なにしろハラくくっちゃったカゲキオヤジですから。で、日本語と英語の音の仕組みがわかったら、つぎは練習です。練習で一番よいのは、ディクテーションですね。わたしの場合、もう30年も前になりますが、神田神保町の古本屋でEnglish Journalの中古本と中古カセットを山ほど買い込んで、それをかたっぱしからディクテーションした覚えがあります。当時のEnglish Journalの記事は有名な学者や政治家などのシリアスな内容のインタビューが多くて、とても面白かったのを覚えています。いまはさまざまなオーディオブックが出ていますので、そのなかで自分が興味のあるものを探し出せばよいのではないでしょうか。もうひとつのよい練習は、そうしたオーディオブックなどとの同時読みやシャドーイングですね。つまり自分だけで声を出すのではなく、モデルといっしょに声を出すということです。自分だけで大きな声で読み上げるというのも、もちろんよい練習になりますよ。それから、けっこう有効なのがカラオケですね。
A:えっ、カラオケって、やっぱりいいんですか?
N:そりゃ、そうですよ。ようするにカラオケって、同時読みの音楽版ですからね。好きな曲があれば、それをしっかり歌いこむっていうのがわたしからのお勧めです。
A:じゃあ、先生も、カラオケ、するんですか?
N:もちろんです。おや、そういう質問をするということは、ひょっとして、Aさん、わたしとカラオケにいきたいとでも。
A:い、いえっ、そうじゃありません! 絶対にちがいます!
N:……

 

☆☆☆☆☆

IV.センテンスの構造

発音のつぎはセンテンスの構造を学ばなければならない。ピアノの練習でいえば、指がある程度動くようになったら、つぎにリズムや旋律や和声を学ばなければならないのと同じである。

1. 学習英文法

学校英文法を越える

英語の構造の学習といえば、まず思い浮かぶのはやはり学校英文法だろう。多くの年輩の日本人にとって英語の勉強といえば、文型、時制といった文法事項を学び、その規則を使って訳語をつなぎあわせて日本語の訳をつくるというものではなかっただろうか。これが伝統的な英文の理解のやり方である。

だがこの伝統的な文法/訳読による英語理解は1980年代以降、世間からの激しい批難を浴びてきた。その批難には十分な根拠もある。すでに述べたとおり学校英文法とは西欧の書物を「暗号解読」していくためのツールであってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。こうした暗号解読作業にいくら秀でたところで本当の意味で英語を理解できるようにはならない。暗号解読では「情報」は読みとれても「人の心」は読みとれないからである。

この学校英文法に回帰しないことが、新しい英語の学び方の原則のひとつだ。学校英文法を越えていくこと――私たちはこの地点から出発しなければならない。

と、口でいうのは簡単だが、実際に学校英文法を越えることはそう簡単ではない。1980年代に学校英文法が役に立たないといって捨て去られたとき、日本の英語教育関係者は、代わりとなる学習文法を構築しなかった。その結果として生み出されたのは、ただ混乱ばかりであった。そして一部の学校では、いまでも旧来の学校英文法が教えられているという。それ以外に頼るものがないのだ。

無駄な時間をすごすのはもうやめようではないか。捨てるべき仕組みは捨てなければならないが、そのためには新しい仕組みが必要だ。いまやるべきことは、学校英文法にとって代わる新しい学習英文法をつくりだすことにある。

ではその新しい学習英文法とはどのようなものであるべきか。それを考える前に、まず文法観についての解説をしておきたい。というのも、多くの英語学者者が「文法」とは言葉の真理あるいはそれに近いものと考えているようだからである。だがこの認識は間違っている。

文法観

「文法」を考える際にまず理解しなければならないことは、文法は絶対普遍の真理ではないということである。文法とは人間がつくりだした構築物の一種でしかない。大胆にいえば「フィクション」なのである。

だから文法はひとつではない。10人の言語理論家が集まれば10種類の文法があるといってもよい。そして学校文法とはそうしたさまざまな文法理論をまとめるかたちで、19世紀初頭にイギリスで完成したものである。(下記コラムを参照のこと)

 

<コラム>
英文法の歴史

15、16世紀ぐらいまで、英語に「文法」はなかった。「文法」は昔から自然と存在するもののようにも思われるが、そうではない。人々がみずからの言語を体系化しよう(これが文法だ)と考えはじめたのは、それほど古い時代ではない。ヨーロッパでは宗教改革の頃、日本では江戸時代後期からのことである 。

『英文法を知っていますか』(渡部昇一、文春新書)によると、イギリスで英語の文法をつくろうという機運が高まったのは16世紀の終わり頃のことである。国力増大期にあった当時のイギリスは、その一方で、母語である英語に大きな劣等感を抱いていた。その劣等感を克服するために、独自の文法を確立しようとしたのである。その際のお手本となったのは、当時のヨーロッパ知識人の共通語たるラテン語の文法であった。

その後、さまざまな試行錯誤を経て、英文法が完成期を迎えたのは、1795年に発刊されたLindley MurrayのEnglish Grammarに至ってのことである。日本でいえば寛政年間、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が江戸の町で大活躍していた頃だ。それから約200年の長きにわたり、イギリスやアメリカの人々はMurrayが完成させた英文法を使って、英語を理解あるいは学習してきたのである。

Murrayの英文法を、純粋に言語理論的な面からみれば、統語論、意味論、形態論などの単なる寄せ集めにすぎないといってもよい。突き詰めていくと理屈に合わないところが数多く見受けられる。同じ「法」といっても物理学におけるニュートンの力学の法則とは本質的にちがうものだ。英文法は普遍法則ではなく、英語文化圏の規範集とでもいうべきものなのだ。

この英文法をつくったMurrayという人物は、和解調停を得意とした人格温厚な弁護士であったらしい。おおいに成功して弁護士を引退したのち、近くの女学校から英語の教科書をつくってほしいと頼まれて編纂したのがこの文法書だったという。Murrayは、その時代のさまざまな文法研究書から適当と思われる部分をうまく取捨選択して、ひとつの体系にまとめあげた。そのため誰にでもわかりやすい文法書が出来上がったのである。

このMurray文法の末裔のひとつが、日本の学校英文法であることは覚えておくべきだろう。じつは日本での初期の英文法書のひとつ『英文鑑』(天保12[1841]年)はMurray文法のオランダ語訳からの重訳なのである。

文法がフィクションであるからには、単語、名詞、動詞、文という概念もまたフィクションである。このことを説明した面白いテキストがあるので以下に紹介しておく。

学問の世界に理論的構築物というものがある。例えば、素人の推測するところ、物理学の世界では、万有引力などが多分のその例であろう。
理論的構築物は、なにかの現象を説明しようとして、学者が考えだしたものである。理論的構築物を考えだす際に問題となることは、実際にそんなものがあるかないかではない。そういうものがあると、仮に考えたら便利であるかどうか、あるいは、そんなものがあると考えても、無駄であるかどうか、ということである。便利なものだったら、学問に採用する価値があるし、役立たないものだったら、学問に採用する価値はない。
ずいぶん難しそうなことをいったが、実は、いった内容は簡単なことである。わかりやすい言葉でいえば、つぎのようなことである。理論的構築物とは、なにか物事のつじつまをあわせようとして、学者先生が考え出したでっち上げである。でっち上げであるからには、どんなことをでっち上げても自由である。しかし、でっち上げにもいろいろとあって、良いでっち上げ、悪いでっち上げ、普通のでっち上げとがある。悪いでっち上げは学問的公害である。あると、かえって混乱を引き起こす。普通のでっち上げは、害もなく益もない。学問にとって大切なのは、良いでっち上げである。(略)
言語学の世界にも、でっち上げがある。子音、母音、単語、名詞、動詞、文などすべて、言葉について説明するときに役立つよう考え出されたでっち上げである。どれも、便利なでっち上げである。だから、非常に良いでっち上げである。
『世界の言語と日本語』(角田太作、くろしお出版、p.183)

「でっち上げ」とはまことに過激な表現だが、ようするにこうした概念もまたフィクションだということだ。

大事なことは、子音、母音、単語、名詞、動詞、文といった概念は「言葉について説明する」という学問の立場からみれば非常に良い「でっち上げ」(フィクション)だが、「言葉を学ぶ」という学習の立場からみるとあまり良いフィクションとはいえないということだ。

 

文法で「心」は理解できない

なぜ文法概念が、学習の立場からは良いフィクションとはいえないのか。それは、文法の目標が「言語の習得」ではなく「言語の体系化」にあるからだ。体系化は学問にとって不可欠である。そもそも学問とは知の体系化のことなのだ。

だが体系化とはいっても、それは英語という言語の体系化にすぎない。英語学習の目的は言葉を理解することではない。人間の心を理解することだ。学校英文法は英語の現象を体系化することが目的、英語学習は言葉を通じて人間の心を理解することが目的。両者はそもそも目的自体がまったくちがう。英語の学習に学校英文法が本質的に使えない理由がここにある。

では人間の心を理解するための学習英文法とはどのようなものなのか。

2. 心の構え方

そうした新しい学習英文法の視点のひとつとして、ここでは「心の構え方」というものを挙げてみたい。と、突然いわれても、なんのことだかさっぱりわからないことだろう。ココロノカマエカタ……、うーん、とにかくできるだけわかりやすく説明したいと思う。

日本語の心の構え方

まず日本語の「心の構え方」の話からはじめよう。皆さんはすでに日本語を読む際の心の構え方を身につけている。ただし、無意識にだ。だからこの文章がすらすらと読めるのである。ではそれはどのような心の構え方なのか。

それを知るために、いま出てきた「皆さんはすでに日本語を読む際の心の構え方を身につけている」という文を詳しく分析してみることにしよう。かなり長くなるが、どうか最後まで読んでみてほしい。

「皆さんはすでに日本語を読む際の心の構え方を身につけている。」

まず「皆さんは」と、皆さんは読む。すると、ここまでで皆さんは、「ああ、この文章は、私を含めた読者全体に関する何かを伝えたいのだな、で、それって、何なのかな?」と、次に何がくるのかを、心のなかで待ち構える。

つぎに「(皆さんは)すでに」と読む。すると皆さんは、「えっ、『皆さんはすでに』ってことは、なんかが終っちゃってるんだ。で、なんだろ?」と思って、そしてその次にくる、終わった何かを読み取る心構えをする。

つぎに「(皆さんはすでに)日本語を」と読む。すると皆さんは、「まだ終わった何かは出てこないけど、どうやらそれは日本語と関係する何からしいな」とわかる。そこで日本語をどうするのかの読み取る心構えをすると同時に、「おそらくそれは『(皆さんはすでに)日本語を理解する』とか『(皆さんはすでに)日本語を読む』とか『(皆さんはすでに)日本語を聞き取る』とか、まあ、そんなところだろうなあ」というふうにも予測して、心のなかで待ち構える。

つぎに「(皆さんはすでに日本語を)読む」と読む。すると皆さんは「ああ、やっぱり日本語をどうするのかと思ったら『読む』んだった。でも、これではまだ終わらないはずだな。だってここで終わっちゃったら、日本語としておかしいもの。だから『日本語を読む』のあとに、それに関係する何かが続くはずだな。おそらく『日本語を読む』心の構え方、かな。ここまで読んできた流れからして、まあ、それしかないよなあ」などと予測し、そして心構えをする。

つぎに「(皆さんはすでに日本語を読む)心の構え方を」と読む。すると皆さんは「やっぱり。このあとにおそらく続くのは、『(心の構え方を)わかっている』とか『(心の構え方を)知っている』とか、まあそんなところだな。それに、どうやらここらへんで一区切りって感じなのかな」などと予測し、心のなかで待ち構える。

つぎに「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を)身につけている」と読む。すると皆さんは「ああ、やっぱりそうか。で、これでたぶん終りなのかな。でも、『(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)はずである』とか『(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)と思う』とか、それとも『(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)ので』とか『(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)けれども』とかが、このあとにくっつくかも知れないな。でもまさか『(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)別の人を』なんて、さらに続くってことは、まあ、ないよな」などと予測し、そして心構えをする。

つぎに「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)。」と読む。ここで皆さんは「句点がついたってことは、やっぱりここで終りなんだ。ということは、すでに日本語を読む心の構え方を身につけているのは、『皆さん』なんだ」と、納得するのである。

なかには、私はこんな複雑なことを心のなかではやっていない、ただ自然にすっと読んでいるだけだと反論される方もいるかもしれない。もう一度いうが、これはフィクションなのだ。フィクションとしてうまく機能してくれれば、それでよい。
今度は心のなかのつぶやきだけをまとめてみよう。

1. 皆さんは
(ああ、この文章は、私を含めた読者全体に関する何かを伝えたいのだな、で、それって、何なのかな?)
2. (皆さんは)すでに
(えっ、『皆さんはすでに』ってことは、なんかが終っちゃってるんだ。で、なんだろ?)
3. (皆さんはすでに)日本語を
(まだ終わった何かは出てこないけど、どうやらそれは日本語と関係する何からしいな。おそらくそれは「(皆さんはすでに)日本語を理解する」とか「(皆さんはすでに)日本語を読む」とか「(皆さんはすでに)日本語を聞き取る」とか、まあ、そんなところだろうなあ)
4. (皆さんはすでに日本語を)読む
(ああ、やっぱり日本語をどうするのかと思ったら「読む」んだった。でも、これではまだ終わらないはずだな。だってここで終わっちゃったら、日本語としておかしいもの。だから「日本語を読む」のあとに、それに関係する何かが続くはずだな。おそらく「日本語を読む」心の構え方、かな。ここまで読んできた流れからして、まあ、それしかないよなあ)
5. (皆さんはすでに日本語を読む)心の構え方を
(やっぱり。このあとにおそらく続くのは、「(心の構え方を)わかっている」とか「(心の構え方を)知っている」とか、まあそんなところだな。それに、どうやらここらへんで、一区切りって感じなのかな)
6. (皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を)身につけている
(ああ、やっぱりそうか。で、これでたぶん終りなのかな。でも、「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)はずである」とか「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)と思う」とか、それとも「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)ので」とか「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)けれども」とかが、このあとにまだくっつくかも知れないな。でもまさか「(皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)別の人を」なんて、さらに続くってことは、まあ、ないよな)
7. (皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている)。
(句点がついたってことは、やっぱりここで終りなんだ。ということは、すでに日本語を読む心の構え方を身につけているのは、「皆さん」なんだ)

ひとつの「意味のかたまり」を読みつつ、その意味をそれまでの流れのなかで把握しながら、同時に、つぎにやってくる意味のかたまりを予測し、そして待ち構える。そうやって把握する意味のかたまりをどんどんと増やしていき、最後に「。」でとりあえず読みを終える。これが日本語を理解するときの心の構え方である。

こうした心の構えが習得できていなければ、この日本語は読めない。そしてこの心の構えは、生まれたときから身についているのではなく、長い長い時間をかけて身につけていったものである。

たとえば、いまこれを読んでいる皆さんのなかに小中学生の方はおられるだろうか。おそらくいないはずだ。この文章を読むためには、それなりの心の構えがいるのだが、その心の構え方は5年や10年では身につかない。その言語の環境のなかにどっぷりと身を浸しながら、20年も30年もかけて習得していくものである。いま読んでいる皆さんも、そうやって日本語を読むための心の構え方を身につけていったのである。

長い時間をかけて身につけていった言葉に対するこの心の構え方こそ、本当の意味での「文法」である。学者が言語を分類整理してまとめあげた文法には、学問的価値は大きくとも、実践的価値は大きくない。いくら勉強しても、それだけで言葉が本当の意味で身につくことはない。そうした文法は、心の構え方を育てるためのひとつの道具にすぎない。役には立つが、しょせん道具である。本当の意味で心の構え方を育てるのは、豊かな言語体験である。

英語の心の構え方

つぎに英語を読む際の「心の構え方」を考えてみよう。英語の場合、日本語の心の構え方とどこが同じで、どこが違うのだろうか。

ここでも日本語の場合と同様に実例を挙げて詳しく分析してみることにする。取り上げる英文例は以下のとおりである。

Many of the grammatical rules that some among us like to invoke are not linguistic fact, but classroom folklore, invented by eighteenth-century grammarians out of whole cloth, repeated by editors unwilling to determine whether those rules comport with reality, taught by teachers who teach what textbooks tell them, and ignored by the best writers everywhere.

これはJoseph M. Williamsというシカゴ大学教授の著書Style—Toward Clarity and Grace(The University of Chicago Press)の一節である。

これをこれから読んでいくのだが、その前に皆さんにはひとつお願いがある。この先に進む前にこの英文を10回、声を出して読んでほしいのだ。そしてそうやって読むあいだにこの文章についていろいろなことを考えてみてほしい。それを行なうか行なわないかで理解のレベルが大きく違うはずである。

でははじめよう。まず意味のかたまりに分けてみる。いろいろ分け方ができるだろうが、ここでは次のように分けてみる。

Many of the grammatical rules
that some among us like to invoke
are not linguistic fact,
but classroom folklore,
invented by eighteenth-century grammarians
out of whole cloth,
repeated by editors
unwilling to determine
whether those rules comport with reality,
taught by teachers
who teach what textbooks tell them,
and ignored by the best writers everywhere.

日本語の場合と同じように意味のかたまりをひとつずつ順番に読み解いていくことにする。まずMany of the grammatical rulesからだ。すでに日本語で一度やっているので、今回は最初から心のなかのつぶやきだけをまとめてみることにする。

1. Many of the grammatical rules
(うん、これはおそらくサブジェクト部分だな。サブジェクトではない可能性も少しあるけれど、つまり倒置でオブジェクトが前に出てきているということも考えられないことはないが、しかし普通に考えれば、これはサブジェクトだ。で、サブジェクトなのだから、これから「文法規則の多くのもの」について何かいいたいんだな。で、それって何だろう?)
2. that some among us like to invoke
(おや、「文法規則」にまだ説明がつくんだ。どんな文法規則かっていうと、invokeしたがる(わあわあ言い立てたがる)人もなかにはいるような、そんな規則なんだ。なるほど。で、その文法規則がどうしたっていうんだ。そろそろ、プレディケイト(述部)がきてもよさそうだな。それとも、まだ文法規則の説明が続くのかな……)
3. are not linguistic fact,
(ああ、やっぱり、プレディケイトがきた。で、その内容はというと、「そうした文法規則は言語的には事実ではない」。 ええっ、どういうこと? じゃあ、なんなんだ。でも、さきにnotときてる、ということは、つぎにbutとくるはずだな。たぶん、そこでわかるはずだ)
4. but classroom folklore,
(そうした文法規則は「言語的な事実」ではなくて「教室の言い伝え」だって? うん、なるほど。そういうことか。おもしろい! で、これで終わりかな。まだ補足の説明が、いくつかつくんじゃあないかな。そういうパターンってこうしたタイプの文章では多いからな)
5. invented by eighteenth-century grammarians
(ああ、やっぱり補足説明があるんだ。で、内容はというと、「(そうした文法規則は)18世紀の文法家によってつくられた」。なるほど。で、終りかな? いや、まだなにか続きそうだぞ?)
6. out of whole cloth,
(えっ? 「まったく根拠なく」 だって? そこまでいうか。で、これで終りかな? いや、ひょっとしたら、まだまだ続くのかも)
7. repeated by editors
(やっぱりだ。こりゃまだまだ続きそうだな。で、今度はなんだ? 「(そうした規則は)編集者たちによって繰り返され」。なるほど、grammariansのつぎはeditorsか。こんな感じで繰り返していくんだな)
8. unwilling to determine
(おやおや、editorsにまだ説明がつくんだ。で、なんだって? 「判断したくない」。ふーん、で、編集者たちは何を判断したくないんだろう?)
9. whether those rules comport with reality,
(なるほど、「そうした規則が現実に即しているかどうか」を判断したくないんだ。なさけないやつらだな、まったく。で、grammarians、editorsときたからには、まだ続きそうだな。つぎは、誰だ?)
10. taught by teachers
(「教師によって教えられ」。なるほど、教師か。でもこれもこのあとに、なにかまだ説明がつきそうだな)
11. who teach what textbooks tell them,
(「(どういう教師かというと)教科書がいうとおりに教える(教師)」。アハハ。自分も教師のくせに。で、これで終りかな。まだ、なにか続きそうだな)
12. and ignored by the best writers everywhere.
(ああ、andとあるからこれでおわりだ。で、最後は、the best writers。それもeverywhereの。なるほど、シンプルで締りのよい、よい終わり方だな。これまでの説明が長かっただけに、よけいに効果があるよなあ)

いかがだっただろうか。皆さんが最初に10回読んだときに考えていたことと、どこが同じで、どこが違っていただろうか。

心の構え方の日英の違い

ここまで日本語の心の構え方と英語の心の構え方を実例を通じてみてきた。意味のかたまりをまず読み取り、流れのなかでその意味を理解しながら、つぎの意味のかたまりを予測していくという点では、日英ともに同じである。では、日英で違う点はどこだろうか。
もっとも重要な点は、英語では意味のかたまりを前から順番に読んでいけば全体の意味を段階的につかんでいくことができるのに対して、日本語の場合は文を最後まで読みきらなければ全体の意味はつかみきれないということである。

もう少し詳しく解説しよう。まず英語の心の構えからみてみる。例に挙げた英文はかなり長いものだが、よくみてみると、最後まで読みきらなくとも意味は確定できることがわかる。

たとえば最初のMany of the grammatical rules that some among us like to invoke are not linguistic factを読めば、そこまでで意味は自立的に充足される。つまりここでピリオドにすることも可能である。その後の「意味のかたまり」は、このMany of the grammatical rules that some among us like to invoke are not linguistic factに対する補足説明であるといってよい。

またinvented by eighteenth-century grammarians out of whole clothやrepeated by editors unwilling to determine whether those rules comport with realityなども、前の意味のかたまりを後ろの意味のかたまりが補足説明するかたちになっているので、やはり前から順番に意味を把握していけばよい。

いっぽう日本語の心構えでは「皆さんはすでに日本語を読む心の構え方を身につけている。」という全文を読みきるまで、全体の理解はずっと宙に浮いたままである。それも最後の「。」まで読まなければ、読みきったことにはならない。句点がなければ、このあといくらでも意味のかたまりを続けることができるからである。

このように、英語の場合には意味のかたまりを前から順番に把握していけばよい、言い換えれば、意味を把握するうえでセンテンスをすべて読み切る必要はない。それに対して日本語では、文を最後まで読みきらなければ意味を把握することができない。これが日英の心の構え方の最大の違いである。

「センテンス」と「文」

なんだか日本語のほうが損だと思った人もいるかも知れない。あるいは、やはり日本語は英語よりも言語として劣っているのではないかと考えた人もいるかも知れない。だが、どちらも間違いである。というのもセンテンスと「文」とを同列に扱うことが、そもそも間違いなのだ。

じつは「文」は日本語には元来なかった 。それは欧米言語のセンテンスという概念を真似て明治時代の学者たちが「でっち上げた」ものなのである。ただ、この「でっち上げ」もまたあまり「良いでっち上げ」ではなかった。なにしろ自分たちの頭で考えたものではなく、海の向こうでできたものをただそのまま借りてきただけなのだから、出来が悪くても仕方がない。だが、時は明治である。とにかく大急ぎで「文明開化」を成し遂げなければ、日本は西欧列強の植民地になってしまう恐れが大であった。出来がどうのこうのといっているヒマなどなかった。それが明治という時代だったのである。

植民地にされないためには政治や軍備のみならず、言語においても英語やフランス語に匹敵する「国語」という体裁を整えなければならない、そして「文明開化」を進めるためには西欧のセンテンスをそのまま写せる、つまり翻訳ができる仕組みを国語のなかにもつくらなければならないと明治の人々は考えた。

こうしてセンテンスを真似て文がつくられたのだが、その際にはここでやったような「心の構え方」などということを考える余裕などあるはずもなかった。したがって心の構え方という視点からみるかぎり、センテンスと文とはじつは無関係なのである。したがって一対一で対応させてその優劣を比べるということ自体が無理筋である。

<コラム>
国文法と日本語文法

Murray文法の末裔のひとつが日本の学校英文法であることはすでに述べた。ところがじつは明治以来日本の学校で教えられてきた国文法も英文法の影響をきわめて強く受けた、さらに乱暴にいってしまえば英文法の翻訳版とでもいえるものであった。

明治30年代中盤(西暦1900年前後)、大槻文彦という言語学者が中心となって国文法は完成に至った。Murray文法の完成が1795年だから、イギリスからおよそ100年の遅れである。ちなみに大槻文彦は、あの蘭学の入門書『蘭学階梯』を著した蘭学者、大槻玄沢の孫である。

英文法がイギリス国民の英語に対する劣等感を克服するためにつくられたことはご紹介したとおりだが、その事情は日本でも同じだった。日本語の文法の場合もまた、欧米諸国に対する言語的な劣等感を克服するために、当時の国家的使命感のもとにつくりあげられたものである。

明治という時代は、初代文部大臣の森有礼が「日本語は捨て去って、思い切って英語を我々の国語として採用しよう」と真剣に目論んだ時代であった。郵便制度の生みの親である前島密も「文明の進歩を阻害する」漢字を廃止する運動の主導者だった。

大槻文彦もこうした当時の「開明的」な指導者の一人だった。大槻は、森のように日本語廃止といった過激かつ非現実的な方法を主張するのではなく、日本語にも英語やフランス語など列強諸国の言語と同様の地位を与えるべきと考えた。そして国語辞書の編纂(これが日本初の辞書「言海」である)とともに、国文法を作り出すことにその生涯をささげたのだった。

このように英文法と国文法は自国語に対する劣等感を克服するためにつくられたという点において同様なのだが、両者には完成に行き着くまでの道筋に大きな違いがあった。イギリスでは母語すなわち英語の文法を確立しようとする努力がすでに1500年代中盤からはじまっていた。その後も英文法の確立のためにさまざまな試みがなされた。Murray文法とはそうした膨大な営みのうえに花開いた一輪の精華だといえるだろう。

ところが国文法はMurray文法のように数百年の時の練磨を経たのちに完成したものではない。小国日本が欧米列強に一刻でもはやく追いつくために、英文法を参考にして急ごしらえでつくりあげたものであった。そのため、本家本元である英文法の影響を強く受けることとなったのだ。

こうして日本語の実態を反映していない文法概念が国文法のなかに盛り込まれることになった。ちょうど文明開化のさなかに日本社会の実態を反映していないさまざまな概念が政治や経済や産業のなかにつぎつぎと盛り込まれていったのと同じようにである。

近年になって言語の科学的研究が飛躍的に発展するなか、こうした伝統の流れをくむ国文法のもつ矛盾点を指摘する声が徐々に高まってきた。その中心となったのが日本語教師たちであった。国文法では外国人への日本語教育がどうしてもうまくいかないという差し迫った問題があったのだ。

こうした状況から、新しい日本語の文法が国家とは離れたところで整えられていくようになった。このようにして整えられた文法体系は従来の「国文法」に対して「日本語文法」と呼ばれている。

現在の日本語の文法は、国文法と日本語文法がうまく棲み分けている状態である。小中学校ではいまも国文法が教えられている。一方で外国人向けの日本語教育の現場では日本語文法が用いられている。こうして日本の近代化の礎となった国文法と、言語教育的ニーズから生まれた日本語文法という2つの文法が並存するという事態が生じ、それがいまも続いている。

心の構え方という視点からみれば、対応させてもよいのは、意味が自立的に把握できる部分同士であろう。ここでいえば、たとえばだがMany of the grammatical rules that some among us like to invokeという意味のかたまりと「文法規則についてあれこれと好んで言い立てる人たちが世間にはいるものだ。」という意味のかたまりになるだろう。どちらもそこだけで意味が自立的に把握できるからである。

こうした視点からみると、上に実例として挙げた英文を日本語に対応させるとすると、たとえば次のようなものになるかも知れない。

Many of the grammatical rules that some among us like to invoke
文法規則についてあれこれ好んで言い立てる人たちが、世間にはいるものだ。
are not linguistic fact,
だがそうした文法規則の多くは、じつは言語のなかに実在するものではない。
but classroom folklore,
それは教室のなかでの単なる「言い伝え」にすぎないのだ。
invented by eighteenth-century grammarians out of whole cloth,
18世紀、当時の文法家たちはこうした文法規則を巧妙にゼロからでっちあげた。
repeated by editors
以降、編集者たちはそれを延々と使い続けるばかりで、
unwilling to determine whether those rules comport with reality,
それが現実に則しているかを検証しようともしなかった。
taught by teachers
また教師たちもそれを教室で教え続けてきたが、
who teach what textbooks tell them,
それは教科書に載っているという、ただそれだけの理由からだった。
and ignored by the best writers everywhere.
ところが優れた書き手ならば、誰もがそんなものはいっさい無視してきたのである。

英語ではひとつのセンテンスだが、日本語ではそれが7つの文になっている。これが心の構えからみた日英の対応例である。

英文和訳は誤訳

これで文法/訳読つまり英文和訳方式が、じつは誤訳であることがおわかりいただけたことと思う。たとえば、先の英文を英文和訳方式で日本語にしてみよう。

我々のあいだの幾人かが行使することを好む文法規則のほとんどは、言語的事実ではなく、18世紀の文法家たちによって巧妙に考案され、それらの規則が現実に合致しているかどうかを判断することを嫌がる編集者たちによって繰り返され、教科書が彼らに伝えることを教える教師たちによって教えられ、あらゆる場所の最良の作家たちによって無視されてきた、教室の民間伝承である。

たしかにセンテンスと文は一対一対応をしているのだが、これが心の構え方という視点からは一対一対応していないことも明らかである。そして英文のほうはリズムや対位法などのテクニックを駆使した名文であるのに対して、日本語のほうは単なる悪文にすぎない。この文を一度読んだだけで理解できる日本人がいったいどのくらいいるだろうか。最後の「教室の民間伝承である。」を読むまでに「18世紀の文法家たちによって……によって無視されてきた」をすべて記憶しておかなければならないのである。普通の人間にできるはずがない。

なぜこんなことになるかというと、この訳文が英語とのあいだでかたちだけを一致させようとして、日本語にふさわしい心の構え方のあり方を完全に無視しているからである。一致させるべきは言葉のかたちではない。心のあり方である。したがって、英文和訳は誤訳なのである。

ところがこの手の英文和訳文体は、いまでも世の中に蔓延している。なかでも学者や研究者の書く文章の多くがいまもこの手の英文和訳文体だ。学術論文などでは、こうした文体のほうが論理的といってありがたがる風潮さえあるようである。

じつにバカバカしい話だ。いまはもう平成の時代である。明治時代に生きているわけではないのだから、英文和訳体をありがたがるなどといった愚かなことは、一刻もはやくやめるべきである。

 

<コラム>
言語を支える世界観

西欧の世界観と日本の世界観の違いは英語と日本語という言語のかたちに色濃く反映されている。

西欧では「実体」「属性」「関係」が世界を構成しているという世界観が定着している。「実体」とは個々の事物である。実体は「属性」を持ち、また他の実体との関わり合いを持つ。たとえば「会社」という実体があり、それには「ビジネスを行う」という属性があり、そして他の会社(事業体)や人間とのあいだに関係を持つ。

英語のセンテンスもこの世界観のもとにある。「実体」は名詞で表され、「属性」は名詞、形容詞、自動詞で表され、「関係」は他動詞で表される。

また西欧の世界では「存在」と「真」が非常に重要な概念である。西欧の世界観の中心となる考え方は、まずその実体が存在するかしないか、そしてその実体および属性、関係が真か偽か、というものである。そしてこの考え方は、英語のテキストのあり方にも如実に反映されている。

いっぽう日本の伝統的世界観はこうした「実体」「属性」「関係」という概念を基盤としていない。では伝統的日本語の世界の中心となるものは何かといえば、それは「場」である。あるいは「共同体」「集団」「グループ」「状況」と呼んでもよいだろう。日本語の世界観は西欧の世界観のように実体・属性・関係を中心におくものではなく、まず状況または場があり、実体はその一部として存在するのだというものである。

 

具体例として日欧の文学の対比をしてみよう。

西欧の小説では、まずいくつかの実体、その属性、そのあいだの関係を定義し、次にそこになにがしかの対立や矛盾があることを明らかにして、そこに生まれる葛藤や解決などを描いていくという手法がとられる

だが日本の伝統的文学ではそうした手法はとらない。まず全体的な「流れ」つまり「場」がある。その流れのなかでさまざまな出来事が起こっていく。実体、属性、関係といった西欧的概念はそうした場を彩る一部にすぎない。

谷崎潤一郎の『細雪』はそうした日本の伝統的な文学のかたちを引き継いだ近代小説のひとつだ。そこでは人物(実体)の明確な輪郭(属性)、人物と人物のぶつかりあい(関係)といった西欧的世界はただ背景的に描かれているにすぎない。長いストーリー展開のあいだにドラマチックな出来事は何も起こらない。ただゆっくりと没落していく大阪の商家の様子がたんたんと描かれているだけである。美しい絹糸のように連綿と続くその文章を、ここで少しだけ引用しておこう。

幸子のすぐ下の妹の雪子が、いつのまにか婚期を逸してもう三十歳にもなっていることについては、深いわけがありそうに疑う人もあるのだけれども、実際はこれをいうほどの理由はない。ただ一番大きな原因をいえば、本家の姉の鶴子にしても、幸子にしても、また本人の雪子にしても、晩年の父の豪奢な生活、蒔岡という旧い家名、――ようするに御大家であった昔の格式に囚われていて、その家名にふさわしい婚家先を望む結果、初めのうちは降るほどあった縁談を、どれも物足りないような気がして断り断りしたものだから、次第に世間が愛憎をつかして話を持って行く者もなくなり、その間に家運が一層衰えて行くという状態になった。だから「昔のことを考えるな」という井谷の言葉は、ほんとうに為めを思った親切な忠告なので、蒔岡の家が全盛であったのはせいぜい大正の末期までのことで、今ではその頃のことを知っている一部の大阪人の記憶に残っているに過ぎない。いや、もっと正直のことをいえば、全盛と見えた大正の末期には、生活の上にも営業の上にも放縦であった父の遣り方が漸く祟って来て、既に破綻が続出しかけていたのであった。それから間もなく父が死に、営業の整理縮小が行われ、次いで旧幕次代からの由緒を誇る船場の店舗が他人の手に渡るようになったが、幸子や雪子はその後も長く父の存生中のことを忘れかねて、今のビルディングに改築される前までは大体昔の俤をとどめていた土蔵造りのその店の前を通り過ぎ、薄暗い暖簾の奥を懐かしげに覗いてみたりしたものであった。
『細雪』(谷崎潤一郎、新潮文庫、pp.12-3)

現代日本人はもはやほぼ完全に西欧化しているため、こうした伝統的日本の世界観よりも西欧的な世界観に親しみを強く感じる人も多いようだ。西欧的世界に暮らしている学者やビジネスマンは特にそうである。

だがそれでも私たち日本人の心のなかには伝統的な日本の世界観が根強く残っている。日本の伝統は百年や二百年ぐらいで失われるものではなく、またそれほど簡単に失われてはいけないものなのだ。

3. センテンスの組み立て方

つぎに「センテンスの組み立て方」に移ろう。

英語では並べ方が最も重要

センテンスの組み立て方で、なによりも知っておかなければならないのは、英語は並べるだけの言語だということである。

たとえば、もし日本語が並べるだけの言語だとしたら、どうなるだろうか。うえの文章はこんな感じになる。

英語の組み立て方 なにより 知っておかなければならない 英語 並べるだけの言語。

普通の日本語とくらべると、味も素っ気もない。「私 チョコレート 好き」「あなた チョコレート ケーキ どっち?」「インディアン うそ つかない」といった、ドライな感覚。これが英語の感覚の第一歩である。

サブジェクト

では実際にどのように並べるのか。その並べ方についての基本形をみていくことにする。
最初に並べる意味のかたまりは「サブジェクト」(Subject)である。サブジェクトとは、これからそれについて述べるモノやコトのことだ。「インデアン うそ つかない。」だと「インデアン」、「英語 並べるだけの言語。」だと「英語」がトピックである。前の英文例であればMany of the grammatical rulesがサブジェクトだ。「インデアン」というサブジェクトについて、「英語」というサブジェクトについて、“Many of the grammatical rules”というサブジェクトについて、これからなにかを述べるのである。

プレディケイト

サブジェクトを示したあと、それについて何かを述べる。何かを述べるためにまずサブジェクトを示したのだから当然だ。「インデアン うそ つかない。」だと「うそ つかない」「英語 並べるだけの言語。」だと「並べるだけの言語」が、それにあたる。この「なにかを述べる」意味のかたまりを「プレディケイト」(Predicate)という。

モディファイア

実際のセンテンスでは、サブジェクトとプレディケイトに、さらに詳しい説明を加える意味のかたまりが後ろに付加されることが多い。これが「モディファイア」(Modifier)である。

もういちど、最初の例文をみてみよう。

Many of the grammatical rules that some among us like to invoke are not linguistic fact, but classroom folklore, invented by eighteenth-century grammarians out of whole cloth, repeated by editors unwilling to determine whether those rules comport with reality, taught by teachers who teach what textbooks tell them, and ignored by the best writers everywhere.

アンダーラインで示されたところがモディファイアにあたる部分である。みてのとおり、サブジェクトやプレディケイトに付加されるモディファイアもあれば、そのモディファイアの後ろにさらに付加されて詳しい説明を加えるモディファイアもある。

英語のセンテンスはこの3つの種類の意味のかたまりから構成される。たとえば上記のセンテンスであれば以下のように表現できる(SubjectはS、PredicateはP、ModifierはM/mとする)。

S(+M(+m))+P(+M)+M(+m)+M(+m) +M(+m)+M

組み立て方の骨格
ここからモディファイアをすべて除いた以下のかたち、すなわち「サブジェクト+プレディケイト(S+P)」が、英語のセンテンスの基本である。人間でいえば骨格にあたる部分だ。たとえどんなに複雑なセンテンスでも、あらゆるモディファイアをはぎとって最後に残るのが、このS+Pなのだ。上記のセンテンスでは以下のようになる。

Many are not linguistic fact, but classroom folklore.
S+P     (S+)P

骨格S+Pにモディファイアという「肉」をつけて英語のセンテンスは完成する。その代表的なかたちがS(+M)+P(+M)+Mだ。

だが「肉」(モディファイア)のつき方は千差万別である。ほとんど筋肉のついていないやせこけたセンテンスもあれば、筋肉がたっぷりとついたマッチョなセンテンスもある。あるいは肉といっても贅肉ばかりの肥満体センテンスもある。

どのようなセンテンスがよいかといえば、良質の筋肉が適度についたセンテンスがよい。私たちが英語を書くときにも、そうした引き締まったセンテンスを書くように努めるべきである。

S, P, Mの実際

つぎにサブジェクト、プレディケイト、モディファイアの実際のかたちについて考えてみよう。

もっとも簡単なかたちのセンテンスは、S、P、Mともに語(Word)というものである(例 Birds sing merrily.)。だがこうしたシンプルなセンテンスは実際にはきわめて少ない。通常のセンテンスでは、語ではなく句(Phrase)や節(Clause)が数多く用いられる。複雑な心の動きを言葉として表すには、言葉のかたちもある程度は複雑なものにならざるを得ないのだ 。

たとえば上記のセンテンスでもモディファイアのかたちとして前置詞句(of the grammatical rules, out of whole cloth)、分詞句(invented by eighteenth-century grammarians、repeated by editors, taught by teachers, ignored by the best writers)、代名詞節(that some among us like to invoke, teachers who teach what textbooks tell them)などの複雑なかたちが使われている。

こうして思考の複雑さが増すほどに、センテンスも複雑さを増すことになる。「英語が読める」とは、読みの流れのなかで、こうした複雑なセンテンス構造を的確に予測し、よどみなく読み取れる「心の構え方」ができているということにほかならない。

並べ方を変える

この節の最初に英語は並べるだけの言語だと述べた。これを別の観点からみると、その並べ方を変えるとセンテンスの持つ意味がなんらかのかたちで変化するということでもある。まず簡単なセンテンスで説明しよう。

I played tennis yesterday. → Yesterday, I played tennis.

モディファイアであるyesterdayの並び順をセンテンスの最後から最初に移したことで、テニスをしたのは(たとえば今日でも一昨日でもなく)昨日であったことを強調している。センテンスに新たな意味が加わったのである。

もっと複雑なかたちをした実例をWilliamsのStyleからいくつか紹介しておく。

1-a. The data that are offered to establish the existence of ESP do not make believers of us for the most part.
1-b. For the most part, the data that are offered to establish the existence of ESP do not make us believers.

1-aと1-bでは、for the most partというモディファイアの位置が異なっている。これは、1-aのようにfor the most partをセンテンスの最後に置いてしまうと中核的内容であるthe data …do not make believers of us /do not make us believersの部分のインパクトが弱まってしまうため、1-bでは意識的にfor the most partの位置をセンテンスの最初に並べかえたのである。

また以下の2-aと2-bのように同様の効果を狙うためサブジェクトとプレディケイトの並べ方を逆にするケースもある。

2-a. Those questions relating to the ideal system for providing instruction in home computers are just as confused.
2-b. Just as confused are those questions relating to the ideal system for providing instruction in home computers.

さらには以下の3-aと3-bのようにS(+M)+Pという並べ方をS+ P (+M)という順に並べ変えてしまうことさえある。

3-a. A discovery that will change the course of world history and the very foundations of our understanding of ourselves and our place in the scheme of things is imminent.
3-b. A discovery is imminent that will change the course of world history and the very foundations of our understanding of ourselves and our place in the scheme of things.

このように意味のかたまりの並べ方をさまざまに変えることで伝えたいニュアンスをより的確に表そうとするのが、英語のセンテンスの特徴のひとつである。

<コラム>
日英の並べ方の違い

ところで英語では前から順番に理解していけばよいのだが、日本語ではそうはいかない。日本語でもサブジェクト(主題)は最初に置かれる のだが、それに対するプレディケイト(述部)が置かれる場所は、文のいちばん最後と決まっているからである。そのため日本語では最後に置かれる「中核説明」が決まるまで文の意味が最終的に決定しない。

たとえば「インデアンはうそをつかない。」という文をみてみよう。たしかに「インデアンはうそをつかない。」であれば「うそをつかない」が中核説明になる。

だが「インデアンはうそをつかないとは思えない。」ならどうか。この場合の述部は「とは思えない」となる 。あるいは「インデアンはうそをつかないとは思えないのが普通だ。」なら、述部は「普通だ」である。つまり日本語では「。」がくるまで、文の意味はいつまでも決まらないのだ。

この日本語と英語の並べ方の違いは、きわめて重要である。日本語の場合には述部がきてはじめて文は終わる。逆にいうと主題と述部のあいだにあまりに多くの補足説明を入れるとその文は理解不能になる。いっぽう英語の場合はサブジェクトやプレディケイトの後ろにモディファイアが続くから、それらがかなり多く続いても理解不能になることはあまりない(といってもやはり限度というものがあるが)。
したがって日本語の文は必然的に短いものにならざるを得ない。言い換えれば、日本語は短い文を積み重ねていくことに適している。いっぽう英語はかなり長いセンテンスを許容できる。言い換えれば、英語では短いセンテンスは工夫が足りないとみられがちだ。そのため、英語の知的なセンテンスは一般的にかなり長くなる。

4. センテンスの学び方

意味のかたまりの把握と予測

さきの「日本語の心の構え方」のところで私は次のように書いた。

ひとつの「意味のかたまり」を読みつつ、その意味をそれまでの流れのなかで把握しながら、同時に、つぎにやってくる意味のかたまりを予測し、そして待ち構える。そうやって把握する意味のかたまりをどんどんと増やしていき、最後に「。」でとりあえず読みを終える。これが日本語を理解するときの心の構え方である。
こうした心の構えが習得できていなければ、この日本語は読めない。そしてこの心の構えは、生まれたときから身についているのではなく、長い長い時間をかけて身につけていったものである。
長い時間をかけて身につけていった言葉に対するこの心の構え方こそ、本当の意味での「文法」である。

上記のことは日本語の文だけでなく英語のセンテンスにもあてはまる。そしてこれこそがセンテンスの学び方のエッセンスなのだ。

すなわち「センテンスを理解する」とは「ひとつの意味のかたまりを読み、流れのなかでその意味を把握しながら次にくる意味のかたまりを予測する。そうした連続プロセスのなかでセンテンス全体の意味の把握へと至る」ことであり、「こうした心の構えが習得できていなければ、英語のセンテンスは読めない」。さらには「この心の構えは、生まれたときから身についているのではなく、長い長い時間をかけて身につけていったものである」。

ここで重要となる能力が「読みの流れのなかでの意味のかたまりの把握と予測」である。たとえば以下のセンテンスをただ一回だけ流れにあわせて戻り読みせず読んでみてほしい。

Socrates, who relentlessly questioned the very foundations of social and political behavior, forced his fellow citizens to examine the duty they owed to the laws of their gods and to the laws of their state and encouraged young people to question the authority of their elders while he maintained that he was only trying in his poor inadequate way to puzzle out the truth as best he could.
Style, J. M. Williams, p.142より

読みの流れのなかで、ひとつひとつの意味のかたまりを正確に把握しつつ、次にくる意味のかたまりを予測することはできただろうか。もしできたとすれば、あなたには本当の意味での文法力がすでに身についている。だが、もし意味のかたまりの切れ目や位置などを確認するために何度も何度も読み返さなければならなかったとすれば、あなたにはまだ本当の文法力が身についていないといってよい。

語・句・節

では、意味のかたまりの把握と予測の能力は、どうすれば身につけられるのか。究極的には「長い長い時間をかけて身につけて」いくしかないのだが、それをサポートしてくれる考え方や手法はある。

まず、意味のかたまりの把握をサポートしてくれるのが、節(Clause)、句(Phrase)、語(Word)といった文法概念である。たとえば上のセンテンスの意味のかたまりを考えると、Socratesが語、who relentlessly questioned the very foundations of social and political behaviorが節、to examine the dutyが句、they owed to the laws of their gods and to the laws of their stateが節である。これらの語、句、節が、センテンスのなかで意味のかたまりの単位となっている。したがって語、句、節をうまく把握できれば意味のかたまりも把握できることになる。句や節にはさまざまなかたちがあり、したがって、このさまざまな句や節のかたちを体系的に学習理解しておくことが、意味のかたまりの把握につながるはずだ。

並べ方のパターン
つぎに、意味のかたまりの予測をサポートしてくれるのが、意味のかたまりの並べのパターンである。具体的にみてみよう。上で紹介したセンテンスをもう一度使うことにする。

Socrates, who relentlessly questioned the very foundations of social and political behavior, forced his fellow citizens to examine the duty they owed to the laws of their gods and to the laws of their state and encouraged young people to question the authority of their elders while he maintained that he was only trying in his poor inadequate way to puzzle out the truth as best he could.

まずSocratesを読む。すると「これはおそらくサブジェクトだ」と見当がつく。英語の並べ方のパターンでは、この位置にある語がサブジェクト以外である可能性はきわめて低いからだ。

と同時に、次にくるべき意味のかたまりを予測する。可能性は大きくわけて2つある。プレディケイトがくる可能性とモディファイアがくる可能性だ。プレディケイトなら、動詞の変化形が続く。ここならforcedだ。モディファイアなら、語、句、節のさまざまなかたちが考えられる。ここではSocrates, who relentlessly questioned the very foundations of social and political behaviorとつづくわけだが、そのほかにもSocrates, one of the founders of Western philosophy, やSocrates, renowned for his contribution to the field of ethics, と続く可能性もある。

読み手にはこれらの幅広い可能性すべてに対応できる心構えをもつことが求められる。そしてそれをサポートするのが、さまざまな並べ方のパターンの体系的な学習と理解である。
さきに「骨格S+Pにモディファイアという「肉」をつけて英語のセンテンスは完成する。その代表的なかたちがS(+M)+P(+M)+Mだ」と述べた。これを言い換えればS(+M)+P(+M)+Mが英語の代表的な並べ方のパターンだということだ。

この代表的パターンを中心に、英語の並べ方のパターンには、最も簡単ものではS+P(Birds sing.)、複雑なものではS(+M(+m))+P(+M)+M(+m)+M(+m) +M(+m)+M(Many of……writers everywhere.)にいたるまで、さまざまなバリエーションがある。そうしたさまざまな並べ方のパターンをすべて網羅して体系的に学習理解しておけば、それが意味のかたまりの予測につながるはずである。

前におこなったように、このソクラテスのセンテンスについても意味チャンクごとの分析をしておこう。

1. Socrates,
(これは、ほぼまちがいなくサブジェクトだな。でも、あとにカンマがついているということは、つぎにプレディケイトがすぐにくるのではなくて、「ソクラテス」に関するなんらかの説明が入る可能性がとても高いな。ひょっとすると「史上最高の哲学者」といった同格の名詞表現かもしれない。あるいは、関係代名詞節がくるのかもしれない。いずれにしても、まずまちがいなくソクラテスについての説明だ)
2. who relentlessly questioned
(ああ、関係代名詞節だった。で、ソクラテスは「容赦なく問いかけてくる」っていうわけだ。とすると、何を問いかけてくるかというと……)
3. the very foundations
(基礎の基礎。うーん、なるほど。で、なんの基礎の基礎?)
of social and political behavior,
(社会的、政治的行動に関する、か。で、ここでカンマがあるから、ソクラテスの説明は終わりだな。ということは、次はプレディケイトのはじまり、つまり動詞がやってくるというわけだ)
5. forced his fellow citizens
(アテナイの市民に無理やり押し付けたってわけか。で、何を押し付けたのかというと……)
6. to examine the duty
(その義務をよくよく考えてみること。で、その義務っているのが……)
they owed to the laws of their gods
(神の法のもとに彼らが負っている義務であり、)
and to the laws of their state
(さらに国家の法のもとに彼らが負っている義務、か。ふーん、宗教的義務と政治的義務の2つが同列なんだ。たぶんこの政治的義務と宗教的義務とを同列におくところが、ソクラテスなんだよな。なんだかまだ続きそうだぞ)
and encouraged young people
(で、市民への説教が終わったかと思ったら、今度は若者に対しての勧めか。どんな勧めをするんだろう。福沢諭吉のように学問でも勧めるのかな)
to question the authority of their elders
(なんと、年上のものの権威を疑うことを勧めるのか。へえ、ソクラテスがこんなこといってるんだ。けっこう、過激なんだなあ。ここで終ってもいいはずなんだけど、まだ、続くのかな?)
while he maintained
(「と同時に」ときたけれど、こんなのはピリオドにして別のセンテンス立てにしてくれると日本人にはわかりやすいのになあ。まあセンテンスをくっつけて長くしたがるのが英語人のクセだから仕方ないけど。ソクラテスは今度は何を主張するのかな)
that he was only trying
(自分はただやろうとしているだけだ、と。何をやろうとしているんだろう)
in his poor inadequate way
(あれ?すぐには「なに」がこないんだ。ここで「まったく十分でないやり方で」という意味チャンクが挿入されているのは、かなりふつうっぽくないよなあ。よほど、このことを強調したかったのかな。それともセンテンス全体のリズムの問題かな。でも、こういうかたちの挿入句って、英米のインテリさんの文章に多いんだよなあ。とにかく、やろうしていることはいったい何なんだ。)
to puzzle out the truth
(やろうとしているのは「真実を解き明かす」こと、か。まあ、ソクラテスですからね。まだ続くのかな)
as best he could.
(できるかぎりの力で、か。十分でないといったり、できるかぎりといったり、要するに、真実はいまだ十分には解き明かせていないといいたいんだな。このhe couldで終わりたいがために、in his poor inadequate wayを前にもっていったんだろうなあ。この終わりかた、かなりかっこいいもの。)

参考に意味チャンクごとの訳もつけておく。

Socrates, who relentlessly questioned the very foundations of social and political behavior,
ソクラテスは社会的・政治的行動の本質的基盤について妥協することなく突き詰めて考え抜いた人物である。
forced his fellow citizens
そのソクラテスがアテナイの市民に対して求めたことは次のことである。
to examine the duty they owed to the laws of their gods and to the laws of their state
それは神の法と国家の法のもとに課せられている義務についてよく考えよということである。
and encouraged young people
また若者に対しては次のことを勧めている。
to question the authority of their elders
すなわち年配者の権威は疑ってかかれということである。
while he maintained
同時にソクラテスは次のようにも主張している。
that he was only trying in his poor inadequate way
まったく不十分ながらも自分が行おうとしているのは
to puzzle out the truth as best he could.
全力をもって真実を解き明かすことであると。

 

<コラム>
5文型は、でっち上げ?

英語の並べ方のパターンといえば、なんといっても学校英文法の「5文型」が有名だろう。英語教育の現場ではいまも5文型を金科玉条のごとく取り扱っているところもあるという。だがここまで読み進められればおわかりのように、この5文型もまた学者がつくりだした学問的構築物つまり「でっち上げ」のひとつにすぎない。

『<英文法>を考える』(池上嘉彦、ちくま学芸文庫)によると、5文型のルーツは1904年にC. T. Onionsという学者が発刊したAdvanced English Syntaxという本にあるという。それが明治期の英語学者の手を経て日本の英語教育に定着したというわけだ。

だが、なにしろ100年以上も前の書物である。本家イギリスでは、5文型はすでに過去の遺物としかみられていないらしい。ところがここ日本では、その100年前の過去の遺物がいまも生き続けているというのだから驚きだ。

☆☆☆

A:読解/作文を優先させるという先生の考え方は、まあわかったということにします。で、その具体的な学習方法として、先生は「心の構え方」や「英語の並べ方」といった、英語学習に対する新しい考え方をここで提唱しているわけですね。
N:そのとおりです。
A:これはたしかにユニークで面白いと思います。これまでの学習には足りなかった視点だと思いますし、こうした感覚を身につけることが本当の「文法」なんだという意見にも賛成です。でも、これだけでは足りないんじゃないですか? それ以外にも文法として習得すべきことが、数多くあるような気がします。
N:もっと細かな事項については、たとえば認知文法の専門家が書いた本がありますので、それを読んでもらえればよいと思います。もしそれでもまだ足りないと思うのならば、そのときには学校文法の本で補えばいかがですか。
A:えっ、学校文法の本を読んでいいんですか?
N:ええ、いいですよ。おすすめは安井稔の『英文法総覧』(開拓社)ですね。これを通読すれば学校英文法の事項はほぼすべてカバーできます。いい本ですよ。もっと文法を極めたいのなら安藤貞雄の『現代英語文法講義』(開拓社)がお勧めです。
A:ちょっと待ってくださいよ! 学校英文法を捨てる地点からスタートするんだっていうのが、先生の主張なんでしょ? 話がぜんぜん違うじゃないですか。
N:だって、もし本当に足りないと思うんだったら、それは仕方ない。足りない部分は、なにかで補うしかありませんよね。とすれば、学校文法でしょうね。ほかの候補もありますけど、ようするにサプリメントなんだから学校英文法がよいでしょう。それなりに完成されていますから。大事なことは「心の構え方」を中心に据えるということなんですよ。こころが中心。それさえ守られているのであれば、学校英文法であれ、機能文法であれ、生成文法であれ、ほにゃらか文法であれ、使えるものはなんでも使えばいいじゃないですか。
A:先生って、けっこう節操がないんですねえ。
N:はい、理想を忘れない現実主義者を目指してますから。あっ、これは、このまえテレビのなかで宮崎駿がいってた言葉なんですけどね。
A:なんだかなあ。
N:ただ、学校英文法を勉強してもいいけれど、絶対にそれを「規範」扱いしないことです。それだけは覚えておいてください。学校文法をよく勉強したひとにかぎって、この文章は文法的に正しいの正しくないのだのと大騒ぎするひとが多いんです。Williamsさんがいっているように、学校文法の多くは別に事実じゃありません。また事実ではあっても、その多くは大騒ぎするようなものでもない。だから知っておくのはいいけれど、それに縛られてしまうのはバカげてますね。
A:なるほど。
N:日本人は特にそういうケースが多いんです。このあとに作文についてもお話をしますが、日本人が英語を書く際にもっとも大きな障害となっているのが、この「英文法病」です。学校英文法的な「間違い」を犯すことをとても恐怖に感じてしまって、自分の書きたいことさえも書けなくなってしまう。学校英文法的な「間違い」なんか、少々したっていいんですよ。それよりも自分の思ったことを思いきって書くことのほうが大事です。それをできなくさせているのが、英文法病です。
A:学校英文法って、効能だけでなく副作用もあるんですねえ。
N:そしてその副作用が、きわめて深刻なんです。だからとりあえず、いまのところは「学校英文法は利用したければ利用してもかまわない」ぐらいで、まあいいじゃないですか。
A:かなりいい加減だけれど、まあ、いいとしておきます。

 

V.センテンスの良し悪し

1. 英語の「良し悪し」

日本語の文章を読んでいると「これはいい文章だなあ」や「なんだかひどい文章だ」といった印象を持つことが多いだろう。私たちには日本語文章の「良し悪し」を見分ける感覚が身についているからだ。

では英語ではどうだろうか。英語のテキストを読んでいて「いいテキストだ」「ひどいテキストだ」といった印象を持つことはあるだろうか。あるいは意識的にそうしたことを考えたことがあるだろうか。

英語のテキストにも良いものもあれば悪いものもある。当たり前のことなのだが、この当たり前の視点が日本人の英語学習からはすっぽりと抜け落ちている。だから英語を「良し悪し」ではなく「正誤」という視点からしかみていない。
だが良し悪しがわからないようでは、本当の意味で英語がわかったということにはならない。英語学習に際して私たちは、正誤の感覚とともに、良し悪しの感覚も同時に身につけていかなければならない。

「良し悪し」感覚の身のつけ方

ではどうすれば英語の良し悪しを見分ける力をつけることができるのか。基本的には良い英語にたくさん触れるしかない。これは英語にかぎらず絵でも音楽でも同じことだ。たくさんの良いものに触れていくなかから、良いものとそうでないものを見分ける目が自然と育っていくものだ。

だが実際には、こと英語でそうした体験を持つことはきわめて難しい。それに代わるもっと現実的なやり方が必要だ。

そのやり方の一つが良し悪しの基準を知的に学習することである。英米には数多くのテキスト論の教科書があるが、それらほぼすべてに共通する良いテキストの条件というものがある。それは「無駄がないこと」「わかりやすいこと」「魅力的なこと」の3つだ。これらの条件を理解することで、英語の「良し悪し」感覚をまず理解し、そのうえで良い英語にできるかぎり触れていく、それが私たちにとって英語の良し悪し感覚を磨く現実的かつ最善の方法ではないかと思う。

2. 良し悪しの基準

つぎに良し悪しの基準となる「無駄がないこと」「わかりやすいこと」「魅力的なこと」をひとつずつ説明していこう。

無駄がないこと

「無駄がないこと」は、あらゆる英語のテキスト論でまず第一に挙げられる良いテキストの必須条件である。テキスト論の定番中の定番であるWilliam Strunk, Jr.のThe Elements of StyleやWilliam K. ZinsserのOn Writing Wellでも、もちろんWilliamsのStyleのなかでも、無駄を省くことは特に強く主張されている。

では、無駄がないセンテンスとは具体的にはどのようなものか。WilliamsのStyleに無駄の多いセンテンスから無駄のないセンテンスへの書き換えの例が挙げられているので、ここに紹介しておく 。

In my personal opinion, we must listen to and think over in a punctilious manner each and every suggestion that is offered to us.

このセンテンスに対してWilliamsは次のように述べる。まずopinionはpersonalなものに決まっている。したがってpersonalはカットできる。つぎに文章で述べることはすべてopinionであるから、In my opinionもカットできる。listen to and think overはconsiderと同じ意味である。in a punctilious mannerはpunctiliouslyでよい。さらにここでのpunctiliouslyはcarefullyと変わりない。each and everyは同じ意味の繰り返しにすぎないので、eachだけで十分だ。suggestionの定義は「何かをofferすること」だから、that is offered to usは必要がない。とすると、残るのは次のようになる。

We must consider each suggestion carefully.

無駄ないいまわし、無駄なペアリング、無駄なモディファイア、大仰な語彙などを省くことで、センテンスはここまで簡潔にできる。こうして無駄の省かれた引き締まったセンテンスが良いセンテンスなのだ。

わかりやすいこと

「わかりやすこと」も「無駄のないこと」と同様に、ほぼすべてのテキスト論のなかで主張されている良いテキストの条件だ。

これもStyleから例を引用しよう 。まず「わかりにくい」センテンスを2つ挙げる。

Decisions in regard to the administration of medication despite the inability of irrational patients voluntarily appearing in Trauma Centers to provide legal consent rest with a physician alone.

China, so that it could expand and widen its influence and importance among the Eastern European nations, in 1955 began in a quietly orchestrated way a diplomatic offensive directed against the Soviet Union.

いずれもわかりにくいセンテンスだが、そのわかりにくさの原因は、それぞれに異なる。1のセンテンスのわかりにくさは、「あまりに抽象的」かつ「あまりにも構造が複雑」であるからだ。いっぽう2のセンテンスのわかりにくさは、「センテンスとしてのまとまりや流れに欠けている」からだ。それぞれを書き換えると以下のようになる。

When a patient voluntarily appears at a Trauma Center but behaves so irrationally that he cannot legally consent to treatment, only a physician can decide whether to administer medication.

In 1955, China began to orchestrate a quiet diplomatic offensive against the Soviet Union to expand its influence in Eastern Europe.

書き換えたことで、1のセンテンスでは過度の抽象性や構造の複雑さがかなり減ってきた。2のセンテンスでもセンテンスとしてのまとまりができ、流れがよくなってきた。

このように、あまりに抽象的、あまりに構造が複雑、まとまりや流れに欠ける、といった欠点を修正し、よりわかりやすくすることで、そのセンテンスはより良いものとなる。

魅力的なこと

よいセンテンスやテキストは魅力的でなければならない。だがこの「魅力」という概念はじつに難しい。無駄がなく、わかりやすくとも、まったく魅力的でないセンテンスやテキストもあれば、無駄だらけで、わかりにくいくせに、それでも魅力たっぷりというセンテンスやテキストもある。人間の魅力と同じで、なかなか一筋縄ではいかないのだ。だからここから説明する「魅力的」とは、きわめて一般的かつ狭い範囲に限られたものだと考えてほしい。

センテンスやテキストを魅力的にする要因としてよく挙げれらるのが「バランスとシンメトリー」そして「リズム」だ。
まず「バランスとシンメトリー」だが、やはりWilliamsのStyleから例を取り上げよう 。

The national unity of a free people depends upon a sufficiently even balance of political power to make it impracticable for the administration to be arbitrary and for the opposition to be revolutionary and irreconcilable.

これはWalter Lippmannという有名な政治ジャーナリストの書いたセンテンスであるが、そのセンテンス構造は以下のようになっている。

The national unity of a free people depends upon a sufficiently even balance of political power to make it impracticable
for the administration to be arbitrary
and
revolutionary
for the opposition to be and
irreconcilable.

このようなシンメトリカルな構造がこのセンテンスを魅力的なものとする一要因となっているとWilliamsは指摘し、たとえば以下のように書き換えてしまえば、センテンスとしての魅力は大きく減じてしまうとしている。

The national unity of a free people depends upon a sufficiently even balance of political power to make it impracticable for there to be an arbitrary administration against a revolutionary opposition that is irreconcilably opposed to it.

つぎに「リズム」だが、これもWilliamsのStyleからの例を挙げておこう 。

1. The intellectual difference among races is a subject that only the most politically indifferent scientist is willing to look into.

2. The intellectual difference among races is a subject that only the most politically indifferent scientist is willing to explore.

1のセンテンスはintoという弱い前置詞でセンテンスが終わっているためにセンテンスとしてリズムが悪い。いっぽう2のセンテンスはそれをexploreという動詞にしているのでセンテンスとしてのリズムがよくなっているとWilliamsは指摘している。言語のリズムについてはセンテンスレベルで考えるよりもテキスト全体で考えたほうが合理的であるから、後のテキストの章でくわしく扱うことにする。

(ここから)

3. 避けるべき表現手法

続いてセンテンスを良いものにする具体的な表現手法をいくつか紹介しておこう。

無駄なペア表現

英語はゲルマン系とラテン系の二重の語彙を持つ言語だ。そのため一つの表現に対してゲルマンとラテンの両方の語彙をペアとして利用するケースも多い(full and complete, true and accurate, hopes and desires, hope and trust, each and every, first and foremost, any and allなど)。これらのペアはいずれか一方を使うだけで十分だ。たとえばeach and everyであればeachだけでよい。

重複表現

「やっかいなトラブル」「よく知られている著名人」などと同じ意味の表現を重複させてしまうことは多い。英語でも同じことがよく起きる。たとえばcompletely finishはfinishだけで意味は十分にわかる。past memoriesもmemoriesだけで十分だ(記憶は過去のことに決まっている)。basic fundamentals, true facts, important essentials, future planなども同様だ。すべてfundamentals, facts, essentials, planだけで十分である。

無駄な一般表現

large in size, of a bright color, heavy in weight, round in shape, at an early timeなどの下線部は無駄な一般表現である。以下の例をみてほしい 。

During that period of time, the mucous membrane area became pink in color and shiny in appearance.

下線部は無駄な一般表現のある部分だ。それを除くと以下のような引き締まった良いセンテンスになる。

During that time, the mucous membrane area became pink and shiny.

無駄なモディファイア

日本語でも「いわゆる」「まさしく」「ある種の」など人によってそれぞれ口癖となっている表現があるものだ。英語も同様だ。kind of, really, basically, definitely, practically, actually, virtually, generally, certain, really, basically, definitelyなどがそうした口癖表現となることが多い。これらは省いたほうがよい。下の例をみてほしい 。下線部がそうした口癖部分にあたる。

For all intents and purposes, American industrial productivity generally depends on certain factors that are really more psychological in kind than of any given technological aspect.

これらの口癖部分を省き、他の部分も簡潔にすると、以下のような引き締まった良いセンテンスになる。

American industrial productivity depends more on psychological than on technology.

大仰な言い回し

日本語でも、もってまわった大仰な言い回しをよくみかけるが、その状況は英語でもまったく同じだ。下記の例はその典型である 。

Pursuant to the recent memorandum issued August 9, 1989, because of financial exigencies, it is incumbent upon us all to endeavor to make maximal utilization of telephonic communication in lieu of personal visitation.

これは以下のように書けば、それで済むことだ。

As the memo of August 9 said, to save the company money, use the telephone as much as you can instead of making personal visit.

特に公的な文書での大仰な言い回しは社会にとって害毒といってよい。そのため英米では公的文書からこうした大仰な言い回しをなくすための動きが盛んだ。英語をもっと平明なもの(Plain Englishという)にせよと、政治の世界ではクリントン大統領が指示を出し、実業界ではウォーレン・バフェットがSECを通じてコメントを発表している。学会でも多くの著名学者が平明な英語への支持を表明している。英語をもっとわかりやすいものにしようとする動きが英米社会全体で進んでいるといってよい。

無駄な前置詞句等

一語で済むところを、えらそうにみせたいために、わざと前置詞句等にする例もきわめて多い。以下にその例を挙げておく 。いくつかは皆さんも使ったことがあるだろう。

the reason for
for the reason that
due to the fact that because, since, why
owing to the fact that
in light of the fact that
considering the fact that
this is why

in the event that
if it should transpire/happen that if
under circumstances in which

as regards
in reference to
with regard to about
concerning the matter of
where is concerned

it is crucial that
it is necessary that
there is a need/necessity for must, should
it is important that
it is incumbent upon
cannot be avoided

is able to
is in a position to
has the opportunity to can
has the capacity for
has the ability to

prior to
in anticipation of
subsequent to before, after, as
following on
at the same time as
simultaneously with

無駄な否定表現

もし無理なく肯定表現のかたちにできるのならば、その場合は肯定表現にするほうがいい。つまりDon’t write in the negative.と書くよりはWrite in the affirmative、did not acceptよりはrejected、did not rememberよりはforgot、not clearlyよりはunclearlyのほうがいい。

表現力の弱い動詞

英語の表現力の中核を占めるのは動詞だ。その動詞の表現力が弱ければセンテンスの表現力も弱くなってしまう。たとえばtalk, think, walkといった語は、きわめて汎用性が高いが、逆にその分だけ独自の表現力が弱まってしまう。

センテンスを良いものにしたいのなら、汎用性の高い動詞の代わりに、言いたいことをより的確に表現できる個性の強い動詞を選ぶことだ。たとえばtalkであれば、discuss, chat, chatter, gab, gossip, prattle, prate, rap, jaw, confer, consult, negotiate, parley, utter, express, intone, enunciate, state, proclaim, pronounce, declare, preachといった類義語のなかから選べばよい。つまりよいセンテンスを書くには豊富な語彙力が必要ということだ。例をいくつか挙げておく 。

The bank robber showed us his place for hiding the stolen money.
 The bank robber revealed his place for hiding the stolen money.

I thought about joining the circus as I walked around under the big top.
 I contemplated joining the circus as I walked around under the big top.

受動態

「受動態を避けよ」は、英語のネイティブのあいだでは、かなりよく知られたテキスト作法のひとつだ。受動態を使うと行為者が隠されてしまい、センテンスの意味が曖昧になることが多い。ただ、文脈によっては受動態を使ったほうがよいケースもあるので注意が必要だ。

名詞化

名詞化とは動詞や形容詞などを名詞のかたちに変えてしまうことをいう。以下にいくつか例を挙げておく 。

動詞の名詞化:
movemovement, exciteexcitement, withdrawwithdrawal, failfailure, acceptacceptance

形容詞の名詞化:
thoughtfulthoughtfulness, difficultdifficulty, opulentopulence,
applicableapplicability, elasticelasticity

名詞化表現を使うと、無駄な表現が増え、無意味な抽象化が生じ、行為者が曖昧になる。だがネイティブが話したり書いたりする英語で名詞化表現はとてもよく用いられる。特に学問分野や行政分野になるとその数は急激に増える。

これは名詞化表現を使ったほうが知的に優れているだという思い込みがネイティブのなかにあるからだ。わかりにくいものほど良いものだとする感覚である。日本語でも、わかりやすい(平明な)言葉の代わりに(代替として)わざと(故意に)漢語を使いまくる(濫用する)ことがよくある(傾向が強い)。これと同じ(同様の)感覚だ。

悪いことは見習わないほうがいい。名詞化表現は、どうしても使わざるを得ないケースを除き、使わないようにすべきだ。以下、いくつかの例を挙げておく 。

The commander has no expectation that the prisoners will be freed.
(書き換え例) The commander does not expectate that the prisoners will be freed.

There is no need for acceptance of this condition
 You do not need to accept this condition.

The general is involved in a discussion of the movement of the troops.
 The general discussed where the troops had moved.

細切れセンテンス

文を長くすることに向いていない日本語と対照的に、英語の並べ方のパターンは長いセンテンスをつくることにとても向いている。そうした言語特性があるにもかかわらず、細切れの短いセンテンスばかりを使えば、英語ネイティブに違和感を与えてしまうのは当然のことだ。

知的なテキストのセンテンスの長さは平均で20~25ワードだという意見もある 。直観的にはまずそのぐらいではないかと思う。言い換えれば、ひとつのセンテンスのなかに複数の句や節が入っていることが多いということだ。以下に複数の細切れ文をひとつのセンテンスにまとめる書き換えの例をいくつか挙げておく 。

John was bored with life. He set out to see the world.
 Bored with life, John set out to travel the world.

Marty has studied grammar. Therefore, she left more comfortable in her writing.
 Having studied grammar, Marty felt more comfortable in her writing.

The moon glowed overhead. The boys enjoyed the stillness of the night.
 With the moon glowing overhead, the boys enjoyed the stillness of the night.

Ms. Martin wanted to be a writer. Her fondness for children convinced her to teach.
 Ms. Martin wanted to be a writer, but her fondness for children convinced her to teach.

John elected to attend Stanford. Mary elected to attend Harvard.
 John elected to attend Stanford; Mary, Harvard.

☆☆☆

N:さて、いかがでしたか。
A:「良し悪し」感覚を大事に、ですか。うーん、先生のご意見は、頭ではわかるんですけど、じゃあ実際に自分自身にそうした感覚が身につくのかとなると、まったく自信がもてないです。先生のおっしゃるように、英語にかぎらす何においても、たくさんの良いものに触れていくなかから、良いものとそうでないものを見分ける目が自然と育っていくものだと思うんです。たとえばわたしはファッションが大好きだから、服の良し悪しの見分け方については、少しですけど自信があります。なぜかというと小さい頃からいい服をたくさんみてきていますから。でも英語についてはそうした経験がありません。本だってそれほど読んでいないし。だから英語の良し悪しを見極められるようになる自信は、ぜんぜんもてません。
N:Aさんの気持ちは、よくわかります。わたしだって、これまでたいした量の英文に接してきているわけではありません。読んでいる本の量だってネイティブの知識人が読んでいる量にくらべると、ほんとうに微々たるものにすぎません。そんなわたしが英文の良し悪しを論じるとなると、これはそれなりの理論武装が必要なわけで、それが「無駄がないこと」「わかりやすいこと」「魅力的なこと」という基準になるわけです。それでも、自分に本当に英語の良し悪しがわかるのかという不安はいつでもつきまといます。日本人なら誰でもそうでしょう。でも、たとえそうであっても、それでもそのテキストの良し悪しを精一杯理解しようとする懸命な態度から出発するしか、英語を本当の意味で勉強する方法は他にありません。「日本人だし、英語力もたいしたことはないのだから、英語のテキストの良し悪しを見極めるのは、英語ネイティブにまかせてしまおう」などと最初から逃げてしまっていては、たとえいくら勉強しても、英語をマスターされることはあっても、英語をマスターすることはできません。「わたしはこの英文は良いと思う」「この英文については良くないと思う」と自分の意見をしっかりと述べましょう。たとえその評価が英語ネイティブと違っていても、それでいいじゃありませんか。人は人、吾は吾です。「自分なり」でいきましょう。
A:先生って、あいかわらず、カゲキですねえ。
N:こと英語に関しては、もうハラくくってますからね。ところでAさん、あなたのズボン、ところどころ破れているようですが、いいんですか?
A:いいんですっ!

VI. 時間・受動態・冠詞

続いて時間、受動態、冠詞について説明していこう。これらは日本人が英語を学習するうえで特に気をつけたい事項だからだ。

1. 時間

物理的時間と心理的時間

時間を考えるうえでなによりも理解しておかなければならないのは、時間は「過去・現在・未来」という一直線上に流れていくものではないということである。

過去から現在そして未来へと続く「時間直線」モデルは、近代西欧が生み出したひとつの「でっち上げ」(フィクション)にすぎない。そしてこのモデルは、時空間を扱う物理学などにはぴったりだが、人間の心の表現である言葉にとってはあまりできの良いフィクションではない。人間にとっての時間は、物理的なものであると同時に、心理的なものでもあるからだ。

日本語でみてみよう。たとえばバスを待っているとする。むこうからバスが近づいてくるのがみえると「あ、バスがきた」という。なぜなら、バスがくるというものごとはその時点で心の中ではすでに終わっているからだ。「答えが書けたら、かえってよろしい」「富士山がみえたら、教えてね」なども同じことだ。いずれも先のできごとだが、心理としてはそれはすでに終わっているものとみなすのである。言葉における「時間」は単なる物理的時間ではなく、人間の心のなかに流れる感覚なのだ。

この点については、日本語を使う私たちも英語を使う人たちも、ほとんど変わりはない。ところが学校文法の勉強をすると、時間がまるで物理的な実在のような気になってしまう。そこで「この出来事は現在の事象であるから、現在形あるいは現在進行形を使わなければ」とか「これは未来からみた過去のことであるから、未来完了形とすべきである」とかつい考えてしまったりする。こうした時間の捉え方をしているかぎり、英語が本当にわかるようにはならない。

英語の時間、日本語の時間

気をつけておくべきは、英語では時間の捉え方が日本語よりもかなり細かいということだ。日本語の時間の捉え方は、基本的に「すでにおわっている/いない」の2つだけである。対して英語の時間の捉え方は、はるかに細分化している。それが時制、完了形、進行形といったかたちになって表現されているのだ。

いずれにしても大切なことは、時間は物理的のみならず、心理的なものでもあるということだ。時間は一人一人の心のなかにある。それを言葉というかたちで表現するのである。このことを忘れるべきではない。

<コラム>
時間の捉え方は一つではない

言語学は西欧で生まれて育った学問であるため、どうしても西欧の視点に縛られがちである。時間にかかわる言語表現の研究にもその弊害が強くみられる。

たとえば、過去から現在そして未来へと続く「時間直線」モデルは近代西欧が生み出したひとつのフィクションにすぎないのだが、言語学ではそれを普遍の事実として捉え、西欧言語以外の言語にも適用しようとする傾向がきわめて強い。だが実際には、時間が西欧的時制とは異なるかたちで表現される言語は数多い。たとえば、ホピ語(北米先住民言語の一つ)には時制は存在せず、時間を表す異なった文法カテゴリーが存在することが、人類学研究のなかですでに明らかになっている。時間がつねに西欧的な時制という文法カテゴリーで表される必然性など、どこにも存在しないのだ。

2. 受動態

受動態の働き

受動態の働きは大きくわけて以下の3つである。

サブジェクト(トピック)を変える
たとえばJohn broke the window.ではJohnがサブジェクトであり、そのJohnについてbroke the window(窓をこわした)のだと述べている。ではJohnについてではなくthe windowについて何かを述べたいとき、どうするかといえば、受動態を使うのである(The window was broken by John.)。このように、述べたいことの焦点を変えたいときに用いられるのが受動態の第一の働きだ。

行為者をぼやかす
たとえば上のセンテンスをThe window was broken.というふうにすれば、誰が窓を割ったかを曖昧にすることができる。これが受動態の第二の働きだ。実際、行為者が誰だかわからない状況も現実には多い(例:My car has been stolen.)。こんなときには受動態で表現するしか方法はない。

客観的/権威的なイメージをつくる
たとえばIt was found that data concerning energy resources allocated to the states were not obtained.といったようなかたちだ。ただし受動態にすると客観的というのは単なるこけおどしで、実際にはべつに客観的になるわけでもなんでもない。学術論文、法律文書、行政文書などでよくみられる手法だが、「アカデミーズ」「リーガリーズ」「ビューロクラティーズ」などと呼ばれ、テキストの専門家からは悪文の代名詞のようにみなされている。

働きをよく見極める

受動態に関して英語を読む際に気をつけるべきは、それが上の3つの受動態の働きのいずれの働きをしているのかをよく見極めることである。サブジェクト(トピック)を変える役割を果たしていれば、まず効果的な受動態の使い方だといえよう。行為者をぼやかすためであれば、それが不可避なものであるのか、単なるごまかしなのかを見極める必要がある。客観的/権威的イメージをつくる受動態であれば、それは単なる悪文である。
英語を書く際に気をつける点も上と同じだ。基本的にサブジェクト(トピック)を変える必要があるとき、行為者がわからないときを除いて、受動態を使う必要はない。英語のあらゆるテキスト指南書にも「受動態はできるかぎり使わないこと」と書いてある。

<コラム>
受動態と「れる/られる」

日本人の書く英語には不必要な受動態がきわめて多い。その原因のひとつは、日本語の「れる/られる」をそのまま受動態に直訳してしまうことにあるようだ。

だが日本語の「れる/られる」と英語の受動態は一対一対応はしない。表面的には似ているが、この両者は本質的に異なる言語表現なのだ。

日本語「れる」「られる」の本質は、ある出来事が自分の力のおよばないところで自然とそうなるという感覚である。「雨にふられる」「友人に先にいかれた」「そのようにもみられる」「そういわれるのはうれしい」などがその例だ。

こうした日本語の感覚を英語のなかに持ち込むとやっかいなことになる。英語の受動態には「自分の力のおよばないところで自然とそうなる」などといった感覚はまったくないからである。

このことを十分に理解して、英文を書く際には本当に必要な受動態だけを用いるようにすべきである。

3. 冠詞

世界の捉え方

世界の捉え方は、その人間が生きている文化によってそれぞれに異なる(いっぽうで人間として共通の捉え方があるのは当然のことだ)。日本人には日本人としての世界の捉え方があり、英米人には英米人の世界の捉え方がある。それが言語における時間の表現方法、受動態/「れる・られる」などの日本語と英語の違いとなって現れてくる。

だがそれでも時間や受動態については日米で共通の部分が多い。これらは人類共通の認識の対象だからだ。ところがこれから取り上げる「冠詞」についてはそうはいかない。冠詞として表現される世界の捉え方は日本人にはそもそもない。それは英米人(を含む欧米人)独特の世界の捉え方にすぎない。ノンネイティブが英語を学習するうえで冠詞の使い方が最も難しい課題である理由がここにある。

数えられる、数えられない

では冠詞という言語表現を生み出す世界の捉え方とはどのようなものか。まずその土台には「世界には数えられるものと数えられないものとがある」という欧米文化での世界の捉え方がある。学校文法でいえば「可算名詞・不可算名詞」の概念だが、この「可算名詞と不可算名詞という種類の名詞がある」という考え方が大きな誤解のもとなのだ。

加算名詞や不加算名詞といった名詞などない。あるのはただ「世界には数えられるものと数えられないものとがある」という世界の捉え方だけだ。その認識がaという不定冠詞や複数形という言語形式となって表現されているのである。

この点については『日本人の英語』(マーク・ピーターセン、岩波書店)が非常にうまく説明してくれている。このなかでピーターセンは「名詞に冠詞がつく」のではなく「冠詞に名詞がつく」と考えるべきだと主張している。またa chickenとchickenは異なる独自の意味をもっており、それぞれに異なる単語であると認めたほうがもっとも現実的だとも述べている。

このことを確認するために同書の出だし部分を少しご紹介する。

先日、アメリカに留学している日本人の友だちから手紙がきたが、その中に次の文章がいきなり出てきた。
Last night, I ate a chicken in the backyard.(昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た。)
(略)おそらくその文章で友だちがいおうとしたのは、アメリカの普通のbackyard chicken barbecueで鶏肉を食べたこと(つまり、I ate a chickenでなく、I ate chicken)にすぎないと、私は判読したが、不思議なことに、Last night, I ate a chicken in the backyard.という文章は、正しい英文としても、間違いの英文としても、傑作といってよいものである。正しい英文として読めば、簡潔で、とてもヴィヴィッドで説得力のある表現になるのである。夜がふけて暗くなってきた裏庭で、友だちが血と羽だらけの口元に微笑を浮かべながら、ふくらんだ腹を満足そうに撫でている――このような生き生きとした情景が浮かんでくるのである。
『日本人の英語』(マーク・ピーターセン、岩波書店、pp.10-11)

注目すべきは「正しい英文としても、間違いの英文としても」というコメントだ。つまりLast night, I ate a chicken in the backyard.がおかしいのはa chickenだからではなく文脈にあわないからなのだ。もしサブジェクトがIではなくA foxであれば、こんどはchickenをつかうほうがおかしくなるだろう。同様のことがa songとsong、a loveとlove、a manとmanなどにもいえる。

これが英語での世界の捉え方なのであり、同時に、日本人にはまったく思いもつかない世界の捉え方である。ただ、こうした世界の捉え方を思いもつかないのはなにも日本人だけではない。中国人もタイ人もエチオピア人もみんなこうした世界の捉え方はしていない。西欧以外の文化のほとんどがこうした世界の捉え方はしないのだ。この点からみると英語は世界共通語としてはあまり適していないといってもよいだろう。

特定化

つぎにtheについて考えてみよう。theとは、あるモノやコトについてそれが特定のアイデンティティをもつ存在だと発話者が認識していることを示す言語表現である。たとえば、a presidentであれば、たくさんいるプレジデントのなかの一人だが、the presidentといえば、特定のアイデンティティを持つ特定のプレジデントのことになる。具体的にどのように特定されているかは、文脈のなかで決まってくる。たとえば、あるテキストがある組織のことを話題にしているのであれば、そこに出てくるthe presidentとはその組織のトップのことであり、それ以外ではない。

このようにtheにはモノゴトを特定化し限定化する働きがあるのだが、日本人が英語を書いたり話したりする際には、これを強く意識しないことが多い。そのために日本人の書く英語には余分なtheがきわめて多くなると、マーク・ピーターセンは指摘する。『日本人の英語』から引用しておく。

去年、日本の英字新聞に載っていた、社会科学者の書いたエッセイの冒頭センテンスで、次のような文章が目についた。
The international understanding is a commonly important problem in both the West and Japan.
(略)英語として冒頭センテンスの与える印象は支離滅裂である。おそらく、いいたいことは、
International understanding is an issue of wide importance to both Japan and the West.
のようなことではないかと思う(略)。
上の原文をみれば、何といっても、“the”という言葉があるために、筆者の考え方が確実でないような不安に駆られ、主旨を理解するのが困難になるのである。theはaと同じく、名詞につく単なるアクセサリーのようなものではなく、意味的カテゴリーを決め、その有無が英語の論理の根幹をなすものである。“the international understanding”になると、読者は、まずいらいらして、“What!?!”と聞かずにはいられない。
日本語の会話にたとえてみたら、もしいきなり「あの人はネー……」といわれ、そしてこの「あの人」が誰のことを指しているかまったく見当がつかなければ、「あの人って誰?」と聞くしかないであろう。それと同じく、上のセンテンスは“The”から始まるので、ある特定のa certain specifically identified international understandingを指しているかのようにみえる。つまり、「国際理解」という漠然とした概念ではなく、ある具体的な「国際的約定」(例えば、ナチの戦争犯罪人に保護を与えないこと等のような国際的な申し合わせ)を指していると思わせるが、その後をいくら読んでも、具体的に何の「国際的約定」をいっているかは紹介されていない。そして気がついてみたら、むしろ、“international understanding”という言葉が「国際理解」を指しているような文脈ができてしまい、読者はいらいらする。
『日本人の英語』(マーク・ピーターセン、岩波書店、pp.21-22)

続いてピーターセンは、ある英文学術雑誌の各論文の冒頭センテンスを調べたところ、66のセンテンスのうち余分なtheのあるセンテンスが24もあったと報告している。

つねに冠詞を強く意識する

日本人だけでなく非西欧圏のすべての英語学習者にとって冠詞は鬼門中の鬼門だ。みずからの世界観の中にない認識だけに習得がきわめて難しいのである。いつまでたってもパーフェクトな使い方はできないものだ。

しかし逆にいえば、冠詞の間違いについてはあまり神経質になりすぎないほうがいいということだ。ノンネイティブの英語では、冠詞のある程度の間違いは当然のことだと考えるべきだ。たしかに冠詞は英語にとって重要なアイテムではあるが、英語を国際言語として使うのであれば、そこまで英語文化の特性を他文化に押し付けるのは傲慢というものだ。

それでもやはり間違いは少ないほうがいい。間違いを少なくしていく第一の方法は、英語を読む際には、つねに冠詞に強い注意を向けることである。通常、私たちが英語を読む際には、冠詞をあまり意識していないものだ。意識しなくとも、それなりに意味がとれてしまうからだ。ピーターセンのいうように冠詞をまるで名詞につくアクセサリーのように取り扱っているのである。

その態度をまず変えることである。なぜそこにはaがあるのか、あるいはtheがあるのか、あるいは何もないのか、aではなくtheならどうなるのか、あるいはa、theがなければどうなるのか――そうした意識をつねに持ちつづけることだ。そしてそれが英語をさらに深く読む力につながり、よりよい英語を書く力につながるはずである。

<コラム>
「サピア・ウォーフの仮説」と「生成文法」

世界の捉え方は文化によって異なり、それが言語にも反映されるという考え方の代表的なものに「サピア・ウォーフの仮説」という学説がある。これはエドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフという二人の学者の名前をとったもので「言語的相対論」とも呼ばれる。

このなかでウォーフは、西欧における言語理論には西欧と異なる言語による世界認識が存在するという事実が考慮に入っていないと主張し、そして、近代西欧の言語学、論理学、言語思想は近代西欧中心主義というイデオロギーの産物ではないかと批判する。これは現在では特に文化人類学者たちのあいだで一般的な考え方となっている。

この「サピア・ウォーフの仮説」とまったく対照的な学説がノーム・チョムスキーが生み出した「生成文法」という学説である。「生成文法」とは、人類は生まれながらにして言葉を使える生得的能力をもっており、それは全人類に共通のものであるという考え方の言語理論だ。

生成文法は人類のすべての言葉に共通の「普遍文法」を想定していることから、当然のことながら世界の捉え方は世界のすべてで普遍である。したがって世界の捉え方の根底がそれぞれの文化で異なり、また言語にも反映されるという「言語的相対論」の考え方は真っ向から否定する。

そしてこの2つの学説のあいだに立つのが、認知言語学という一派の考え方だ。もととと生成文法から派生してきた学派であり、人類に共通の認識基盤を認めながらも、同時に、それぞれに文化による影響も非常に大きいとする立場をとっている。生成文法が「強い普遍主義」だとすると、認知文法は「弱い普遍主義」といえる。

はたしてすべての言語に共通する普遍文法は存在するのか。あるいは、言語は文化ごとに本質的に異なるのか。それとも、その2つの考えの中間が正しいのか。さて、あなたの意見はいかがか。

☆☆☆

A:うーん……
N:何をうなっているんですか、Aさん。
A:時間が過去から現在、未来へと一直線には流れないとか、日本語の「れる・られる」と英語の受け身は対応しないとか、世界の捉え方は文化によって違うとか、はっきりいって、なんだか、いかがわしいと思います。
N:おや、いかがわしいですか。
A:だって、そんなにひねくれて考えなくとも、もっと素直に考えれば、いいじゃないですか。時間は過去から現在、そして未来へと流れていくものだし、受け身は受け身でしょ? そんなの常識だと思います。
N:その「常識」ってやつが曲者なんですよ、Aさん。いまの常識というやつは、じつは近代西欧という世界観がつくりだした常識にすぎません。歴史的にいえば、この300年から400年ぐらいの産物です。たとえば直線的で等価値の時間という概念も、科学や近代ビジネスの要請で現在のようなかたちにつくれらたのです。科学やビジネスというものがもしなければ、時間の概念はまったく違うものであるかもしれません。実際のところ、科学やビジネスに染まっていない原始的な生活をしている民族の時間概念は、私たちのものとはまったく異なるという報告が、数多くの文化人類学者からなされています。でもまあ、そんな難しげな話はとりあえず横においといて、英語だって過去の出来事だから過去形を使うとはかぎらないでしょ? 未来のことだからといって未来形を使うともかぎらないじゃないですか。というか、もともと英語には未来形なんてないんですが。ようするに、人間の心のなかには、「時間直線」なんかないんですよ。そして私たちが言語を勉強するときに必要なのは、そうした心のなかにある時間のほうなんです。「時間直線」のほうの時間なんかじゃ、ありません。そこんとこが、大事。
A:つまり、近代西欧の産物である現在の英文法では、私たちの心の動きをうまく捉えることができない、って、先生はいいたいんですか?
N:すばらしい!。そこまでわかってもらえるなんて、まさに生徒の鏡です。わたしも教師冥利に尽きますよ。
A:先生、そんなにほめたって、なんにもでませんよ。

VII テキストの構造

ここまで英語のセンテンスについて考えてきた。だが英語全体を考えるならば、センテンスを考えるだけでは十分ではない。センテンスの集まりであるテキストについても考える必要がある。

1. 英語テキストはブロック構造

英語はヨーロッパ庭園

一般的な英語のテキスト(芸術的テキストは除く)で最も重要な点は、それがブロック構造であることだ。センテンスという小ブロックを集めてパラグラフをつくり、それを総合してテキストという全体にいたる。

これはヨーロッパ庭園のつくり方によく似ている。最初に全体の設計思想があり、それにあわせてブロックを配置し、樹を植えていく。樹がセンテンス、パラグラフがブロック、そして庭園全体がテキストだ。そこでは左右対称の均衡や幾何学的な調和の美が特に重視される。

英語のテキストにこうした設計思想があることは、なにも学問的なテキストや公的なテキストにかぎらない。ビジネス文書にしても、あるいはもっと一般的な文書でも、こうしたブロック構造への指向はきわめて強い。

日本語は日本庭園

いっぽう普通の日本語の文章はこうしたかたちをとらない。日本語の文章のかたちは日本庭園の造り方とよく似ており、いわば回遊式になっている。入り口から入り、さまざまな景色を楽しんだあと、出口へといたるのだ。そこでは単なる均衡や調和は好まれない。その代わりに、不均衡や破調、あるいは無でさえも、ひとつの美しさとして愛でられる。日本人が世界に誇るべき独自の美的感覚である。

だがこうした日本的な美的感覚をそのまま英文に持ち込めば、それはきっちりした設計思想に欠けたレベルの低いテキストとみられるだけだ。英語には英語のやり方がある。英語を書いたり話したりするということは、彼らのやり方にある程度はあわせなければならないということでもある。日本のやり方をそのまま押し通すことは戦略的に意味がない。

2. アカデミック・ライティング

ふつうのテキストのためのモデル

では実際の英語のテキスト構造について考えてみよう。まず覚えておくべきは、現実のテキストはじつに千差万別ということだ。とくに文学の世界では一人一人の文学者が独自のテキストのかたちを持っている。

だがここで取り上げるテキストは、そうした基本形から逸脱した名文ではなく、基本形に近いふつうのテキストにしよう。私たちの英語学習の原則のひとつは「知的に訓練する」であった。文学のような特殊な領域はその原則からはずれてしまう。もちろん知的な文学もあるが、知的であることが文学の必須条件ではない。知的でない素晴らしい文学作品が数限りなくあることは皆さんもよくご存知のとおりである。

これからここで取り上げる英語のテキストは「アカデミック・ライティング」と分類されるものに焦点を絞ることにしたい。「アカデミック・ライティング」は、その名前のとおり学問分野でおもに使われるテキストだが、そのほかにも新聞や本などのテキストに適用されている。つまり知的な領域のテキストをほぼすべてカバーするものである。

アカデミック・ライティングも文学と同様にテキスト全体からみれば部分集合にすぎないが、だが同じ部分集合ではあっても応用範囲は文学よりも圧倒的に広い。ある程度の定型化も可能である。さらに知的訓練を優先するという私たちの目標にもあっている。こうした理由から、ここではアカデミック・ライティングについて詳しく検討していこうというわけである。たしかにテキスト全体の検討ではない。しかし何もしないよりはずっとよい。現実的な観点からみれば、英語のテキストを考えるうえできわめて妥当な出発点であると思う。

アカデミック・ライティングは研究が進んでおり、学習のためのテキストブックも数多く出版されている。ここではそうしたテキストのなかからAlice OshimaとAnn HogueのWriting Academic English(Pearson/Longman)をベースに話をすすめていくことにする。

基本構造

まずアカデミック・ライティングの基本構造をみてみることにしよう。

最初に断っておくが、これはあくまで英語のテキストの基本構造である。こうした基本構造に従わない優れた英語のテキストはいくらでもある。だが西欧音楽が楽典を原則とするように、西欧の知的テキストもこうした基本構造を原則としていることは間違いない。またこの基本構造に対する遵守意識はきわめて強い。ここでは英語ネイティブのテキストに対する基本イメージというものをぜひ理解してもらいたい。

以下にWriting Academic Englishが示すアカデミック・ライティングの基本構造を図示しておく。

画像1

アカデミック・ライティングのテキストは、①Introduction、②Body、③Conclusionの3つの部分から構成される。

以下に具体的な例文をひとつ挙げる。これを使って、それぞれの部分の解説をしていきたい。まずはとにもかくにも原文を何度も何度も繰り返して声を出して読んでほしい。話はそれからである。

Native American Influence on Modern U.S. Culture

When the first European came to the North American continent, they encountered the completely new culture of the Native American peoples of North America. Native Americans, who had highly developed cultures in many respects, must have been as curious about the strange European manners and customs as the Europeans were curious about them. As always happens when two or more cultures come into contact, there was a cultural exchange. Native Americans adopted some of the Europeans’ ways, and the Europeans adopted some of their ways. As a result, Native Americans have made many valuable contributions to modern U.S. culture, particularly in the area of language, art, food, and government.
First of all, Native Americans left a permanent mark on the English language. The early English-speaking settlers borrowed from several different Native American languages words for places in this new land. All across the country are cities, towns, rivers, and states with Native American names. For example, the states of Delaware, Iowa, Illinois, and Alabama are named after Native American tribes, as are the cities of Chicago, Miami, and Spokane. In addition to place names, English adopted from various Native American languages the words for animals and plants found in the Americas. Chipmunk, moose, raccoon, skunk, tobacco, and squash are just a few example.
Although the vocabulary of English is the area that shows the most Native American influence, it is not the only area of U.S. culture that has been shaped by contact with Native Americans. Art is another area of important Native American contributions. Wool rugs woven by women of the Navajo tribe in Arizona and New Mexico are highly valued works of art in the United States. Native American jewelry made from silver and turquoise is also very popular and very expensive. Especially in the western and southwestern regions of the United States, native crafts such as pottery, leather products, and beadwork can be found in many homes. Indeed, native art and handicrafts are a treasured part of the U.S. culture.
In addition to language and art, agriculture is another area in which Native Americans had a great and lasting infuence on the peoples who arrived here from Europe, Africa, and Asia. Being skilled farmers, the Native Americans of North America taught the newcomers many things about farming techniques and crops. Every U.S. schoolchild has heard the story of how Native Americans taught the first settlers to place a dead fish in a planting hole to provide fertilizer for the growing plant. Furethermore, they taught the settlers irrigation methods and crop rotation. Many of the foods people in the United States eat today were introduced to the Europeans by Native Americans. For example, corn and chocolate were unknown in Europe. Now they are staples in the U.S. diet.
Finally, it may surprise some people to learn that citizens of the United States are also indebted to the native people for our form of government. The Iroquois, who were an extremely large tribe with many branches called “nations,” had developed a highly sophisticated system of government to settle disputes tha arose between the various branches. Five of the nations had joined together in a confederation called “The League of the Iroquois.” Under the league, each nation was autonomous in running its own internal affairs, but the nations acted as a unit when dealing with outsiders. The league kept the Iroquois from fighting among themselves and was also valuable in diplomatic relations with other tribes. When the 13 colonies ware considering what kind of government to establish after they had won their independence from Britain, someone suggested that they use a system similar to that of the League of the Iroquois. Under this system, each colony or future state would be autonomous in managing its own affairs but would join forces with the other states to deal with matters that concerned them all. This is exactly what happened. As a result, the present form of government of the United States can be traced directly back to a Native American model.
In conclusion, we can easily see from these few examples the extent of Native American influence on our language, our art forms, our eating habits, and our government. The people of the United States are deeply indebted to Native American for their contribution to U.S. culture.
(Writing Academic English, pp.58-9)

Introduction

それぞれの構成要素を詳しくみてみよう。

アカデミック・ライティングの基本構造におけるIntroduction(導入部)は、①General statementと②Thesis statementのふたつの部分から構成される。

General statementとは、その名のとおりテーマの背景にある一般的なことを最初の述べる部分である。「さわり」とでも訳すべきか。Writing Academic Englishのモデルテキストを使って具体的にGeneral statementをみてみることにする。

Native American Influence on Modern U.S. Culture
When the first European came to the North American continent, they encountered the completely new culture of the Native American peoples of North America. Native Americans, who had highly developed cultures in many respects, must have been as curious about the strange European manners and customs as the Europeans were curious about them. As always happens when two or more cultures come into contact, there was a cultural exchange.

テキストのタイトルはNative American Influence on Modern U.S. Cultureで、それにつづく最初のテキストがGeneral statementの部分である。ここではこのテキストのタイトルが示すテーマ「ネイティブアメリカンが現代米国文化に与えた影響」については直接的には触れず、ヨーロッパ人とネイティブアメリカンの出会いに関する一般的なコメントにとどめている。まずは読者の気を引きながら、そろりそろりと本題へと移ろうというわけである。このようにテーマに関係ある一般的なところから話をはじめるというやり方がもっともポピュラーである。

これではつまらない、もっと読者の気をぐぐっと手元に引き寄せたい、と考える向きもあるだろう。その場合には、もっとドラマチックなさわりをぶつけてみるという方法もないことはない。たとえば、衝撃的な出来事、統計数字、あるいは歴史的事実などをこの部分に利用するのである。ただしこうしたやり方は、うまく決まればかっこよいが、決まらなかったときには腰砕けになる恐れもある。

つぎのThesis statementは、テキストのテーマを具体的に述べる部分である。モデルテキストをみてみよう。。

Native Americans adopted some of the Europeans’ ways, and the Europeans adopted some of their ways. As a result, Native Americans have made many valuable contributions to modern U.S. culture, particularly in the area of language, art, food, and government.

ネイティブアメリカンが米国文化に大きな貢献をしたと述べ、その具体的な領域として言語、アート、食べ物、統治体系を挙げている。このように具体性をもってテーマを語るのがThesis statementである。またThesis statementでは今後の論の進め方が提示されることもある。たとえば時間の流れに沿って論ずる、対比によって論ずる、論理的に論ずる、などなどである。

Body
IntroductionにつづいてBodyが述べられる。Bodyとは、Thesis statementで具体的に述べられたテーマをさらに詳細に解説する部分である。

このモデル文では、言語、アート、食べ物、統治体系という4つの領域におけるネイティブアメリカンの米国文化への貢献についてそれぞれ具体的に述べられる。したがってこのBodyには4つのパラグラフが含まれ、それぞれのパラグラフがTopic sentenceとSupport sentencesとConcluding sentenceから構成される(ただしConcluding sentenceについては削除が可能である)。ここではその4つのパラグラフの最初にある言語に関するパラグラフをみてみよう

First of all, Native Americans left a permanent mark on the English language. The early English-speaking settlers borrowed from several different Native American languages words for places in this new land. All across the country are cities, towns, rivers, and states with Native American names. For example, the states of Delaware, Iowa, Illinois, and Alabama are named after Native American tribes, as are the cities of Chicago, Miami, and Spokane. In addition to place names, English adopted from various Native American languages the words for animals and plants found in the Americas. Chipmunk, moose, raccoon, skunk, tobacco, and squash are just a few examples.

Native Americans left a permanent mark on the English language.がTopic sentenceである。それ以降はすべてSupport sentencesである。パラグラフとしてのConcluding sentenceはない。このあとの3つのパラグラフもこのパラグラフと同じ構造である。
Bodyでまず重要なのは、それぞれのパラグラフを明確に切り分けることである。うえの例でいえば、言語のパラグラフでは言語のみ、アートのパラグラフではアートのみを取り扱う。言語とアートをひとつのパラグラフ内で融合して取り扱ったり、言語のパラグラフを意味なくふたつや3つに分割したりしてはいけない。

つぎに重要なのは、パラグラフ間をうまくつなぐことである。One way, Another way, In addition to cutting off and tailgating other car, Although law enforcement authorities warn motorists against aggressive drivingなどが「つなぎ」表現である。語レベルのこともあれば句や節レベルのこともある。

うまく切り分けて、うまくつなぐ。これがアカデミック・ライティングのBodyのうまい作り方である。

Conclusion

Conclusionは、これまで述べてきた内容の「まとめ」である。同時に、最後のコメントを行なう。モデル文をみてみよう。

In conclusion, we can easily see from these few examples the extent of Native American influence on our language, our art forms, our eating habits, and our government. The people of the United States are deeply indebted to Native American for their contribution to U.S. culture.

「つなぎ」表現として、最初にIn conclusionが置かれている。その後に、これまでの内容の「まとめ」がある。そして最後に自分の意見を述べて、このテキストは終わりである。
終わりには、やはりインパクトがほしい。そのためにはさまざまな工夫が考えられる。Writing Academic Englishでは、今後の予測を述べる、解決策を提案する、権威筋の言葉を引用するなどを推奨している。
以下、参考訳をつけておく。

<参考訳>
ネイティブアメリカンが現代米国文化に与えた影響

ヨーロッパ人がはじめて北米大陸にやってきたとき、彼らはそこでまったく未知の文化に遭遇した。そこに住むネイティブアメリカンたちの文化である。ヨーロッパ人たちはその奇妙な文化に非常な興味を惹かれた(すでにさまざまな領域で高度に発達した文化を持っていたネイティブアメリカンたちもまた、ヨーロッパ人たちの奇妙な態度や風習に興味を持ったにちがいない)。そして複数の文化が出会うときにはいつでもそうであるように、ここでもまた文化の交流が行われた。ネイティブアメリカンたちはヨーロッパ人のやり方の一部を取り入れ、一方ヨーロッパ人たちもネイティブアメリカンのやり方の一部を取り入れた。その結果、ネイティブアメリカンは現代米国文化、なかでも言語、アート、食べ物、行政の領域において、多大な価値ある貢献を果たしている。
第一に、ネイティブアメリカン文化は英語のうえに消えることのない跡を残している。英語話者であった初期の北米開拓者たちは、その新しい土地の地名を決める際に、さまざまなネイティブアメリカンの言語から言葉を借用した。たとえば、Delaware、Iowa、Illinois、Alabamaといった州名やChicago、Miami、Spokaneといった都市名はネイティブアメリカンの各部族の名にちなんだものである。地名に加えて、Chipmunk、moose、raccoon、skunk、tobacco、squashといった米大陸原産の動植物の名前もネイティブアメリカンの各言語から採られたものである。
英語の語彙はネイティブアメリカンの影響が最も色濃く現れた領域ではあるが、ネイティブアメリカンとの交流が米国文化に与えた影響は、それだけではない。アートは、米国文化へのネイティブアメリカンの重要な貢献が現れている、もうひとつの領域である。アリゾナ州やニューメキシコ州に住むナバホ族の女性がつくる羊毛の織物は米国において非常に価値のあるアート作品である。また銀やトルコ石でつくられたネイティブアメリカンの宝飾品も非常に人気があり高価でもある。特に米国の西部および南西部では陶器、皮革製品、ビーズ細工などの手工芸品をネイティブアメリカンの多くの家庭でみることができる。ネイティブアメリカンのアートや手工芸品はまさに米国文化の誇るべき至宝である。
米国にはヨーロッパだけでなくアフリカやアジアからも多くの人々がやってきた。言語とアートに加えてネイティブアメリカンがそうした人々に多大かつ継続的な影響を与えた領域が、農業である。熟練した農民でもある北米のネイティブアメリカンたちは、農業技術や農作物に関する多くの知識を移住者たちに教えた。たとえば植物の肥料とするために死んだ魚を耕地に穴を掘って埋める方法をネイティブアメリカンは初期の移住者たちに伝授した。これは米国の小中学生なら誰もが聞いたことのある話であろう。彼らはまた灌漑や輪作の方法も移住者たちに伝授した。さらに、現在の米国で食べられている食材の多くは、ネイティブアメリカンがヨーロッパ人に教えたものである。たとえば、とうもろこしやチョコレートはヨーロッパでは未知のものだったが、いまや米国の食べ物の定番となっている。
最後に、驚かれる方もいるかも知れないが、政治体制についても米国国民はネイティブアメリカンからの恩恵を受けている。イルコイ族はネイティブアメリカンのなかでも特に大きな部族で、「国」と呼ばれる多くの分派を持っていた。そこで彼らは、分派間で生じる争いごとを収めるために、きわめて洗練された政治体制を発展させた。すなわち5つの国が「イルコイ連合」と呼ばれる連邦体制に集結したのである。同連合では、内政は各国の自治に委ねられたが、外部に対する際には団結して行動した。この連邦制は、イルコイ族の内部での争いをなくし、同時に他の部族との外交関係をも良好にさせた。13の植民地がイギリスとの独立戦争に勝利したのち、今後どのような政治体制がのぞましいかを論議したとき、誰かがイリコイ連合に似たかたちを採用することを提案した。その体制は、各植民地の内政については自治に委ねられ、いっぽう全体に関する出来事については他の植民地とともに対処するというものであった。これは実際の話である。その結果として、米国の現在の政治体制はネイティブアメリカンモデルにまでそのルーツをたどることが可能である。
結論として、こうしたいくつかの具体例から、言語、アート、食生活、政治といった領域におけるネイティブアメリカンの影響を、我々は容易に見出すことができる。ネイティブアメリカンは米国文化に多大の貢献をしており、米国民は彼らから多くの恩恵を受けているのである。

3. テキストタイプ

基本構造がわかったところで、ここからはアカデミック・ライティングのテキストをタイプ別に検討してみよう。

Writing Academic Englishでは、アカデミック・ライティングのテキストタイプを、①Process Essay, ②Cause/Effect Essay, ③Comparison/Contrast Essay, ④Argumentative Essayの4タイプに分けている。ひとつひとつ順番にみていくことにする。

Process Essay

Process Essayは、時間や手順といった「プロセス」順に並べて書くテキストである。Writing Academic Englishではこのタイプのモデルテキストとして、原子力発電に関するテキストを取り上げている。かなり長くなるが、以下に引用しておく(一部省略)。

Understanding Chernobyl
Clouds of radioactive steam shoot into the sky. Fires burn unstoppably, sending radioactive smoke and particles into the atmosphere. Men dressed in protective clothing work feverishly to extinguish the fires and contain the contamination. Hundreds of residents hastily grab their possessions and flee their homes. Roadblocks are erected to keep strangers away. This was the scene at the Chernobyl nuclear power plant in the former USSR in April 1986. The plant’s nuclear reactor had exploded, spreading radioactive contamination over an area that stretched as far away as Norway and Sweden. This catastrophic accident renewed fears about the safety of nuclear reactors around the world. Are such fears justified? To understand how the accident at Chernobyl happened, it is necessary to understand how a nuclear power plant is constructed and how one operates. ……
How do nuclear reactors produce electricity? First, a series of nuclear fissions are produced by bombarding the nuclei of uranium-235 with neutrons. When a neutron strikes a nucleus, the nucleus splits, releasing energy. The released energy then heats the water surrounding the rods, whose outer shells are made of zirconium. The hot water is pumped to a heat exchanger, where steam is produced. Finally, the steam passes to a turbine that drives a generator to produce electricity.
How did the accident at Chernobyl happen? It happened because on the day of the accident, the safety system on the reactor had been disabled while operators performed an experimental test. During the test, the reactor cooled excessively and threatened to shut down. If this had happened, the operators would not have been able to restart the reactor for a long period of time. To avoid this situation, they removed most of the control rods, which was against all safety rules. Soon, the reactor began to overheat. When the reactor overheated, the fuel rods melted and spilled their radioactive contents into the superheated water, which then flashed into steam. Next, the increased pressure from the steam blew the top off the reactor, and because there was no confinement shell around the reactor, radioactive material shot into the sky. At the same time, hot steam reacted with the zirconium shells of the fuel rods and with the graphite in the coolant water to produce hydrogen gas, which then ignited. The graphite burned for a long time, spreading even more radioactivity into the atmosphere.
(Writing Academic English, pp.82-3)

Introductionのパートからみていこう。

最初のGeneral statementは、単に一般的なことを述べるタイプではなく、チェルノブイリの衝撃的な出来事を臨場感をもって伝える報道タイプのテキストである。「つかみ」としてはなかなかに素晴らしい。

Thesis statementは、このパラグラフ最後の文、To understand how the accident at Chernobyl happened, it is necessary to understand how a nuclear power plant is constructed and how one operates.である。

How do nuclear reactors produce electricity? ではじまるパラグラフが、原子力発電所を電気を発電する「プロセス」をしめすBody文である。ここでは以下の5つのプロセスが順番に述べられている。

1. First, a series of nuclear fissions are produced by bombarding the nuclei of uranium-235 with neutrons.
2. When a neutron strikes a nucleus, the nucleus splits, releasing energy.
3. The released energy then heats the water surrounding the rods, whose outer shells are made of zirconium.
4. The hot water is pumped to a heat exchanger, where steam is produced.
5. Finally, the steam passes to a turbine that drives a generator to produce electricity.

「つなぎ」(英語ではTransition Words/Phraseと呼んでいる)の言葉としては、First, then, finallyなどが使われているが、使っていないところもある。ここらへんの呼吸はぜひ覚えておきたい。

つぎのHow did the accident at Chernobyl happen?ではじまるパラグラフは、こんどは事故がどのようなプロセスつまり時間順で起こったかを説明している。このようにProcess Essayには時間の順番を扱うものが多く、テキストによってはこの時間順タイプを別立てにしているものもある。

Process Essayはテクニック的にはむずかしいものではない。ものごとを起こる順番にそのまま書いていけばよい。あまりにシンプルなのでどうしても余計なことをしたくなるが、そのままシンプルに書いていくことをお勧めする。たしかに少し単調になるが、それでよい。名文を書く必要などどこにもないのだから。

以下は参考訳である。

<参考訳>
チェルノブイリを理解する

放射能の蒸気を含んだ大きな雲が空へと立ちのぼっていった。火は絶え間なく燃えさかり、放射能の煙と粒子を大気のなかへと送り込む。防護服を着た男たちが必死になって消化作業と汚染の封じ込めに取り組んでいる。数百人もの住民たちは急いで手荷物を抱えて家から逃げていく。外部から人が入らないように道路は封鎖された――これが1986年4月、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で起こった出来事である。発電所の原子炉が爆発、その放射性汚染物質の飛散範囲はノルウェイやスウェーデンにまで達した。この大惨事によって世界中で原子力発電の安全性について新たな不安が広がった。そうした不安は正当なものなのか。チェルノブイリ事故がどのようにして起こったかを理解するためには、まず原子力発電所がどのように建設され、どのように創業されるのかを理解する必要がある。(略)
原子炉はどのようにして電気をつくりだすのか。第一にウラン235の原子核と中性子を衝突させることで連続した原子核分裂をつくりだす。中性子が原子核に衝突すると原子核は分裂してエネルギーを放出する。放出されたエネルギーは原子ロッド(棒)のまわりにある水を熱する。なおロッドの外殻はジルコニウムでできている。熱せられた水は熱交換器に送り込まれ、そこで蒸気がつくられる。最後に蒸気がタービンに送られ発電機を動かすのである。
ではチェルノブイリの事故はどのようにして起こったのか。事故当日、原子炉の安全システムは作動していなかった。作業者が試験運転を行っていたからである。試験にあいだに原子炉の温度が極端に下がり、原子炉が停止するおそれが生じた。もし原子炉が停止すると、作業者は長いあいだ運転を再開できなくなる可能性がある。こうした状況を避けるために彼らは制御棒のほとんどを抜いてしまった。もちろん安全規則には完全に違反していた。原子炉はすぐにオーバーヒートしはじめた。原子炉がオーバーヒートすると燃料棒が溶けはじめ、放射性物質が過熱された水のなかへと流れ込んできた。そして水は水蒸気へと変化した。次に水蒸気の圧力が拡大し、ついには原子炉の屋根を吹き飛ばした。原子炉のまわりには防御構造がなかったため、放射性物質は直接に大気へと放たれた。同時に、熱い蒸気は燃料棒の外殻のジルコニウムおよび冷却水の中の黒鉛と反応して水素ガスをつくりだし、それが爆発した。黒鉛は長いあいだ燃え続け、大気中にさらに大量の放射性物質を撒き散らした。

Cause/Effect Essay

Cause/Effect Essayは、Cause(原因)とEffect(結果)を述べていくテキストである。Cause/Effect Essayにはふたつのタイプがある。ブロックタイプとチェーンタイプである。ブロックタイプはCauseとEffectをべつべつのブロックにまとめてそれをつなぐかたちである。チェーンタイプはCause/Effectのペアをチェーンのようにつぎつぎとつなげていくかたちである。
まずブロックタイプのモデル文をみてみよう。やはりWriting Academic Englishから引用する。

Shyness
If you suffer from shyness, you are not alone, for shyness is a universal phenomenon. According to recent research, “close to 50 percent of the general population report that they currently experience some degree of shyness in their lives. In addition, close to 80 percent of people report having felt shy at some point in their lives” (Payne, par. 3). As shyness is so prevalent in the world, it is not surprising that social scientists are learning more about its cause. They have found that shyness in an individual can result from both biological and environmental factors.
(Writing Academic English, pp.96-7)

Shynessに関するテキストのIntroductionの部分である。General statementは、テーマに関係ある一般的なところから話をはじめるというオーソドックスなやり方である。

Thesis statementは、最後のThey have found that shyness in an individual can result from both biological and environmental factors.である。

このあとからBodyがはじまるのだが、これがCause/Effectのかたちになっている。このBodyの部分を読んでみよう。

Recent research reveals that some individuals are genetically predisposed to shyness. In other words, some people are born shy. Researchers say that between 15 and 20 percent of newborn babies show signs of shyness: they are quieter and more vigilant. Researchers have identified physiological differences between sociable and shy babies that show up as early as two months. In one study, two-month-old who were later identified as shy children reacted with signs of stress to stimuli such as moving mobiles and tape recordings of human voices: increased heart rates, jerky movements of arms and legs, and excessive crying. Further evidence of the genetic basis of arms and legs, and excessive crying. Further evidence of the genetic basis of shyness is the fact that parents and grandparents of shy children more often say that they were shy as children than parents and grandparents of no-shy children (Henderson and Zimbardo 6).
However, environment can, at least in some cases, triumph over biology. A shy child may lose much of his or her shyness. On the other hand, many people who were not shy as children become shy as adults, a fact that points to environmental or experimental causes.
The first environmental cause of shyness many be a child’s home and family life. Children who grew up with a difficult relationship with parents or a dominating older sibling are more likely to be inhibited in social interactions. Another factor is the fact that today’s children are growing up in smaller and smaller families, with fewer and fewer relatives living nearby. Growing up in single-parent homes ore in homes in which both parents work full time, children may not have the socializing experience of frequent visits by neighbors and friends. Because of their lack of social skills, they may began to feel socially inhibited, or shy, when they start school(7).
A second environmental cause of shyness in an individual may be one’s culture. In a large study conducted in several nations, 40 percent of participants in the United States rated themselves as shy, compared to 57 percent in Japan, 55 percent in Taiwan. Of the countries participating in the study, the lowest percentage of shyness was found in Israel, where the rate was 31 percent.
Researchers Henderson and Zimbardo say, “One expectation of the cultural difference between Japanese and Israelis lies in the way each culture deals with attributing credit for success and blame for failure. In Japan, an individual’s performance success is credited externally to parents, grandparents, teachers, coaches, and others, while failure is entirely blamed on the person.” Therefore, Japanese learn not to take risks in public and rely instead on group-shared decisions. “In Israel, the situation is entirely reversed,” according to Henderson and Zimbardo. “Failure is externally attributed to parents, teachers, coaches, friends, anti-Semitism, and other sources, while all performance success is credited to the individual’s enterprise.” The consequence is that Israelis are fee to take risks since there is nothing to lose by trying and everything to gain (10).
In addition to the family and culture, technology may play a role as well. In the United States, the number of young people who report being shy has risen from 40 percent to 50 percent in recent years (10). The rising numbers of shy young people may be “due in part to the growing dependence on non-human forms of communication, coming about as a result of our huge advances in technology” (Payne, par. 4). Watching television, playing video games, and surfing the Web have displaced recreational activities that involve social interaction for many young people. Adults, too, are becoming more isolated as a result of technology. Face-to-face interactions with bank tellers, gas station attendants, and store clerks are no longer necessary because people can use machines to do their banking., fill their gas tanks, and order merchandise. College students take online telecourses. Telecommuters work at home, giving up daily contact with coworkers. Everyone texts, e-mails, and converses anonymously in online chat rooms. As a result, people have less opportunity to socialize in person, become increasingly awkward at it, and eventually start avoiding it altogether. In short, they become shy.
While being shy has some negative consequences, it has positive aspects, too. For one thing, it has been mentioned that shy people are good listners (“Shyness”). Furthermore, a university professor writing about his own shyness says, “Because of their tendency toward self-criticism, shy people are often high achievers, and not just in solitary activities like research and writing. Perhaps even more than the drive toward independent achievement, shy people long to make connections to others, often through altruistic behavior” (Benton)

なぜ人はshyになるのか。そのCauseは大きく「生まれ」と「育ち」のふたつに分けられる。そして「育ち」のほうは、家庭環境、文化環境、テクノロジーの影響の3つに分けられる。そしてそれぞれがパラグラフとして述べられる。Bodyの最後のパラグラフでは視点を変えて、shyの有用性が語られる。まとめると以下のとおりである。

A.Shyに対する「生まれ」というCauseとそのEffects
B.Shyに対する「育ち」というCauseとそのEffects
家庭環境
文化環境
テクノロジー
C.Shyのメリット

最後にConclusionの部分がくる。決め言葉は、if you are shy, you have lots of company.である。

To sum up, shyness has both genetic and environmental causes. Some people come into the world shy, while others become shy as a result of their experience in life. It appears that most people have experienced shyness at some time in their lives, and recent research indicates that the number of shy people is increasing. Therefore, if you are shy, you have lots of company.

以下、参考訳である。

<参考訳>
シャイネス

もしあなたがシャイ(内気)で悩んでいるなら、それはあなただけの悩みではない。というのも、シャイネスは普遍的な現象だからだ。最近の研究によると「人々の50パーセント近くが最近の生活の中である程度シャイな気分になったと述べている。さらに人々の80パーセント近くが人生の中でシャイになったことがあると述べている」。(Payne, par. 3)シャイネスは世界中にこれほどまでに蔓延しているのだ。したがって社会学者たちがその原因について詳しく調べているのも決して驚くべきことではない。そしてこうした学者たちは、個々人のシャイネスは生物学的要素と環境的要素の両方を原因としていることを発見した。
最近の研究が明らかにしたところでは、人々の中には遺伝的にシャイになりやすいタイプがいる。言い換えると、生まれつきシャイな人々である。研究者の言によると、新生児の15~20パーセントはシャイネスの兆候を示す。つまり、おとなしくて、まわりに気を配るタイプである。社交的な赤ん坊とシャイな赤ん坊の生理学的な差異は生後2か月ごろにすでに現れることを研究者たちは確認している。ある研究によると、シャイと認められたある子どもは、生後2か月の時点ですでにさまざまな刺激(自動車の動き、人の声など)に対してストレス反応(心拍数の増加、手足の多動、過剰な泣き声など)を示していた。シャイネスが生理的なものであるもうひとつの証拠は、シャイな親や祖父母の子どもは、そうでない親や祖父母の子どもよりもシャイであるとみずから述べるケースが多いことである。(Henderson and Zimbardo).
しかしながら、少なくとも場合によっては環境が遺伝に打ち勝つことがある。子どもの時にはシャイだった人がシャイではなくなる可能性はあるし、その逆に、子ども時代にはシャイではなかった人が大人になるとシャイになるケースも多い。このことは環境や経験がシャイの原因であることを示唆している。
シャイネスの環境的原因の第一は、家庭環境だと思われる。両親との仲が悪かったり支配的な兄弟姉妹がいるなかで育つ子どもは、社会との関係が阻害されてしまう可能性が高い。別の要素としては、今日の子どもたちは少人数の家族のなかで育ち、近くにいる親戚も減っているということが挙げられる。片親家庭や共稼ぎ家庭で育つ子どもは、隣人は友人がたびたび訪ねてくるというなかでの社交経験が持てないかもしれない。そうしたことで社交のスキルが不足し、学校にいきはじめると周りに溶け込めない、つまりシャイに感じてしまうのかもしれない。
シャイネスの環境的原因の第二は、文化だと思われる。国際的に行われた大規模調査によると、みずからをシャイだとした被調査者の数は、米国で40パーセント、日本で57パーセント、台湾で55パーセントだった。調査に参加した国でシャイと答えた人の比率が最も低かったのはイスラエルで31パーセントだった。
調査をしたHendersonとZimbardoは次のように述べている。「日本とイスラエルの文化的差異として考えられるのは、それぞれの文化における成功に対する功績と失敗の対する批難のあり方である。日本ではある人物が個人的に成功したとしても、それはすべて両親、祖父母、先生、コーチ、その他の人々のおかげだということになる。一方で、失敗はすべて個人の責任になる」。したがって日本人は公的な場面でリスクをとらないようにし、その代わりに集団の決定に従うのである。続けてHendersonとZimbardoは次のようにいう。「イスラエルでは、状況はまったく逆である。失敗すれば、それはすべて両親、先生、コーチ、友人、反ユダヤ主義、その他のせいである。成功すれば、それはすべてその人が頑張ったおかげである」。この結果、イスラエル人はリスクをとることに躊躇はしない。チャレンジして失うものなど何もなく、もし成功すればすべて自分のものなのだから。
家族と文化に加えて、テクノロジーがシャイの原因にあるようだ。米国では、シャイだと答えた若者の比率はこの10年で40パーセントから50パーセントに増加した。シャイな若者が増えているのは「テクノロジーの急速な発展のためにコミュニケーションのかたちが非人間的なものを頼るようになったことも一因」(Payne, par.4)かもしれない。テレビをみたり、ビデオゲームをしたり、ネットサーフィンをしたりすることで、多くの若者が交流する場でのレクリエーションが消えてしまった。大人もまたテクノロジーのために孤立化を深めている。ATM、セルフ給油、通信販売が普及したことで、銀行やガソリンスタンドやお店での店員との会話はもはや必要ない。大学生はオンライン授業を受け、会社員は在宅業務を行い、仲間との日常的な交流はなくなってしまった。誰もが文書やEメールで会話し、オンラインのチャットルームでは匿名で会話する。こうした結果、対人関係をつくりだす機会がますます少なくなり、そのため対人関係はますますぎこちないものとなってきた。その結果、お互いがお互いを避けるようになった。つまりシャイになったのである。
シャイであることはマイナスの面がある一方で、プラスの面もある。特に顕著なのは、シャイな人間は聞き上手であるということだ。(”Shyness”)さらに、ある大学教授は、みずからのシャイネスについてもふれつつ、次のように述べている。「シャイな人間は自己批判的な傾向が強いため、ものごとをきっちりとやり遂げることが多い。それは調査や勉強といった一人で行う作業だけのことではなく共同作業のほうがさらにその傾向は強い。シャイな人間は他者とのきずなを深めたいと強く望んでおり、自己犠牲を通じてそれを実現しようとするからである」。(Benton)
まとめてみよう。シャイネスは生理的な原因と環境的な原因の両方を持っている。生まれつきシャイな人間もいれば、生活環境のなかでシャイになる人間もいる。ほとんどの人が人生のなかで何度かはシャイになることを経験している。最近の研究が示すところによるとシャイな人間の数は増えている。すなわち、もしあなたがシャイだとしても、あなたには仲間がたくさんいるということだ。

つぎは、チェーンタイプのモデル文である。

SAD
Years ago, medical researchers identified a psychological disorder that they appropriately named Seasonal Affective Disorder, or SAD. People who suffer from SAD become very depressed during the winter months. Doctors now understand the cause of this condition, which affects millions of people, particularly in areas of the far north where winter nights are long and the hours of daylight are few.
SAD results from a decrease in the amount of sunlight sufferers receive. Doctors know that decreased sunlight increases the production of melatonin, a sleep-related hormone that is produced at increased levels in the dark. Therefore, when the days are shorter and darker, the production of this hormone increases. Shorter, darker days also decrease production of seratonin, a chemical that helps transmit nerve impulse. Lack of seratonin is known to be a cause of depression (“Seasonal” HH, par. 1). Depression may result from the resulting imbalance of these two substances in the body. Also, doctors believe that a decrease in the amount of sunlight the body receives may cause a disturbance in the body’s natural clock (“Seasonal” NMHA, par. 2). Doctors believe that the combination of chemical imbalance and biological clock disturbance results in symptoms such as lethargy, oversleeping, weight gain, anxiety, and irritability—all signs of depression.
Since absence of light seems to be the cause of this disorder, a daily dose of light appears to be the cure. Doctors advise patients to sit in front of a special light box that simulates natural light for a few hours every day. An hour’s walk outside in winter sunlight may also help.
In conclusion, the depressive effect of low sunlight levels may help explain the high suicide rate in the Scandinavian countries; more important, it may suggest a remedy: When the days grow short, turn on the lights.
(Writing Academic English, pp.99-100)

Seasonal Affective Disorderの話である。SADとはうまい略語にしたものだが、一般にはWinter Depressionと呼ばれているようだ。Bodyの部分がどうやってSADになるかのプロセスの説明で、太陽光が減る→メラトニンとセラトニンが生成→ホルモンバランスが崩れる→抑うつ、と、まさに「風が吹けば桶屋がもうかる」式のチェーンタイプになっている。

ここではもうひとつ、太陽光が減ることでの体内時計の変調も抑うつの原因のひとつに挙げている。解決策としては、とにかく光を浴びることのようだ。

参考訳は以下のとおり。

<参考訳>
SAD

数年前、医学研究者たちはある精神疾患を特定化した。彼らはそれを「季節性気分障害(Seasonal Affective Disorder、略称SAD)」と命名した(うまい名づけ方だ)。SADに罹った人は冬季の数か月間にわたって気分がとても落ち込むことになる。数百万人が経験するこの状態について、現在ではその原因(特に冬のあいだは夜が長く一日の日照量が極端に少ない極北地域における原因)を医学者がすでに解明している。
SADの原因は罹患者が浴びる日照量の減少にある。医者の知見によると、浴びる日照量が減ると体内でメラトニンの生産が増える。メラトニンは睡眠に関係するホルモンの一種で、暗闇のなかではより多く生産される。したがって日照時間が短くなればなるほどメラトニンの生産は増える。日照時間が短くなるとセラトニンの生産もまた増加する。セラトニンは神経インパルスの伝達を補助する化学物質である。セラトニンが不足は抑うつの原因になることが知られている。(”Seasonal” HH, par. 1)抑うつは体内でのこれらふたつの物質の不安定さから生じるとも考えられている。さらに医者の考えるところによると、人体が浴びる日照時間の減少は体内時計を狂わせる原因ともなる。(”Seasonal” NMHA, par. 2)そしてこの体内化学物質の乱れと体内時計の乱れが倦怠感、過剰睡眠、体重増加、不安、苛立ちなど抑うつに症状につながると医者は考えている。
日照の不足がこうした症状の原因と考えられるのであるから、その治療は体が浴びる日照の量を増やすことである。そこで医者は患者に対して、人工の日照ボックスの前に坐って毎日数時間、人工日光を浴びることを薦めている。冬の昼間に一時間ほど散歩をして冬の日を浴びるのもよいかもしれない。
まとめてみよう。日照の不足は抑うつを引き起こし、それがスカンジナビア諸国での自殺率の高さの原因であるかもしれない。だがさらに重要なことは、この事実は抑うつに対する治療法、すなわち日照時間の短い時期には日をよく浴びることを示唆していることである。

Comparison/Contrast Essay

第三は、Comparison/Contrast Essayである。複数の対象を比較したり対照させたりするタイプである。たとえば、日本語と英語の比較対照などが、このケースにあたる。

構造的にはComparison/Contrast Essayは難しくない。とにかくふたつを並べてくれべてみればよいだけだ。ふたつをそれぞれサブトピックごとに対照させてもよいし、類似点と相違点をまとめたかたちで並べてみてもよいだろう。気をつけるとすればサブトピックの切り分けを明確にすることぐらいである。

Writing Academic Englishから引用する。日本とアメリカの比較がテーマとするエッセイである。興味深いテーマだが、残念ながら内容に重大な事実誤認がある。イギリス文化はアメリカ文化の「母」は知れないが、中国文化は決して日本文化の「母」ではない。こうした重大な事実誤認を世界的に正していくうえでも、日本人は英語をもっと勉強しなければならない 。

全文を載せておく。

Japan and the United States: Different but Alike
The culture of a place is an integral part of its society whether that place is a remote Indian village in Brazil or a highly industrialized city in Western Europe. The culture of Japan fascinates people in the United States because, at first glance, it seems so different. Everything that characterizes the United States—newness, racial heterogeneity, vast territory, informality, and an ethic of individualism—is absent in Japan. There, one finds an ancient and homogeneous society, an ethic that emphasizes the importance of groups, and a tradition of formal behavior governing every aspect of daily living, from drinking tea to saying hello. On the surface at least, U.S. and Japanese societies seem totally opposite.
One obvious difference is the people. Japan is a homogenous society of one nationality and a few underrepresented minority groups, such as the ethnic Chinese and Koreans. All areas of government and society are controlled by the Japanese majority. In contrast, although the United States is a country with originally European roots, its liberal immigration policies have resulted in its becoming a heterogeneous society of many ethnicities—Europeans, Africans, Asians, and Latinos. All are represented in all areas of U.S. society, including business, education, and policies.
Other areas of difference between Japan and the United States involve issues of group interaction and sense of space. Whereas people in the United States pride themselves on individualism and informality, Japanese value groups and formality. People in the United States admire and reward a person who rises above the crowd; in contrast, a Japanese proverb says, “The nail that sticks up gets hammered down.” In addition, while North Americans’ sense of size and scale developed out of the vastness of the continent, Japanese genious lies in the diminutive and miniature. For example, the United States builds airplanes, while Japan produces transistors.
In spite of these differences, these two apparently opposite cultures share several important experiences.
Both, for example, have transplanted cultures. Each nation has a “mother” society—China for Japan and Great Britain for the United States—that has influenced the daughter in countless ways: in language, religion, art, literature, social customs, and ways of thinking. Japan, of course, has had more time than the United States to work out its unique interpretation of tha older Chinese culture, but both countries reflect their cultural ancestry.
Both societies, moreover, have developed the art of business and commerce, of buying and selling, of advertising and mass producing, to the highest levels. Few sights are more reassuring to people from the United States than the tens of thousands of busy stores in Japan, especially the beautiful, well-stocked department stores. To U.S. eyes, they seem just like Macy’s or Neiman Marcus at home. In addition, both Japan and the United States are consumer societes. The people of both countries love to shop and are enthusiastic consumers of convenience products and fast foods. Vending machines selling everything from fresh flowers to hot coffee are as popular in Japan as they are in the United States, and fast-food noodle shops area as common in Japan as McDonald’s restaurants are in the United States.
A final similarity is that both Japanese and people in the United States have always emphasized the importance of work, and both are paying penalties for their commitment to it: increasing stress and weakening family bonds. People in the United States, especially those in business and in the professions, regularly put in twelve or more hours a day at their jobs, just as many Japanese executives do. Also, while the normal Japanese workweek is six days, many people in the United States who want to get ahead voluntarily work on Saturday and/or Sunday in addition to their normal five-day workweek.
Japan and the United States: different, yet alike. Although the two societies differ in many areas such as racial teregeneity versus racial homogeneity, individualism versus group cooperation, and informal versus formal forms of behavior, they share more than one common experience. Furthermore, their differences probably contribute as much as their similarities towards the mutual interest the two countries have in each other. It will be interesting to see where this reciprocal fascination leasds in the future.
(Writing Academic English, pp.112-3)

<参考訳>
日本と米国――その相違点と類似点

土地固有の文化は社会におけるもっとも重要な要素である。この事実はブラジル奥地の原住民の村であれヨーロッパの高度近代都市であれ、何もかわりはない。日本の文化は米国人にとってきわめて魅力的である。一見すると自分たちの文化とはまったく異なるようにみえるからである。新しさ、多民族、広大な土地、インフォーマル、個人主義――こうした米国文化を特徴づけるすべてのものが日本には存在しない。そこにあるのは、古来からの単一民族社会、集団を重んじる倫理感、フォーマルな行動を重視する伝統である。こうした特徴は、お茶の飲み方から挨拶の仕方にいたるまで日本での日常生活のあらゆる場面にみることができる。少なくとも表面上は、米国と日本はまったく正反対であるかのように思える。
第一の明白な違いは、国民である。日本は、基本的に単一国籍からなる単一民族の社会である。中華民族や朝鮮民族などマイノリティグループもあるが、その代表権は低く抑えられている。すべての行政や社会は日本民族によってコントロールされている。対照的に米国はヨーロッパを起源とする国ではあるが、その自由な移民政策の結果としてヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人、ラテンアメリカ人から構成される多民族社会となった。米国ではビジネス、教育、政策などすべての社会領域において、すべての民族が代表権を持っている。
日本と米国の違いは、集団のあり方と空間の感覚にも現れている。米国国民は個人主義とインフォーマリティ(ざっくばらんさ)を誇りにしているが、日本人は集団主義とフォーマリティ(礼儀)に価値をおく。米国の人々は集団のなかから抜き出てきた人物を賞賛しかつ多くの報酬を与えるが、日本では「出る杭は打たれる」である。さらに米国人およびカナダ人の大きさに対する感覚はその広大な土地にあわせたものであり、いっぽう日本人は小さなものに対する感覚に秀でている。たとえば米国は飛行機をつくり、日本はトランジスタをつくるという具合である。
こうした文化的な明白な違いにもかかわらず、日米両国には歴史的な経緯において重要な共通点がある。第一は、どちらの国にも「母」と呼ぶべき社会があるということである。日本にとっては中国であり、米国にとってはイギリスである。言語、宗教、アート、文学、風習、思想など数限りない分野において、これら「母」社会は「娘」社会に影響を与えてきた。もちろん日本のほうが古代中国文化の独自解釈に長い時間をかけてはきているが、両国ともに文化的先祖から影響を受けていることに変わりはない。
第二の共通点は、両国ともにビジネス、商業、広告や大量生産といった領域を高度に発達させてきたことである。日本を訪れた米国人にとって日本の数多くの店、なかでもきれいで品揃えのよい百貨店をみることほど心強いものはない。米国的な視点からみるとまるで米国のメイシーズやニーマン・マーカスにいる気になれるからだ。加えて、米国も日本も消費者社会である。両国国民ともに買い物好きで、便利な品物やファストフードが大好きである。さらには日本でも米国でも、花やホットコーヒーまであらゆるものが自動販売機で売られている。米国でマクドナルドがどこでもみられるように、日本では立ち食いそば屋がどこでもみられる。
日米両国民の類似性の最後は、両国民ともに仕事の重要性をつねに強調し、またその代償としてストレス増加や家族の絆の崩壊といった現象に直面していることである。米国国民、なかでもビジネスマンや専門家は一日あたり12時間以上も働いている。日本の幹部ビジネスマンの多くも同じである。日本では通常週休一日制であり、米国では週休二日制であるが、米国でも土日に自発的に仕事に向かうビジネスマンの数は多い。
日本と米国は相違点もあるが類似点もある。両社会は、多民族対単一民族、個人主義対集団主義、インフォーマル対フォーマルなど多くの領域で異なっているが、一方でいくつかの領域で同じ歴史的体験を経てきている。さらに、両国の相違点は類似点と同様に相互利益の拡大に貢献できるものである。お互いが魅力を感じるあうことで将来がどのように開けていくのか。それが楽しみである。

Argumentative Essay

第四がArgumentative Essay(日本語では「論証文」と呼ばれる)である。

これこそがアカデミック・ライティングにおける大本命のかたちであり、かつ、日本人がもっとも苦手とするライティングのパターンである。できるかぎり、詳しくみてみよう。
まずはWriting Academic Englishが掲げるArgumentative Essayの主要要素をみてみよう。

論題の解説
主張(Thesis Statement)の提示
反対論証(Opposing arguments)の要約
反対論証に対する反論(Rebuttals)
自分自身の論証

もう少しくだいていえば、①まず何を議論するかを述べ、②自分の主張を述べ、③自分とは異なる主張を紹介し、④それを批評し、⑤自分の主張の根拠を述べるというやり方である。論証のやり方はこれだけではないが、これがオーソドックスな論証をやり方のひとつである。

つぎにArgumentative Essayのモデル文をみてみよう。やはりWriting Academic Englishからの引用である。かなり長いが全文を挙げておく。

Separating the Sexes, Just for the Tough Years
①The middle school years (grade 7 and 8) are known to be the “tough years.” These are the years when the uneven pace of girls’ and boys’ physical, emotional, and cognitive development is most noticeable. Girls are ahead of boys on all counts, and both suffer. Educators debate whether separating boys and girls during these difficult years might improve students’ academic performance. Separate classes are now prohibited in public schools that receive federal funds, but a change in the federal law that prohibits them is under consideration. Although some parents and educators oppose same-sex classes, there is some evidence that separating boys and girls in middle school yields positive results.
②Opponents of single-sex education claim that test scores of students in all-girl or all-boy classes are no higher than those of students in mixed classes (“Study”). However, the research is inconclusive. Despite the fact that some research shows no improvement in test scores, other research shows exactly opposite results (Blum). More important, many psychologists believe that test scores are the wrong measuring sticks. They believe that self-confidence and self-esteem issues are more important than test scores. In same-sex classes, girls report increased confidence and improved attitudes toward math and science, for example (“Study”). These were results that cannot be calculated by a test but that will help adolescents become successful adults long after the difficult years of middle school are past. New York University professor Carol Gilligan is certain that girls are more likely to be “creative thinkers and risk-takers as adults if educated apart from boys in middle school” (Gross). Boys, too, confidence when they do not have to compete with girls. Boys at this age become angry and fight back in middle school because they feel inferior when compared to girls, who literally “out-think” them. With no girls in the classroom, they are more at ease with themselves and more receptive to learning (Gross).
③Opponents also maintain that separate classes (or separate schools) send the message that male and females cannot work together. They say that when students go into the workforce, they will have to work side-by-side with the opposite sex, and attending all-girl or all-boy schools denies them the opportunity to learn how to do so (“North”). However, such an argument completely ignores the fact that children constantly interact with members of the opposite sex outside school. From playing and squabbling with siblings to negotiating allowance, chores, and privileges with their opposite-sex parents, children learn and practice on a daily basis the skills they will need in their future workplaces.
④The final argument advanced by opponents of same-sex education is that it is discriminatory and, therefore, unconstitutional. However, research supports exactly the opposite conclusion: that discrimination is widespread in mixed classes. Several studies have shown that boys dominates discussions and receive more attention than girls and that teachers call on boys more often than they call on girls, even when girls raise their hands (“North”). Clearly, this is discriminatory.
⑤It should be evident that the arguments against same-sex classes are not valid. On the contrary, many people involved in middle-school education say that same-sex classes provide a better learning environment. Boys and girls pay less attention to each other and more attention to their schoolwork (Marquez). As one teacher noted, “Girls are more relaxed and ask more questions: boys are less disruptive and more focused” (“North”). Girls are less fearful of making mistakes and asking questions in math and science; boys are less inhibited about sharing their ideas in language and literature. Furthermore, schoolchildren are not disadvantaged by lack of contact with the opposite sex because they have many opportunities outside the school setting to interact with one another. Finally, discrimination occurs in mixed classes, so discrimination is not a valid argument. Therefore, in my opinion, the law prohibiting same-sex classes in public schools should be changed.
(Writing Academic English, p144-5)

まず①のパラグラフが、論題の解説と主張の提示である。筆者の主張は最後の there is some evidence that separating boys and girls in middle school yields positive results.である。

②から④は、それぞれ反対論証とそれに対する反駁(Rebuttal)である。このテキストがサブトピックごとのブロックタイプになっていることがわかる。

②では、男女別学が学力向上につながるという証拠はないという反論に対して、そうした研究の結果は信用ならないと反駁している。

③では、男女別学は誤った男女観を植えつけるという反論に対して、家庭など別の場所で交流があるのだからそれはあり得ないと反駁している。

④では、男女別学は差別的で憲法違反だという反論に対して、男女共学こそ差別的であると反駁している。

そして⑤が、みずからの主張を支持するための論証である。最後のTherefore, in my opinion, the law prohibiting same-sex classes in public schools should be changed.は、おそらくこの議論のテーマが公教育における男女別学は是か非かといったようなものであったからだろう。

これが論証文の典型的なかたちである。参考訳は以下のとおり。

<参考訳>
ミドルスクールにおける男女別学

①ミドルスクール(中学)のグレード7および8(中学一年、二年)は「タフ・イヤー」(むずかしい年代)として知られている。男女間の肉体的、情緒的、認識的な発達的差異のもっとも顕著になるからである。この時期、女子生徒のほうが男子生徒よりもあらゆる点で進んでいるのだ。そして男女の両方が悩むことになる。教育者のあいだではこのむずかしい時期のあいだは男女別学にしたほうが勉学のためにはよいのではないかという議論がある。現在米国では連邦政府予算を受け入れている公立学校では男女別クラスは禁止されている。だが現在は男女別学を禁止している連邦法の変更もいま検討がなされている。
②男女別学反対論者は、女子クラスおよび男子クラスのテスト成績は共学クラスよりも高くないと主張する。(”Study”)しかしながら調査は決定的なものではない。テスト成績は改善しないとする調査もあれば、一方でまったく正反対の結果を示す調査もある。(Blum)より重要なことは、多くの心理学者がテスト成績を測定基準にすることは間違っていると考えていることだ。自信や自尊心のほうがテスト成績よりももっと重要であるというのが彼らの意見だ。別学クラスでは女生徒は自信を増し、たとえば数学や科学に対する積極的な態度が生まれると報告されている。(”Study”)こうしたことはテスト成績では現れてこない。しかしミドルスクールのむずかしい時期をすぎたずっと後に青年から大人になる際の成功を下支えしてくれるものである。ニューヨーク大学教授のキャロル・ギリガンは、女性は「ミドルスクール時代を別学ですごすと大人になったときに創造的思考とリスクをとる態度が生まれてくる」傾向が強いと強く主張する。(Gross)男子生徒もまた女子生徒と競争する必要がないときに自信を得る。この年頃の男子生徒たちはミドルスクールのなかで怒りっぽくけんかっぱやい。なぜなら彼らは女子生徒と比べて劣っていると感じるからである。実際のところ女子生徒は男子生徒よりも考えが深い。クラスに女子生徒がいない場合には、男子生徒はより安心して冷静でいられ勉強にも集中できる。(Gross)
③男女別学反対論者はまた男女別クラス(男女別学校)は男女が共同して仕事ができないというメッセージを送ってしまうと主張する。彼らがいうには、生徒たちがいつか仕事につくと男女は隣どうしで働かなければならない。その際の対処法を男女別学では学ぶことができない。(”North”)しかしそうした主張は、子どもたちが学校の外では別の性の人々とつねに接しているという事実を完全に無視している。兄弟姉妹と遊んだりけんかをしたり、別性の親とお小遣いやお手伝いやご褒美などについていろいろと駆け引きをすることで、子どもたちは将来の仕事場で必要なスキルを日常生活のなかで学び実践しているのである。
④男女別学反対論者の最後の主張は、男女別学は差別的であり、憲法違反であるということである。しかし調査結果はまったく正反対の事実を支持している。すなわち差別は共学にこそ広く広がっているのである。いくつかの研究が明らかにしたところによると、男子が議論を独り占めにして女子より多くの注目を集めている。さらに教師は、たとえ女子が手を上げていても女子よりも男子をより多く指名する。(”North”)これは明らかに差別である。
⑤男女別学に対する反論には根拠がないことは明白というべきである。反対にミドルスクール教育の関係者の多くは、男女別クラスのほうがよりよい教育環境であると述べている。男子と女子とはお互いに意識することが少なく、学業により専念できる。(Marquez)ある教師は次のように述べている。「女子生徒はよりリラックスし、質問の数が多くなります。男子生徒は乱暴さが減り、集中力が高まります」。(”North”)女子生徒は間違いを恐れなくなり、数学や科学の時間によく質問をするようになる。男子生徒は言語や文学についての考えを口に出すことを躊躇しなくなる。さらに、別の性の生徒との接触がなくなったからといって生徒たちに不利益が生じることはない。なぜなら彼らは学校の外でお互いに接触できる機会を数多く持っているからだ。最後に、差別は男女共学クラスで起こる。したがって差別は正しい主張ではない。したがって、私の意見では、公立学校での男女別学を禁じている法律は変更すべきである。

日本人の思いやりの心

さてこうした文章を書くことが、ふつうの日本人はとても苦手である 。なぜ苦手かというと、相手のいうことにすべて反駁するなどということはあまりにも極端であり、そもそも相手のいうことにも必ず一理はあるからである。それにこうした文章を書くと、自分がとてもいやな人間になったような気がする。この手の文章では相手の意見を否定して自分の意見をなんとしても通そうとする。ふつうの日本人はこうしたことをする人間が心情的に嫌いだ。そこには他人に対する「思いやり」といったものが感じられない。人間としてどこか歪んでいるように感じてしまう。だから書きたくないのである。書けないのではない。書こうと思えば書ける。とにかく書きたくないのだ 。

ここまでアカデミック・ライティングの文章タイプとして①Process Essay, ②Cause/Effect Essay, ③Comparison/Contrast Essay, ④Argumentative Essayの4つのタイプをみてきた。このなかで①から③までと④のArgumentative Essayつまり論証文とでは根本的な違いがある。①Process Essayも②Cause/Effect Essayも③Comparison/Contrast Essayも他者は出てこない。ある意味で自己完結している文章である。ところが④の論証文はそうではない。そこには必ず自分以外の他者が必要である。自己と他者。この二者が対立するところにこそ論証文が生じるのである。

逆にいえば、他者の存在しないところには論証文というものは存在しない。そして日本人は本当の他者というものを基本的に知らない。争いの少ない枠組みのなかで数千年も生きてきたものだから、自己と他者を厳しく対立させつつも、そのいっぽうでお互いに可能なコミュニケーションをとるというテクニックを日本人は身につけてはこなかった。そのかわりに自分と相手をなんとか融合させようというテクニックを育ててきた。それが思いやりの心である。相手をつねに思いやって接することが日本人のコミュニケーションの基本形であり、そこには自己と他者との融合はあっても対立はない。これでは相手の意見を否定して自分の意見を通すなどというテクニックが育つはずもないし、またそういうことをすることを歪んで感じるのも自然なことである。

このように日本人が思いやりの精神を伝統としていることを私たちは誇りにすべきである。たとえば1995年の阪神淡路大震災の際、そこでは略奪行為がまったく起こらなかった。あの極限状態のなかでみんながお互いを思いやって日々の暮らしを送っていた。あるいは東京の真ん中でも畑のちかくに小屋をたてて無人で野菜を販売している光景がみかけられる。その野菜は誰もみていないにもかかわらず、ほとんど盗まれることはない。その野菜を育てたお百姓さんの気持ちを私たちは自然と思いやることができるからである。東京の真ん中で落し物をしても多くは戻ってくる。落としものを見つけたひとが落とした人の気持ちを思いやることができるからだ。

近年こうした思いやりの心が日本人のなかで少し危機的状況にあることは確かであろう。しかしそれほど心配することはない。阪神淡路大震災や無人野菜販売や落し物にみるように私たちの心の奥底にはこうした思いやりの心がまだしっかりと根づいている。いま表面の枝葉にあたる部分が少し枯れはじめているようにみえるのは、それは現代社会という土壌が荒れ果てているからだ。そのため間違った個人主義や拝金主義などという雑草たちがはびこっていて、思いやりの心にまで十分な栄養がいかなくなっているのだ。だがそうした雑草をていねいに引っこ抜き、社会という土壌の手入れをきっちりとしていけば、私たちのなかにある思いやりの心はもとのように元気になるはずである。私はそういった部分での日本人の強さを信じている。

思いやりのある論証

このように日本文化は相手を思いやる文化である。あるいは思いやることが可能であると信じている文化である。たしかに、まわりの人間がすべて自分にある程度近い感性や理性を持っているのであれば、それは可能であろう。だが、もしもまわりの人間が自分とはまったくかけ離れた感性や理性を持っているとしたら、この日本人の「思いやり」システムは、はたしてうまく機能するであろうか。まったくかけ離れているのだから、そもそも思いやるにも思いやりようがないのである。

では、自分とはまったくかけ離れた感性や理性を持っている人間と出会ったとき、日本人はいったいどうしているのか。その伝統的なやり方が「いないことにする」である。たとえばある集団にまったく異質の人間が入ってくるとする。異質とはなにも日本人以外のことではない。その集団のウチではなくソトにいる人間のことである。たとえば私もある種の日本人の集団からみれば完全なよそものである。

ウチには思いやりがきくがソトにはきかない。ではどうするのか。日本人は基本的に争いごとは好まない。そこで、いないことにする。そしてなるべく「あたりさわりのない」対応に務める。これですめば争いごともなくみんなハッピーというわけだ。だが、いないことにすることができるのは、よそものがまだきわめて少数派のときでしかない。もしよそものがかなりの数になったとしたら、いないことにするのはもはや現実的に不可能だ。いやがうでも、よそものと対応せざるを得ないのである。

では、どうすればよいのか。その対応策のひとつがArgumentすなわち論証である。欧米世界とは歴史的にさまざまな異文化、つまりお互いによそもの同士が直接的に対峙してきた世界である。そのなかで殺し合いや略奪を避けるためには異文化間での最低限のコミュニケーションが必要だった。そのため彼らは思いやりではなく論証を発展させてきたのである。これを使うことで、お互いにまったくかけ離れた理性や感性を持った同士であっても共存が、そしてひょっとすると共栄が可能となるのだ。

16世紀以降に科学主義が勃興すると論証のかたちは分析統合という西欧科学の基本形にあわせて整理された。現在ここで取り上げているArgumentative Essayはまさにその延長線上にあるものだ。議論の対象を可能な限り小さな要素に分析し、それを矛盾のないプロセスのもとに再統合していく――これが西欧的論証文の基本形だ。ここでやっているのは基本的に科学研究と同じ手法なのである。

お互いにまったくかけ離れた理性や感性を持った同士の共存共栄を図るひとつの手段が論証であると述べた。そして現在の日本人は、まったくかけ離れた理性や感性を持った他者との共存共栄を迫られている。こうした状況は長きにわたる日本の歴史のなかでもはじめてのことで、これまでに私たちが営々として培ってきた思いやりシステムだけでは十分に対応できない。私たちが西欧的な論証の技法を学ばなければならない理由がここにある。

ただし間違ってはいけないのは、西欧的な論証の技法を学ぶということは、なにも日本的な思いやりの心を捨てるということではないということだ。西欧的な論証の技法と日本的な思いやりの心は二者択一ではない。まったくかけ離れた理性や感性の相手にも理解できる技法を用いつつも、その相手に対する思いやりの心を忘れるべきではない。たしかに日本人同士のようなわけにはいかないかもしれないが、それでも相手の心をなんとか思いやろうという姿勢は相手の心に届くものである。21世紀の現在、世界の各文化の差異は以前と違って大きくせばまった。200年ほど前までのお互いにまったく理解不能であるというような事態はもう存在しないはずである。したがって21世紀の世界では日本的な思いやりこそがますます重要になってくるはずだ。先達が遺してくれた思いやりという貴重な文化を西欧的な論証の文化と融合させ、「思いやりのある論証」を確立することが現代の日本人に課せられた課題である。そしてそれができたとき、日本人は世界の文化に大きな貢献をしたことになる。

☆☆☆

N:これで「英語の文章構造」のパートはおしまいです。いかがでしたか。
A:意外と地味でした。とくに最初のほうはWriting Academic Englishという本を使ってのアカデミック・ライティングの解説に終始していますよね。なんだか先生らしくないというか、ふつうの先生みたい。
N:ふつうの先生です。
A:でもこれまでみたいに日本の英語教育への厳しいお言葉がないですよね。
N:厳しいことをいいようがないんです。というのも、そもそも日本の英語教育ではパラグラフ以上の規則についてほとんどなにも教えていません。文法とは文の規則のことであってそれ以上ではありません。
A:そうなんですよ。わたしも中学や高校でアカデミック・ライティングなんてものを教えてもらった覚えがありません。なんでかな。
N:欧米の英語教授法の本に載っていないからでしょう。日本の英語教育関係者が自分なりの教授法をつくりだしたなんて例はほとんど聞いたことがありませんから。
A:やっと先生らしくなりましたね。でも日本語のほうには文章の組み立て方として起承転結とかいったものがあるじゃないですか。それを英語にも利用すればいいんじゃないですか?
N:「起承転結」を文章の構成方法だと思っているひとが多いようですが、まったくの間違いです。起承転結とは漢詩の絶句とよばれる詩形の作法なんです。江戸以前は「文」をつくるといえば漢詩をつくることでした。だから漢詩を作る際にその作法を守っていないことを「起承転結がなっていない」などといいました。ところがこの「起承転結がなっていない」という言い方が、明治以降に普通の文章のほうにもあてはめられるようになり、いまでも起承転結が日本独自の文章構成法だと考えているひとが多いのです。こういうひとたちは二重の間違いを犯しています。ひとつは起承転結は中国のものであって日本のものではないということ。もうひとつは起承転結は詩文のものであって散文のものでないということ。ようするにわたしたちの文章とはなんの関係もないのです。
A:へえ、そうなんですか。それじゃあ、起承転結とはべつの文章構成方法というものは日本語にはないんですか?
N:残念ながらありません。日本人は英語でいうパラグラフ・ライティングやアカデミック・ライティングにあたる文章構成法をこれまでつくりだしてきませんでした。だからわたしたちがこれからつくっていくのです。わたしのいう「思いやりのある論証文」です。

☆☆☆

A:日本人の思いやりの心と欧米的な二者対立の論証形式をひとつに融合させるべきだという先生の考え方は、面白いと思うし、わたしも大賛成です。じつは、友人のなかに海外帰国子女の子がいるんですけど、彼女がそんな感じなんですよね。話すときはいつも理路整然としていて自分の主張もしっかりというんだけれど、でも、ひとに対する思いやりもちゃんとあるんです。あんなふうになれたらいいなと、いつも思うんです。
N:そうです、それがわたしの目指す「思いやりのある論証」なんですよ。そうですか、そういうひとが近くにいるんですか。うーむ、なんだか希望が出てきたぞ。
A:でも彼女、みんなのなかではどうしても孤立するんですよね。ほら、わたしたちってはっきりものをいうことって、ないじゃないですか。いつもまわりにあわせないといけないと思ってるから。それが、彼女みたいに自分の意見をはっきりといわれちゃうと、それがおかしくないとはわかっていても、どうしてもみんなひいちゃうんですよね。いい人なんだけど、やっぱりちょっと疲れるかな、みたいな。
N:Aさん、それはもう全面的にあなたたちのほうが悪い。自分の意見を理路整然と、それをひとへの思いやりをもって主張することの、いったいなにがいけないんですか。
A:でも先生、いまの日本でそんなことをしたら、やっぱり孤立するんですよ。わたしも彼女みたいになれたらいいなとは思うけれど、もしなったら、まちがいなく友達減りますよ。
N:減ったって、いいじゃないですか。そんなことでいなくなる友達なら、最初からいないほうがいい。
A:そりゃ先生はそうかもしれないけど、世の中、先生みたいなひとばかりじゃないです。わたし、やっぱりたくさんの友達にかこまれて暮らしていきたいから。
N:Aさん、その友人の海外帰国子女のひとのようになれたらいいなといつも思う、といいましたよね。
A:はい。
N:ということは、やっぱり本当はそうなりたいんですよ。だったら、そうなればいい。たしかに、いまの友達は少し減るかも知れない。けれど、そのかわりに新しい友達がいっぱいできますよ。長い目でみれば、いまよりももっとたくさんの友達にかこまれて暮らしていけるはずです。日本人の仲間内だけでうまく暮らしていける時代は、もう終わったんです。これからは世界中の「他者」といっしょにうまく暮らしていかなければならない時代です。それ以外に日本人がこれから進むべき道はありません。それにはAさんのようなひとにこそ思いやりのある論証のできる人材になったほしいものです。Aさん、どうか頑張ってください。
A:なんだか、うまくいいくるめられたような気もしますけど。でも、そうですね、はい、頑張ります。
N:さすがAさん。あなたはまさに日本の希望の星ですよ。
A:先生、調子のりすぎ。

VIII.テキストの良し悪し

つぎに英文テキストの「良し悪し」について考えてみよう。センテンスの良し悪しを考えた際の良し悪しの基準は「無駄がないこと」「わかりやすいこと」「魅力的なこと」の3つだった。テキストの良し悪しの基準も基本的にはこれと同じだ.。

1. 無駄がないこと

繰り返し表現

繰り返し表現はテキストの良さを損なう元凶のひとつである。特に覚えておかなければならないのは、英語は繰り返し表現を非常に嫌う言語だということだ。たとえば、一度出てきた名詞に対してはit/he/she/theyなどの代名詞が頻繁に使われるほか、動詞も別の語彙に容赦なく置き換えられる。

たとえば、新しく会社の重役に就任したMr. Brownの紹介文であれば、Mr. Brownは次のセンテンスでthe new vice-presidentとなり、その次にはthe thirty-year-old Stanford graduateとなる。

同じ動詞が続けて使われることも非常に少ない。Spendはpayやexpendに積極的に置き換えられる。センテンスレベルでも同じだ。センテンスを何回も繰り返すケースはきわめて少ない。繰り返しが多ければ書き手も読み手も冗長で工夫が足りないと感じてしまうのだ。

いっぽうで日本語は繰り返しを英語ほど嫌わない言語である。さらにネイティブに比べると語彙力に限界があるため、日本人が英語のテキストを書くとどうしても繰り返し表現が多くなりがちである。意識的に繰り返し表現を避けるよう努めるべきだ。

メタディスコース

メタディスコースとは「述べていることについて述べること」である。
メタディスコースで用いる動詞にはexplain, show, argue, claim, deny, describe, suggest, contrast, add, expand, summarizeなどが挙げられる。またfirst, second, third, finallyといった表現を使って内容を順序づけたり、infer, support, prove, illustrate, therefore, in conclusion, however, on the other handといった表現を使って論理的な接続関係を明示したりすることもある。リスクを避けるためにit seems that, perhaps, I believe, probablyなどといった表現を使って、述べていることの正確度の程度を示すこともある。
メタディスコースは、まとまった文章を書く際に、ある程度どうしても必要となるものだ。しかしあまりに度がすぎると、テキストのクオリティは大きく損なわれる。以下の例をみてほしい 。

A.
We think it useful to provide some relatively detailed illustration of the varied ways “corporate curricular personalities” organize themselves in programs. We choose to feature as a central device in our presentation what are called “introductory,” “survey,” or “fundamental” courses. It is important, however, to recognize the diversity of what occurs in programs after the different initial survey courses. But what is also suggested is that if one talks about a program simply in terms of the intellectual strategies or techniques engaged in, when these are understood in a general way, it becomes difficult to distinguish many programs from others.

B.
Our programs create varied “corporate” curricular personalities, particularly through their “introductory,” “survey,” “foundational” courses. After these initial courses, they continue to offer diverse curricula. But in these curricula they seem to employ similar intellectual strategies.

大学のカリキュラムの案内文だが、Aのようにメタディスコース(イタリック体の部分を使いすぎると、肝心の述べたい内容がほとんど伝わらなくなる。メタディスコースを除いたBが良いテキストである。

2. わかりやすいこと

論理的

論理的整合性のとれているテキストはわかりやすい。論理とは言葉の相互関連性にほかならないからだ。

以下『論理トレーニング』(野矢茂樹、産業図書)から「論理」と「議論の流れ」についての説明部分を引用する。

「論理」とは、言葉が相互にもっている関連性にほかならない。個々の主張が単発の発言に終わることなく、他の主張と関連しあっていく。それゆえにこそ、一貫性を問われたり、ある主張を根拠づけたり、また他の主張に反論することが可能になる。そうして、言葉は互いに関連づけられ、より大きなまとまりを成し、ばらばらの断片から有機的な全体へと生命を与えられるのである。それゆえ、「論理的になる」とは、この関連性に敏感になり、言葉を大きなまとまりで見通す力を身につけることにほかならない 。
議論の流れをつかむとは、さまざまな主張のつながり具合を把握することにほかならない。その際、把握する議論のまとまりを次第に大きくしていくことが肝要である。文の内部の接続構造から、文と文の接続関係、そしてひとつの議論のまとまりとしてのパラグラフ相互の関係へと進んでいく。さらには、節や章全体の相互関係をも見て取っていかなければならない。こうして、細部の解剖図とともに、さまざまなアングルからの鳥瞰図が得られたとき、われわれは提示された議論の理解へと前進することができる 。
『論理トレーニング』p1

言葉の相互関連性を明晰に理解すること――それが議論の流れをつかむことであり、すなわち「読む」ということである。そしてこの言葉の相互関連性を明示するのがさまざまな接続表現であり、この接続表現に敏感になることが、センテンスをわかりやすいものにする第一歩である。

流れがよい

以下のAとBの2つのテキストを読んでほしい 。いずれも同じ内容なのだが、Aはわかりにくく、Bはわかりやすい。Aはテキスト全体の流れが悪く、Bは流れが良いからだ。

A.
Asian competitors who have sought to compete directly with Acme’s X-line product groups in each of six market segments in the Western Pacific region will constitute the main objective of the first phase of this study. The labor costs of Acme’s competitor and their ability to introduce new products quickly define the issue we will examine in detail in each segment. A plan that will show Acme how to restructure its diverse and widespread facilities so that it can better exploit unexpected opportunities, particularly in the market on the Pacific Rim, should result.

B.
The first phase of this study will mainly examine six market segments in the Western Pacific region to determine how Asian competitors have sought to compete directly with Acme’s X-line product groups. In each segment, the study will examine in detail their labor costs and their ability to introduce new products quickly. The result will be a plan that will show Acme how to restructure its diverse and widespread facilities so that it can better exploit unexpected opportunities, particularly in the market on the Pacific Rim.

テキスト全体の流れの良さを決める重要な要素のひとつはテキスト全体でのトピックが大きく揺れていないことだ。Bでは最初のセンテンスのトピックがThe first phase of this study、次のセンテンスのトピックがthe study、その次がThe resultで、そこには一貫性が感じられる。これがテキスト全体の流れの良さにつながっている。ところがAでは最初のトピックがAsian competitors、次がThe labor costs、その次がA planで、一貫性が何も感じられない。それがテキストのわかりにくさとなって現れている。

3. 魅力的なこと

すでに述べたが、センテンスやテキストがなぜ魅力的かを説明することはとても難しい。魅力的かどうかは理屈を超えた部分があるからだ。「考えるな、感じるんだ」といいたくもなる 。

それを前提としつつもテキストを魅力的にする要素を挙げるとすれば、「めりはりとリズム」「比喩」の2つを指摘しておきたい。

めりはりとリズム

言葉は音楽と同じで時間にのって流れていくものだ。その流れのなかで確かなめりはりと心地よいリズムを備えていればテキストはその魅力を大きく増す。そのためにはセンテンスの長さを工夫し、長いものばかりや短いものばかりが続かないようにすべきだ。セミコロン、コロン、省略などを使って、急激なリズムの変化をつけるのも一つの手だ。会話体をうまく利用するという手もある。例を挙げておこう 。

Mary slowly opened the door into the dark room. Fear was numbing her body and making it hard for her to concentrate. She wanted to run away from the dark room, but she could not make herself move. Taking a deep breath, she felt for the light switch next to the doorframe and flicked it. The light filled the once dark room and Mary looked everywhere, but she did not see anything.

Mary slowly opened the door into the dark room. Fear was numbing her body and making it hard for her to concentrate. She wanted to run away from the dark room, but she couldn’t. Taking a deep breath, she felt for the light switch next to the doorframe and flicked it. Nothing.

最後のセンテンスをNothingと一語にしただけでこのテキストの魅力は大きく増すことになった。もうひとつ、D. H. Lowrenceのテキストを紹介することにしよう 。

Let us look at this American artist first. How did he ever get to American, to start with? Why isn’t he a European still, like his father before him?
Now listen to me, don’t listen to him. He’ll tell you the lie you expect. Which is partly your faith for expecting it.
He didn’t come in search of freedom of worship. England had more freedom of worship in the year 1700 than American had. Won by Englishmen who wanted freedom and so stopped at home and fought for it. And got it. Freedom of worship? Read the history of New England during the first century of its experience.
Freedom anyhow? The land of free! This is the land of the free! Why, if I say anything that displeases them, the free mob will lynch me, and that’s my freedom. Free? Why I have never been in any country where the individual has such an abject fear of his fellow countrymen. Because, as I say, they are free to lynch him the moment he shows he is not one of them….
All right then, what did they come for? For lots of reasons. Perhaps least of all in search of freedom of any sort: positive freedom, that is.
–D. H. Lawrence, Studies in Classic American Literature

正直なところ、これはノンネイティブには敷居が高すぎる。真似をしようなどとは決して思わないほうがいい。

比喩

適切な比喩の使用はテキストの魅力をぐんと増してくれる。それは文学作品だけなく、一般のテキストでも同じことだ。以下、バーナード・ショーとE. H. カーの例を挙げておく 。

The schoolmaster is the person who takes the children off the parents’ hands for a consideration. That is to say, he establishes a child prison, engages a number of employer schoolmasters as turnkeys, and covers up the essential cruelty and unnaturalness of the situation by torturing the children if they do not learn, and calling this process, which is within the capacity of any fool or blackguard, by the sacred name of Teaching.
–G. B. Shaw, Sham Education

This is what may be called the common-sense view of history. History consists of a corpus of ascertained facts. The facts are available to the historian in documents, inscriptions, and so on, like fish on the fishmonger’s slab. The historian collects them, takes them home, and cooks and serves them in whatever style appeals to him. Acton, whose culinary tastes were austere, wanted them served plain….Sir George Clark, critical as he as of Acton’s attitude, himself contrasts the “hard core of facts” in history with the “surrounding pulp of disputable interpretation”—forgetting perhaps that the pulpy part of the fruit is more rewarding than the hard core.
–E. H. Carr, What is History?

ショーは学校の比喩に監獄を使っている。きわめて刺激的かつ攻撃的な比喩の使い方であり、ショーの述べたい内容や文体によくあっている。カーは魚や果物を比喩として使っているが、これは述べたい内容をより身近でカラフルなものにしたいからだ。いずれもテキストの魅力を大きく増す比喩の使い方といえる。

私たちは英語での比喩を使いこなすことは確かに難しいが、しかし決して不可能ではないはずだ。ショーやカーのようにはいかないまでも、チャレンジしてみる価値はある。

☆☆☆

N:いかがでしたか。
A:うーん、正直なところ、わたしにはレベルが高すぎです。自慢じゃないけど、普通の英文テキストさえまともに書けないんだから。バーナード・ショーもD・H・ロレンスもE・H・カーもあったもんじゃないです。
N:そうですね。
A:そうですね、って。じゃあ先生、なんでこんなお話をするんですか!
N:まあ、そんなにツンツンしないで。たしかにAさんのレベルとはかけ離れているかもしれませんが、こうしたことを知っておくこと自体は、とても大事なことだと思いますよ。Aさんのいまの目標は普通の英文テキスト、それもネイティブ英語のテキストではなく国際英語の普通のテキストが書けるようになることですね。そのテキストはできるかぎり無駄がなく、わかりやすいものであるべきです。そのためにはこうした知識を持っていることがとても役に立つのです。それに、どんなことでもそうですが、最初のうちにその領域の本当のトップに触れておくというのはとても大事なことなんです。だからバーナード・ショーやD・H・ロレンスやE・H・カーにいまの段階で触れておくことには、おおきな意味があるのです。まずはトップにふれること。これが大事です。
A:ということは、シェークスピアなんかも読んだほうがいいんでしょうか。
N:もちろんです。Aさん、あなたは本当によい生徒ですね。よし、じゃあ、来週はシェークスピアをやりましょう!
A:いや、先生、それはちょっと……

IX.文体

文体教育の不備

学校でなぜ文体を教えないのか

文体はテキストの構造や論理とともに日本の英語教育から完全に削除されてきたトピックである。そのため英語にさまざまな文体があるということを実感できない英語学習者が上級者のなかにもいる。英語の文体感覚が育っていないのだ。さらには参考図書を求めようとしても、まともな参考書がほとんど手に入らない。

なぜこれほどまでに日本の英語教育では文体の教育が無視されるのだろうか。第一の理由は、学校の授業では文体を取り上げるほどの余裕がないということが挙げられるだろう。中学や高校では英語のセンテンスの構造を教えるだけで手一杯であり(コミュニカティブ・アプローチではそれも教えないのだが)、テキストの構造や文体まではとても手が回らないというわけである。

第二の理由は、文体論がまだ完全には確立されていないということではないか。単純な構造に分析できる「文」とは異なり、文体はその種類が千差万別である。突き詰めていってしまえば一人一文体といってもおかしくない。そうしたこともあって、現在の英語学では文体の研究はセンテンスやテキストほど進んでいない。

文体教育のない弊害

だがどちらも理由になっていない。第一に授業で取り上げる時間がないはずがない。ロールプレイをやめればそれだけでも時間は浮くはずである。あるいは文法教育の一部に最初から文体教育を組み込んでしまってもよい(文法教育自体がないのなら、どうしようもないが)。また文体研究が確立されていないことは英語教育とは関係がない。学問的に確立されていようといまいと教えなければならないことは教えなければならない。

文体教育が欠けていることの弊害はいくつもある。たとえば翻訳で文体感覚が欠けていれば、どの英語も同じ文体に翻訳してしまうことになる。実際、こうした翻訳が世の中には多い。自分自身で英語を書く際にも、文体感覚が欠けていると大きな問題が生じる。用途や相手にあわせて適切な文体を選ぶということができないからだ。
だが文体教育のないことの最大の弊害は、一人の書き手として自分の書くテキストの核となるものが見つけられないことにある。文体とは突き詰めれば一人一文体といってよい。まず自分の文体を見つけて育てていくことが、ものを書くということの第一歩である。ところが文体感覚に欠けていると、自分の文体を見つけて育てるどころか、まわりの人たちの文体でさえも理解できない。そうなると、おのずと書くということ自体に及び腰になる。そして自分の個性を十分に生かして書くということができなくなるのだ。これが文体教育の欠けていることによる最大の弊害である。文体を学ばなければ、ちゃんとした一人前の書き手にはなれないのだ。

2. 文体をいかに学ぶか

筆写の効用

文体をどのようにして学べばよいのか。最良の方法は名文の筆写である。最良のものをとにかく写す。これに尽きる。たとえば英語の名文を数多く収めた本がいまは何冊も出ているので、それを買って筆写していくという手もある。その際に気をつけたいのは、そこに含まれているテキストの多くが文学領域や政治領域のものであって、実務領域のものが少ないということである。また名文と評価されるのであるから、年代的にもかなり古いのが普通である。

こうした点をカバーするには、名文だけでなく自分自身で気に入ったテキストを写していけばよい。私の場合は、本を読んでいて感動した部分や気に入った部分があると、それをすぐにタイプ打ちして、自分なりのコメントをつけることが多い。これはよい方法である。皆さんにもお勧めする。

文体の種類

つぎに実際の文体の種類をみてみよう。ここでは『英語文体論』(池田拓朗、研究社)で採用されている文体の区分けでみてみることにする。まずは文体のレベルからである。

I. 総論――文体の種類(Introduction: Kinds of Style)
A. 文体のレベル(Levels of Style)
洗練文語体(Choice written style)
一般文語体(General written style)
洗練口語体(Choice spoken style)
一般口語体(General spoken style)
卑俗体(Vulgate style)

A.の文体のレベル(Levels of Style)は下のようなマトリックスにまとめることができる。

洗練 一般 卑俗
文語 洗練文語体 一般文語体
卑俗体
口語 洗練口語体 一般口語体

私たちにとって大事なことは、英語にはこうした文体の区別があることをまずきちんと認識し、いま読んでいるその英語がどの文体にあたるのかが、ある程度判別できるようになることである。

英語のノンネイティブに英語の文体が見分けられるのかと心配な人もいるだろうが、大丈夫である。日本語の文体の違いを明確に見分けるだけの文体感覚があれば、英語の文体も見分けることはできる。

文体が見分けられるかどうかは、読み手がネイティブかノンネイティブかということではなく、ことばに対する感受性そのものの影響のほうが大きい。私がよくいうのは、英語の文体感覚を身につけたければ、まず日本語の文体感覚を磨きなさいということである。なぜなら日英ふたつの言語の文体感覚は、じつは深い根の部分ではつながっているからである。

読み手と文体

つぎに『英語文体論』が挙げるのが「文体の機能」である。

B. 文体の機能(Functions of Style)
凍結文体(Frozen style)
公式文体(Formal style)
相談文体(Consultative style)
くつろぎ文体(Casual style)
親密文体(Intimate style)

ようするに、そのテキストの読み手は誰なのか、ということである。そしてその答えは、親密文体は親密な相手、くつろぎ文体はくつろげる相手、相談文体は相談する相手、そして公式文体は仕事などの相手である。そして凍結文体は、おそらくは神が相手なのであろう。

話し言葉のときと同様に、書き言葉においてもメッセージを送る相手によって文体が変わるのは当然のことである。気をつけなければいけないのは、ときと場合によっては、意図的にこの「文体の機能」を変えるケースが考えられるということである。

たとえば、普段はとても親密にしている相手に対して親密文体やくつろぎ文体ではなく公式文体でなにかを書いて送ったとすると、そこにはある種の意図が隠されているにちがいない。あるいは一部の米国人のように、たとえ初対面の相手でも親密文体やくつろぎ文体でメッセージを送ってくるケースもある。そこにも、ある種の隠された意図があると考えるほうがよいだろう 。

アングロサクソンvsラテン

英語の文体を決定する際の最大の要因のひとつが語彙の選択である。
たとえばアングロサクソン系の語彙を多く使えば一般文体・親密文体に、逆にラテン系の語彙を多く使えば洗練文体・公式文体になる。

これには英語という言語がたどってきた歴史的経緯が大きく影響している。1066年のノルマンコクェスト、16世紀からのルネサンス、その後の近代科学の勃興などによって、英語には膨大な数のラテン系・ギリシャ系語彙が導入された。そのため現代英語では、英語の「漢語」にあたるラテン系・ギリシャ系語彙を使わず、「和語」にあたるゲルマン系語彙を使うだけでは、知的活動はほぼ不可能になってしまっているのである。

英語におけるゲルマン系とラテン系の語彙のペアを『英語文体論』から一部紹介しておく。もちろんこれ以外にも膨大な数があることはいうまでもない。

dog–canine, pitch–erect, drunk–intoxicated, play–diversion, eat–devour, pore–ponder, end–terminate, pretty–beautiful, father-progenitor/pater, quake–vibrate, fear–trepidation, read–peruse, feel-sense/perceive, right–just, feeling–emotion, root–origin, fire–conflagration, say–state, foreword–preface, go–proceed, God–Providence, hobby–avocation, home–domicile, horse–equine, house–residence, idle–unoccupied, , if–provided, keen–intense, lawsuit–prosecution

職業方言

最後に取り上げたいのが、いわゆる職業別の文体である。そしてこれこそが日本人が英語を学ぶ際に、もっとも注意深く学ばなければならないトピックである。

『英語文体論』では職業方言をジャーナリズム英語(Journalistic English)、商業英語(Business English)、政治英語(The English of politics)、官庁用語(Officialese)、法律英語(Legal English)、科学英語(Scientific English)、文学英語(Literary English)の7つに分けている。その説明の一部を以下にご紹介する。

1.ジャーナリズム英語(Journalistic English)
現代社会でもっとも影響力が強いのはジャーナリズム英語で、これにはTime、Newsweekなどのweekly newsmagazines or news-weeklies(時事週刊誌)やテレビ・ラジオで使われる英語も入る。

2.商業英語(Business English)
商業英語を商取引に使われる通信文(business correspondence、いわゆる「コレポン」)の意味に限定するならば、新聞英語のように外部に向かっておおきい影響をおよぼすことはなく、むしろ外部からの影響をうけることのほうがおおきい。

3.政治英語(The English of politics)
George Orwell (1903-50)は、いまや古典的となった論文”Politics and the English Language” (1946)で、「現代英語、とくに文章英語、には悪い習慣がどっさりあり、模倣されて拡散しているが、われわれが必要な労を惜しまないならば避けうるものだ」(p.143)とし、「現代において、政治の文章は悪い文章だということは大体において事実である」(p.152)とした。

4.官庁英語(Officialese)
官庁から出される公文書・報告書類は、正確さと揚げ足をとられないことが至上命令である。後者のほうに重点がかかりすぎると、もって回った難解な文体となり、そのような感心できない表現をofficialeseと呼ぶ。

5.法律英語(Legal English)
法律の条文・通告・判決文・契約書のたぐいは、新聞報道や商業通信文などでも要求されるcorrectness(正確さ)が極限にまで押し進められて、2種の解釈を許さない精密さが第一条件となり、時には威厳をつける必要も生じる。その結果、stiltedness(堅苦しさ)とarchaism(古めかしさ)とcircumlocution(まわりくどさ)の極地ともいうべき文体が定着する。

6.科学英語(Scientific English)
正確さ・精密さは科学において生命線であるので、表現の上では没個性的な非人称構文・受動態が愛用され、類義語・代名詞の使用を避けておなじ名詞を繰り返し、SaxonismよりLatinismをよしとし、その分野での術語・職業通語が頻用される。新発見・新開発があれば新語が当然造られるが、Latin rootsによるよりはGreek roots(ギリシャ語語根)によるhyphnated compounds(ハイフン付き合成語)がおおい。洗練文語体で、客観的で冷静な文体となる。(略)
科学に人文科学も含めるならば、scientific Englishはひろく学術書・論文などの英語全般を指すことになる。とくに文体の点で批判の対象になりやすいのは、社会学・心理学・教育学などの用語で、それぞれsociologese / psychologese or Freudian English (Evens & Evans, p. 189) / educationese or pedagese ore pedaguese と軽蔑的に呼ばれる。(略)
術語(technical term or technicality)とは、おもに学術・科学技術の特定の分野で用いられる専門語で、同業者の間では不可避なもので時間と労力の多大の節約となるが、これが一般人を対象とする新聞雑誌の文章・広告などに濫用されると上述のごとき言語汚染(language pollution)の一要素となる。術語が一般性を失い、同業者どうしの間でしか通じないinside talk(内輪のことば)になるときは、職業通語と呼ばれる。

7.文学英語(Literary English)
文学の文体(literary style)は一般文語体と洗練文語体にまたがり、どの点で文学以外の文体と異なるかを検討するのが本書全体の目的のひとつとなる。ShakespeareとJoyceに代表されるように、個性的な大文学者ほどその文体は一般の文体から広範囲に逸脱する。ゆえに、文学の英語とはどのようなものである、と概括できる性質のものではない。

新しい時代の文体

これらの職業別文体になかで、おもに文学とジャーナリズムがこれまで文章の規範とみなされてきた。したがってこのふたつの仕事に携わる人間を文章家とみなすことがいまでも多い 。

だが、その状況はいま大きく変りつつある。20世紀前半まで、一般の人々はほとんど文章を書かなかった。職業においても、日常的に文章を読み書きする必要のあるものはそれほど多くなかった。日常的に文章に携わるという仕事はほんの一部しかなく、その代表挌が文学者とジャーナリストだったのである。

だが20世紀後半から世界は革命的変化の時代に突入した。産業社会から知識社会への変革である。21世紀に入ると社会変革のスピードはさらに上がり、いまでは文章を読んだり書いたりしないですむ職業のほうがかえって珍しくなりつつある。

そうしたなかでそれぞれの職業のなかで文章革命とでも呼ぶべきものが起こりつつある。たとえば法律の世界ではその悪名高い文体を改善する動きが米国などで進んでいる。官庁の文章も、いまだ十分とはいえないまでも、かなり改善されてきた。政治家の文章もかなり臭みのないものが増えてきた。

あらゆる職業の人々が「よりよい」文体を求めてさまざまな努力をはじめているのである。今後はそれぞれの職業においてさらに明晰で魅力的な文章が創造されていくにちがいない。

<コラム>
Plain English

Plain Englishとは20世紀後半から盛り上がってきたある種の文体改革運動ともいうべきものである。

Plain English運動のはじまりは、イギリスの役人であったErnest GowerがThe Complete Plain Wordsを出版した1950年代にまでさかのぼる。同書はイギリスの行政文書をもっと平明な英語で書くことを推奨したもので、これがPlain English運動の原点だとされている。

1960年代から70年代になると、米国の消費者グループからローン契約書の曖昧かつ難解な契約文に対する批判が盛り上がり、たとえばシティバンクでは契約書の文面を全面的に書き換えるという事態も起こった。その後、消費者保護のために制定されたマグナソン・モス法で契約文書における曖昧な表現が禁止され、1978年にはカーター大統領が法規を平明な英語で書くことを要請した大統領命令に署名し、1998年にはクリントン大統領が公的文書ではシンプルで短い文を使うことを指示した「Plain Language in Government Writing」というメモランダムを発表した。クリントン大統領は1999年にも、連邦規定として発行されるあらゆる文書は平明な文体が書かれなければならないという要請を行なっている。

民間セクターでもPlain Englishに対する関心は1990年代に入って急速に高まり、1998年には米国証券取引委員会(SEC)が証券関連文書を平明な英語で書くことを推奨したPlain English Handbookを公表した。このハンドブックでは、投資の神様ウォーレン・バフェットが序文を書き、Plain Englishの活用を説いている。

同様の動きはイギリスでも急速に進んでいる。英語国ではいま英語の平明化が全面的に進展しているといってよい。

最後にそれぞれの職業方言の簡単な例を挙げておこう(文学英語は除く)。

<ジャーナリズム英語>
WASHINGTON, May 9 – Moderate Republicans gave President Bush a blunt warning on his Iraq policy at a private White House meeting this week, telling the president that conditions needed to improve markedly by fall or more Republicans would desert him on the war.
The White House session demonstrated the grave unease many Republicans are feeling about the war, even as they continue to stand with the president against Democratic efforts to force a withdrawal of forces through a spending measure that has been a flash point for weeks. (New York Times, Thursday, May 10, 2007 )

<商業英語>
Your securities are safe with your broker. All securities held for you by your brokerage firm are insured by Securities Investor Protection Corporation, a congressionally-chartered company. Your brokerage firm may also take out additional insurance form a commercial insurance company. If your brokerage firm goes under, you will not lose the securities it holds for you. (Effective Business Writing, Maryann V. Piotrowski, p.30)

<政治英語>
“In the 2008 campaign, affordable, universal health care for every single American must not be a question of whether, it must be a question of how. We have the ideas, we have the resources, and we will have universal health care in this country by the end of the next president’s first term.” (Barack Obama, Speech in Washington, DC 1/25/07)

<官庁英語>
The said aggregate further single premium shall be apportioned equally among the existing Policies and consequently in relation to each such Policy the Further Minimum Sum Assured secured by the part of the said aggregate further single premium apportioned thereto shall be sum equal to the aggregate Further Minimum Sum Assured specified in the Schedule divided by the total number of the existing Policies the Further Participating Sum Assured so secured shall be a sum equal to the aggregate Further Participating Sum Assured so specified divided by the total number of the existing Policies and the amount of the further single premium paid under each of the existing Policies shall be a sum equal to the further aggregate single premium so specified divided by the total number of the existing Policies. (Oxford Guide to Plain English, Martin Cutts, p.1)

<法律英語>
For regulating and prescribing the procedure (including the method of pleading) and the practice to be followed in the Court of Appeal and the High Court respectively in all causes and matters whatsoever in ore with respect to which those courts respectively have for the time being jurisdiction (including the procedure and practice to be followed in the offices of the Supreme Court and in the district registries), and any matters incidental to or relating to any such procedure or practice, including (but without prejudice to the generality of the foregoing provision) the manner in which, and the time within which, any applications which under this or any other Act are to be made to the Court of Appeal or to the High Court shall be made: — Yardley, p.10 )『英語文体論』、p.82)

<科学英語>
It has been shown that by working in a centrifuge it is possible to scale ice fields for some purposes (Langhorne and Robinson, 1983) and currently work is under way in Cambridge, U.K., to model pressure-ridge formations at accelerations up to 500 G. In the late 1950s, 1960s, and early 1970s, very many studies were conducted on the small-scale mechanical properties of sea ice with a view to practical engineering applications. Later work has shown that seldom are properties so measured relevant when ice sheets having horizontal dimensions of metres and tens of metres are involved. – Glaciology (1987), p. 49. (『英語文体論』、p.83)

☆☆☆

N:さてこれで文体については終わりです。いかがでしたか。
A:英語の文体については、以前からとても気になっていたんです。せっかく英語を勉強するんだから、やはり文体もしっかりと勉強したいと思ったんだけど、どうやって勉強すればいいのかわからないし、それにわたしみたいなレベルで文体がどうのこうのというのもちょっとおこがましいかな、という気がしていました。でもこの講義で、文体を勉強するきっかけができたように思います。まだ自信はないけど。
N:いえいえ、英語の文体の感覚は誰でもつかむことができますよ。レベルの問題じゃありません。ようは勉強のポイントをきっちりとおさえることだと思います。まずは文体のタイプを認識して、それぞれの構文や語彙の特徴をしっかりと理解すること。そのうえで、つぎに書き換えをしてみて、他の文体に移し替えてみるといいですね。これは英作文の練習にもなりますから、まさに一挙両得です。
A:そうですね、頑張ってみます。ところで先生は、日本語の文体感覚と英語の文体感覚は根っこでつながっているといっていましたね。それも,そのとおりだなと思いました。でも、ということは英語の文体がわかるためには日本語の文体もわからなくちゃならないということで、そのためには日本語の文章もたくさん読まなくちゃいけないということですよね。ようするに外国語を勉強するってことは、結局は母国語も勉強するってことなのかな。
N:Aさん、素晴らしい。 そこまでわかってくれれば、もう、いうことなしです。
A:またまた持ち上げすぎ。でもこんどはなんか、本当にうれしいですね。でもそれにしても、最後にみた官庁英語と法律英語って、本当にすさまじいもんですねえ。
N:ええ、あれが理解できる人たちがいるということが、まさに奇跡です。でも最後に書いたように、ああいった複雑怪奇な文章をなくしていって、誰にでもわかりやすいものにしようとする方向に、いまは英語全体として動いているところです。Plain Englishという運動は、そのひとつですね。これについては『準備科講義録』で説明してありますから、どうか読んでみてください。ただその反対の動きも、一方にあります。そういう人たちは、いまの英語は乱れているので、もっと伝統に則した薫り高き文章を書くべきであるという主張をしています。
A:なんだか、日本語の状況とも似ていますね。
N:どの言語においても革新対保守という構図はあまり変らないようです。しかし英語が日本語と大きく異なるのは、現在では英語という言語が、米国人や英国人といった英語ネイティブのものだけでなく、国際的なものとなってきたという事実にあります。
A:それは英語が世界共通語になりつつあるということですか?
N:いいえ、英語は「世界共通語」ではありませんし、今後そうなることもありません。英語を使えば、世界のどこの誰にでも通用するなどということは、決してありません。韓国でも中国でもインドでもイラクでもカメルーンでもブラジルでも、英語が通用するのはほんの一部のひとだけです。だから「英語が国際語になってきた」ということと「英語が世界共通語になってきた」ということは、まったく異なることです。ここを取り違えてはいけません。「英語が話せるようになれば、世界中の人々とコミュニケーションをとることができます」などと平気でいう英語関係者がいるようですが、そういう主張をする人はだいたいにおいてちょっとおつむが軽いようです。
A:やっと先生らしくなってきましたね。
N:このように英語は決して世界共通語ではないのですが、そのいっぽうで英語が急速に「国際化」してきたことは、間違いありません。こうした英語の国際化のなかで、英語自体にも変化が起こりつつあります。簡単にいえば「母語としての英語」と「国際語としての英語」が乖離する可能性が出てきたということです。そしてこのことは日本人が英語を学ぶうえできわめて重要な意味を持っていますので、このあと、いっしょにしっかりと考えていきたいと思います。
A:つまり、これからの日本人にとって英語とはなにか、ってことですね。
N:素晴らしい! あなた、ほんとうにAさんですか?
A:先生、もうわかったから。はやくつぎにいきましょう。

X.日本人と英語

最後に考えたいのは、日本人にとって英語とはなにかということである。

国際語としての英語

English as an International Language

英語が第一の国際語であることは間違いない。では実際の使用状況はどうだろうか。Teaching English as an International Language (Sandra Lee Mckay, Oxford University Press)では、ある研究者の研究結果を以下のようなかたちで紹介している。

画像2

ここでは世界の英語使用国をInner Circle, Outer Circle, Expanding Circleの3つの領域に分けている。Inner Circleが英語ネイティブ国、Outer Circleが英米の元植民地国、Expanding Circleがそれ以外の諸国ということである。

Inner Circleで使われる英語がEnglish as a Native Language (ENL)、Outer Circleで使われる英語がEnglish as a Second Language (ESL)、Expanding Circleで使われる英語がEnglish as an Internationa Language (EIL)と呼ばれる。

英語の使用人口は、Inner Circleで3億2,000万人から3億8,000万人、Outer Circleで1億5,000万人から3億人、Expanding Circleで1億人から10億人とみている。外側へいくほどに精度が落ちるのは、どこまでを英語「使用者」とみなすかの定義づけが難しいからでだ。日本はExpanding Circleに属する一国とみなされているが、では実際にどのくらいの英語「使用者」がいるかとなると、たしかに難しい。たとえばだが、いまこれを読んでいるあなたは、英語「使用者」なのだろうか。いずれにしろ、これらの最大値をすべて合計したとしても、世界の英語使用人口は16~17億人程度である。中国語使用人口と大差はない。

EILと文化

Teaching English as an International Languageでは国際語としての英語(以下「EIL」)を考えるうえで次の2つの点を中心に考察を進めている。EILにおける英語文化および各国文化の位置づけ、そしてEILとしての規範のあり方、である。

まず文化との関係性をみてみよう。同書によると、多くの研究者はEILがENLつまり英語ネイティブ国の文化からの影響を受けない存在であるべきだと考えている。と同時に、Outer CircleやExpanding Circleでの文化からも独立したものにするべきだとも考えている。

日本にあてはめて考えてみよう。私たちが英語をEILとして学ぶならば、それは英米文化から切り離されなければならない。つまり、私たちがジョージやメアリーになる必要はまったくない。と同時に、英語に日本文化からの影響を入れてしまうことにも注意しなければならない。

Expanding Circleに属する私たちが英語を学ぶ目的は英語文化を知ることではなく、英語を鏡に日本を学ぶことでもない。あくまで自分たちの考えを相手に正しく伝え、相手の考えを正しく理解することにある。英語は人間交流の道具だということである。

EILと規範

つぎにEILと規範の関係である。Inner Circleが使う英語はもちろんネイティブ英語であり、それには当然ながら従来からの規範が適用される。

ではEILの場合はどうだろうか。やはり従来からの英語の規範が適用されるべきなのだろうか。それともEILとしての新しい規範をつくるべきなのだろうか。新しい規範をつくるとすれば、その規範はどのようなものであるべきなのだろうか。

この点について、1984年のブリティッシュ・カウンシル創立50年記念の会議において、二人の著名学者のあいだにきわめて興味深い論争があったとTeaching English as an International Languageは紹介している。二人の学者とはRandolph QuirkとBraj Kachruである。Randolph Quirkは日本でもきわめて有名なイギリス人の英語学者である。いっぽうBraj Kachruは日本ではあまり名前が知られていないが、やはり世界的に有名なインド人の英語学者である。この二人がEILにはどのような規範が必要かということで丁々発止のやり取りをしたのである。

まずRandolph Quirkの意見であるが、これはきわめてシンプルである。すなわち、いかなる英語であっても英語であるかぎり共通の規範が必ず必要だということである。言い換えれば、たとえEILであってもネイティブ英語の規範に従いなさいということである。
対してBraj Kachruは次のように反論したという。

In my view, the global diffusion of English has taken an interesting turn: the native speakers of this language seem to have lost the exclusive prerogative to control its standardization; in fact, if current statistics are any indication, they have become a minority. This sociolinguistic fact must be accepted and its implicaition recognized. What we need now are new paradigms and perspectives for linguistic and pedagogical research and for understanding the linguistic creativity in multilingual situation across cultures. (Kachru 1985: 30)
Teaching English as an International Language, p.51

これに続けてKachruは、英語の規範を現在の「ソリッド」なものではなく、ある程度「ルース」なものとしたとしても、英語のIntelligibility(知的能力)は決して落ちることはなく、逆に英語の規範の多様性を認めることで教育的にはよい方向へいくかもしれないと主張したのである。

たしかにKachruがいうように現在の英語使用者のなかで英語ネイティブはすでに多数派ではない。それどころかKachruがそう主張してから20年以上を経た現在、英語使用者のなかの英語ネイティブの比率は完全なマイノリティとなってしまった。そのマイノリティの規範をそのままマジョリティに踏襲しろというのがQuirkの主張なのだが、これはどうみても無理筋ではないか。“the global diffusion of English has taken an interesting turn”というKachruの発言に強い説得力を感じるのは私だけではないだろう。

ネイティブ崇拝

ところがKachruの意見は国際社会ではまだ通用しない。その理由はつぎの2つだろう。
ひとつは、Inner Circleの人々がKachruの意見に対して徹底的に反対するからである。彼らにとって英語は自分たちの言語であり、それ以外の何者でもない。たとえ自分たちが英語利用者のなかのマイノリティであっても、とにかく英語は自分たちのものである。他人につくった「ルース」な規範などお話にならないのだ。

この気持ちは、私たちにもよくわかる。そりゃもっともだ、とも思う。だが、これはじつはネイティブ英語とEILとを混同した意見なのである。KachruはあくまでEILの話をしているのであって、英国や米国で使われているネイティブ英語の話をしているのではない。ネイティブ英語がいまのネイティブ英語のままでよいのは当然のことである。ところが多くのネイティブのEILに対する反応は、おそらく「私たちの大切な英語が外国人たちによって壊される」ということであろう。心情的にはわかるが、現実としては的外れである。

もうひとつの理由は、Outer CircleとExpanding Circleの人々のなかにある。すなわちOuter/Expanding Circleの人々の多くは、Kachruのように考えるのではなく、ネイティブの決めた規範に従うべきだと考えているのだ。自分たちの英語は「にせもの」で、「ほんもの」であるネイティブに規範を決めてもらうのが自然だと思うからだ。さらに、英語は言語として自分たちの母語より優れており、自分たちがコントロールするものではないという意識が、たとえ無意識であっても、この根底に存在する。

こうした英語ネイティブ崇拝の感覚は、Outer/Expanding Circle全体にみられるものである。いうまでもないが、これはきわめてバカバカしい意識だ。英語は特に優れた言語でも特に劣った言語でもない。数千ある言語のうちのひとつの言語にすぎない。

英語ネイティブ崇拝の意識は、日本人のなかにも強く根づいている。ことEILに関するかぎり、Kachruの意見がまっとうであり、Quirkの意見は英語ネイティブのエゴにすぎないと堂々と意見を述べることのできる英語関係者が、日本のなかにどのぐらいいるのだろうか。

日本人の英語

World Englishes

英語の規範はもっとルースでよいのではないかというKachruの意見の延長線上には、さまざまな種類の英語が存在してもよいという発想が潜んでいる。すなわち英語はもはやEnglishではなくEnglishesであるという意識である。この意識は研究者のなかでは市民権を得ており、World Englishesという学会もすでにある 。World Englishesの世界を少しのぞいてみると、世界にはじつにさまざまな英語があるものだと感心する。

イングリック

そうしたWorld EnglishesのひとつとしてのJapanese Englishはどのようなものであるべきか。そのひとつの例として、鈴木孝夫の提唱する「イングリック」を紹介しておきたい。鈴木孝夫は日本でもっとも有名な言語社会学者の一人である。その鈴木がここ20年ほど主張しているのが「イングリックのすすめ」だ。2001年に発刊された『英語はいらない!?』(PHP新書)という本から引用しながら、イングリックとその背景について説明していこう。

「英語らしきもの」でいけ
たいていの人は「外国語を学ぶ目的の第一は、そのことばが用いられている国や民族の歴史や文化を学ぶことです」と言います。しかしこのことはいま英語に関する限り、全くあてはまらなくなってしまったのです。英語は国際化したために、特定の国や民族との歴史的なつながりが薄くなり(脱英米化)、文化的にはいわば根無し草の、いわゆるリンガ・フランカ的な側面が大きくなっているからです。(略)
だから私は英語が国際的に最も広まったから、日本人もそれに習熟しなければと言うときの英語は、もはや英米人の文化と表裏一体をなす、彼らの私有財産としての言語ではなくて、英語という言語を材料としたそれと非常に近い、似た言語、それを私は「イングリック(Englic)」と名付けたのですが、このイングリックを学ぶべきだと二十年も前から主張してきたのです。
『英語はいらない!?』p102-103

ここで述べられていることはまさにEnglish as an International Languageとしての英語のことである。ただ鈴木はこれに発展させて、もはやそれは英語ではなく、英語を素材とした別の言語であるとして、それに「イングリック」という名称をつけている。さらに引用を続けよう。

痛み分けこそ国際語
イングリックとは、ひとまず英語を言語素材として、日本人が言いたいこと、自分のことを言うための手段であって、これは英語を元々使う人々(ネイティブ・スピーカー)と、それを学習して使う人々(非英語国民)との中間に位置する、妥協の産物と考えてください。ほんとうは私たち日本人は日本語で世界に向かって言いたいことを言うのは理想だけれども、それはちょっとこちらの弱いところで外国に日本語を教えるのをこれまで忘れていた、だから向こうは学んでいない。そこで当面は英語らしきものを使わざるを得ないという考え方です。(略)
つまりイングリックは英米人にとっても自分の英語そのものではないという意味で外国語なのです。ただそれでもはるかに英語の方に近いから、日本人にとっての不利な重荷は残るが、本当に英語、つまり相手のものである英語をそっくり学ばなければならないと思い込むよりはずっと気持ちが楽になります。
それを初めから「あなた方の言語、大切な財産である英語を私たちは間違わないよう一生懸命勉強します」と言ってしまえば、「ああ、いい子だ、いい子だ。俺たちの英語をやるのか。おっ、ちょっと違うよ。ここ直しなさい。ああしなさい」となってしまう。そして「英語が上達するためにはイギリスの歴史、文化、社会についての勉強をやらなければ駄目だ。アメリカ人について学び、彼らの風俗習慣までをそっくり真似しなければ本当の英語が身につかない」ということになって、いつもまにかこれまでのようなアメリカかぶれ、イギリス大好き人間ができてしまうわけです。そしてもともとは全世界と交流し、日本を世界に広く知らせるために英語を学ぶはずだったのが、いつの間にかロシアのことイスラムのこと、隣の韓国のことも何一つ知らない人間ができて、「世界とはアメリカのこと」となってしまう。
そして一番困ることに、肝心の日本や自分について、英語で何一つ語れなくなってしまう。だからそれを防ぐためには、何と言っても国際的に通じなければ国際語とは言えないのだから、英語という国際的に広く用いられている言語をできる限り活用する。ただしそれはイングリックだ、英語そのものではないと一方的に主張し、その気持ちで堂々と使えば、結果としては相手の「本当の」英語をオドオドしながら下手に使うよりはるかに通用する。自分の言うのも変ですが、このイングリック(Englic)は結構いい名称だと思いますよ。English-like language(英語みたいな言語)というわけですから。これを見れば英語に関連した言語であって、しかも英語(English)ではないことが一目で分かる。
これからの国際語というのは、世界のどの民族も少しずつ、公平にそれなりの負担や持ち出しを覚悟する、大岡裁きにある三方一両損の痛み分けで行くべきだというのが私の考えなのです
(同上、p103-107)

前半は「英語崇拝からの脱却」について、後半は「国際的とはみんなが公平に痛みを分かち合うこと」についての説明だ。この二つを実現する道具として鈴木はイングリックを提唱してきたという。エスペラントの発想にきわめてよく似ている。

まことに過激な意見であると思う人もいるかもしれない。だが本当にそうだろうか。この鈴木の主張はKachruの主張と何も変らない。イングリックとはようするにEILのひとつなのだ。この本が出版されたのが2001年で、その時点で鈴木はイングリックを20年も提唱しているのだから、1980年代初頭から言い続けていることになる。当時はまだ鈴木の主張をまともに理解できる人は日本にほとんどいなかったと考えられる。しかしその後、1984年には前述のQuirkとKachruの論争があり、そしてWorld Englishesの国際学会もできた。世界は鈴木の提唱した方向へと歩み出したのだ。

ところが日本では、その後も英語教育ではあいかわらずコミュニカティブ・アプローチが跋扈し、英語関係者のなかのネイティブ崇拝も収まる気配がない。そのうちに教育には単なる素人である英語ネイティブたちを中学校や高校の教育現場に入れ込んだかと思うと、今度は日本語もまだよくできない小学生たちに、英語がまったくわからない小学校の先生たちが英語を教えるのだという。じつに愚かしい教育機会の使い方としかいいようがない。

日本人のめざすべき英語

鈴木の「イングリック」にはたしかに一理ある。だがそれが現実的かというと、全面的には賛成しかねる。たとえばイングリックのルールのひとつに「英語の不規則な変化(動詞や名詞など)を無視する」というものがある。たしかにgo-went-goneの変化に意味はない。いわば英語の盲腸のようなものだ。go-goed-goedのほうが合理的ではある。しかしそれは理想として正しいのかも知れないが、現実としてはHe goed to the park.という表現を実際のビジネス交渉の場などで使うのはやはり無理筋だ。理想を忘れた現実主義は軽蔑すべきだが、現実を見ない理想主義も役には立たない。理想を忘れない現実主義者でいたいと思う。

では日本人はどのような英語を目指すべきなのだろうか。まずそれはInner Circleの人々が使うENLでは決してない。またOuter Circleの人々が使うESLでもないはずだ。私たちは目指す英語はExpanding Circleの人々が使うEILの一種であるべきである。私たちはExpanding Circleに属する人間だからである。

あまりにも当たり前の話なのだが、このまっとうな理屈がいまの日本では通らない。そして習得が絶対に不可能であるENLを目指して、その副作用としてネイティブ信仰に陥ってみたり、あるいは、日本人がシンガポールや香港といったESLの人々よりも英語ができないなどといって嘆いてみたりすることになる。

では日本人が目指すべきEILとは、どのようなEILであるべきか。じつは、そのかたちをここまでかけて詳細に説明してきたつもりである。

まず発音については、日本人アクセントのある英語発音を目指すべきである。ネイティブの発音を目指してはいけないし、もちろんカタカナ発音でもいけない。イントネーションやストレスといった全体の流れを重視して、個々の音についてはあまりこだわらなくてよい。

センテンスの構造については、18世紀に英国でつくられた伝統文法に縛られる必要はない。その多くが役に立たないフィクションにすぎないからだ。重要なポイントはおさえておきつつも、瑣末な部分については無視すればよい。

テキストの構造については、ClarityとLogicを重視したい。Clarityとは「わかりやすさ」、Logicは「合理性」のことである。このふたつを備えていれば世界中の誰にも理解できる文章となるからである。たしかに面白みや優美さには欠けるかも知れない。しかしEILとしての英語にそこまで望むのは無理でありかつ危険である。名文を書きたいという発想を捨てて、わかりやすく合理的な英文を書いたり話したりするようにしたいものである。そのためのモデルとなるのが、アカデミック・ライティングである。あのようなテキストを書き、スピーチを行なるようになることが、日本人の英語に求められているのだ。

最後に文体であるが、洗練文語体を目指してはいけない。私たちがめざずのはあくまで一般口語体/文語体である。わかりやすく合理的な文体である。いまはENLの世界でも英語は平明化の方向へと進んでいる。そのなかで私たちのようなノンネイティブがStrunk Jr.もどきの洗練さを目指すことには意味がない 。ラテン系の大仰な語彙や英米の文化的背景を持つ語彙はなるべく使わず、わかりやすく知的な文章を書いたり話したりすればよい。

わかりやすく、シンプルで、英米の文化背景を持たず、論理的で、知的――これが私の考える日本人の理想の英語のすがたである。こうした条件を兼ねそなえたとき、私はそれを最良の日本人英語と呼びたいと思う。

☆☆☆

N:さて、これでこの講義はすべて終わりです。いかがでしたか。
A:わかりやすく、シンプルで、英米の文化背景を持たず、論理的で、知的な英語が日本人にとっての最良の英語だという先生のご意見、わたしとしてはナットクです。そういう英語を話したり書いたりできるようになりたいです。でもそのためには、もっともっと勉強しなくちゃならないですね。頑張ります。
N:どうか、頑張ってください。でも、あまり頑張りすぎないように。英語の勉強は、長い長い山登りのようなものです。何十年と続けていかなければなりません。一時にあまりに張り切りすぎると、あとが続かなくなります。疲れはてたり意欲が萎えてきたときには、おもいきって勉強を中断すればいいと思います。そして体力と気力が戻ってきたら、またチャレンジすればよいのです。勉強を中断すると、たしかに一時的には英語力に少しさびがつきますが、そんなさびは勉強を再開すればすぐに落とせます。あせらず一歩一歩、山に登っていってください。もっとも大事なことは、英語を勉強するのではなく、英語で勉強することです。自分の専門分野をつくってください。いわゆる「英語バカ」になってはいけません。もちろん、その専門分野が英文学や英語学でもよいのですが、普通の日本人にとっては、これらの分野は本当に特殊な領域なのです。なにしろ、アメリカで日本語を勉強しているアメリカ人が芭蕉の俳句の研究をするようなものですから。できれば、言語関連以外の専門分野を別に持つことができればよいですね。
A:でも、いまのわたしには専門と呼べるようなものはなにもありません。自信、なくすなあ。
N:専門分野というのは、いつからでも身につきます。わたし自身、経済を自分の専門分野にしようと本気で思ったのは40才を超えてからのことです。もしいま専門分野がなければ、これから見つければよいのです。それに専門分野といっても、なにも経済とかコンピュータといったものでなくてもよい。料理だってファッションだってダンスだって立派な専門分野です。自分にあった、自分の好きな分野にチャレンジしてみてはいかがですか。それが自分の人生を豊かにすることにもつながると思います。
A:なんだか、今日の先生、やけにマジメですね。
N:まあ、最後ですからね。ちょっとは、ね。でも、とにかくこれで終わりです。どうもありがとうございました。
A:先生、どうもありがとうございました。

XI. 教材と学習方法

教材

英語のテキスト教材について具体的に言及することはむずかしい。それぞれの専門分野によって読むべき本はまったく異なるからだ。ただいくつかアドバイスをするとすれば、なによりも自分がおもしろいと思える内容の本を選ぶこと、とにかく大量に読むこと、そしてレベル的には少しやさしすぎると感じるレベルがじつは適切であるということだ。

まず内容だが、なによりも自分がおもしろいと思える本を選ぶようにすべきである。おもしろいと思える本は集中して読めるので記憶にも残る。だが、たとえ良書といわれていても自分でおもしろくないと思うものは、集中がつづかず、結局は記憶にも残らない。勉強のための勉強は結局のところ身につかないということだ。

つぎに大事なことは、とにかく大量に読むことである。私がよくいうのは、英語の本を月に10冊以上は読んでほしいということだ。これをいうとほとんどの人が、そんなことはとてもできないという表情をする。だがそんなことはない。ようするに読みとばせばよいのである。おもしろそうな短編ミステリーをふと買って2、3時間でぺらぺらと読みとばす、そんな感じのことを英語ですればよいだけである。ネイティブもそうやって大量の本を読みとばしている。日本人は英語に触れている時間が圧倒的に少ないのだから、なんとしてもその壁を破る必要がある。それには読みとばしの多読が一番である。

そのためには、「やさしい」本を選ぶ必要がある。1ページに5つも6つも知らない単語が出てくるようでは、読みとばしはできない。どのページをみてもほぼすべての表現を知っていて、ときどき知らないものがほんの少し混じっているというレベルがよい。日本語の読書もじつはこのレベルで読んでいる。自分のレベルでは一般の英語の本ではこうはいかないというのであれば、語彙レベルを限定したグレードリーダーがたくさん出ているのでそれを読めばよい。最初は簡単なものをたくさん読む――これが語学学習の基本のひとつである。そこを通り抜けてから、それぞれの専門書へとすすんでいけばよい。

学習方法

英語の学習というと、第一に英米への留学が考えられるだろうが、英語を学ぶために留学するということだけはやめたほうがよい 。留学とは自分の専門知識をさらに深めるためにするものである。その意味では、大学院レベル以上の段階で医学を学びにいくとか法学を学びにいくというのがベストだ。そのためにはまず日本で英語をしっかりと勉強していく必要がある。

英会話学校も一般的にはお勧めできない(少数の例外もあるが)。なによりも知的レベルが低すぎる。英語の勉強の場というよりはお楽しみの場として活用すべきである。

独学については、現在の日本はきわめて環境が整っている。音声教材、書物ともによいものがふんだんに手に入る。これで英語が上達しなければ、学習者のほうに責任があるといっても決していいすぎではない。いまの日本なら英語はひとりでも十分にマスターできるのだ。

最後にいいたいのは、あきらめないことである。外国語を身につけるのというのは、とにかく時間と手間がかかるものなのだ。だが同時に、外国語を身につけることに特別の才能はいらない。時間がかかることをまず覚悟して、しかしいつかは身につくことを確信しながら、一歩一歩、勉強を積み重ねていってもらいたい。

おわりに

聴解/会話よりも読解/作文の学習を優先すること。感性的な学習よりも知的な学習を優先すること。ネイティブ信仰をやめて日本人としての英語を学習すること。これがこの「新しい英語の学び方」で一貫して主張してきたことである。

読解/作文の学習の優先については『世界は英語をどう使っているか』(竹下裕子・石川卓 編著、新曜社)のなかで岡本浩一 が次のように述べている。

読み書きの優位
「英会話ができなければ英語が読めても仕方がない」というような誤解が教育界の風潮のようになり、その結果、そのような感覚を持っている日本人も増えている。しかし、これは間違いである。
日本はここ120~130年、西洋に追いつく努力をしてきた。その過程で膨大な外国語資料を咀嚼してきたのは読解を通じてである。話せなければ役に立たないという認識はその意味で間違っている。
昔、東大の英文学の有名教授がロンドンへ行ったら、たばこ1本買えなかったという話が日本の英語教育の貧困を示す一種の笑い話としてよく用いられた。筆者は、この逸話が笑い話として用いられたことこそが日本の英語教育認識の貧困を示していると考えている。そもそも、この話は曲解に基づいている。この教授はシェークスピアについてはイギリスの研究者をしのぐ研究を世に問うたことで有名な人で、英語でたばこを買えなかったことがその人の研究者としての価値を減じるものではない。彼の世代の人は会話が必要な環境もなければ、会話を学ぶ環境もなかっただけのことなのである。そのような環境の中でさえ、シェークスピア研究に刻苦勉励がなされたこと、その結果、英米人にも高く評価される研究がなされたことを本来特筆するべきなのである。
学生や後輩が留学することになったといってくると、筆者は必ずあるアドバイスをする。それは、会話の心配をせず、たくさん単語を詰め込んでおきなさいというものである。滞在が始まれば否が応でも話すのだから、会話には存外早く慣れることができる。そのときに単語が豊富に使えれば、積極的に用いてみることでその単語の記憶が強く固定される。そのことで、自分の英語のアクティブな部分が強くなる。
留学した人を見ると、会話は比較的短期間で一定水準に達する。上手下手の差があまり目立たなくなる印象を持つことが多い。ところが、専門、非専門で深い内容のものをきちんと読み、きちんと理解する、あるいは自分が深く考えたものをその深さがわかるようにきちんと文章で表現するということの個人差はなかなか縮まらない。書きことばの習得の方が、話しことばの習得よりよほど難しいのである。
文字情報には強制力がある。契約がその顕著な例である。インターネットによって英文による契約が身近なものになった。正確な読み書きができなければ、自分が結ぼうとしている契約の細部に潜む危険が検出できず、大きなトラブルに巻き込まれる可能性もある。インターネット時代になり、外国が身近になったことによって、実は、読み書きの必要性の方が会話よりも高くなっているはずなのである。
『世界は英語をどう使っているか』p.171-172

「書きことばの習得の方が、話しことばの習得よりよほど難しいのである」。「インターネット時代になり、外国が身近になったことによって、実は、読み書きの必要性の方が会話よりも高くなっているはずなのである」。この2つの事実だけでも聴解/会話よりも読解/作文の学習を優先することの意義をわかっていただけるかと思う。そして同時に、それが簡単なものではないことも。

最後に、ぜひいっておきたいことがある。ここまで英語の学び方について話をしてきた。そして聴解/会話よりも読解/作文の学習を優先するべきだといってきた。こうしたことが、木でいえば幹の部分にあたるとすれば、その下にはそれを支える根の部分があるはずである。

なぜ英語を学ぶのか。たしかに英語を学ぶことに現世的な側面があることは否定できない。英語ができなければ個人としても日本社会としても幸せになりにくい時代がやってきているからだ。しかしそうした現世的な側面とは別に、英語を学ぶことにはもっと深い意味がある。それは「人間と社会をよく知る」ということである。

私は30年以上、英語を勉強してきた。だがこんなに長く勉強してきてもネイティブのように英語を話したり書けたりできるわけではない。しょせん外国人の英語にすぎないのだ。若い時分には、ひょっとして大切な人生を無駄にしているのではと思ったこともある。これほどの時間をもっと別の有意義なことにかけていれば、もっとよい人生になったのでは、などとも思ったものである。

だがここ数年、これはこれでひとつの道だったのかもしれないと思うようになってきた。たしかにずぬけた特技が身についたわけではない。社会的に認められた資挌が手に入ったわけでもない。だが英語を勉強してきたおかげで、日本語だけでものを考えたり本を読んだりしているよりも人間や社会というものが少しは深くわかるようになってきたような気がする。もし英語を勉強してこなかったとすれば、私は今よりもかなり狭い視野でものごとを考えていたのではないだろうか。その意味で、英語をそれなりに勉強してきた30年間というものは無駄ではなかったと思っている。

実際には英語の学び方にはいろいろなアプローチがあることだろう。ここでは読解/作文を特に推しているが、これがすべてというわけではもちろんない。コミュニカティブ・アプローチのことをかなり辛らつに批判したが、しかし言葉を学ぶことの原点が人間同士のコミュニケーションにあることは間違いない。私たちの最終的な目標は言葉を理解することにあるのではなく、人間の心を理解することにあるのだから。

そうしたことを踏まえながら、皆さんには英語をぜひ学びつづけていただき、そして人間と社会について、もっと広くそして深く知ってもらいたいと思う。そしてこの文章がその一助になってくれることを心より願いたい。

<リーディング実践編>

はじめに

英語を英語のまま読む。英語を読むコツはこれに尽きる。英語の語彙は英語の語彙のまま、英語の語順は英語の語順のまま、英語の発音は英語の発音のまま、そのまま読むのだ。ようするに日本語を読むときと同じように、英語をそのまま読めばよい。それができなければ、英語を読んだことにはならない。

だが、言うは易し行うは難し。日本で生まれ、日本で育ち、日本で英語教育を受けた私たちには、英語を日本語を通じて読むクセが骨の髄まで染みついている。英語の語彙を日本語の語彙として、英語の語順を日本を語順として、英語の発音を日本語の発音として読んでしまうのだ。Weは「私たち」、mustは「ねばならない」、readは「読む」、asは「として/ので」であり、We must read English as English.とは「私たちは英語を英語として読まねばならない」であり、そしてその発音は「ウィマストリードイングシッシュアズイングリッシュ」なのである。

日本人の体に染みついたこの悪弊を払拭するための具体的方法を解説し、そのためのトレーニング内容を示すこと。それが本エクササイズブックの目標である。本書の解説をよく読み、そのトレーニング内容を実際にしっかりと行えば、誰にでも英語を英語として読むための第一歩が踏み出せるはずである。

なお本書は『新しい英語の学び方――英語学習は読み書きから』の付属エクササイズブックである。本書の前に上記書をまず読み、ここでの訓練の基盤となる考え方を理解していただきたい。

I.「読む」準備

読む際の注意点あれこれ

まず、以下のテキストを読んでいただきたい。読書論の古典中の古典、How to RedABook (Mortimer J. Adler & Charles Van Doren, Simon & Schuster)からの抜粋である。その際、次の注意点をかならず守ってもらいたい。

時間をはかること
辞書を使わないこと
訳さないこと
かえり読みをしないこと
全部わかろうとしないこと
わからない単語はマルでかこむこと
重要と思ったところに下線をひくこと

では、はじめよう。

The Activity and Art of Reading

This is a book for readers and for those who wish to become readers. Particularly, it is for those whose main purpose in reading books is to gain increased understanding.
By “readers” we mean people who are still accustomed, as almost every literate and intelligent person used to be, to gain a large share of their information about and their understanding of the world from the written world. Not all of it, of course; even in the days before radio and television, a certain amount of information and understanding was acquired through spoken words and through observation. But for intelligent and curious people that was never enough. They knew that they had to read too, and they did read.
There is some feeling nowadays that reading is not as necessary as it once was. Radio and especially television have taken over many of the functions once served by print, just as photography has taken over functions once served by painting and other graphic arts. Admittedly, television serves some of these functions extremely well; the visual communication of news events, for example, has enormous impact. The ability of radio to give us information while we are engaged in doing other things—for instance, driving a car—is remarkable, and a great saving of time. But it may be seriously questioned whether the advent of modern communications media has much enhanced our understanding of the world in which we live.
Perhaps we know more about the world than we used to, and insofar as knowledge is prerequisite to understanding, that is all to the good. But knowledge is not as much a prerequisite to understanding as is commonly supposed. We do not have to know everything about something in order to understand it; too many facts are often as much of an obstacle to understanding as too few. There is a sense in which we moderns are inundated with facts to the detriment of understanding.
One of the reasons for this situation is that the very media we have mentioned are so designed as to make thinking seem unnecessary (though this is only an appearance). The packaging of intellectual positions and views is one of the most active enterprises of some of the best minds of our day. The viewer of television, the listener to radio, the reader of magazines, is presented with a whole complex of elements—all the way from ingenious rhetoric to carefully selected data and statistics—to make it easy for him to “make up his own mind” with the minimum of difficulty and effort. But the packaging is often done so effectively that the viewer, listener, or reader does not make up his own mind at all. Instead, he inserts a packaged opinion into his mind, somewhat like inserting a cassette into a cassette player. He then pushes a button and “play back” the opinion whenever it seems appropriate to do so. He has performed acceptably without having had to think.

Active reading
As we said at the beginning, we will be principally concerned in these pages with the development of skill in reading books; but the rules of reading that, if followed and practiced, develop such skill can be applied also to printed materials in general, to any type of reading matter—to newspapers, magazines, pamphlets, articles, tracts, even advertisements.
Since reading of any sort is an activity, all reading must to some degree be active. Completely passive reading is impossible; we cannot read with out eyes immobilized and our minds asleep. Hence when we contrast active with passive reading, our purpose is, first, to call attention to the fact that reading can be more or less active, and second, to point out that the more active the reading the better. One reader is better than another in proportion as he is capable of a greater range of activity in reading and exerts more effort. He is better if he demands more of himself and of the text before him.
Though, strictly speaking, there can be no absolutely passive reading, many people think that, as compared with writing and speaking, which are obviously active undertakings, reading and listening are entirely passive. The writer or speaker must put out some effort, but no work need be done by the reader or listener. Reading and listening are thought of as receiving communication from someone who is actively engaged in giving or sending it. The mistake here is to suppose that receiving communication is like receiving a blow or a legacy or a judgment from the court. On the contrary, the reader or listener is much more like the catcher in a game of baseball.
Catching the ball is just as much an activity as pitching or hitting it. The pitcher or batter is the sender in the sense that his activity initiates the motion of the ball. The catcher or fielder is the receiver in the sense that his activity terminates it. Both are active, though the activities are different. If anything is passive, it is tha ball. It is the inert thing that is put in motion or stopped, whereas the players are active, moving to pitch, hit, or catch. The analogy with writing and reading is almost perfect. The thing that is written and read, like the ball, is the passive object common to the two activities that begin and terminate the process.
We can talk this analogy a step further. The art of catching is the skill of catching every kind of pitch—fast ball and curves, changeups and knucklers. Similarly, the art of reading is the skill of catching every sort of communication as well as possible.
It is noteworthy that the pitcher and catcher are successful only to the extent that they cooperate. The relation of writer and reader is similar. The writer isn’t trying not to be caught, although it sometimes seems so. Successful communication occurs in any case where what the writer wanted to have received finds its way into the reader’s possession. The writer’s skill and the reader’s skill converge upon a common end.
Admittedly, writers vary, just as pitchers do. Some writers have excellent “control”; they know exactly what they want to convey, and they convey it precisely and accurately. Other things being equal, they are easier to “catch” than a “wild” writer without “control.”
There is one respect in which the analogy breaks down. The ball is a simple unit. It is either completely caught or not. A piece of writing, however, is a complex abject. It can be receiver more or less completely, all the way from very little of what the writer intended to the whole of it. The amount the reader “catches” will usually depend on the amount of activity he puts into the process, as well as upon the skill with which he executes the different mental acts involved.
What does active reading entail? We will return to this question many times in this book. For the moment, it suffices to say that, given the same thing to read, one person reads it better than another, first, by reading it more actively, and second, by performing each of the acts involved more skillfully. These two things are related. Reading is a complex activity, just as writing is. It consists of a large number of separate acts, all of which must be performed in a good reading. The person who can perform more of them is better able to read.
(1,251 words)

つづいて以下の問いに答えていただきたい。

時間はどのくらいかかったか

その時間が、現在あなたの持っている、このテキストにおけるリーディングスピードである。リーディングスピードはテキストの種類や難易度によって大きく異なる。内容も表現もやさしいテキストならかなり速く読むことができるが、内容も表現も難解なテキストをスラスラと読むことなどとてもできない。ここで計っているリーディングスピードとは、あくまでこのレベルのテキストに関するものである。そしてこのレベルのテキストつまり私たちの知的興味に十分に応えうる内容と表現を持つテキストこそ、私たちのターゲットとするテキストである。

さて私の場合だが、このテキストのリーディングスピードは7~8分程度である。全部で約1250ワードのテキストだから1分あたり156~178ワードということになる。教養あるネイティブならこの倍はいく。つまり1分あたり300~400ワードというところである。ところでこのテキストを翻訳した日本語文を読むスピードは私の場合で3分30秒程度。つまり日本語のほうが英語よりも倍のリーディングスピードがある。30年も英語の勉強をしてきて、このざまである。日本人が英語を読むということが、いかに難しくフラストレーションのたまる行為か、ということである。

そうしたなかで、私たちの最終目標は、教養あるネイティブレベルつまりこの種類のテキストを読む際に1分あたり300ワード程度のリーディングスピードを確保することにある。本トレーニングはその最終目標に向けての第一歩である。

わからない単語はどのくらいあったか

ひとことで「わからない」といっても、まったくみたこともきいたこともないというレベルから、何回かみたりきいたりしたことはあるのだが意味が出てこないというレベルまで、いろいろとある。あるいは、よく知っている単語のはずなのだが、ここに出てくる使い方での意味はどうもよくわからないというケースもある。
ここでは、そうしたさまざまなケースをすべてひっくるめて「わからない単語」ということにしておく。そのうえで、わからない単語が10個、つまり全体の約1パーセントあれば、このテキストを読むことは、かなりむずかしい。ずいぶんきびしい基準だと思った方もいるかもしれない。しかし考えてみてほしい。日本語の文章を読む際に、100語に1語、わからない単語が出てきたとすると、はたしてちゃんと読むことができるだろうか。

英語の最難関は、なんといっても語彙である。英語は歴史的な経緯から語彙が異様なまでに膨らんでしまった言語である。そのため英語使用者は膨大な数の単語を覚えなければならず、さらに無用とも思える単語の使い分けを強いられるはめになる。ネイティブにとってもやっかいなことだろうが、ノンネイティブの我々にとってはそれに輪をかけてやっかいである。なにしろ覚えなければならな語彙数が膨大なのだ。まったくいやになる。

しかし英語テキストをちゃんと読むためには、この語彙力という難関をクリアする以外に道はない。語彙力の増強は毎日の積み重ねである。英語のテキストをたくさん読み、英英辞書やインターネットで意味を汲み取り、ボキャビルのトレーニング本などでこつこつと訓練を重ねる。そうして少しずつ語彙力を身につけていく。10年ぐらいするとかなりの語彙力が身につくはずである。と、書いているだけで、まったくいやになる。一日で単語を1000個覚えられる薬を誰か発明してくれないだろうか。

どのくらい理解できたか

わからない語彙が一つでもあればそれだけで100パーセントの理解はむずかしい。構文などで不明な点があればさらに理解は落ちる。内容把握がむずかしければますます理解度は減る。ということで基本的に100パーセントの理解は不可能と考えたほうがよい。

ところが日本人は真面目なものだから(融通が利かないものだから)、英文テキストというものは100パーセント理解できなければいけないと思い込んでいる人が意外と多い。そして理解が100パーセントに届かないといって落ち込んだりする。かくいう私がそうである。

そうした完璧主義は益よりも害のほうが大きい。もし自分自身で英文テキストの理解度が6割から7割であると思えるのなら、それで十分である。8割などと感じるならば、それは大成功である。逆に9割、10割と感じるようなら、それは問題だ。自分で自分がわかっていないということだからである。

「ここまでしかわからなかった」ではなく「ここまでわかった」と考えようではないか、ご同輩。

返り読みはしなかったか

返り読みをしてしまうのは、ようするにセンテンスの構造がわからなくなるから、つまり「文法」の力不足こそが問題なのだと思っている人はずいぶんと多い。だがこの考え方は――文法という用語を現在のように学校英文法とほぼ同義に使うとすれば――本質をはずしている。学校文法の知識量と返り読みの頻度には相関性はない。いくら英文法に通暁していたとしても、それだけで返り読みがなくなるわけではない。学校文法とは分析のための道具であり、実践のための道具ではない。ちまたでときとして見かける英文法「オタク」になってはいけない。

返り読みをしてしまう最大の要因は「予測」力の不足である。つぎにどんな情報がくるのか、それが「読めない」から返り読みをしなければならなくなるのである。

この英文のなかで使われているピッチャーとキャッチャーの比喩を使うとすれば、リーディングにおける返り読みとは、野球におけるキャッチャーのファンブルである。キャッチャーたる読者は、ピッチャーたる作者がつぎつぎと投げこんでくるボールつまりセンテンスを確実にキャッチしていかなければならない。ところがこのバッテリーにあいだには、サインがない。だからピッチャーは、勝手にさまざまなボールを投げ込んでくる。内角、外角、高め、低め、ストレート、カーブ、シュート、スライダー、フォークボール、ナックル……。キャッチャーはそれらのボールを事前に予測し、ボールがピッチャーの手を離れた瞬間に手元にくるコースを予測し、途中の球筋から直球か変化球を予測し、そして手元にきたボールをキャッチする。もしキャッチャーが何も考えないで座っていれば、少なくともプロのピッチャーのボールは絶対に受けることはできない。松坂や藤川のボールは、絶対に捕れない。

同様に、プロの書き手はさまざまなパターンのセンテンスを書いてくる。英語は本質的に配置の言語なのだが、その配置を変えてしまったりする。SVOのOSVの配置にすることもあれば、VOのあいだに長い長い前置詞句を平気で挿入したりすることもある。こういうセンテンスは、野球でいえば野茂のフォークボールのようなものである。慣れないキャッチャーつまり読者ならば簡単にファンブルしてしまう。

では、プロのキャッチャーはなぜそうしたプロのボールをキャッチできるのか。彼らにはアマチュアとは比較にならない予測力があるからである。では、そうした予測力はどうやって身についたのか。それは、確かな技術(これが私のいう「文法」である)の習得と、そしてさまざまなプロのピッチャーが投げるさまざまなボールを数多く受けることによって得た経験である。そうした数多くの技術と経験を積まないかぎり、プロのピッチャーのボールは捕れない。返り読みというファンブルを避けるには、本当の意味での文法の技術と、そしてひと癖もふた癖もある一流のテキストを数多く読むという豊かな読書経験が必要だということである。

返り読みを減らすための具体的な方策としては、返り読みをしてしまったところを徹底的に分析するという方法がある。なぜ正しい予測ができなかったのか。前にあるはずの何かのサインを見落としていたのか。自分がこれまでに知らない配置方法などが使われているのか。あるいは単なる集中力不足か。などなど、その原因を徹底的にさぐり、二度と同じミスをしないようにする。これを繰り返していけば、返り読みという名のファンブルは確実に減っていくだろう。

訳さなかったか

英文和訳の害毒については皆さんすでに十分に認識していることだろうが、それでもセンテンスの構造がわからなくなると、つい訳してしまうくせが抜けないという人も数多い。

もう一度確認しておきたいが、英語のテキストを読んでいるときに頭のなかに日本語が少しでも混じると、それですべてが台無しである。ちょっとぐらいなら、などと思ってはいけない。私たちの思考に対する母語の干渉力はそれほど甘いものではないのだ。英語の世界に100パーセント没入しないかぎり英語を英語として読むことなどとてもできない。99パーセントは0パーセントと同じという気持ちを忘れないことだ。

重要と思うところ下線は引けたか

ちゃんと引けたならば、ここでいうところの“Active Reading”ができていることになる。
読むという行為をテキストのなかにある意味を「受けとる」ことだと考えるのは間違いだと私は考えている。読むとは、目の前のテキストを素材として、あらたに自分で意味を「つくりだしていく」行為だというのが私の意見である。この点で私は、上のテキストよりもさらに読むことをアクティブなものと捉えていることになる。

いずれにしろ読むという行為は、きわめて能動的な知的活動でなければならない。このセンテンスは何をいいたいのか、前のセンテンスとの関係はどうなのか、テキスト全体にとってどういう意味を持つのか、その内容はどの程度正しいのか、表面的な意味だけではなく裏に隠された意味があるのではないか……など、あらゆるポイントに目を配りながら、頭をフル回転させていく。これが読むということである。

そしてその一つの身体的行為が、重要な部分に下線を引くという行為である。もちろん実際には下線でなくともかまわない。チェック印や星印をつけたり、メモするという手もある。大事なことは、テキストを読みながら頭をフル回転させている「しるし」を残していくことにある。こうした印をつけることで、頭の回転がさらに強化され、また二読、三読の際のよき先導役ともなる。

つぎに、この英文テキストの日本語訳を読んでみよう。『本を読む本』(M・J・アドラー、C・V・ドーレン、外山滋比古、槙未知子 訳、講談社学術文庫)の最初の部分(pp.16-18)である。版が違うので、最後のパラグラフの訳がないなど、完全には一致しないが、ほぼ同じと考えてよい。英文のときと同じく、時間を計り、下線を引きながら読んでみてほしい。その際の時間が、あなたの日本語のリーディング持ち時間であり、下線部があなたの積極的な読書の印である。

読書技術と積極性

これは「本を読む人」のための本である。「これから本を読みたい人」のための本でもある。つまり、「読む」ことによって知識を得、理解を深め、すぐれた読書家になりたいと思う人のために書かれた本である。
ここに読書家というのは、情報や知識を主として活字によって得る習慣のある人のことである。ラジオ、テレビの発達したマス・メディア時代の今日であるが、このような習慣のある人たちこそ、本当の読書家と呼ぶにふさわしい。
昔のインテリはたいてい、この意味で読書家だった。むろん、何もかも読書から得たというわけではなく、テレビやラジオのなかった時代でも、実際の見聞を通して得られる知識や情報もある程度はあった。だが、それだけでは知的好奇心を満足させることのできない人々もいた。インテリは読書が必要であることを知っていたし、また事実、よく本を読んだものである。
ところで読書は、最近、昔ほど重視されないようだ。ラジオ、とくにテレビは、かつて活字が果たしていた機能を肩代わりしようとしている。テレビのニュースは目に訴えるし、ラジオは仕事をしながらも聞けて便利である。しかし、これらの新しいマス・メディアは、私たちが物事を深く理解するという点で、はたして本当に役に立っているかといえば、大いに疑問である。
いまの私たちは、世界について昔よりも多くを知ることができるようになっている。それは恵まれている。深く理解するために、多く知ることが絶対に必要であるなら、それも結構だろう。だが一から十まで知らなくても物事を理解することはできる。情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の正しい姿が見えなくなってしまっている。
こういうことになったのはなぜか。--理由のひとつは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくもよいような仕掛けにできていることである。現代の頭脳はその粋(すい)を集めて、情報や意見の知的パッケージを作るという大発明をなしとげた。この知的パッケージを、私たちは、テレビ、ラジオ、雑誌から受けとっている。そこには気のきいた言い回し、選び抜かれた統計、資料などがすべて整えられていて、私たちはいながらにして「自分の判断を下す」ことができる。だがこの知的パッケージがよくできすぎていて、自分の判断を下す手間まで省いてくれるので、読者や視聴者はまったく頭を使わなくてもすんでしまう。カセットをプレーヤーにセットする要領で、知的パッケージを自分の頭にポンと投げこめば、あとは必要に応じてボタンを押して再生すればよい。考える必要はなくなったのである。

積極的読書
読書技術をみがいてすぐれた読書家になるための方法、規則について、以下に述べていくことにしたい。それらの規則は活字になったものすべてにあてはめることができる。本だけではなく、新聞、雑誌、パンフレット、論文、広告文も例外ではない。
「読む」という行為には、いついかなる場合でも、ある程度、積極性が必要である。完全に受け身の読書などありえない。読むということは、程度の差こそあれ、ともかく積極的な行為だが、積極性の高い読書ほど、良い読書だということをとくに指摘しておきたい。読書活動が複雑で多岐にわたり、読書に払う努力が大きければ大きいほど、良い読み手である。自分自身と書物に対し意欲的であればあるほど、よい読み手と言える。
書くこと、話すことは積極的な活動だが、読むこと、聞くことはまったく受動的だと思っている人が少なくない。書き手や話し手は努力しなければならないが、読み手や聞き手は何もしなくてもよいと思われている。相手から積極的に送られてくる情報をただ受けとればよいと考えるところが、まちがいである。情報を受けとるということは、遺産がころがりこんだり、判決が言い渡されるのとは、わけが違う。読み手や聞き手は、むしろ野球のキャッチャーに似た役割をもっている。
ボールをキャッチするということも、投げたり打ったりするのと同様、りっぱに一つの行為である。ボールに動きを与えるピッチャーや打者は「送り手」であり、その動きを受けとめるキャッチャーや野手は「受け手」である。だが、どちらも積極的な活動であることに変わりはない。もし、しいて受け身のものがあるとしたら、それはボールである。ボールは、自分以外の誰かによって投げられ、キャッチされ、打たれる。自分で動くことはできない。投げること、キャッチすることは積極的な動きである。同じように、書くこと、読むことも、自らが動くことである。この場合の本や記事が、ちょうど受け身のボールにあたり、書き手はボールに動きを与え、読み手はその動きを止めるはたらきをする。
この比喩をもう一歩進めてみると、ボールをキャッチするためには、速球だろうと変化球だろうと、巧みに捕らえる技術が必要だ。これと同じで「読む」場合も、あらゆる種類の情報をできるだけ巧みに捕らえられる技術がなければならない。
ピッチャーとキャッチャーはぴったり息が合っていなくてはうまくいかないが、書き手と読み手の関係も同じである。書き手の伝えたいと思っていたことが、読み手のミットにすっぽりとおさまったとき、はじめてコミュニケーションが成立する。熟練した書き手と熟練した読み手の呼吸なら、ぴったり合うのである。
一口に書き手といってさまざまである。コントロールの見事な書き手なら、伝えるべき内容がよくわかっていて、相手に確実にそれを伝えることができる。暴投する書き手よりも、こういう書き手の方が読者としてキャッチしやすいにきまっている。
ここで一つだけ、この野球の比喩があてはまらない点がある。ボールは単一の物体である。だから完全にキャッチできるか、できないかというだけだが、本はボールのように単純な物体ではないから、「キャッチする」といっても、その受けとめかたはさまざまである。書き手の意図がほんのわずかしか理解できない読み手もいれば、完全に理解する読み手もいる。どの程度うまくキャッチできるか? それは読み手の積極性と熟練度によってきまるであろう。(2517字)

(『本を読む本』M・J・アドラー、C・V・ドーレン、
外山滋比古、槙未知子 訳、講談社学術文庫、pp.16-18)

☆☆☆

実践演習

問題1

以下の各テキストを、上と同様に以下の点に注意して読んでください。

時間をはかること
辞書を使わないこと
訳さないこと
かえり読みをしないこと
全部わかろうとしないこと
わからない単語はマルでかこむこと
重要と思ったところに下線をひくこと

[A]
Failing Zimbabwe

The brutality with which Robert Mugabe stole Zimbabwe’s elections last month embarrassed even his usual friends, allies and enablers. Unfortunately, it has not embarrassed them enough. Unless Russia, China and South Africa can be shamed into bringing real pressure against Mr. Mugabe and his henchmen, quickly, he will settle in for another term of disastrous misrule.
Talks now likely to begin in South Africa this week between Mr. Mugabe’s party and that of Morgan Tsvangirai, the first-round election winner, may be the best way to prevent that, provided they, unlike past efforts, are not conducted on the dictator’s chosen terms.
It’s a promising sign that other African leaders have persuaded South Africa’s president, Thabo Mbeki, Mr. Mugabe’s chief international enabler, to bring additional, more impartial members onto his mediation team.
Success is far from certain. Sustained international pressure will be needed to assure an acceptable outcome – either an internationally supervised rerun of the election or a negotiated transition leading to Mr. Mugabe’s swift departure and Mr. Tsvangirai’s inauguration.
Mr. Mugabe is a master at fanning racial resentments and blaming the West for his many failures. African leaders, who have been far too tolerant of Mr. Mugabe for far too long, will now have to press both Mr. Mugabe and Mr. Mbeki for a fair and swift resolution.
The Bush administration must also keep pushing for action in the Security Council. Most Council members voted for an American-drafted resolution that would have imposed an arms embargo and tough sanctions against Mr. Mugabe’s top henchmen, only to see Moscow and Beijing cast completely unjustified vetoes.
It should press ahead with its own escalating bilateral penalties, encouraging others (in Europe, Africa and elsewhere) to do the same.
And, if the South African talks fail, it should encourage all countries to recognize Mr. Tsvangirai as head of a legitimate government in exile.
President Bush went out of his way at the Group of Eight summit meetings to praise Russia’s new president, Dmitri Medvedev, and has granted China one of its fondest wishes by agreeing to attend the opening ceremony of the Beijing Olympics. Russia and China still vetoed the American-backed resolution aimed at prying Mr. Mugabe’s most essential collaborators away from his destructive cause.
One can say that both countries’ willingness to ambush the American administration is just one of the wages of Mr. Bush’s failed foreign policy. But on Zimbabwe Mr. Bush is right, and he must keep pressing Russia, China, Europe and Africa to do what is right.
Nearly 30 years ago, the world demanded an end to political terror and the establishment of majority rule in Zimbabwe. Russia, China and South Africa’s then-outlawed African National Congress all played key roles in that fight.
Where are they now when Robert Mugabe has decided to defy the majority rule that first brought him to power and rely on political terror to impose himself as dictator-for-life? If they can’t recognize that they have now shamefully betrayed Zimbabwe’s people, President Bush and the rest of the world need to remind them. (509 words)

(New York Times, Editorial, July 21, 2008)

[B]
Induced pluripotent stem cell

Induced pluripotent stem cells, commonly abbreviated as iPS cells or iPSCs, are a type of pluripotent stem cell artificially derived from a non-pluripotent cell, typically an adult somatic cell, by inducing a “forced” expression of certain genes.
Induced Pluripotent Stem Cells are believed to be identical to natural pluripotent stem cells, such as embryonic stem cells in many respects, such as the expression of certain stem cell genes and proteins, chromatin methylation patterns, doubling time, embryoid body formation, teratoma formation, viable chimera formation, and potency and differentiability, but the full extent of their relation to natural pluripotent stem cells is still being assessed.
IPSCs were first produced in 2006 from mouse cells and in 2007 from human cells. This has been cited as an important advancement in stem cell research, as it may allow researchers to obtain pluripotent stem cells, which are important in research and potentially have therapeutic uses, without the controversial use of embryos.

Production of iPSCs
iPS cells are typically derived by transfection of certain stem cell-associated genes into non-pluripotent cells, such as adult fibroblasts. Transfection is typically achieved through viral vectors, such as retroviruses. Transfected genes include the master transcriptional regulators Oct-3/4 (Pouf51) and Sox2, although it is suggested that other genes enhance the efficiency of induction. After 3-4 weeks, small numbers of transfected cells begin to become morphologically and biochemically similar to pluripotent stem cells, and are typically isolated through morphological selection, doubling time, or through a reporter gene and antibiotic selection.

First generation
Induced pluripotent stem cells were first generated by Shinya Yamanaka’s team at Kyoto University, Japan in 2006. Yamanaka had identified genes that are particularly active in embryonic stem cells, and used retroviruses to transfect mouse fibroblasts with a selection of those genes. Eventually, four key pluripotency genes essential for the production of pluripotent stem cells were isolated; Oct-3/4, SOX2, c-Myc, and Klf4. Cells were isolated by antibiotic selection for Fbx15+ cells. However, this iPS line showed DNA methylation errors compared to original patterns in ESC lines and failed to produce viable chimeras if injected into developing embryos.

Second generation in mice
In June 2007, the same group published a breakthrough study along with two other independent research groups from Harvard, MIT, and the University of California, Los Angeles, showing successful reprogramming of mouse fibroblasts into iPS and even producing viable chimera. These cell lines were also derived from mouse fibroblast by retroviral mediated reactivation of the same four endogenous pluripotent factors, but the researchers now selected a different marker for detection. Instead of Fbx15, they used Nanog which is an important gene in ESCs. DNA methylation patterns and producing viable chimeras (and thereby contributing to subsequent germ-line production) indicated that Nanog is a major determinant of cellular pluripotency.
Unfortunately, one of the four genes used (namely, c-Myc) is oncogenic, and 20% of the chimeric mice developed cancer. In a later study, Yamanaka reported that one can create iPSCs even without c-Myc. The process takes longer and is not as efficient, but the resulting chimeras didn’t develop cancer.

Human induced pluripotent stem cells
In November 2007, a milestone was achieved by creating iPS from adult human cells; two independent research teams’ studies were released – one in Science by James Thomson and colleagues at University of Wisconsin-Madison and another in Cell by Shinya Yamanaka and colleagues at Kyoto University, Japan. With the same principle used earlier in mouse models, Yamanaka had successfully transformed human fibroblasts into pluripotent stem cells using the same four pivotal genes: Oct3/4, Sox2, Klf4, and c-Myc with a retroviral system. Thomson and colleagues used OCT4, SOX2, NANOG, and a different gene LIN28 using a lentiviral system.
The viral transfection systems used insert the genes at random locations in the host’s genome; this is a concern for potential therapeutic applications of these iPSCs, because the created cells might be susceptible to cancer. Members of both teams consider it therefore necessary to develop new delivery methods. (660 words)
(From Wikipedia, the free encyclopedia)

[C]
Vying with Starbucks: A Love-Hate Thing

As Starbucks’ expansion loses steam, independent coffee shops reveal the subtle ways they compete with the coffee powerhouse
by Ricky McRoskey

In July 2004, Kinley Pon was throwing his annual block party at his El Paso (Tex.) coffee shop, Kinley’s House, on the same day that a Starbucks (SBUX) across the street was having its grand opening. Pon, 51, says he had planned the party for months—a day-long event with musicians, belly dancers, and local law enforcement intended both to promote his business and to raise awareness about drunk driving. Pon was surprised when an employee from the new Starbucks store walked across the street and started passing out Starbucks promotional cards to customers—on Pon’s own patio. A spokesperson for Starbucks couldn’t cite a specific policy regarding the distribution of promotions on a competitor’s premises. “They did it for a week,” says Pon. “But I allowed it to occur, because my reasoning was that they were going to pass them out anyways.”
There’s a love-hate relationship between Starbucks and the thousands of independent coffee shop owners in the U.S. For years, the Seattle-based chain has brought coffee drinking into the mainstream and revitalized the business of java, yet its ubiquity has also made survival more difficult for mom-and-pop coffee houses. In 2007, there were roughly 26,300 coffee cafés, kiosks, and carts across the U.S., and about 60% of those were independent, according to Mike Ferguson, the marketing communications director at the Specialty Coffee Association of America. On July 1, Starbucks announced it would be shuttering 600 locations (BusinessWeek.com, 7/1/08). On July 17, it listed the names and locations of the 600 specific stores it was planning to close of its roughly 11,000 U.S. stores. The closures prompted the question: What have independent coffee shops been doing to compete with the $9.4 billion company, the largest coffee retailer in the world?
Many cafes have survived by serving coffee differently from Starbucks. Skip DuCharme, who has run his 27-employee Lakota Coffee Co. in Missouri since 1992, says that the store’s most popular drink is a latte served in a signature large green bowl that requires two hands to hold. A Starbucks opened down the street from DuCharme’s place in January 2006, and since then, DuCharme says, his tactics have helped his business create a more at-home atmosphere than his competitor’s. “In Starbucks, everything is based on ‘to-go,’” he says. “We give [our customers] real latte mugs.”

Power of Freebies
Other stores give customers free refills on coffee—a strategy Starbucks tested in select stores in January. “A free cup of coffee goes a long way,” says Theresa Tocio, co-owner of Tocio’s Sundance Café in Naples, Fla., that offers customers unlimited refills for the $1.50 they pay for a 12-ounce coffee. When a Starbucks opened inside a Target (TGT) next to her shop, Tocio and her husband offered free coffees to Target employees on break, since she says the workers weren’t offered Starbucks discounts.
“The independents that are successful are really serving a different type of product,” says Andrew Hetzel, a coffee industry consultant. “They have their own unique style and brand.” For some, that means selling food or drinks that Starbucks doesn’t have. Many stores that begin as coffee-and-pastry shops evolve into full-scale food cafés, giving customers more choice than chains can offer. At Jammin’ Java, a coffee house based in Fayetteville, Ark., customers can buy everything from breakfast burritos to turkey sandwiches along with their coffee. “I started to see that I was doing almost as much business at lunch as I was doing coffee in the morning,” says owner Brandon Karn, who launched the store in 2002. Since a Starbucks opened nearby several years ago, Karn has also expanded the menu to include beer and wine. “That has taken off real well,” he says.
Having a nimble management team enables cafés to implement changes more quickly than bureaucratic corporations, says Jean Bernstein, owner of 21-year-old Albuquerque-based Flying Star Café and Satellite Coffee, which started up in 1998. “We keep changing things to constantly offer something fun and unique,” says Bernstein, who first started competing against Starbucks when one opened near the Flying Star in 1996. She says she picked up on several of Starbucks’ shortcomings (“their tea drinks were weak”) and responded by offering blended concoctions to complement her store’s coffee drinks. One is a homemade lemonade mixed with ginger, and another is a blend of herbal teas, cranberry juice, and mint.

Change the Settings
Independent coffee shop owners say that Starbucks has gradually drifted away from the high-quality coffee that first made it successful, focusing instead on swank marketing campaigns or coffee drinks blended with milk or caramel. “They’ve basically become a sugar-and-dairy company,” says Arne Holt, owner of Caffe Calabria in San Diego. Says coffee consultant Hetzel: “Starbucks decisions aren’t coffee decisions, they are big public-business decisions.” That’s why many entrepreneurs can differentiate their coffee shops by paying meticulous detail to the coffee itself. Holt, for instance, grinds coffee beans at different settings, based on the amount of moisture in the air, since water passes through the grounds differently when the humdity is higher. Starbucks and other big chains rarely change the grinding settings on their automatic espresso machines, he says. “It’s like McDonald’s,” he says. “It’s not the best hamburger, but it’s consistent.”
The roughly 11,000 Starbucks stores across the country get their beans from the company’s three major U.S. roasting facilities—in Nevada, Washington, and Pennsylvania. Smaller roasters can deliver a fresher cup of coffee, says Gina Nasson, who owns the Farfalle Italian Market in Concord, Mass., with her husband. Nasson’s café gets its beans from a roastery about 11 miles away, she says. “When we order coffee, we don’t order tons.”
Smaller coffee stores also work to create loyal customer bases by emphasizing local ties. Karen Anderson, whose husband’s family was among the first English settlers in Concord centuries ago, says their Main Street’s Market & Café resonates with the town’s historic atmosphere. “If you sit here and have a cup of coffee,” she says, “you’ll hear guys in their 80s and 90s just reminiscing.” Red brick walls, pickle barrels, and 1930s-era photographs give the store a different feel from the surrounding Dunkin’ Donuts and Starbucks stores. Mary Allen Lindemann and her husband, who run Coffee by Design in Portland, Me., sponsor local arts organizations and offer a grant each year to a Massachusetts artist (last year’s grant was $2,800). It has given the store a unique following among local artists.

Create a Different Experience
The bottom line? The relationship between boutique coffee shops and Starbucks has helped bolster the overall coffee market and cultivate unique ways to serve customers. For local coffee shops, many of which are worried that a Starbucks slowdown could curtail overall coffee spending, competing against Starbucks simply means taking an approach that Starbucks hasn’t.
“Focus on making your product, your brand, and your experience as good as it can possibly be,” says consultant Andrew Hetzel. “You can’t look to what Starbucks is doing as your barometer.” (1,180 words)
(http://www.businessweek.com)

問題2

本、雑誌、ウェブサイトなどから、自分の好きなさまざまなテキストを選び出し、上と同じ点に注意しながら読んでみてください。

II.なめらかに読む

これで英文リーディングの準備はできた。ではトレーニングに入ろう。最初のトレーニングは多読だ。とにかく大量に読む。ここをスターティングポイントとしよう。

多読は長距離走

多読トレーニングは長距離走トレーニングである。10キロを約1時間から1時間半ぐらいかけてジョギングするイメージだ。へたに最初からダッシュなどすると最後まで持たない。自分のペースを守りながら、はるか先のゴールをもくもくと目指すのだ。

娯楽書を読む

第一の候補は、自分の好きなテキストである。もちろん能力的にはあまり無理のないものがよい。たとえば自分の好きな小説やエッセイなど娯楽要素の強いものが多読をはじめるには向いている。ただ文学作品は教養書にくらべると言語表現はむずかしい。たとえ娯楽小説であっても、そこに使われている表現は実務書にくらべるとはるかにむずかしいのが通例だ。

たとえば、私の場合はアガサ・クリスティのミステリー小説が好きなのだが、クリスティのような大衆小説家であっても、ノンネイティブの私には理解できない表現が多く使われている。そんなところは、そのまま読みとばしてしまうことにしている。少々わからなくても、別にかまわない。たんなる娯楽のための読書なのだから。とにかく目標は300ページほど先のゴールにたどり着くこと。それだけである。

日本語で一度読んでいて、内容がすっかりわかっているものなどもお勧めである。私の場合、クリスティの小説は日本語でまず読んでいる。それから、英語で読む。するとすでに内容がわかっているので、すいすいと先に進むことができる。そんなことをして面白いのかを思われるかも知れないが、日本語で読んでいても、英語で読むとずいぶんと印象がちがうものだ。よい本であるかぎり、飽きるということはない。

実務書を読む

第二のテキスト候補は、仕事などでどうしても必要な種類のテキストである。やはり仕事に必要となると気合がちがうものだ。それに自分の専門領域なので知識もある。他の領域のテキストよりもずっと読みやすいはずだ。

私の場合は専門の一つが経済なので、経済関連のテキストをよく読む。専門書のほか、経済雑誌などもそうしたテキスト候補である。もしあなたが医者であれば医学書がよいテキストとなるだろう。法律家であれば(私には想像もできないが)法例文書が読みやすいということになるはずだ。

いずれにしろ自分のなかの知識が豊かであればあるほど、英文テキストを読むのもやさしくなる。英文だからといって日本語を読む場合と基本は異ならない。豊かな知識がなくては本をうまく読むことはできない。読書とはそういうものだ。

時間読み

多読トレーニングの最初は「時間読み」がよい。これはちょうど長距離トレーニングの「時間」走にあたるものである。時間走トレーニングとは、5キロ、10キロといった距離を目標に走るのではなく、30分、1時間といった時間を目標として走るトレーニングのことだ。これと同じことを英文リーディングで行うのが時間読みである。最初に時間を設定して、とにかくそのあいだ読み続けるのである。

設定時間だが、最初は15分読みぐらいからスタートすればよい。そこから徐々に伸ばしていき、1時間読みにまでくれば、これはたいしたものである。

オーディオブックを利用する

最近はオーディオブックがふんだんに手に入るようになった。たとえば、あのバラク・オバマは、自著The Audacity of Hopeをすべて自分で読み上げており、それがオーディオブックとなって販売されている。そのほかにも多種多様なオーディオブックを簡単に手に入れることができる。

こうしたオーディオブックを聞くことも多読の一つの有効な方法である。オーディオブックの音声だけを聞いてもよいし、本をみながらオーディオブックを聞くという手もある。
そのほか、インターネット上でも数多くのオーディオ素材を聞くことができる。たとえば私の場合、American Rhetoric(http://www.americanrhetoric.com/)というOnline Speech BankではじめてMalcolm XのThe Ballot or the Bulletというスピーチを聞いたのだが、これには圧倒された。いまならオバマの2004年のスピーチを聞くのもいいかもしれない。

☆☆☆

実践演習

問題1

本、雑誌、ウェブサイトなどから自分の好きなテキストを選び出し、まず15分読みをしてみてください。その後、20分読み、30分読みと伸ばしていき、1時間読みまで到達してみてください。

問題2

日本語の訳本のある本、雑誌、ウェブサイトを選び出し、まず日本語訳を10分ほど読み、それから、それと同じ部分の英語を20分ほどで読んでください(英語を読むスピードが日本語の2分の1と仮定します)。これを数回くりかえしてみてください。

問題3

オーディオブックまたはインターネットのオーディオサイトで、英文テキストを読み上げている部分を15分間、集中して聞いてください。そのあいだにテキストをみてもかまいません。その後、時間を20分、30分と延ばしていってください。

III.分析的に読む

英文リーディングのトレーニングで多読と双璧をなすのが精読だ。多く読むと同時に精緻に読むことがよい英文リーディングの必要条件である。

ただ、この「精緻に読む」という概念を、多くの人が根本的に誤解しているようにみえる。どうやら精緻に読むとは「文法的に精密に読むこと」だと思っているのだ。そしてその際の文法とは学校英文法のことであったりもする。この考え方は完全に間違いである。精読とは学校文法を問わす何を問わずとにかく文法的に正しく読むことではない。たとえ文法的に正しく読めたとしてもそれは精読ではない。たんなる暗号解読である。

精読とはつまりテキストをできるかぎり深く理解することである。さまざまな角度から検証し、すみからすみまで分析し、そしてあますところなく理解する。それが精読である。ではどうやって。いまや古典となった読書指南書How to Read a Book (Mortimer J. Adler, Simon & Schuster)を参考としながら、その手法をこれからみていくことにしよう。

点検読書

最初にするべきはテキストの概要の把握である。Mortimer J. Adlerはリーディングのこの段階をInspectional Readingと名づけ、外山滋比古はこれを「点検読書」と訳している。
AdlerによるとInspectional Readingとはすなわち“the art of skimming systematically”のことである。「システマチックに拾い読みをする技術」である。この「システマチック」という言葉がポイントだ。

では、どのようなシステムなのか。まずはInspectional Readingで何を得たいかの目標を決める。おもな目標は次のとおりだ。第一の目標はテキストの種類を確定すること。小説か、教科書か、論文か、あるいは、ほかのなにかか。それが決まれば読み方も決まってくる。第二の目標はテキストの構造を把握すること。全体構造がわからなくては部分の意味はわからない。第三の目標はテキストの特徴を把握すること。それぞれのテキストには個性がある。理路整然としたものもあれば、かなり自由奔放なものもある。こうした「人格」ならぬ「書格」を的確に把握することが重要だ。第四の目標はテキストの目指しているものを理解すること。このテキストを書いた人はいったい何を目指しているのか。読者に新しい知識を与えたいのか、具体的な助言をしたいのか、あるいは何かの感銘を与えたいと思っているのか。それがわかればテキストはきわめて読みやすくなる。

つぎに所要時間を決める。15分から30分程度がよい。Inspectional Readingに2時間も3時間もかけることは馬鹿げている。少なくともシステマチックではない。

つぎに拾い読みの順番を決める。まずタイトル、まえがき(序文)、あとがきをみる。ここからそのテキストの目的、対象、方向性などを読み取ることができるはずだ。あとがきを先に読むのは気が引けるという人もいるかもしれないが、そんなことはない。あとがきにはそのテキストを書き終えてからの著者の本音が明確に現れていることが多い。ぜひ最初に読むべきだ。

つぎに目次と作者紹介を読む。目次は情報の宝庫だ。ここをしっかり読むことでテキストの構造を把握することができる。逆に目次を読んでも構造が把握できないようなテキストは精読に値しないと思ってよい。ちなみに街の書店の本棚で精読に値する本は百冊に一冊もない。ほとんどが読むに値しないクズ本である。そうした本をいくら読んでも百害あって一利なしである。よい読書の大前提はよい本を読むことである。クズ本をバカ丁寧に読むことは知の自殺行為であることを覚えていてほしい。作者紹介は必読だ。そもそもどんな人が書いたのかも知らないでテキストを読みすすむことなど考えられない。

つぎに索引をながめる。知識を伝える本ならたいてい索引はついている。知識を伝える本で索引がないならそれはクズ本である。また索引に出ているいくつかの重要語のあるページをひらいてみる。すると作者がどのようにその語を扱っているかがわかる。

カバーがついていれば、そのカバーの折り返しや裏表紙に書いてある解説文をよく読む。こうした解説文はそのテキストの正確な要約になっていることがきわめて多い。またカバーには他者の推薦文やコメントなどが載っていることも多いので、これもていねいに読む。先達の意見は貴重だ。

表面読み

Inspectional Readingが終わったら、つぎはSuperficial Reading(表面読み)である。

Superficial Readingの方法はただ一つ。わかろうとわかるまいと、とにかくどんどんと前に進むことである。内容の半分もわからないかもしれない。知らない語彙がどんどん出てくるかもしれない。構文のとれないセンテンスがあるかもしれない。それでも気にせず、わかるところだけを拾い上げて読んで、前へ前へとすすみつづけるのだ。目標はただ一つ、テキストの最後に行き着くことである。

表面読みのコツは、そのテキストにうまく「乗る」ことである。熟練したサーファーは波のうえできわめてリラックスしている。上手に波をつかまえて、その上に自然体で「乗って」いるからである。あるいは長距離ランナーの場合、走りはじめは少しぎくしゃくするかもしれないが、少したつと走るためのリズムができ、そこに乗っかってしまうと、からだが勝手にうごいてくれる。こうなると、1時間でも2時間でもすいすいと走ることができる。サーフィンにも長距離走にも通じるこの「乗り」を手に入れられるかどうかが、表面読みが成功するかどうかの最大のポイントだ。皆さんもぜひサーファーや長距離ランナーになったつもりで表面読みにチャレンジしてほしい。

さてもうお気づきだと思うが、このSuperficial Readingこそ多読の極意である。わかるところだけをピックアップしてどんどん読みとばす。このアート(技術)を習得すれば英文リーディングの量はおのずとから増えていくはずだ。

ところが日本の英語学習者の多くがこのSuperficial Readingの技術を習得していない。というか教えてもらっていない。だからどのような英文テキストであってもとにかく律儀に最初のページから丁寧に読んでいき、そして途中で挫折するのである。いまの英語教育いや読書教育のなかでもっとも必要とされているのがこのSuperficial Readingの技術であると私は考えている。

内容解釈

ここまででテキスト全体の「概要」は把握できたはずである。さてつぎはいよいよ内容の把握のためのリーディングだ。

内容把握のためのリーディングは、これまでの概要把握のためのリーディングのようにどんどん読みすすめるというわけにはいかない。センテンスごと、パラグラフごとに丁寧に読んでいくことが必要だ。その際に気をつける点は以下の4点である。

キーワードを見つける
キーセンテンスを見つける
論証を見つける
論証の是非を判断する

キーワードを見つける

丁寧に読みすすめるなかで第一に気をつけるべきは、テキストのなかで中心となる概念を発見することである。それがキーワードだ。これが発見できれば、内容把握は格段に楽になる。逆に発見できなければ、そこに何を書いてあるのかがなかなか理解できないものである。

キーワードは見出しになっているケースがきわめて多い。前書きや後書きで触れられていることもしばしばある。ここからも最初の点検読書がリーディングにとっていかに重要な技術かがよくわかる。

キーセンテンスを見つける

キーワードがテキストの中心概念だとすれば、キーセンテンスはテキストの中心命題だ。つまり作者が述べたいことのエッセンスである。これを見つけ出すことなくしてテキストをよく読むことはできない。
キーセンテンスの見つけ方、および次に紹介する論証の見つけ方については、『新しい英語の学び方――英語学習は読み書きから』の「VII テキストの構造」を参考にしてほしい。

論証を見つける

論証を追いながら読む――多くの日本人にとって最も苦手とする読み方だ。論証を追いながら読むとは、一言でいえば、センテンスとセンテンスとの関連をつねに明確に把握しながら読むことである。センテンスというレンガが明確な意図のもとに積み上げられ、パラグラフ、チャプターという壁や部屋がつくられ、そして最終的にテキストという建物がつくられる。その建物の設計図が論理であり、その論理を読みといていくのが論証を追いながら読むことである。

ではどうすれば論証を見つけることができるようになるのだろうか。これにはトレーニングしかない。まずは野矢茂樹の『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』をつかって日本語での地道なトレーニングを積み重ねることをお勧めする。

論証の是非を判断する

論証が見つかったら、それを吟味し、その論証が正当化かどうかを判断する。テキストは千差万別である。見事な論理的整合性をもつテキストもあれば、論理的にかなり破綻しているものもある。そうした論証のレベルを的確に判断できる目を持っていることが、よい読み手の条件である。

では、どうすればそうした判断力を習得できるのか。これもまたトレーニングを通じてしか身につかない「技術」ではある。ただ、きちんとしたトレーニングをすれば誰にでも身につく技術でもある。これまで日本の教育では、こうしたトレーニングを重視してこなかった。だから多くの日本人がこの技術を習得していないのだが、その気になれば、誰でも習得は可能だ。いまやよい参考書もある。皆さんにはぜひトライしてもらいたい。

☆☆☆

実践演習

問題1

本、雑誌、ウェブサイトなどから自分の好きなテキストを選び出し、「点検読書」をしてください。時間は15分から30分までのあいだとします。

問題2

点検読書の終わったテキストに対して、「表面読み」をしてください。最初のころは30分、慣れてくれば1時間ぐらい連続で詠むようにしてください。

問題3

表面読みまで終わったテキストに対して、内容解釈の読みをしてください。その際、キーワードやキーセンテンスには下線を引き、見つけ出した論証およびそれに対するコメントを余白に書き込んでください。

IV.速く読む

I.の「読む準備」のところで英文テキストを読む時間についてはすでに言及した。繰り返しになるがテキストを読むスピードはテキストの内容によって大きく異なる。あそこで読んだテキスト(How to RedABook)は知的レベルの高いテキストの代表格であるから、リーディングスピードは当然ながら一般的テキストよりも遅くなる。私の場合、一分間で200ワード弱といったところだ。

では、より一般的なテキストならばどうだろうか。ここではまず皆さんの現時点での一般的な英文を読むスピードを実際に把握してみよう。

自分のリーディングスピードを知る

では次のテキストを読んでもらいたい。読み方はいつもと同じでよい。普段の読みのスピードを計るのだから。それでははじめよう。それぞれに時間はきっちりとはかるように。よーい、スタート。

The Seven Deadly Myths That Reduce Your Reading Speed

Research at Northwestern University clearly demonstrates that right now you have the ability to read at least 1,800-2,000 words per minute. Yet it is likely that your current reading speed is around 200-300 words per minute. Why? The answer is simple. The way you were taught to read was based upon some assumptions, or myths. When you learn to let go of these myths, you will be able to rapidly increase your reading speed.
Imagine a beautiful, brightly colored hot air balloon that is able to soar effortlessly up to 2,000 feet. But right now it has seven heavy sandbags weighing it down. When these sandbags are released, the balloon will soar. The same is true about your reading speed: right now you are weighed down by seven erroneous assumptions, but once you let go of them, you’ll soar, too.

You need to read one word at a time. When you were reading aloud in class, your teacher would make sure that you got each word absolutely perfect. If not, you would be corrected. Speed readers read whole chunks of text at once rather than one single word. In fact, it has been discovered that 90% of your reading time is spent pausing between words. Research at the University of Minnesota has found that the average person pauses for one quarter of a second after each word. This reduces your speed to around 240 words per minutes. The fact is you can read much faster by taking in whole chunks of data at one time.
Your need to read everything at the same speed. Speed-readers have the ability to slow down or accelerate depending on the complexity of the material. Just as a race car driver slows his vehicle down when it approaches a curve, the speed reader slows down when there is new information that needs maximum comprehension and retention. But what happens when they reach an easy stretch? That’s right. They accelerate. Research shows us that only 11 to 40 percent of a book contains the vital meaning of that book. The rest of the book contains examples and reinforcements. By reading the book at different speeds you can get through the whole text in a fraction of the time it would take to read at “normal” speed.
Slower reading speed improve comprehension. Has his ever happened to you? You pick up a book and begin to read. Suddenly you find that five minutes have passed and you don’t even remember the name of the book. Why? You were going too slowly for your brilliant brain. When you read slowly, you are accessing the auditory front left portion of your brain. This section is one the least efficient at storing information into long-term memory, and therefore, your comprehension actually drops. Consider the following example. Marcus once gave a seminar to celebrate the success of firefighters in Toronto. He wanted to speak about Olympic Gold Medalist Mark Tewksbury, whom he had met before. He picked up a biography on Tewksbury at the bookstore and read it in twelve minutes during the taxi ride to the seminar room. He then begin to speak at the conference. Suddenly he could see the whole book like a movie in his mind’s eye. At the end of the seminar a man walked up to Marcus and said, “How well did you know my brother?” Mark Tewksbury’s brother had been sitting in the front row. Comprehension and recall actually increases when you read at an accelerated rate because it switches on the powerful visual area of the brain.
You must read the whole book in sequence to understand it. In school we were told that the only way to read a book is to start at the beginning, and read through to the end. Even if you don’t like it. As we said earlier, only 11 to 40 percent of the book contains the real information. Speed-readers will often begin with a completely different sequence, one that maximizes comprehension and recall. For example, much of the information in the book is contained in the final chapter—which is a summary—and in the introduction, which often paints the bag picture of the book just as the picture on the box of a jigsaw puzzle shows what the completed puzzle looks like. Speed-readers can learn the key elements of a book at an accelerated rate by reading the book in a different sequence.
You must stop to look up a word if you don’t understand it. Slow to average readers have been trained to stop and look up a word if they don’t understand it. The simple act of stopping, going to a dictionary, looking up a definition, can take minutes out of your reading time. Often it leaves you vulnerable to distractions. For example, you might read another interesting word right next to the one you’ve looked up. This breaks your flow and concentration. Since books are designed to enhance comprehension, you may find that when you’ve gone through the entire book the word’s meaning will become clear to you. So speed-readers do not stop to look up individual words. They simply mark them in the margin and look it up later if still necessary. This one step will boost your reading speed and recall tremendously.
You should never use a pen or your finger as a guide during reading. Many readers were taught specifically by their teachers no to use their finger for their pen as a reading guide. Speed-readers know that eye and hand coordination allow you to accelerate your reading speed tremendously. Marcus prefers to use a pen as a guide, and rips through pages at a high speed simply marking the bits he needs to recall. However, who reads at 80-pages-per-minutes, simply runs his had down the page. This simple trigger promotes accelerated reading speed.
Reading a book is the same as learning the material in that book. Reading is not the same as learning; they are two separate stages. Speed-readers know that the key to effectively acquiring information at an accelerated rate is to use the following sequence. First explore and examine the book at a high speed, second identify the key data at needs to be remembered. Third, to use specific memory tools to load this information into long teem memory.

Once you understand these seven deadly myths and how they can slow your speed, you can turn these myths into factual information you can use. The sandbags that are holding back your reading speed will fall away and your reading speed will soar to new heights naturally. (1,116 words)

このテキストはスピードリーディングの著名テキストブック、Speed Reading The Easy Way, Berg and Conyers, Barron’sからの抜粋である。テキスト量は約1100ワード。読むのにかかった分数で割れば、一分間あたりのスピードが出る。たとえばあなたが5分かかったならば、現在のあなたのリーディングスピードは220ワードである。さてあなたの現在のリーディングスピードはどのくらいだっただろうか。

このような一般的なテキストの場合、いわゆる普通の英語ネイティブのリーディングスピードは300ワード程度である(このテキストにそう書いてある)。それなりの読書人ならばおそらく400~500ワードぐらいと考えられる。

速く読むための7つのコツ

では、スピードリーディングつまり速読の技術をマスターすると、いったいどのぐらい速く読めるようになるのか。この本ではなんと一分間に1800ワードから2000ワードまでが可能だと書いてある。

そしてその大いなる可能性を阻んでいるのが、以下の7つのmyth(俗説)なのだそうである。すなわち、(1)1ワードずつ読まなければならない、(2)つねに同じスピードで読まなければならない、(3)遅く読めば読むほど理解は深まる、(4)本は前から順番どおりに読まなければならない、(5)わからない語が出てきたらそのたびに調べなければならない、(6)指やペンで読む場所を指し示してはいけない、(7)本を読むとは何かを学ぶことでなければならない、の7つである。

一分間に2000ワードとは、正直なところ、ちょっといかがわしげな気もしないではない。しかしここで指摘している7つのmyth(俗説)についてはいちいちごもっともだ。こうした間違った「思い込み」があることが私たちのテキストの読みを遅くしていることは間違いない。そしてこれらの思い込みから抜け出ることができれば、私たちの読みのスピードは確実にあがるはずである。ここでは、それぞれの点について少し解説を加えておく。

(1):「リーディング視野」を広げる

「1ワードずつ読まなければならない」という思い込みは、読みのスピードを下げる最大の要因だといってよい。たとえば、日本語の文章で考えていただきたい。いまあなたはこの文章を読む際に、どの程度の文字を視野を置いているだろうか。一行全部というわけにはいかないかも知れないが、少なくとも10文字ぐらいの文字を一度に視野のなかに入れているに違いない。これは、ようするにある意味のかたまりを一度に視野のなかに置いているということである。

英語でも同じことである。少なくとも最低限の意味チャンクつまり4ワードから5ワード程度は一度に視野においておかなければならない。こうした視野のことをここでは「リーディング視野」と呼ぶことにしよう

「リーディング視野」が広くなればなるほど読むスピードは上がっていく。読書に慣れた人ならば複数の行を一度に視野に置くことも可能になる。たとえばだが日本語の本で試してもらいたい。もしもあなたがかなりの読書家ならば、おそらくは数行を一挙に視野に置いているはずだ。それと同じことを英語のテキストでも行えばよいのである。もしこれができるようになれば英文テキストを読むスピードはぐんと上がることは間違いない。もちろん最初から簡単にできるわけではないが、つねにきっちりと意識をもって取り組めば徐々にだが英文テキストであっても視野は広がっていくものである。

(2)スピードを臨機応変に変える

これはまさに上のテキストに書いてあるとおり。ようするに簡単なところについてはアクセル全開がぶっとばし、難解な部分についてはスピードを落として慎重にドライブするということである。みんなでリーディング界のF1ドライバーを目指そうではないか

(3)理解が深まる適正なリーディングスピードがある

ドライブでいえば、運転していても疲れない適正な「クルージングスピード」というものがあるものだ。いっぽう渋滞につかまってノロノロ運転になると、スピードは遅いうえにやたらと疲れる。逆に猛スピードでぶっとばしても、やはりかなり疲れるものである。

(4)本はどこから読んでもかまわない

意外とやっかいなのが、このポイントである。本をとばしとばしに読んだり、途中から読みはじめることには、多くの人が少なからぬ抵抗感を覚えるようである。だが本を一ページめから読まなければいけないなどという法律があるわけではない。実際には、とばしとばい読んだり、途中から読んだりほうが、効率的な本も数多い。あなたにもし本を最初から読まないことに抵抗感があるのならば、それは無意味な感情である。すぐに捨て去ったほうがよい。

(5)わからない語や表現が出てきてもそのまま読み続ける

わからない単語や表現がでてくるごとに辞書を引く人がいる。これは「1ワードずつ読まなければならない」という思い込みと双璧をなすリーディングにおける最大の悪癖である。

こうした悪癖をもつ人にきいてみると、わからない単語や表現をそのままにしておくと、とても気持ちが悪くて、前には読み進めないのだという。少なくともリーディングにおいては、こうした潔癖症は百害あって一利なしである。例えていえば、譜面どおりに弾けなかったからといって間違うたびに弾きなおしをするピアニストのようなものだ。部分部分に潔癖なあまり、もっとも大事な全体の流れをだいなしにしているのである。

やっかいなことにこうしたタイプの人の多くが自分のそうした読み方を本当に意味では悪いものだとは思っていないようだ。それどころか、わからない語や表現を丁寧に調べあることこそが「正しい」読み方だとひそかに自負していたりもする。おそらくは学校の英語の授業などでそういうふうに教えられたのだろうが、ある意味でマインドコントロール状態だといってよい。このマインドコントロールから抜け出るのは、実際のところ、なかなか容易ではないようだ。

(6)ポインターとして指やペンを積極的に使う

指先やペン先があなたのリーディングを助けるのならば、遠慮せずどんどん使えばよい(指やペンの動きが読む邪魔になるようなら、そうしたことは利用しないほうがよい)。ひとつの使い方としては、指先をペン先を少し速めに動かして、目の動きをそれに追いつかせるようにすることだ。ちょうど先導車について走るランナーのように、スピードをアップさせるよいトレーニングになる。

(7)読書の目的を峻別する

「読む」と一言でいうが、その目的はいくつにも分かれる。たとえばミステリー小説を読むような単なる娯楽のための読書もある。あるいは新しい知識や洞察を得るための学習のための読書もある。また単に情報やデータを収集するためだけの読書もある。
それぞれの目的にあわせて、読むスピードも変えていくべきである。たとえば単に情報やデータを収集するための読書であれば、できるかぎり効率的に読む必要がある。そのためには読書スピードをできるかぎり上げなければならない。一分間に2000ワードなどという技術はまさにこのためのものである。いっぽう、学習のための読書についてはスピードよりも理解を重視するのは当然である。少しぐらいスピードは遅くともしっかりと深く読み込み、そして理解することが重要である。

速読のための英文テキスト

では、速読に適した英文テキストとしては、どのようなものがあるだろうか。多くの参考書では、ジャパンタイムズなどの英字新聞、ニューズウィークなどの英文雑誌をメインに挙げている。たしかにこれらは内容的には読みとばすべきものなので、速読用だといえるが、問題はその難易度である。一般的にみて、たとえばジャパンタイムズをきちんと読みとばせる(へんな言い方だが)だけの英語力を持つ日本人英語学習者はじつはそれほど多くない。1ページにわからない単語が5つ以上出てきたら速読用テキストとしては不向きなのである。

それよりも私がお勧めしたいのは、仕事関連の英文書類である。いまや仕事もグローバルな時代なので、英文での資料を読まなければならない、あるいは読んだほうが有利だという立場にいる人も多いことだろう。そうした人の場合、それらの英文テキストを速読するのである。仕事関連であるから知識は豊富であるため読みやすく、また語彙も知っているものが多いはずだ。それらを読んだことが仕事にもよい影響を与えるだろうから、まさに一石二鳥である。ぜひお試しあれ。

☆☆☆

実践演習

問題1

本、雑誌、ウェブサイトなどから自分の好きなテキストを選び出し、速読をしてください。その際に、上記の7つのポイントをつねに念頭においてください。

問題2

社会人であれば仕事関連、大学生であれば学門関連のテキストを選び出し、速読をしてください。その際に、上記の7つのポイントをつねに念頭においてください。

V.対話的に読む

「著者の語り返すことも、読書の一部である」とAdlerはいう。そのとおりである。著者から読者への一方通行の読書はけっして十分とはいえない。Adlerは次のようにもいう。

「批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する」。意欲的でない読者がつまずくのは、この点である。意欲的でない読者は、内容の分析や解釈を怠ることも多いが、それにもまして、判断を怠る。理解する努力を惜しむだけではなく、本を放り出して、書いてあったこともきれいさっぱり忘れてしまう。何の批評的考察も加えず、悪いときめつけることは、形ばかりのほめ言葉よりも、なお悪い。
(『本を読む本』M.J.アドラー、C.V.ドーレン、外山滋比古、橘未知子 訳、p.149)

「意欲的である読者」でありたい私たちとしては、ここまでいわれては「批評の務めを果た」さねばなるまい。ではどうするか。

印をつける

まずはテキストに自分の足跡を残そう。もっとも簡単なのは、さまざまな印をつけることだ。ここがポイントというところには赤線、もっと重要だと思えば☆印を加える。筆者の意見に異論ありなら?、驚きの表現は!などなどだ。自分なりのユニークな印を足跡として残すのも一興だ。

欄外にコメントを書く

印だけではまだ対話と呼ぶにはおこがましい。もう一歩すすんで、欄外にコメントを書き入れよう。英文テキストなのだから、もちろん英語でだ。といっても、そんなに大仰にかまえる必要はない。Totally agree with it!とかCan’t find any reasonsといったぐらいでも十分だ。とにかくテキストが述べていることに対して読者としてそれなりに反応すること。それが重要だ。

書評を書く

最後はレビューを書くことだ。本であればそれは書評ということになる。「えっ、書評を書くのが、読むトレーニング?」と思われるかもしれない。しかし、そうなのである。じつは、読むと書くとは、密接につながっている。よく書ける人はよく読め、逆によく読める人はよく書けるものなのだ。

書評といってもそれほど肩に力をいれることはない。表紙の裏側の空きスペースやパソコン上で10行ほどの英語を書くだけでも立派な書評である。このように量は少なくてもよい。大事なことはとにかく「読みっぱなし」にしないこと。よい本とは作者がいいたい何かを読者に向かって全霊を傾けて述べているものである。いわば彼や彼女の子供なのだ。その作者の気持ちにしっかりと応えることが、読者としての義務である。つねに作者の心を尊重し、作者と対話をする姿勢を忘れないこと。これがよい読者であることの最後の要件である。

☆☆☆

実践演習

問題1

本、雑誌、ウェブサイトなどから自分の好きなテキストを選び出し、それを読みながら印をつけ、さらに欄外にコメントを書いてみてください。

問題2

本、雑誌、ウェブサイトなどから自分の好きなテキストを選び出し、それを読んだのち、レビューを書いてください。

<ライティング実践編>

はじめに

日本人の英語学習でもっとも欠けているものはリスニングでもスピーキングでもない。ライティングのトレーニングだ。

考えてみてほしい。あなたはこれまでの英語学習のなかでいったいどのくらいの量の英語を書いてきたか。A4ペーバーで数百枚分を超えている人はあまりいないはずだ。数千枚分となるとほんの一握りの人にすぎないだろう。ほとんどの人が数十枚分といったところではないだろうか。それも中学以来の数十年という英語学習のなかでである。これでは本当の意味で英語が使えるようにはならない。

解決策はただひとつ。書くしかない。書いて書いて書きまくる。それしかない。
そのツールとなるのが本書である。英語を書くといっても実際にどうすればよいのかわからないという人が多いことだろう。そうした人たちのためにライティングのための基本知識とさまざまなトレーニングを紹介する。本書に掲載されている問題をすべてこなせば、かなりの英文を書くことになるだろう。

進め方としてはセンテンス、パラグラフ、エッセイと小さな単位から大きな単位へと進んでいく。とりあげるトピックはできるだけ社会人にふさわしい内容にした。
日本語であれ英語であれ、よい文章を書くことは簡単ではない。だが地道に努力を重ねていけば、誰でも正確でわかりやすい英文を書けるようになる。

さあ、あとは練習あるのみだ。Practice makes perfect. がんがん書こう。

本編の使い方

本書は『新しい英語の学び方――英語学習は読み書きから』の付属エクササイズブックである。本書の前に上記書をまず読み、ここでの訓練の基盤となる考え方を理解していただきたい。基盤となる考え方を理解することなく、ただがむしゃらにトレーニングをしても得られるものは少ない。

各章のはじめには基本解説部分がある。実際のライティング練習のための具体的な注意事項だ。ここをまず読んでからトレーニングに入っていただきたい。各事項をしっかりと頭に留めながらトレーニングを進めていくことが重要である。

練習問題の多くが日本語の内容を英語で表現するというかたちをとっている。間違えてはいけないのは、これは「和文英訳」のトレーニングでは決してないということだ。日本語の世界と英語の世界では世界観が異なる。したがって日本語という言葉を英語という言葉にダイレクトに置き換えることはできない。それは本質的に不可能なのである。

ここで行っているのは、そうした無意味な和文英訳的トレーニングではなく、日本語で表現されている「内容」を英語で表現しなおすトレーニングである。日本語を英語にするのではない。それを書いた人(あなたも含めて)が日本語で考えたことを、あなたが英語で表現するのだ。

したがって「答え」は一つではない。内容はおなじでも、英語としての表現にはさまざまなものがあるはずである。どうかできるかぎり多くの表現にトライしてもらいたい。そのバリエーションが多ければ多いほどライティングの力がつくはずだ。

書いた英語はできれば誰かにチェックしてもらえればよい。教養が高く文才に富み日本と日本人に対する暖かい心をもっているネイティブがまわりにいればぜひ頼むとよい。日本人同士でチェックするのもたいへんによいことだ。チェックされる側もする側もとても勉強になる。

では、はじめよう。道は長いが、あせらず一歩ずつ着実に進んでいくことにしよう。

I.センテンス

センテンスは英文ライティングの基本中の基本である。さまざまなセンテンスを正確かつ魅力的に書けるかどうかで勝負の行方はほぼ決まる。

以下、センテンスを書く際の基本知識をまとめてみた。

SVO

「SVO」文型は英語センテンスの黄金律だ 。英語の世界観をそのまま体現化したものだからである。(英語の世界観については『新しい英語の学び方――英語学習は読み書きから』(以下、『学び方』)のコラム「言語を支える世界観」を参照)

西欧世界では「実体」「属性」「関係」が世界を構成するという世界観が定着している。「実体」とは個々の事物のこと。その実体が「属性」を持ち、他の実体との「関係」を持つ。
英語のセンテンスもこの世界観のもとにある。「実体」の表現がSubjectとObject、「関係」の表現がVerbである。SVO文型とは「ふたつの実体のあいだに何らかの関係が生じている状態」を示すものである。日本的な世界観とは少しずれる例をいくつか挙げておこう。

Writing provides pleasure.
His behavior surprised us.
Company A saw sales grow over the previous year.
The oil price averaged over $100 per barrel.
The usual approach to issues of equity has involved the choice of a social welfare function.

SVOは英語(を含む西欧語)の黄金律だが、日本語にとってはそうではない。日本語の世界観と英語の世界観は本質的に異なるので、日本人はSVOに違和感を感じることが多い。そのため日本人の書く英語にはSVOが少なくなり、代わりに後述のSVC文型や受動態が多くなる。これが「日本人英語」につながっている。

日本人が英語らしい英語を書くための第一歩は、英語の黄金律であるSVOの感覚を徹底的にマスターすることにある。

2. SVC
日本人の書く英語にはSVC文型がとても多い。たとえば「本レポートは最近の若者の消費動向についてまとめたものである」といった文をそのまま英語にするとThis report is the summary of consumption trend of young generation in Japan.のようなものになる。「本レポートは~である」とあるのでThis report is …というわけである。しかし英語としてはThis report discusses the consumption trend of young generation in Japan.のほうが自然であり、上記の日本的な英文は英語として少し不自然だ。

日本人の英語にbeが多く出てくるのは「~です」「~だ」「~である」をそのままbe動詞に置き換えるからである。さらにいえば「AはBである」という日本語をA is B.に一対一対応させることに原因がある。詳しくは『翻訳の教科書』をみてほしいが、「AはBである」と“A is B.”は一対一対応はしない。ゆえに「AはBである」→“A is B.”は誤訳である。
日本人が英語らしい英語を書くための第二歩めは、「AはBである」→“A is B.”という誤訳をなくすことである。

3. キャラクター・アクション

英語のセンテンスはいわゆる狭義の「文法」ではSubject + Predicateというかたちをしている。しかしこれはセンテンスの「かたち」のみに目をむけた見方だ。センテンスの「意味」という点に目をむけると、センテンスの別のすがたがみえてくる。それが「キャラクター・アクション」だ。

「キャラクター」とは行為を行う主体(実体)のことである。人間や動物の場合もあれば組織のこともある。あるいは何かの概念というケースも考えられる。

「アクション」とはそのキャラクターがおこなう行為のことである。多くの場合、その行為には対象となる相手(実体)がある。行為者となる実体が別の実体に対してなんらかの影響を及ぼす――これがキャラクター・アクションという考え方である。
具体例でみてみよう。以下は『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』(根岸裕、大修館書店)からの引用だ。

[原文] 通産省の報告によると、米国産業の対日依存度は日本の産業の対米依存度を上回っている。
[訳例] The U.S. industry’s dependence on Japanese demand has exceeded the Japanese industry’s reliance on the U.S. demand, the Ministry of International Trade and Industry said in its report.
[直し] U.S. industry depends more on demand from the Japanese market than Japan depends on the U.S., the Ministry of International Trade and Industry said in a report.
[解説] [原文]の主語「米国産業の対日(日本の需要に対する)依存度」を英語にすれば、U.S. industry’s dependence on Japanese demandでよさそうだし、「上回る」もexceedで間違いない。ところが、英語の発想では「米国の産業」を主語にする方が座りがよい。直訳調で訳せば「米国の産業は、日本の産業が米国市場に依存しているより強く日本市場に依存している」というところだろうか。

[原文] ソフトウェア各社の95年度の収益が回復してきた。
[訳例] Earnings of software developers in fiscal 1995 are showing recovery.
[直し] Software developers are seeing an earning recovery in fiscal 1995.
[解説] ここでも日本語の主語「収益」が「回復」と合体して「収益回復」と複合語になり、英語では目的語として使われている。代わって英語の主語を引き受けたのは「ソフトウェア各社」。[直し]に沿ってあえて日本語訳をつくれば、「ソフトウェア各社は95年度において収益の回復を体験しつつある」とでもなるだろうが、この場合は「…の収益が回復してきた」の方が日本語としてはずっと自然だ。
(『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』、pp.4-6)

この2つの例に共通するのはSubjectに行為者つまりキャラクターをもってきたほうが「英語らしい」ということだ。ひとつめはU.S. industry、ふたつめはSoftware developersである。すなわちU.S. industryやSoftware developersというキャラクターがなにかの行為つまりアクションを起こすように書き換える。これが[直し]の具体的な内容である。

4. トピック・コメント

英語センテンスの組み立て方に関する重要ポイントのふたつめが「トピック・コメント」という概念である。

うえでみたように英語のセンテンスは「キャラクター・アクション」というかたちをその基本としている。しかし世界を認識するには、それとは異なる方法もある。これから表現する話題(トピック、テーマ、サブジェクト)をまず提示し、そのあとにその話題に対する説明(コメント)を行うというものである。この言語表現形式を「トピック・コメント」構造と呼ぶことにする。

トピック・コメント構造は日本語における基本構造である。日本語の世界ではキャラクター・アクションよりもトピック・コメント構造を重視する。そしてその言語観を具体化する言語形式が、トピックを具体的に提示するための助詞「は」の存在である。「は」はキャラクター・アクションのキャラクターをあらわすのではない。トピック・コメントのトピックを表すマーカーである。

では英語の世界でのトピック・コメント構造はどうなっているのだろうか。英語には日本語の「は」にあたるようなトピック表示専属の言語形式はない。そこでSubjectが文法的主語であると同時にトピック表示の役割も担っている。しかしSubjectはすでにキャラクター・アクションのキャラクター表示の役割も担っているわけだから、英語のSubjectは3つの役割を兼務していることになる。

英語のセンテンスでは基本的にトピック・コメントよりもキャラクター・アクションのほうが優先されるのだが、場合によってはトピック・コメントのほうを前面に押し出すことがある。この具体例を上に引き続いて『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』からの引用でみてみよう。

主語の逆転

英語で表現するときは数字や収益や見通しといったものよりも、企業や組織や個人を主語に構成する方が自然だということを具体的にみてきた。書き出しについてはその傾向が特に強く、これまでに取り上げてきた事例もほとんどは冒頭(新聞記事でいえばlead paragraph)の部分である。

ところが、文の後段ではその傾向は必ずしもはっきりしない。文の流れを受けて、これまで指摘してきたのとは逆の現象が起きることもある。

[原文] (A社は中国で新たに2000億円を投じてパソコンなど情報機器用部品の量産体制を整える。上海でファンモーターの一貫工場を11月末にも稼動させる。)(A社は)来年6月にはタイ、台湾の工場と合わせた月産台数を現在より約120万台多い約440万台に増やす。
[訳例] Following the production capacity hike, Company A plans to raise a combined monthly output of fan motrors at its factories in Shanghai, Thailand and Taiwan by around 1.2 million units to some 4.4 million units.
[直し] As a result of the increase in capacity, monthly output of fan motors at its factories in Shanghai, Thailand and Taiwan is set to rise by 1.2 million units to some 4.4 million by next June.
[解説] 翻訳の対象になったのは[原文]の( )に続く部分だが、文の流れが分かるようにパラグラフの前半を挿入した。
これまで見てきた事例からすれば、[原文]の「来年6月には…」以降の文の主語は「A社」になるはずで、[訳例]でも「A社」を主語にした。ところが、エディターの直しでは「月産台数」を主語にもってきた。「タイ、台湾の工場と合わせた月産台数は来年6月には現在より約120万台多い約440万台に引き上げられる」という意味の英語になり、A社の姿はどこにも見えない。また、ジャーナリズム英語ではできるだけ受動態の文を避けた方がよいとされるが、これはその原則に反しているようにもみえる。
「A社」を主語にしなかった理由はふたつ考えられる。まず、すぐ直前の文も「A社」が主語になっているので、ふたつ続けて同じ主語で文を作りたくないという意図がエディターに働いたこと(英語では、同じ主語の繰り返し使用を嫌う傾向が強い)。
第2の理由は、「A社」の代わりに「月産台数」を主語にすると受け身の文になるが、受動態になっても主体がA社だということがはっきりしているので、誤解の生ずる心配はないこと。
一般的に、ジャーナリズムの世界で受け身の英語が忌避されるのは、ニュースの基本要素である5W1H(who, when, what, where, why and how)のwho、つまり主体の部分がはっきりしなくなるからだ。ということは、主体が何であるか前後関係からはっきりしてさえいれば受動態の文を使っても構わないことになる。言い換えれば、受動態の文は一種の「主語隠し」のテクニックとして有効だということである。
(『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』、pp.28-9)

キャラクター・アクションの観点からみれば2つの文のいずれもA社がキャラクターだから、それをSubjectにおくというのが英語の基本的な考え方である。この筆者もそうしたようだ。しかしトピック・コメントという観点からみれば、ひとつめのセンテンスのトピックは「A社」だが、ふたつめのセンテンスについては「月産台数」にしたいとネイティブエディターは考えたのである。このようにキャラクター・アクション構造よりもトピックの流れのほうを優先するケースが英語では多々ある。こうしたトピックの流れは「トピック・ストリング」(Topic String)と呼ばれている。

ここでみられるように、英語においてはキャラクター・アクションとトピック・ストリングがお互いに矛盾するケースが多くみられる。あちらを立てればこちらが立たず、という状態である。その際には全体の流れのなかでどちらを選ぶほうがよいのかを熟考しなければならない。

キャラクター・アクション構造とトピック・ストリングのあいだでの調和をいかにはかるのか――これが英語のセンテンスづくりにとっての最大の課題のひとつといってよい。

5. クローズ/フレーズレベルのトピック・コメント

ここまではセンテンスのレベルで「キャラクター・アクション」「トピック・コメント」といったものを考えてきた。

しかしこうした意味構造はセンテンスレベルだけではなく、じつはクローズ(節)やフレーズ(句)のレベルにも存在する。その具体例を上に引き続いて『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』からの引用でみてみよう。

語順・修飾語
日本語では形容詞または形容句は修飾されることばの必ず前に置かれる。これは例外なしに言えることで、日本語の大きな特徴のひとつになっている。(略)
実は、英語にはこのように、名詞が形容詞句を従えるケースがかなりある。そんなことは翻訳者にとって常識になっているのだが、いざ日本語の原稿を手元において翻訳に取りかかると、どうしても日本語の影響を受け、日本語的発想の英語になってしまう。

[原文] 邦銀の信用度に不安が広がる恐れがある。
[訳例] Concern over many Japanese commercial banks’ coreditworthiness could intensify.
[直し] Questions about the creditworthiness of many Japanese banks could intensify..
[解説] creditworthinessをmanyの前に移動させ、ofを接着材にしてmany以下を続ける。

[原文] ソニーと三洋電機は安価で画質のよい新型TFT(薄膜トランジスタ)方式液晶表示装置(LCD)の共同生産に合意した。
[訳例] Sony Corp. and Sanyo Electric Co. have agreed to joint production of cost competitive and high picture quality thin-film transistor liquid crystal displays.
[直し] Sony Corp. and Sanyo Electric Co. have agreed to produce jointly thin-film transistor liquid crystal displays that are more cost competitive and higher in quality.
[解説] [約例]の修飾部分(斜体部)はどうみても長すぎる。thin-film…以下を前に出し、修飾部分をthatの後に移動させて改修工事を完了した。
(『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』、pp.37-44)

筆者によると、英語では日本のように「AのB」とはならずB of Aのように名詞プラス前置詞句のかたちが使われるが、日本語の「AのB」を翻訳するときには「A(’s) B」になることが多い。そこで第一の文例では「邦銀の信用度」→Japanese commercial banks’ creditworthinessという「日本語的発想英語」をエディターがthe creditworthiness of many Japanese banksという「英語らしい」B of A型に修正したというわけだ。

残念ながら、この考え方は間違っている。「AのB」とB of Aは言語形式として本質的に異なるからである。

「AのB」とB of Aを「トピック・コメント」構造としてとらえてみると、いずれも前がトピック、うしろがコメントである。「邦銀の信用度」だと邦銀がトピック、信用度がコメントだ。邦銀についてこれから何かを述べるとまず宣言し、その述べる内容が信用度である。the creditworthiness of many Japanese banksだとthe creditworthinessがトピック、many Japanese banksがコメントである。まずthe creditworthinessについてこれから何か述べると宣言し、その述べる内容がmany Japanese banksだ。

つまり「邦銀の信用度」とthe creditworthiness of many Japanese banksとではトピックが異なる。いっぽうは「邦銀」、いっぽうはthe creditworthinessである。したがって厳密にいえばこの2つは意味が異なる。トピックが違うのだから。

第二の文例では「安価で画質のよい新型TFT方式液晶表示装置」とthin-film transistor liquid crystal displays that are more cost competitive and higher in qualityが一対一対応させられいる。これはフレーズ(節)同士の対応例である。日本語では

安価で画質のよい
新型TFT方式液晶表示装置

英語では

thin-film transistor liquid crystal displays
that are more cost competitive and higher in quality

というわけだ。

ここでもトピック・コメント構造の観点からみれば、日本語のトピックは「安価で画質のよい」で、英語はthin-film transistor liquid crystal displaysと、日英で食い違っている。

もう少しくわしく説明しよう。たとえば、あなたが友人との会話のなかで「ところでさー、安くて性能のいいさー」とまでいわれたとする。あなたはおそらく、安くて性能のいい何かについて、これから話題が展開するのだろう、つまり「安くて性能のいい」に対するなんらかのコメントがあるのだろうと、待ち構えることだろう。したがって、ここまでの会話でのトピックは「安くて性能のいい」である。

そしてこの発話のあとに「液晶テレビがさー」とつづけば、ここで会話のトピックは「液晶テレビ」へとうつる。そしてあなたはその(安くて性能のいい)液晶テレビについて、これから何かのコメントがあるのだろうと待ち構える。

このように、あるトピックに対するコメントが述べられ、そのコメントが今度はトピックとなり、それに対するコメントが述べられ、それがまたトピックになり、それに対する……というように、トピックはどんどんと入れ替わっていく。これが「トピック・ストリング」である。

英語をみてみよう。まずHey, they’ve agreed, you know, to produce TFT LCDs, you know….と聞こえてくる。そこで彼らの生産に合意したTFT LCDsとはいったいどんなものだろうかと、あたらしい「コメント」があることを待ち構える。そうするとthat are more cost competitive and higher in qualityと聞こえてくる。この時点で、トピックがTFT LCDs、コメントがthat are more cost competitive and higher in qualityというトピック・コメント構造が成立している。

このように「トピック・コメント」構造はセンテンスレベルだけでなく、それよりも小さな単位であるクローズ(節)やフレーズ(句)のレベルにも存在する。したがって日本語と英語のように語(句)の順番が異なる場合には、それがトピック・コメント構造に反映されるために意味もまた異なってくるわけだ。すなわち「AのB」とB of Aとは同一の意味ではなく、「Aである(する)B」とB that (which) Aとは同じ意味ではないということである。

上に述べたことは日本語と英語の本質的な違いのひとつであり、翻訳にとってもっとも重要なポイントの一つだが、従来の翻訳論のなかではほぼ完全に無視されてきた。その理由はよくわからないが、重要なことはそれによって日本の翻訳全体が大きくゆがめられてきたという事実である。だから翻訳文は読みにくい。これからの翻訳では、この点をぜひとも是正していきたいものである。

6. 受動態

日本人の書く英語には受動態が多いとされるが、じつは英米人の書く英語にも受動態はかなり多い。とくにアカデミーズ(学問文体)、リーガリーズ(法律文体)、ビューロクラティーズ(お役所文体)などは受動態のオンパレードだ。

英語の文章指南のバイブル的存在、Elements of Styleのアドバイスは「不要な受動態を使うな」だ。ということは実際にはそれほど不要な受動態が多く使われているということである。こと受動態の使用に関しては日本人と欧米人の差というよりも個人の差が大きいといえる。

受動態には3つの機能がある。(詳しくは『学び方』を参照のこと。)

サブジェクト(トピック)を変える。
The window was broken by John.

行為者が不明
My car has been stolen.

客観的かつ権威的なイメージをつくる。
It was found that data concerning energy resources allocated to the states were not obtained.

(1)が受動態の本来の使い方である。 (2)については例文のように行為者が不明であれば仕方のない。しかしたんに責任のがれなどのために行為者を不明にすることも多い(It has beeen decided that…)。(3)は有害無益の使い方である。Elements of Styleがその使用を戒めているのは、(2)の一部と(3)の使い方だ。

日本人が英文を書く際にもElements of Styleの教えに従えばよい。すなわち(1)および(2)の一部の場合を除き、受動態は極力使わないようにすべきである。

7. 時制/アスペクト

そもそも英語における「時制」と「アスペクト」という二本立ての概念が日本語にはない。時間というものの捉え方が彼我で本質的に異なるからである。あるいは英語と日本語が異なるというのではなく近代ヨーロッパとその他の世界が異なるといったほうが正確だろう。ヘブライ語、中国語、朝鮮語などにもヨーロッパ的な時制はないからだ。

日本語の世界では「~だった」「~でした」は過去ではなく完了状態を表す言語形式である。またこの場合の「完了」は物理的完了だけでなく心理的完了でもある。バス停でバスを待っていて遠くにバスがみえれば「あっ、バスがきた」という。これはバスがくるということが心理的にはすでに完了しているからである。

時制/アスペクトの本質について詳しく知りたい方は、安藤貞雄の『現代英文法講義』の「時制と相」の章をぜひお読みいただきたい。以下、その一部のみを引用しておく。

まず、時(time)と時制(tense)の区別を明確にしておかなければならない。「時」は、「過去・現在・未来」などの、言語外の普遍的な概念(傍点は成瀬、以下同じ)であるのに対して、「時制は、ある動作・状態が発話時よりも前か後か、それとも同時かという時間関係を、動詞の形式によって表す文法範疇(grammatical category)である。したがって、テンスの体系は言語ごとに異なることもあるし、テンスをもたない言語さえある(例えば、古代アラビア語、ヘブライ語、中国語、そして、(筆者の研究では)日本語にも、テンスは存在しない。これらの言語は、時間関係をアスペクト(aspect)によって表すのである。)
英語には、時制は2種類しかない。すなわち、現在時制(present tense)と過去時制(past tense)――より厳密には、非過去(non-past)と過去(past)――の二つである。(略)
なお、「will/shall +裸不定詞」の形式は、二つの理由で「未来時制」(future tense)とは見ない。第一に、will/shallは時制的には現在時制であり、指示するときも発話時にほかならないからである。(略)第二に、will/shallは、時制の形式素(formative)とするにはあまりにも辞書的意味が豊かすぎるからである。
『現代英文法講義』p. 68

8. 進行形

「~している」イコール進行形という思い込みがあるからだろうか、日本人の書く英語には不要な進行形がかなり多い。

『新聞記事翻訳の現場から 和英翻訳ハンドブック』の例を挙げよう。

[原文] A社は年間20万台規模でテレビを生産している。
[訳例] Company A is now turning out 200,000 TV sets a year.
[直し] Company A currently produces 200,000 TV sets a year.

[原文] 自動車メーカーは夏休みの延長を検討している。
[訳例] Carmakers are planning long holidays.
[直し] Automakers plan relatively long holidays.

もちろん「~している」と進行形が対応するケースもある。しかし基本的には関係が薄いと考えてよい。英語の進行形の本質は「動き」のイメージだ。いっぽう「~している」の「いる」にはそうしたイメージはなく、どちらかといえば静的なイメージだ。ようするに本質が違う。

9. 叙想法

多くの日本人に欠けているのが「法」(mood)概念である。

英語には叙実法(直説法、indicative mood)、命令法(imperative mood)、叙想法(仮定法、subjunctive mood)という3つの「法」がある 。「叙実法(直説法)」とはものごとを「事実として(as a fact)」述べるやり方、「命令法」とはまさに命令をするやり方、そして「叙想法(仮定法)」とはものごとを現実の事実としてではなく一つの「想念」すなわち話し手の心の中で考えられたこととして、あるいは仮想世界の状況として述べるやり方である。

このうちの叙実法と叙想法の区別が日本人についていない。叙想法とはif節のことだと思っているケースも少なくないようだ。

重要なことは、英語の世界では事実と事実として認識しているときと、現実の事実ではなく自分の心のなかにあるだと認識しているときとでは、言葉としての表現形式そのものが違うということである。ところが日本語の世界にはそうした区別がない。そのためこの英語的な世界観の理解が浅い部分でとどまりがちだ。

ところで実際の言語形式としては英語では動詞や助動詞の時制を過去へとずらすことで「現実離れ感」つまり想念を表現することができる。

じつは英語という言語は西欧言語としては本来あるはずの叙想法語尾変化をすでに失ってしまった言語である。そのために「時制ずらし」の方法を叙想法として利用しているのだ。

たとえば名探偵シャーロック・ホームズのセリフのなかに To fly would be a confession of guilt. というものがある。このwouldが叙想法である。これを「逃亡は罪の告白だろう」と訳すのはよろしくない。「逃げ出すようなら罪を認めたようなものだ」ぐらいがよい。この場合「逃亡する」という行為はまだ事実ではなく、ホームズの心にある想念にすぎないからだ。

10. 名詞化

名詞化(Nominalization)とは、動詞を変形して名詞にすることで、そこから権威的イメージや知的イメージを引き出そうとする方法である。

いくつかの名詞化表現をみてみよう。

1. We must select candidates more carefully.
→ A need exists for greater candidate selection efficiently.
2. He may approve of it ahead of time.
→ There is the possibility of prior approval of it.
3. We investigated it.
→ We conducted an investigation of it.
4. They reviewed the regulations.
→ A review was done of the regulation.

センテンスの内容は同じなのだが、書き換えたセンテンスのほうが書き換える前のものよりも「えらそう」で「賢そう」にみえる。これが名詞化の名詞化たるゆえんである。もしあなたが自分をえらそうで賢そうにみせたいのならば、下のように名詞化したセンテンスを書くようにすればよい。二流以下の官僚たちや学者たちがよく使う手である。一流の官僚や学者はそういうことはしないが、世の中には一流よりも二流以下の人間のほうがずっと多いので、こうしたセンテンスは一般的に受けがよい。したがって書けるようになっておいて損はない。ただし悪文はしょせん悪文なのだから、それに染まってしまわないように気をつけなければならない。

名詞化されたセンテンスの特徴は「よわい」動詞が多用されるということだ。弱い動詞とはこの4例でいえば、be動詞、exist、conduct、doである。いずれも他の動詞をたんに支えるだけの役割であり、それ自身はたいした意味をもたない。これが「よわい」(Weak)動詞だ。「よわい」は日本の美学では意味があるのかもしれないが、英米の感覚ではWeakはたんなるBadの同義語だ。できるだけ避けたほうがよい。

11. 冠詞

冠詞とはどういうものかについては『新しい英語の学び方』で詳しく説明している。まずはそちらを読み、冠詞という言語形式とは何かを理解してもらいたい。大事なことはまず本質をしっかりとつかむことである。いくらたくさん用法を覚えこんでも本当の意味で使えるようにはならない。

英語を書く際に冠詞が具体的に問題になるのは、名詞に冠詞をつけるべきかつけざるべきという選択だろう。覚えておいてよいのは、日本人の書く英語では、無冠詞の名詞が少なく、不定冠詞(a)のついた名詞はしばしば間違って使われ、そして定冠詞(the)のついた名詞はあまりにも使われすぎるということだ。マーク・ピーターセンが『日本人の英語』で紹介している例を2つ挙げておく。

Last night, I ate a chicken in the backyard.
(昨夜、裏庭でにわとりを一羽、食べた)

これはおそらくLast night, I ate chicken in the backyard.の間違いだ。Chickenであれば抽象的なイメージ、つまり「鶏というもの→鶏肉」だが、不定冠詞のaをつけてしまうと具象物である「一羽の鶏」になってしまう。この話者がキツネであればこれでもよいが、人間だとするとかなりシュールな光景だ。

The international understanding is a commonly important problem in both the West and Japan.
(その国際理解は西欧日本双方に共通の重要課題である)

これはおそらく以下のような意味を述べたのだろうとピーターセンはいう。

International understanding is an issue of wide importance to both Japan and the West.

The international understandingとすると、すでに特定化されている「国際理解」ということになる。したがってその前にその説明もなく突然にThe international understandingと出てくると、読者は「ほら、あの国際理解は、」といわれているような気分になる。「ほら、あの」などと突然いわれても…ということだ。

覚えておくべきは、Last night, I ate a chicken in the backyard.もThe international understanding is a commonly important problem in both the West and Japan.も、間違いではないということだ。「間違っている」ではなく、たんに意味が「違う」のである。

すでに述べたようにLast night, I ate a chicken in the backyard.のIがキツネなら、これ以外には考えられない。Last night, I ate chicken in the backyard.だと、キツネが裏庭でバーベキューパーティをしていることになる。

ようするに冠詞のついた名詞とつかない名詞とは完全に別物だということである。このことをピーターセンは「名詞に冠詞(a, the)がつくのではなく、冠詞に名詞がつくのだ」という言い方をしている。つまり、the(ほら、あの、「あれ」だよ)とまず述べておき、その説明としてinternational understanding(そう、「国際理解」さ)をつぎに述べる、という感じである。

12. 助動詞

助動詞(auxiliary verb)は、日本人の英語学習のなかで意外な穴となっている。これには2つの理由がある。

ひとつは、can=「できる」、must=「なければならない」、may=「かもしれない」といいった具合に、英語の助動詞と日本語の文末表現がほぼ一対一対応すると「誤解」されているからである。もちろん、こうした一対一対応など現実には存在しない。

もうひとつは、助動詞には話し手の心的態度をあらわる「法性(モダリティ)」の担う役割があるのだが、「8. 叙想法」のところで述べたように、この「法」という概念が日本人になじみのないものだからである。

助動詞とは何かの説明を安藤貞雄の『現代英文法講義』から引用しておく。

2種類の助動詞
英語の助動詞は、Twandell (1960)に従い、次の2種類に分けることができる。
a. 一次助動詞: be, have, do
b. 二次助動詞: can/could, may/might, must, will/would, shall/should, ought, need, dare, used
「一次助動詞」(primary auxiliaries)のうち、beは進行形・受動態に用いられ、haveは完了形に、doは疑問文・否定文・強調などに用いられる。いずれも語彙的な意味をもたない文法形式素(formative)である。
「二次助動詞」(secondary auxiliaries)は,一般に「法助動詞」(modal auxiliaries, modals)と呼ばれ、文の表す出来事又は命題に対する<可能・必要・意思・推量>など話し手の心的態度を表すものとして、明確な語彙的意味をもっている。
(『現代英文法講義』、p.161)

「一次助動詞」のほうは問題ないだろう。問題は「二次助動詞」つまり「法助動詞」の使い分けだ。これについても『現代英文法講義』に<義務>の強さの段階と<確実性>の強さの段階の一覧表が載っているので、それを紹介しておく。

(2) <義務>の強さの度合い
Less intense He should go tomorrow.
He ought to go tomorrow.
He needs to go tomorrow.
He has to go tomorrow.
He must go tomorrow.
More intense He shall go tomorrow.

(3) <確実性>の度合い
Uncertain That could be John.
That might be John.
That may be John.
That should be John.
That would be John.
That ought to be John.
That has to be John.
That will be John.
That must be John.
Certain That is John.

13. 前置詞

前置詞の使い方でも絶対にやってはいけないのは、英語の前置詞と日本語の助詞を一対一対応させることだ。of=「の」、to=「に、へ」、at=「で」というものだ。これをした瞬間に英語の学習はジエンドだというぐらいの気持ちでいてほしい。

では前置詞はどのように理解するのかといえば、いまでは空間的イメージ図を使うのが一般的になっている。前置詞の空間イメージ図の簡単なものを下にあげておく。

画像3

もっと詳しいイメージ図が多くの本で紹介されている 。それらを活用してもらいたい。

14. センテンスの接続

センテンスとはテキストという建物をつくるための材料つまり「レンガ」である。だがそのレンガがあまりに小さすぎると強固な建物はつくれない。そこで小さなレンガ同士を結合させて大きなレンガにする作業が必要となる。こうした作業がうまくできるようになることが我々の目標のひとつである。まずいくつか例を挙げておこう。

Ken Heebner increased his commodities exposure in 2005. / He shorted mortgage lender Countrywide in 2005. / All of the strategies has made him big gains.
→ Ken Heebner increased his commodities exposure in 2005, and shorted mortgage lender Countrywide in 2005, all of which has made him big gains.

The Bordeaux wine prices shot up. / It was due to the limited quantity and high demand. / That made for a lively futures market.
→ The Bordeaux wine prices shot up due to the limited quantity and high demand, making for a lively futures market.

Video games are no longer just for kids. / They make up a fast-growing, $19 billion industry. / The market is perhaps as much pop-cultural significance as Hollywood.
→ Video games are no longer just for kids: they make up a fast-growing, $19 billion industry with perhaps as much pop-cultural significance as Hollywood.

U.S. corporations are reducing and eliminating health care coverage. / That makes government measures increasingly necessary.
→ U.S. corporations are reducing and eliminating health care coverage, making government measures increasingly necessary.

Some analysts predicts that oil could hit $200 a barrel. / Nuclear energy is increasingly looking like a good possible alternative.
→ With some analysts predicting that oil could hit $200 a barrel, nuclear energy is increasingly looking like a good possible alternative.

Tequila is a distinctive Mexican alcoholic drink. / is made with juice from the blue agave plant. / Under law only the western state of Jalisco is allowed to produce the drink.
→ Tequila, a distinctive Mexican alcoholic drink, is made with juice from the blue agave plant, and under law only the western state of Jalisco is allowed to produce the drink.

では具体的にどのようにしてセンテンスを結合させるのか。いくつかのパターンにわけて説明しておく(以下、例文はWriting Academic English, Alice Oshima/Ann Hogue, Pearson/Longmanより抜粋)。

接続詞を使う

もっともシンプルなつなげ方はand, but, or, yet, so, forなどの接続詞をつかっての結合である。上に挙げたもののほかにも接続詞/句にはじつにさまざまな表現がある。以下に一覧のかたちで示しておく。

同一同様のアイデアをつなげる――also, besides, furthermore, in addition, moreover, as well, too
例1:Community colleges offer preparation for many occupations; also/besides/furthermore/in addition/moreover, they prepare students to transfer to a four-year college or university.
例2:Community colleges offer preparation for many occupations; they prepare students to transfer to a four-year college or university as well.
例3:Community colleges offer preparation for many occupations; they prepare students to transfer to a four-year college or university, too.

予想外の情報をつなげる――however, nevertheless, nonetheless, still
例:The cost of attending a community college is low; however/nevertheless/nonetheless/ still, many students need financial aid.

対照的な情報をつなげる――on the other hand, in contrast
例:Tuition at a community college is low; on the other hand/in contrast, tuition at private schools is high.

代替的な情報をつなげる――otherwise
例:Students must make final exams; otherwise, they will receive a grade of incomplete.

予想される結果とつなげる――accordingly, as a result, consequently, hence, therefore, thus
例:Native and nonnative English speakers have different needs; accordingly/as a result/consequently/hence/therefore/thus, most schools provide separate English classes for each group.

例示をつなげる――for example, for instance
例:Most colleges now have a writing requirement for graduation; for example/for instance, students at my college must pass a writing test before they register for their final semester.

セミコロンを使う

具体的な接続表現を用いずセミコロンだけでセンテンスをつなぐことも可能である。

例:Poland was the first Eastern European country to turn away from communism; others soon followed.

副詞節を使う
もうひとつのポピュラーなつなげ方はセンテンスのいくつかを従属節にすることだ。まず副詞節からみてみることにする。

例:Women in the United States could not vote until 1920. / They could own property.
→ Although women in the United States could own property, they could not vote until 1920.

副詞節をみちびく接続表現もきわめて多彩である。以下にまとめてみよう

「時間」に関するもの――when, whenever, while, as soon as, after, since, as, before, until
例:Whenever I had to speak in front of people, I was paralyzed by fear.

「場所」に関するもの――where, wherever, everywhere, anywhere
例:Can you use an ATM card everywhere you shop?

「距離」「頻度」「方法」などに関するもの――as + adverb + as, as if/as though
例:She runs on the beach as far as she can..
I tried to act as if I were not afraid.

「理由」に関するもの――because, since, as
例:Since I need to make speeches for career advancement, I enjoyed in a speech class.

「目的」に関するもの――so that, in order that
例:I took a speech class so that I could overcome my fear of public speaking.

「結果」に関するもの――so + adjective/adverb + that, such a(n) + noun + that, so much/little + noun + that, so many/few + noun +that
例:At first, making a speech made me so nervous that I got a stomachaches before every class.

「予期しない結果」に関するもの――although, even though, though
例:Even though I am a successful business executive, I still do not enjoy speaking in public.

「対照的」に関するもの――while, whereas
例:At social events, I like to talk quietly with one or two people, whereas my girlfriend enjoys being in the center of a crowd.

「条件」に関するもの――if, unless
例:If I hadn’t taken that speech class in college, I wouldn’t be able to do my job well.

形容詞節を使う

人にwho、ものにthat, which、制限用法、非制限用法などといった基本事項については学校でみっちりと教わったことだろう。ここでは、関係代名詞を前置詞などとともに使うやり方を少し説明しておくことにする。

第一は「前置詞プラス関係代名詞」という使い方だ。例文を挙げておく。

例:1. No one had read the book. / He quoted from the book.
→ No one had read the book from which he quoted.

上のセンテンスは以下のように書くこともできる。
2. No one had read the book which he quoted from.
3. No one had read the book that he quoted from.
4. No one had read the book he quoted from.

最初の1が「フォーマル」な書き方であり、下の3つは「インフォーマル」な書き方とされる。

なぜfrom whichがフォーマルでwhich….fromがインフォーマルかというと、前置詞と代名詞を切り離すことは論理的でない(前置詞なのだから)という理屈である。これは18世紀につくられた人工的な文法規則なのだが、いまでも英米人のなかである程度信じられているようである。そのため公式文書や学術論文には最初のフォーマル形式の使用が勧められることが多い。だが実際には下の3つのセンテンスも公式文書や論文のなかでよく用いられている。こうした区別はいちおう知っておくべきだが、あまり大げさには考えないほうがよい。

第二は「名詞プラス前置詞プラス代名詞」という使い方だ。いくつか例を挙げよう。いずれも量や質に関する表現であるところに気をつけてほしい。

例:
1. He gave two answers. / Both of them were correct.
→ He gave two answers, both of which were correct.

2. She has three daughters. / The oldest of them is studying abroad.
→ She has three daughters, the oldest of whom is studying abroad.

3. The citizens of Puerto Rico are well educated. / Ninety percent of them are literate.
→ The citizens of Puerto Rico, ninety percent of whom are literate, are well educated,

4. There are many delicious tropical fruits in Puerto Rico. / I have never tasted most of them before.
→ There are many delicious tropical fruits in Puerto Rico, most of which I have never tasted before.

名詞節を使う
最後に名詞節を使う例をいくつか挙げておこう。なかでもwhat節をうまく使えるようになると英文ライティングの幅が大きく広がるはずだ。

例:There is a hole in the ozone layer of Earth’s atmosphere. / That is well known.
→ That there is a hole in the ozone layer of Earth’s atmosphere is well known.

例:Show me the thing. / You bought it.
→ Show me what you bought.

分詞構文を使う

人間はわかりきっていることはいいたくないものだ。例えば日本語ではトピックとなる表現(~は)は一度いえば、あとは省略されてしまう。同様に、英語でもわかりきったことはできるだけ省略しようとする。それが分詞構文という省略形を生みだしていると考えてよい。

したがって構文面からいえば、分詞構文とは関係節、等位節、副詞節などの「簡易バージョン」というのが、その本質といえる。分詞構文では、能動態には現在分詞(-ing形)、受動態には過去分詞(-ed形など)を使うことで主語などを省略することができる。繰り返すが、ここでの-ing形や-ed形に「進行」や「過去」といった意味は何もない。たんに-ing形は能動態、-ed形は受動態を指し示すだけである。

いっぽう意味面からみてみると、分詞構文とは「トピック・コメント」のコメント部分にあたるものである。その前にあるトピック部分についてなんらかの補足説明をするのである。ちょっとしたことを言い足したいとき、理由を述べたいとき、もっと詳しく内容を展開したいときなど分詞構文はさまざまな用途に用いられる。だから便利なのだ。

では実際の使用例をみてみることにする。まず現在分詞を使った分詞構文からはじめよう。

Many students studying at this university are from foreign countries.
← Many students who study at this university are from foreign countries.(もとは現在形)

Students taking calculus must buy a graphing calculator.
← Students who are taking calculus must buy a graphing calculator.(もとは現在進行形)

The team members, looking happy after their victory, were cheered by the fans.
← The team members, who looked happy after their victory, were cheered by the fans.(もとは過去形)

Cheering wildly as the game ended, the crowd would not leave the stadium.
← The crowd, which was cheering wildly as the game ended, would not leave the stadium.(もとは過去進行形)

Everyone taking the TOEFL next month must pre-register.
← Everyone who will take the TOEFL next month must pre-register.

みてのとおり、分詞構文では時制・相はすべて無視され、すべて-ing形だけとなる。-ing形が表しているのはそれが能動態であるということだけだ。

同様のことが-ed形をつかった分詞構文にもいえる。例をみてみよう。ここでも-ed形はたんに受動態であることのマーカーにすぎない。

Lab reports not handed in by Friday will not be accepted.
← Lab reports that are not handed in by Friday will not be accepted.(もとは現在形)

The proposed law, oppressed by the majority of the people, did not pass.
← The proposed law, which was oppressed by the majority of the people, did not pass.(もとは過去形)

分詞構文で述べることが主文より以前であることを表現するには、以下のように現在完了形を利用する。

The secrets of the universe, having fascinated people for centuries, are slowly being revealed.

Having heard that most people opposed the new law, the senator voted against it.

when, before, since, after, whileなどではじまる時間表現の副詞節を分詞構文にするときには、それらを-ing形や-ed形のまえに残したままにしておくケースが多い。そこまで省略してしまうと、逆に言いたい意味がうまく伝わらなくなってしまうからだ。過ぎたるは及ばざるが如しである。

When entering a theater, you should turn off your cell phone.

Before choosing a college, a student should consider several factors.

Carlos has not been back home since coming to the United States three years ago.

After passing the TOEFL exam, he became a freshman in college.

While preparing for the TOEFL, he lived with a family.

When asked about his life in the United States, he said that he was enjoying himself but that he was a little homesick.

独立分詞構文を使う

主文と主語が異なる分詞構文のことを「独立分詞構文」という。これはきわめて格式的な表現、つまり堅苦しい表現であり、日常会話で使われることなど、まずない(冗談ならともかく)。しかし書き言葉としては、特に論文などでは、かなり頻繁に用いられている。覚えておいて決して損にはならない。例をいくつか挙げておく。

1. Other things being equal, the simplest explanation is the best.
← If other things are equal, the simplest explanation is the best.

2. He joined the group, his face beaming with interest.
← He joined the group. / His face beamed with interest.

3. All things considered, the proposal is not a bad one.
← If all things are considered, the proposal is not a bad one.

前に前置詞がつくこともある。

4. The car was upside down, with its wheels still turning.
← The car was upside down. / Its wheels was still turning.

5. He died with that word unsaid.
← He died. / He didn’t said that word.

挿入表現を使う

センテンスの途中に別のセンテンスを埋め込むというやり方である。形式としてはダッシュを使う、マルカッコを使う、の2つがある。このうちダッシュを使うほうが一般的だ。例を挙げておく。

All that a pacifist can undertake—but it is a very great deal—is to refuse to kill, injure, or otherwise cause suffering to another human creature.

Narcissus ignored Echo so completely (how could he? she was such a lovely nymph!) that she just faded away.

挿入という手法は、もちろん完全なセンテンスだけでなくワードやフレーズにも使える手法である。

Donuts and Danish pastries, popular breakfast foods, contain little nutrition.

Typewriters, once common in schools and offices, are rarely seen or used now.

Wolves—once feared and killed—are being reintroduced into the environment.

A small drop of ink, falling (as Byron said) like dew upon a thought, can make millions think.

こうした挿入表現は、日本人の書く英語にはずいぶんと少ない。もっと積極的に活用すべきである。表現の幅がぐんと広くなるはずだ。

15. 「よいセンテンス」とは

英語ネイティブにとって「よいセンテンス」とはどのようなものなのか。

それは、十分なワード量を持ち、秩序ある内容が、無駄なく、変化に富んだかたちで、リズム感よく詰め込まれているセンテンスである。

具体的にみていこう。

まずワード量でいえば、平均20~30ワード程度が望ましいとされている。英語は短いセンテンスを嫌うのだ。

内容については秩序正しいことが必須条件となる。特に論理的な整合性があることが重要である。

内容を無駄なく詰め込むためには繰り返し語彙があってはならない。代名詞や弱い動詞も少ないほうがよい。

構造については、ワンセンテンスに分詞構文、従属節、前置詞句などさまざまな構文形式が利用されているもののほうがよい。英語は単調さを嫌うからだ。そ
してセンテンス全体をつうじてリズムが感じられれば、さらによい。英語は音声的イメージを重視する言語である。

こうした「よいセンテンス」の例をStyleからみてみよう。以下の例では、[1]のシンプルな4つのセンテンスを[2]の複雑な構造のワンセンテンスへと結合することで、よいセンテンスをつくりあげている。

[1]
In 1861, Czar Alexander II emancipated the Russian serfs. Many of them chose to live on agricultural communes. There they thought they could cooperate with one another in agricultural production. They could also create a stable social structure.

[2]
After the Russian serfs were emancipated by Czar Alexander II in 1861, many chose to live on agricultural communes, hoping they could cooperate in working the land and establish a stable social structure.

ワード数は[1]の4つのセンテンス平均が9ワード、[2]は33ワードだ。 [1]ではtheyの繰り返しが目立つ。[2]はそうした無駄がない。構文的には、[1]はきわめて単調だが、[2]はバラエティに富んでいる。リズムをみれば、[2]のほうが[1]よりも明らかにリズミカルである。

さあ、これでセンテンスに関する基本知識の解説が終わった。あとは実践あるのみだ。

実践演習

例題1

[問題]つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。

親ゆずりの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

[解説]
ご存知、夏目漱石の『坊ちゃん』の出だしの一文である。これを英語で表現すると、さてどうなるのか。

とにかくまずは自分で英文にしてみてほしい。できれば一つだけではなく、さまざまなバリエーションをつくっていただきたい。たくさんつくればつくるほどライティング力が増すはずだ。

その際に注意すべきが、上に列挙したさまざまな基本事項である。たとえば、英語の黄金律はSVOであるから(1参照)、まずSVOのかたちになるかどうかを検討すればよいだろう。そしてSubjectにくるのは何か、Objectとなるのは何かなどを考えてみることだ。
つぎに、意味面から「キャラクター・アクション」の構造を把握することだ(3参照)。「何(誰)が何をする」のかをつかまえるのだ。同時に「トピック・コメント」の構造も把握しなければならない(4参照)。この2つの構造がうまく両立できるかどうかがセンテンスづくりでの大きなポイントの一つとなる。

ではSVO、キャラクター・アクション、トピック・コメントという基本検討事項を頭に入れつつ、上の日本語でいいたいことを英語で表現してみることにしよう。

Subjectを決める

「私」を主語にする

まずSubjectの検討からはじめてみよう。何にするべきか。

日本人として第一感はおそらく「私」つまり“I”だろう。とすると「私は損をする」がセンテンスの骨格となる。I lose something. / I have troubles. / I get disadvantages.などだ。これに時制・アスペクト(7参照)、進行形(8参照)、センテンスの接続(14参照)などを利用しながら英文をふくらませていくと、たとえば次のようなセンテンスができることになる。

Since I was a child, I have been always losing something because of the reckless character inherited from my parents.
Since my childhood, with my recklessness inherited from the parents, I have always had troubles.
I have been always getting disadvantages since my childhood because I inherited from my parents a reckless character.

もちろんこれ以外にもさまざまなバリエーションが考えられる。だがいずれにしろすべてSubjectは「私」で、文型はSVOである。「私が損をする」というセンテンスの骨格は変わらないはずだ。

『坊ちゃん』には数多くの英訳書が出ている。そのなかでこのかたちを選んだ例をご紹介しよう。

Because of an hereditary recklessness, I have been playing always a losing game since my childhood. (Botchan, Yasutaro Morri, Echo Library)

この例では I play a game というSVOを骨格におき、それに時制・アスペクト、進行形、名詞化、センテンスの連結などを利用してセンテンスを肉付けしている。私たちがここまで検討してきたまさにそのかたちだ。

「無鉄砲」を主語にする

では「私」以外にSubjectにもってくるものがあるとすればそれは何だろうか。「無鉄砲」である。「無鉄砲が(私に)損を生じさせる」「無鉄砲が損をつくりだす」といったかたちだ。

「無鉄砲」をSubjectにおいた例をいくつか挙げてみよう。

The recklessness I inherited from my parents has always been causing a loss since my childhood.
Since I was a child, the daringness inherent from my parents has always given me some troubles.
The boldness I inherited from my parents has always disadvantaged me since I was a child.

このかたちを使った例を翻訳書のなかから紹介する。

Ever since I was a child, my inherent recklessness has brought me nothing but trouble. (Botchan, Alan Turney, Kodansha International)

トピックを決める

ではSubjectを「私」にするのと「無鉄砲」にするのとではなにが違うのだろうか。トピックがちがうのである。「私」をSubjectにすれば私について何かを述べるのであり、「無鉄砲」をSubjectにすれば無鉄砲について何かを述べるのである。

どちらをトピックにもってきてもよさそうなものだが、書き言葉としての英語では「私」よりも「無鉄砲」をトピックにもってくるほうが一般的には好まれるようである。おそらくIというきわめて凡庸な語をSubjectにすることになんらかの抵抗感があるではないだろうか。

一般的に英語の書き言葉では、I, you, we, theyなどの代名詞はもちろんのこと、凡庸と思われる表現については、すべてSubjectに使いたがらないようだ。この感覚は「(おれは)親ゆずりの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」のように、話者などのトピック部分については最初から省略することのできる日本語の感覚では、なかなかにつかみがたい部分である。そのため私たちは英語を書く際にどうしてもIやWeなどを多用してしまいがちだ。英語の書き言葉では凡庸なSubjectは避けること、このことをよく覚えておいたほうがよいだろう。

最後に『坊ちゃん』の英訳書のなかから、もうひとつ例を紹介しておく。これはI am a loser.というSVCを骨格として組み立てられたものだが、ばりばりの文語調になっているところがおもしろい。でも「おれ」って自分のことを呼んでるべらんめえの江戸っ子の主人公が、こんな高尚な言葉遣いするのかなあ。

A great loser have I been ever since a child, having a rash, daring spirit, a spirit I inherited from my ancestors. (Botchan, Umeji Saski, Tuttle Pub.)

練習問題1

つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。ただしすべてSVO(またはその派生形であるSV, SVOO, SVOC)構文を使ってください。

知に働けば角が立つ。
1たす1は2。
あと数分歩けば駅です。
彼女は文章がうまい。
文章の良し悪しは最初の1ページをみればわかるものだ。
プロの翻訳では一つのミスが命取りになる。
今回の秋葉原の無差別殺人事件は大きなショックだった。
なぜあの男はあんなふうになってしまったんだろうか。
表1はA社のこの3年間の売上高と利益を示したものである。
これをみると売上高の急激な伸びと、一方で利益の伸び悩みがよくわかる。
今回の営業改善策の中心は営業部門と開発部門との協力体制の構築である。
今期中にこの目標を達成できないようならかなりやっかいなことになる。
新宿副都心線の開通で通勤がずいぶん楽になった。
資源価格の高騰で発展途上国の人々の生活は深刻なダメージを受けている。
2008年6月段階で日本の個人消費はおおむね横ばいとなっている。
フランス政府は温暖化ガス排出を大幅に削減するための包括対策に乗り出す。
A社の2009年3月期の連結フリーキャッシュフローは800億円前後の黒字となる見通しだ。黒字幅は前期実績(230億円の黒字)の3倍強に拡大する。
2008年6月発表の米農務省需給報告によると、2000年に30%超であった世界の穀物在庫率は2007年度には16%に急落し、直近では15%台で推移している。
ヒトのDNAを構成する塩基対の数は約30億で、1つの塩基対を1バイトとすれば3ギガバイトのデジタルデータになる。最新PCは30ギガバイトのデータ記憶容量があることから、パソコン1台に10人分の情報が入ることになる。
チンパンジーとヒトのDNAはほぼ共通と考えられてきたが、最新の研究によると両者の相違はずいぶんと大きいことが判明しつつある。

例題2

[問題]つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。

GDPとは、その国や地域で一定期間(1年間など)に生産された付加価値(最終生産物)の合計額のことです。

[解説]
SVOが英語の大スターだとすれば、SVCは英語になくてはならない名脇役である。若大将(加山雄三)に対する青大将(田中邦衛)といったところだ 。

SVCの基本的用法はSについてのCによる説明である。であるからこの例文のように何かの事象や現象や概念を説明する際には、つねにSVCが大活躍することになる。たとえばこの例文は以下のような英語にすることができる。
A nation’s GDP(S) is(V) the total additional value(C) (final product) that a nation or area produce during a set period (usually one year).

日本人が特に気をつけなければいけないのは、日本語の「Aは~である」をつねにSVCとして処理することは間違いだということである。

たとえば、上の練習問題9の「表1は5社の3年間の売上高と利益を示したものである。」を次のようにするのは、あまり英語らしくないということだ。
Table(S) 1 is(V) the presentation(C) of Company A’s sales and profit of the last three years.

以下のようなSVO構文のほうが英語らしい。
Table(S) 1 presents(V) Company A’s sales and(O) profit of the last three years.

上の英文が「間違っている」ということではない。通じるのだが、書き言葉の英語としてはどこかしら違和感があるということだ。「らしくない」のである。

ただ、この「A(と)は~(こと/もの)である」イコールSVC構文という感覚は日本人にきわめて強く根づいているようだ。

ハーバード大学ビジネススクール入学者65人の入試エッセイを集めた65 Successful Harvard Business School Application Essaysという本がある。ハーバード大学ビジネススクールに入学を許された世界中の学生たちのエッセイが掲載されている。当然のことながら、じつにさまざまなかたちの英語があるのだが、そのなかで出だしのセンテンスに「S is to …」のかたちを使っているのは、なんと日本人応募者ただ一人である。
My immediate goal(S) after getting an MBA is(V) to continue(C) working for a global consulting firm and to help foreign companies enter and excel in the Japanese market.

もちろん、これで通じる。通じるからこそ、彼女はハーバード大学ビジネススクールに晴れて入学できたのである。

ただ世界中の学生のなかで、このかたちをエッセイの出だしにもってきたのは日本人だけだという事実は、覚えておいて損はないだろう。ちなみにエッセイの出だしのセンテンスのSubjectは、65人中の約半数が I である。

練習問題2

つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。ただしすべてSVC構文を使ってください。

三角形の面積は底辺かける高さ割る2である。
それって面白そうだね。
彼の口実は、その日の朝の電車が遅れたというものだった。
山田は大バカのようにみえる。
あなたの手は冷たいですね。
結局は万事うまく収まりますよ。
そのビルならここから歩いて10分ですよ。
大事なことはパニクらないことだ。
私の理由はただ一つ、今晩仕事があるということです。
その学生はいつまでも黙っていた。

練習問題3
日本にはじめてやってきた外国人に説明するつもりで、SVCのかたちをつかって日本に関するさまざまな事象、現象、概念の説明をおこなってください(合計で20以上のセンテンスをつくること)。

例:万葉集とは、源氏物語とは、歌舞伎とは、落語とは、武士とは、士農工商とは、水戸黄門とは、アイヌとは、茶道とは、演歌とは、神仏混交とは、踏み絵とは、私小説とは、2.26事件とは、明治維新とは、「オタク」とは、SMAPとは、「いき」とは、「あわれ」とは、「もったいない」とは、などなど。

例題3

[問題]つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。

前期まで3期連続で赤字だったA社は今年は黒字に転換するとみられる。

[解説]
ここからは、2つのセンテンスをどうやって接続するかの練習に入ろう。

「14. センテンスの接続」では、接続詞、セミコロン、副詞節、形容詞節、名詞節、分詞構文、独立分詞構文、挿入表現、の8つの方法を紹介した。これらのテクニックをうまく使いこなせるようになろうというわけだ。

上の日本語は、(1)A社は前期まで3期連続で赤字だった。(2)A社は今年は黒字に転換するとみられる。という2つの内容に分けることができる。したがって(1), but (2)あるいはAlthough (1), (2)というふうに接続するとすると、以下のようなセンテンスになる。

Company A has been in the red for three consecutive years, but is likely to show a profit in this year.
Although Company A has been in the red for three consecutive years, it is likely to show a profit in this year.

ただ、このようにbutやalthoughをつかうと逆説のニュアンスが少し強すぎるようにも感じられる。「台風だった。しかし彼は外出した」なら納得できるが、「3年連続赤字だった。しかし今年は黒字だ」では逆説に対する論拠が少し弱い。これが30年連続赤字なら納得できるのだが 。

そこで関係節の出番となる。以下のとおりだ。

Company A, which has been in the red for three consecutive years, is likely to show a profit in this year.

これだと逆説の意味合いがなくなり、「3年連続赤字」はA社に対する説明にすぎなくなる。こんなふうにSubjectやObjectに付加的説明を行いたいときには、関係節がまさに大活躍する。しっかりとマスターしておきたい。

練習問題4

つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。ただしすべて関係節を使ってください。

目がすてきだとキミがいう女の子はわたしの姪だ。
昨日買っておいたケーキはどこだ。
学生たちは教授が説明することをいつでも無邪気に信じていた。
あれが香川のやつがずっと追っかけている娘だぜ。
私たちがいまいる遺跡は縄文人がつくったものです。
それこそまさに私が求めているものです。
そのコンサートには私の興味を引くものはほとんどない。
私がロンドンでみたタクシーの運転手とタクシーはとてもおもしろかった。
成瀬先生のしているネクタイはひどいものだ。
あなたって私が考えていたような男性じゃなかったみたい。
彼にはエンジニアになった息子が二人いる。
彼には息子が二人いるが、二人ともエンジニアになった。
靴になかに住んでいるおばあさんがいました。
この本は、著者がなんと95歳だが、とてもおもしろい。
彼は有名な医者で、彼については多くの記事が書かれている。
王は彼女に近う寄れといった。そこで彼女はそうした。
キミがほしいのに、もっていないものは何かありますか。
あの人はもう10年前のあの人じゃあないわ。
彼女はつつしみ深かった。若い女性はそうであるのが彼は好きだった。
たまたま田中さんに会ったら、パーティに招待してくれたのよ。

例題4

[問題]つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。

ソフトウェア会社の収益が回復してきた。上場14社の95度の経常損益は、12社が増益、1社が黒字に転換する見込みだ。

[解説]
関係節以外のセンテンスの接続方法の練習である。

上の問題文の内容は、(1)ソフトウェア会社の収益が回復してきた。(1)上場14社の95度の経常損益は12社が増益となる見込み。(3)(上場14社のうちの)1社は黒字に転換する見込み。の3つである。したがって、それぞれに分けると、たとえば以下のようになる。

Software developers are seeing an earnings recovery in fiscal 1995.
12 of 14 listed companies are expecting higher pretax profits.
another is expecting out of the red.

これをそのまま接続して以下のようにする方法もある。

Software developers are seeing an earnings recovery in fiscal 1995; 12 of 14 listed companies are expecting higher pretax profits, and another out of the red.

ただこれでは英文スタイルとしてかなり凡庸である。このセンテンスはNikkei Weeklyの記事の一部なのだが、このままでは英文ネイティブエディターからOKが出ないだろう(実際に出ていない)。そこでここで別のテクニックを使った例をみてみよう。下はNikkei Weeklyで実際に使われたセンテンスである。

Software developers are seeing an earnings recovery in fiscal 1995, with 12 of 14 listed firms expecting higher pretax profits and one software house hoping to more out of the red.

ここでは、完全なセンテンスである(2)の、12 of 14 listed companies are expecting higher pretax profits. が、with 12 of 14 listed firms expecting higher pretax profits という「フレーズ」表現(現在分詞句付きの前置詞句)になり、同様に、(3)のanother is expecting out of the red. も、(with ) one software house hoping to more out of the red to となっている。

このように、特にジャーナリズムの英語では複雑なセンテンスよりもシンプルなセンテンス、クローズ(節)よりもフレーズ(句)が好まれる。新聞は紙面スペースが限られており、同じことを伝えるならば1ワードでもよいから減らしたいという要求があること、よい英語の条件の第一が「無駄のないこと」だとされているということの2点が、こうした現象を生み出しているようだ。日本語に無理に当てはめるならば、「95度経常損益で上場14社中12社が増益見込み、1社が黒字転換見込みなど、ソフトウェア会社の収益が回復してきた。」といったところかもしれない。

このようなフレーズ表現の技法を覚えると、英文ライティングの幅がぐんと広がる。

練習問題5

つぎの日本語で述べられていることを英語で表現してください。ただしすべてひとつのセンテンスにしてください。

男はじっと私をみていた。右手にはナイフが握られていた。
表5-1は今回の調査結果である。それによると日本の消費者の意識は大きく変わりつつある。
環境を守るには利便性を多少犠牲にしてもかまわないとの回答が増えているのだ。こは20年前にはほとんど見られなかった消費者意識だ。
資源価格高騰で発展途上国の人々が大きなダメージを受けている、いっぽうで巨額の利益を得ているのが先進国の投機家たちである。
エンターテイメント部門の売上高は前年同期比で68%の増加となりました。これはXbox 360の需要が堅調に伸びていることによります。
今年度の純利益は1億2400万ドルだった。これは前年度からみて8億8500万ドル、率にして88%の下落である。主な要因としては、売上高の減少と引当金の増加が挙げられる。
社会的絆(きずな)は感受性と規範意識を向上させる。その結果、問題行動を抑制する。
レオナルド・ダ・ビンチはきわめて創造的な人間だった。彼はあふれるような好奇心につねにつき動かされ、またあらゆる芸術的表現の衝動に駆られていた。
彼は政治とは何かについて人々に疑問を投げかけていた。大人たちにはみずからの政治的義務について考えるように強制し、若者には既存の価値を疑うようにと奨励していた。
1939年、イギリスとドイツとの戦争において米国はイギリスへの支援を決定した。米国は、戦争が世界的なものになることをすでに予感していた。

II.パラグラフ

1. アカデミック・ライティング

まず確認しておかなければならないことは、実際の英語テキストは、じつに千差万別だということである。ジェームズ・ジョイスのような純文学的なテキストもあれば、ビジネスレターのような実務的なテキストもある。子ども向けのものもあれば、学者向けのものもある。決してひとくくりで説明できるようなものではない。じつに当たり前のことなのだが、まずこのことをしっかりと認識しておきたい。

そのことをしっかりと認識しつつも、しかしこれからここで取り上げる英語のテキストについては「アカデミック・ライティング」のみに焦点を絞ることにしたいと思う。
アカデミック・ライティングとは、その名前のとおり、学問分野でおもに使われるテキストタイプである。だが、それは学問だけではなく新聞や本などの知的領域のテキストとして幅広く利用されている。

アカデミック・ライティングの特徴を一言でいってしまえば、「パターン化」ということに尽きる。アカデミック・ライティングでは何をどう書くのかのパターンがすべて決まっている。まったくの型どおりなのである。日本の作文の授業のように「思ったように自由に書きなさい」とは対極の考え方だ。

そしてこの「型にはまった」ところが、日本人が英語ライティングをはじめる際には、最適の出発点になる。とにかく、決められた型どおりに書けばよいのだ。これなら、我々にも書けるはずだ。なまじっか「自由に書きなさい」などといわれると、結局は何も書けないで終わってしまう。まずはアカデミック・ライティングという型から入り、そしてその型から抜け出る――これが日本人の英語ライティング修行の正しい道筋である。

アカデミック・ライティングは応用範囲が広いだけに研究が進んでおり、学習用テキストブックも数多く出版されている。ここではそうしたテキストのなかから、Writing Academic English(Alice Oshima/Ann Hogue, Pearson/Longman)をベースに話をすすめていくことにする。

2. パラグラフと段落

センテンスがレンガだとすれば、パラグラフとはそのレンガでできた壁である。レンガをうまく積み上げないと壁は崩れしまう。この積み上げ方、つまりセンテンスとセンテンスとのつなぎ方がパラグラフをつくるうえでの最大のポイントである 。

日本語でパラグラフにあたるものは「段落」だとされている。しかしこれは正しくない。日本語における段落という概念は、明治初期に西欧の文章を見本としてつくられたものであるが 、文明開化のスピードがあまりに速すぎたため、パラグラフという概念の真髄を正確に導入することができなかった。そして「文章を適当に分けること」という上っ面だけの導入をしてしまった。そのために現在でも日本語の段落にはしっかりとした理論的基盤がない。たんに“フィーリング”で区切っているにすぎないのだ。文章システムとしてはじつにお粗末なものである。

いっぽう英語のパラグラフにはしっかりとした理論的基盤がある 。その一つが「ワンパラグラフ、ワントピック」の原則だ。基本的にこの原則を守らなければパラグラフとはいえない。したがって日本語の段落の多くはパラグラフではない。

パラグラフにはそのほかにもいくつかの原則がある。以下ではそうした原則を踏まえつつ、パラグラフの構造について解説していく。

3. パラグラフの構造

アカデミック・ライティングのパラグラフは、 (1)トピックセンテンス、(2)サポートセンテンス、(3)コンクルーディング・センテンスの3つのパートから成り立っている。ただしエッセイの最後のパラグラフ以外はコンクルーディング・センテンスがない場合が多い。図にすると以下のとおりだ。

画像4

(1) トピックセンテンス

アカデミック・ライティングではすべてのパラグラフにトピックセンテンスが一つだけある。一つもない、あるいは二つ以上ある、のいずれのケースも反則だ。トピックセンテンスが一つもなければ、そのパラグラフが何について述べたいのかがわからない。二つ以上あると、今度はトピックが多すぎて混乱してしまう。ワンパラグラフ、ワントピック。これが基本中の基本だ。

トピックセンテンスのなかにはトピックとコントローリングアイデアが含まれている。何について述べるのかを示すのがトピック、その範囲を具体的に決めるのがコントローリングアイデアだと考えてほしい。以下にいくつか例を挙げておく。

Driving on(topic) freeway requires skill and(controlling idea) alertness.
Registering for college(topic) classes can be a frustrating(controlling) experience(idea) for new students.
The rise(topic) of indie films is due to several(controlling) factors(idea).

トピックセンテンスは通常パラグラフの最初にくる。それ以外のケースもあるが、初心者は最初にもってくるのが常道だ。高度な技術は基本がしっかりできてからのことである。

トピックセンテンスは「適度に具体的」なものがよい。「政治は重要だ」「21世紀は環境の時代だ」などといったあまりに一般的すぎるものや、「福田首相の支持率は現在30%前後である」「現在のエアコンは10年前のエアコンよりも消費電力が約4分の1ですむ」などといった具体的すぎるものはトピックになりにくい。「政治の重要ポイントのひとつは選挙制度にある」「環境対策のひとつがエネルギー多消費型産業での省エネの促進である」といったものがよい。

(2) サポートセンテンス

トピックセンテンスに続いて、それをさらに具体的に説明したり証明したりするセンテンスをいくつかおく。これがサポートセンテンスだ。

サポートセンテンスの具体的な内容としては、(1)例示、(2)統計数値、(3)引用などがある。(1)の「例示」の例としては、たとえば「政治の重要ポイントのひとつは選挙制度にある」というトピックセンテンスに対して「日本やドイツでは国会議員のなかから首相を選ぶ議院内閣制をとっているが、米国やフランスでは直接選挙で大統領を選ぶ大統領制をとっている」といったサポートセンテンスが考えられる。 (2)の「統計数値」の例としては「環境対策のひとつがエネルギー多消費型産業での省エネの促進である」というトピックセンテンスに対して「省エネルギー技術動向調査によると、日本の産業部門のエネルギー消費量は、鉄鋼、化学、セメント、紙パルプのエネルギー多消費産業が6割を占める」といったサポートセンテンスが考えられる。(3)の「引用」の例としては「政治の重要ポイントのひとつは選挙制度にある」というトピックセンテンスに対して「J・S・ミルは「代議制統治論」のなかで『真に平等な民主政治においては、全党派がその数に比例して代表されるであろう』と述べている」というサポートセンテンスが考えられる。

サポートセンテンスは、ひとつだけでは物足りないことが多い。2つ、3つと積み重ねていくことでパラグラフに厚みが増してくる。

(3) コンクルーディング・センテンス

パラグラフの最後にもってくる「まとめ」のセンテンスである。まったく新しい「結論」ではないので、気をつけてほしい。通常はトピックセンテンスを別のかたちで言い換えるかたちをとる。その際に「ようするに(In conclusion, Thus, Thereforeなど)」「まとめていえば(In brief, In short, To sum upなど)」といった前ふりとなる文句をつけることが多い。たとえば「政治の重要ポイントのひとつは選挙制度にある」ではじまるパラグラフであれば、その後にさまざまなサポートセンテンスを連ねた後、コンクルーディング・センテンスとして「以上のことから、選挙制度のあり方が政治にとってきわめて重要な要素であることがよくわかる」といったものをもってくればよい。

コンクルーディング・センテンスがあることで、特に長いパラグラフの場合には、パラグラフ内容に対する読者の理解が強化され、また次のパラグラフへの移行もよりスムーズになる。ただし、短いセンテンスの場合にはコンクルーディング・センテンスがあると逆にうるさく感じることも多い。過ぎたるは及ばざるが如しということだ。

(4) つながり

パラグラフ内のセンテンスはすべてつながっていなければならない。パラグラフ内でバラバラ感があるのが一番まずい。

ではどうやればセンテンス間に明確なつながりが生まれるのか。Writing Academic Englishでは、次のようなアドバイスをしている。(1)キーワードを繰りかえす。(2)適切な接続表現を使う。(3)論理的展開をはかる。くわしくは同書をみてほしいが、たとえば、(1)ではJapaneseがキーワードであれば、Japaneseについてはあまり代名詞化することなく繰り返して使うということである。ただしまったく代名詞に置き換えないということではないので注意。うまいめりはりが必要だ。(2)の接続表現については日本人がなかなかうまく使いこなせないのが現状だ。同書のなかで主要な接続表現が一覧表になっているのでそれをみていただきたい。(3)の論理的展開については『論理トレーニング』(野矢茂樹、教育図書)というすばらしい本があるので、それをぜひ参考にしていただきた。

実践演習

例題1

[問題]つぎのトピックについて、トピックセンテンス(トピックとコントローリングアイデアを含む)、サポートセンテンス、コンクルーディング・センテンスから構成される英文パラグラフ(長さは全部で8~10センテンス程度)をつくってください。

翻訳の難しさについて

[解説]
まずパラグラフをつくるプロセスを説明しよう。第一にするべきはアイデア出しだ。とにかく思いつくことをすべて紙に書き出していく。今回の場合は、たとえばだが、次のようなものが考えられる。

翻訳はたしかに難しい。でもどこが難しい。文化の差、言語の差、それだけか。文化の差だとしたら、それはどんな面。言語の差といってもいろいろ。構造、発音、いや、発音はさすがに関係ないか。語彙はどうか。語彙の差はでかいぞ。けっこう見落としがちだけど。そもそも語彙レベルで翻訳はすでに不可能では。日本にはもともと漢語っていう「翻訳」があった。漢字の訓読みってようするに中国語の翻訳では。文化の差は、東洋と西洋という大ぐくりで考えるのか、それとも日英だけで考えるのか。翻訳って、ある程度はできるけど、ようするにヘンになることが多い。難しいとはこのへんを指すのか。そもそも翻訳って正解はあるのか。もし正解がないのなら、難しいも何もないじゃないか。で、文化の差、言語の差、のほかの困難点は?人間の差?ようするに翻訳受け入れ側のメンタリティの問題。日本人はちょっとぐらいヘンな翻訳文でも受け容れるけど、アメリカ人やイギリス人はそうではないぞ。ヘンな英語は受け容れない。たぶん中国人もそうだ¥。でも、これも文化の差の一部か……

こんなふうに思いつつままにメモを書きつらねる。量は多ければ多いほどよい。ほんとうに何も出なくなるまで、頭の中がすっからかんになるまで、とことん書く。これが出発点だ。

アイデアが出尽くすと、それをまとめる作業に入る。捨てるべきアイデアはいさぎよく捨てて、本当に役に立つと思われるアイデアだけをピックアップしていく。今回の場合は、たとえば次のようになる。

翻訳はどこが難しい → 言語構造の差、文化の差。メンタリティ。
言語の差 → 文法の差、語彙の差。
文化の差 → 東洋的/西洋的、日本的/英米的
受け入れ側のメンタリティ → 日本人は寛容、英米人は非寛容(要確認)

これでパラグラフの骨格がいちおうできたような気がする。しかし、まだ整理が必要だ。言語構造の差、文化の差は翻訳全般にいえることだが、受け入れ側のメンタリティの問題はもう少し個別の話だ。メモにも述べているように文化的差異の一部分といえる。前の2つとはレベル差があると考えて、ここではカットする。次に東洋的/西洋的というのは今回のパラグラフとしては少し話しが大きすぎる。日本的/英米的の文化差だけに絞ったほうがよい。

こうしてパラグラフの骨格の第二案がつぎのように決まった。

翻訳の難しさ → 言語構造の差、文化の差がおもな要因。
言語の差 → 文法の差、語彙の差。
文化の差 → 日本的な「おくゆかし」と英米的な「はっきり」

「翻訳の難しさ」がトピック、「言語の差と文化の差」がコントローリングアイデアである。したがってトピックセンテンスはつぎのようになるだろう。

翻訳の難しさは、おもに言語構造の差と文化の差に由来する。

問題は「言語の差」「文化の差」とコントローリングアイデアが2つあることだ。ひとつのパラグラフのなかで2つのコントローリングアイデアを同時に扱うのは難しい。ひとつに絞り込んだほうがよい。そこで次のようになる。

翻訳の難しさは、第一にソース言語とターゲット言語の言語構造の違いに由来する。

これでトピックセンテンスがようやくきまった。ここでのトピックは「翻訳の難しさ」、コントローリングアイデアは「言語構造の違い」である。これならなんとかパラグラフとしてまとまりそうだ。

つづいてサポーティング・センテンスを考えてみよう。「言語構造の違い」について、(1)例示、(2)統計数値、(3)引用、などをおこなえばよい。ここでは(1)の「例示」をつかってみる。

たとえば日本語と英語の文法構造を比較すると、日本語の格助詞に対応するものが英語にはない。つぎに英語の時制に対応する文法項目は日本語にはない。また英語では原則的に修飾表現は被修飾表現の後ろにおかれるが、日本語ではつねに前におかれる。さらに日本語では終助詞など情意をあらわす文法形式が発達しているが、英語ではそれほど発達していない。

ここまでが日米語の文法に関する違いの例示だ。つぎに語彙の違いについての例示をおこなう。

語彙面をみると、異なる言語間での完全な一対一対応は存在しない。たとえば英語のtakeやgetに100%対応する日本語の語彙はない。また日本語での「いる」「ある」の使い分けは英語にはない。さらに日本語の「さくら」と英語のcherryとでは実質的な意味はまったく異なる。

最後はコンクルーディンセンテンスだ。トピックセンテンスのバリエーションをつくってみる。

このように、訳す側と訳される側の言語の構造のさまざまな違いが、翻訳の難しさを生み出すのである。

これでパラグラフが完成した。ならべてみよう。

翻訳の難しさは、第一にソース言語とターゲット言語の言語構造の違いに由来する。たとえば日本語と英語の文法構造を比較すると、日本語の格助詞に対応するものが英語にはない。つぎに英語の時制に対応する文法項目は日本語にはない。また英語では原則的に修飾表現は被修飾表現の後ろにおかれるが、日本語ではつねに前におかれる。さらに日本語では終助詞など情意をあらわす文法形式が発達しているが、英語ではそれほど発達していない。語彙面をみると、異なる言語間での完全な一対一対応は存在しない。たとえば英語のtakeやgetに100%対応する日本語の語彙はない。また日本語での「いる」「ある」の使い分けは英語にはない。さらに日本語の「さくら」と英語のcherryとでは実質的な意味はまったく異なる。このように、訳す側と訳される側の言語の構造のさまざまな違いが、翻訳の難しさを生み出すのである。

日本語で9つの文から構成されるパラグラフだ。いかがだろうか。

さて、これを英語にしていくのだが、ここからは1章の「センテンス」で練習してきたことだ。それぞれに頑張って数種類の英語パラグラフにしていただきたい。

練習問題1

つぎのトピックについて、英文パラグラフをつくってください。

社会格差の拡大について
遺伝子組み換え技術について
地球温暖化対策について
いじめの実際について
携帯電話の進歩について
京都の今昔について
自分のふるさとについて
年金問題について
AIDSの対策について

練習問題2

自分で考えたトピックについて、英文パラグラフをつくってください。

例題2

[問題]つぎの文章をよく理解し、その内容をまとめるかたちで、アカデミック・ライティング形式の英文パラグラフをつくってください。

子供の貧困 「機会均等」の前提崩す
子供の貧困が注目されている。ある研究によれば、未婚の子を含む世帯の貧困率は約15%。特にひとり親世帯で高く、また1990年代後半から増加傾向にある。今という時代を理解する上で、貧困という主題自体欠くことができない。とりわけ、「子供の」貧困は格段の重要性を持つ。なぜか。
現代社会は、業績に応じて富が配分されることを正当だと認める社会である。競争の結果として、富の不平等が生まれるのは当然の帰結にすぎない。ただし条件が付く。機会均等という条件である。その限りにおいて、結果の不平等は正当であり、受け入れなければならない。
子供の貧困はこの条件を欠く。機会均等という業績主義社会を支える「公正」前提が、容易に突き崩されてしまうからである。子供の貧困は、人生のスタートラインにおいて、機会がけっして平等に開かれているわけではないことを端的に示すからである。
このことはまた、次のことを教える。子供にとって親の貧困は、自己責任ではなく強制される貧困にほかならない。だから親世代の貧困の放置は、子供の機会均等の放棄に等しい。親世代の不平等は子供にとって機会の格差に転化する。それゆえ、親世代の不平等に介入してこれを是正しなければ、子供の貧困はなくならない。この認識を欠いた政策は、公正な社会を実現することができない。
(お茶の水女子大学教授 耳塚寛明 日経新聞 2008.7.7)

[解説]

もとは日本経済新聞の記事だから、アカデミック・ライティングの形式には合っていない。それはそれでかまわない。アカデミック・ライティングはライティング形式のほんの一部分にすぎないのだから。ここでは練習のために、それを無理にアカデミック・ライティング形式に押し込んでみようというわけだ。

とにかく、まず内容をしっかり理解しよう。そのあとで料理する。

まずトピックは何か。これは「子供の貧困」で決まりだ。ではコントローリングアイデアは? これはかなり悩ましい。私としては「公正な社会を大きく阻害する」としたい。するとトピックセンテンスは次のようになる。

子供の貧困は、公正な社会の実現を大きく阻害する。

このトピックセンテンスに対して、サポーティング・センテンスをつくっていく。ここでは論理的なつながりを重視してみた。以下のとおりだ。

現代社会は各人の業績に応じて富が配分されることを正当と認める社会である。
そうした前提での「公正」な社会とは、結果の平等ではなく、機会の平等が万人に保障されている社会のことである。
だが親世代が貧困である場合、その子供たちがもつ機会は必然的に他の子供よりも少なくなる。
いいかえれば、そうして子供たちはみずからの責任ではなく、機会の平等を手にすることから阻害されているのだ。
この事実は、子供が貧困であるかぎり、機会の平等は万人には保障されないことを意味する。
そして機会の平等が万人に保障されない社会は公正な社会ではない。

そして最後にコンクルーディング・センテンスをもってくる。

ゆえに子供の貧困は、公正な社会の実現を大きく阻害するものである。

以上をひとつのパラグラフにまとめると以下のようになる。

子供の貧困は、公正な社会の実現を大きく阻害する。現代社会は各人の業績に応じて富が配分されることを正当と認める社会である。そうした前提での「公正」な社会とは、結果の平等ではなく、機会の平等が万人に保障されている社会のことである。だが親世代が貧困である場合、その子供たちがもつ機会は必然的に他の子供よりも少なくなる。いいかえれば、そうした子供たちはみずからの責任ではなく、機会の平等を手にすることから阻害されているのだ。この事実は、子供が貧困であるかぎり、機会の平等は万人には保障されないことを意味する。そして機会の平等が万人に保障されない社会は公正な社会ではない。ゆえに子供の貧困は、公正な社会の実現を大きく阻害するものである。

このほかにもさまざまなパターンのパラグラフがつくれるはずだ。これはそのうちの一例にすぎない。

ここからは、例題1と同様に、頑張って英語にするだけである。英語にする際にも多種多様なバリエーションが考えられるのは、すでにご承知のとおりだ。

練習問題3

つぎの文章をよく理解し、その内容をまとめるかたちで、アカデミック・ライティング形式の英文パラグラフをつくってください。

たとえば、面白くて読みやすい小説は、会話の部分と地の部分が上手に組み合わせてあるもので、具象(会話)と抽象(地)の変化で、知らず知らずのうちに読者をそのリズムに引き込んでしまう。その上、自然の美しい描写が加わって人事と自然の対照・調和が行なわれる。とくに自然描写は読者を緊張から解放させるためには、もっとも有効な方法だ。源氏物語は、文法も言葉も現代人にとっては難しいが、もし子細に読んでみれば、会話と地の文、人事と自然の組み合わせが、理想的といってよいほどに巧妙におこなわれていることがわかる。あるいは芭蕉の「おくのほそ道」も、漢文調の文と和文調の文を章によって使い分け、さらに自然と人事を適度に変化させることによって作品全体のリズムがつくられている。漢文や日本の古典からの引用も、多すぎない程度に出てきて、抽象度の変化をつける役を果たしている。読者がいつの間にか読み進んでいくような魅力は、こういうリズムの中にもっとも多く含まれている。
(『考える技術・書く技術』(板坂元、講談社現代新書)より抜粋)

練習問題4

自分で文章を選び、その内容をまとめるかたちで、アカデミック・ライティング形式の英文パラグラフをつくってください。

III.エッセイ

1.エッセイとは

パラグラフがセンテンスというレンガでできた壁であるとすれば、エッセイ(Essay) はパラグラフという壁で構築された家屋そのものである。エッセイの構造は一言でいえば「パラグラフの拡大板」である。以下にエッセイの基本構造を紹介しておく。

画像4

トピックセンテンス、サポートセンテンス、コンクルーディング・センテンスがそれぞれに独立してパラグラフをもち、それがまた内部にトピックセンテンスなどをもつ。トピックセンテンスから発展したパラグラフはイントロダクション(Introduction)、サポーティング・センテンスから発展したパラグラフはボディ(Body)、コンクルーディング・センテンスから発展したパラグラフはコンクルージョン(Conclusion)と呼ばれる。つまりエッセイは、イントロダクション、ボディ、コンクルージョンの3つのパートから構成される。

それにしても、見事なまでに型どおりの構成である。人間の思想というものをここまで紋切り型にしてしまっていいのかという疑問がわくのも無理はない。しかしアカデミックな書き物ではこうした決まりきった型がないと多くの人に読んでもらえない。だから学者の書く文章には無味乾燥なものが多いのだが。いずれにしろ私たちはまずこの型をしっかりと身につけ、そのうえでこの型から抜け出すことを目指すことにしよう。

2. イントロダクション

「イントロダクション」の構成要素は、読者の注意をひきつけるための「ゼネラル・ステートメント」(General Statement)とエッセイ全体のメイントピックを述べる「シーシス・ステートメント」(Thesis statement)の2つだ。

「ゼネラル・ステートメント」とは、ようするに「前振り」のことである。しょっぱなから話の本題を切り出すのは、さすがのアメリカ人も気が引けるようだ(それでも中にはいるが)。

前振りであるから、その内容は面白ければ面白いほどよい(といっても、ゼネラル・ステートメントへとスムーズにつながっていくことが前提条件だが)。Writing Academic Englishでは、興味を引く話題、びっくりさせる話題、歴史的な背景、などをゼネラル・ステートメントの具体例として挙げている。ここでは例を2つ挙げておく。まず一つめは、統計的事実をつかったゼネラル・ステートメントである。

「過労死」とは働き過ぎが原因の一つとなって脳・心臓疾患や呼吸器疾患、精神疾患などを発病し死亡に至るケースのことをいう。独立行政法人労働者健康福祉機構の調査によると過労死の件数は近年急激に増加しており、平成15年における脳・心臓疾患による過労死は312件であった。これは平成13年度の2倍を超す高水準である。

つぎの例は具体例をつかったゼネラル・ステートメントである。

一人のシステムエンジニアが急死した。原因は脳内出血、33歳だった。就職して以来、毎年3,000時間近くを仕事に費やし、死亡直前の1週間の労働時間は73時間に達していた。あるトラックの運転手は勤務中に運転席に亡くなった。亡くなる前の約4年間は1日平均13時間を超える労働が続き、休日は月に3日程度だった。一人の若手広告マンは入社二年目で首吊り自殺をした。勤務は深夜早朝に及び、自殺直前は3日に1回徹夜で残業し、睡眠時間は1日平均2時間程度だった。

「シーシス・ステートメント」とは、そのエッセイ全体のトピックを表すものである。その内容は具体的であり、またサブトピックをそのなかに含んでいるほうがそれからの展開がしやすい。たとえば以下のようなものだ。

このように日本ではいま過労死が深刻な社会問題の一つとなっている。そしてそれを生み出す要因として、日本企業文化のあり方、日本社会のゆがみ、日本人の精神的特性などが挙げられる。

「過労死は現代日本における深刻な社会問題である」がエッセイ全体のメイントピックだが、そのあとに社会を引き起こす要因として「日本企業文化のあり方」「日本社会のゆがみ」「日本人の精神的特性」の3つがサブトピックとして挙げられている。したがって以下のボディでは、この3つのトピックを展開していけばよい。以下に、ゼネラル・ステートメントとシーシス・ステートメントとをまとめたイントロダクションパラグラフを示しておく。

<1例目>
「過労死」とは働き過ぎが原因の一つとなって脳・心臓疾患や呼吸器疾患、精神疾患などを発病し死亡に至るケースのことをいう。独立行政法人労働者健康福祉機構の調査によると過労死の件数は近年急激に増加しており、平成15年における脳・心臓疾患による過労死は312件であった。これは平成13年度の2倍を超す高水準である。このように日本ではいま過労死が深刻な社会問題の一つとなっている。そしてそれを生み出す要因として、日本企業文化のあり方、日本社会のゆがみ、日本人の精神的特性などが挙げられる。

<2例目>
一人のシステムエンジニアが急死した。原因は脳内出血、33歳だった。就職して以来、毎年3,000時間近くを仕事に費やし、死亡直前の1週間の労働時間は73時間に達していた。あるトラックの運転手は勤務中に運転席に亡くなった。亡くなる前の約4年間は1日平均13時間を超える労働が続き、休日は月に3日程度だった。一人の若手広告マンは入社二年目で首吊り自殺をした。勤務は深夜早朝に及び、自殺直前は3日に1回徹夜で残業し、睡眠時間は1日平均2時間程度だった。このように日本ではいま過労死が深刻な社会問題の一つとなっている。そしてそれを生み出す要因として、日本企業文化のあり方、日本社会のゆがみ、日本人の精神的特性などが挙げられる。

3. ボディ

「ボディ」は、サブトピックをさらに展開させたものである。それぞれのパラグラフにはトピックセンテンスとサポートセンテンスが含まれる。つまりエッセイの構成をもういちど繰り返すわけである。ロシアのマトリョーシカ人形のようなものだ。

上の例で具体的にみてみよう。サブトピックの第一は「日本企業文化のあり方」であった。これをつかってボディの第一パラグラフをつくってみたのが以下の例だ。最初の文がトピック、そのあとがサポートである。

過労死を生み出す原因の一つとしては、多くの日本企業に内在する個人の軽視、成果ではなく努力を重くみる風潮、私生活を軽んずる意識といった企業文化のあり方が挙げられる。一般に日本企業は集団指向が強く、その裏返しとして個々人に対する配慮を後回しにしがちである。それが労働時間の管理の甘さにつがっている。たとえば部の全員が遅くまで仕事をしていれば、たとえそのうちの一人が体調が悪くとも「みんながやっているのだから」ということで一緒に遅くまで働くことになる。また日本企業では成果ではなく努力自体を評価する傾向が強いため、よい社内評価を得るためには従業員が長時間労働を強いられることも多い。部長が帰らなければ部の全員が帰れないというケースもよく聞かれる。さらに多くの日本企業には従業員の私生活よりも仕事がすべてに優先するという企業文化が根づいており、それが長時間労働の強制へとつながっている。有給休暇をたくさんとると出世にさしさわるという声がささやかれる日本企業もいまだに多い。

このようにして続いて第二パラグラフ、第三パラグラフとつくっていく。するとボディ全体ができあがるはずだ。

4. コンクルージョン

「コンクルージョン」は、エッセイ全体の「まとめ」の部分である。まとめるやり方としては、(1)それまでの内容をまとめる、(2)自分の意見を述べる、(3)新しい提案をする、といったものが考えられる。以下、上のトピックについて、それぞれの例を挙げておく。

<それまでの内容をまとめる>
ここまでみてきたことからわかることは、過労死という大きな社会問題の背景には、日本と日本人が持つ文化的な特性が潜んでいるということである。たとえば、個人を尊重しない日本企業文化のあり方、経済ばかりを優先する日本社会のゆがみ、あまりにも自己主義的でない日本人の精神的特性などが過労死を生み出す要因となっている。これらの日本文化の特徴が変わらないかぎり、過労死問題を抜本的に解決することは困難だろう。

<自分の意見を述べる>
以上から、過労死の背景には日本および日本人の持つさまざまな文化的特性が潜んでいることがわかった。こうした日本および日本人の文化的特性を根本的に修正しないかぎり過労死の問題は抜本的に解決しない。過労死は、その人の不幸であるばかりでなく、有能な人材を失う日本社会にとっても大きな不幸である。そうした大きな不幸を生み出しているのが日本社会固有の特性であるとすれば、その部分については日本社会全体として早急に変えていなければならない。そのためには社会を代表する制度である政治・行政および司法がさらに強いシーダーシップを発揮すべきである。

<新しい提案をする>
以上から、過労死の背景には日本および日本人の持つさまざまな文化的特性が潜んでいることがわかった。こうした日本および日本人の文化的特性を根本的に修正しないかぎり過労死の問題は抜本的に解決しない。筆者としては、その具体的対応策として、小学校・中学校の授業における過労死教育の充実を提案したい。現在、過労死に対しては厚生労働省の取り組みや「過労死110番」といった民間の取り組みがなされているが、これらはいわば対症療法にすぎず、抜本的な解決につながるものではない。問題の根源は日本人のあり方そのものにあるのだから、抜本的な解決には教育を通じて次世代を変えていく必要がある。

5. エッセイの4タイプ

Writing Academic Englishでは、エッセイを(1)プロセス・エッセイ(Process Essay)、(2)コーズ/イフェクト・エッセイ(Cause/Effect Essay)、(3)コンパリズン/コントラスト・エッセイ(Comparison/Contrast Essay)、(4)アーギュメンタティブ・エッセイ(Argumentative Essay)の4つのタイプに分けている。

(1) プロセス・エッセイ

「時間」や「手順」といった「プロセス」順に並べてつくるエッセイである。たとえば「時間」でいえば、歴史的事実を並べるものは、すべてこのタイプだ。もっとも身近なものは自分の履歴だろう。あなたがどうやって今のあなたになったのか――それを子供のときから順に述べていけば立派なプロセス・エッセイになるはずだ。「手順」については、筆者のエッセイ『翻訳作業プロセスについて』を以下に参考に挙げておく。これを整理し、いくらかの手を加えれば(特にイントロダクションとコンクルージョンの部分について)、アカデミック・ライティングのかたちにまでもっていけるはずだ。

翻訳作業プロセスについて

皆さんがある翻訳会社からある英文を受け取り、それを日本語に翻訳してほしいという依頼を受けたとします。まず、最初にするべきことは何でしょうか。

1.バックグランド情報を把握する
それは、この翻訳ジョブに関するあらゆる情報を可能なかぎり詳細に把握することです。つまり受け取った英文は、(1)誰が、(2)誰に対して、(3)どのような目的で書かれたものか、を把握することです。次に、 わざわざ翻訳などしてその日本語の訳文をいったい(4)誰に対して、(5)なんのために提供するのか、を把握します。そのほかにも、(6)どのような媒体向けのものなのか、(7)文体の指定はあるか、など、把握すべきさまざまな条件があると思われます。
よい翻訳ジョブを行うには、このような文章のバックグランドにあるさまざまな情報を、できるかぎり明確に把握しておくことが必要です。全体像を捕まえないで、単に文字づらを置き換えるだけの作業になった翻訳ジョブほど、つまらないものはありません。それは少なくとも、プロの仕事ではありません。
翻訳者とは、一言でいえば、原文を書いたひとの“分身”です。ですから、ちょうど恐山の巫女のように、原文の作者が翻訳者に“乗り移って”くれれば、本当はそれが一番なのですが、しかし我々のまわりにはそんな魔術は存在しませんので、その代わりに翻訳者はできるかぎりの情報を集めるところから出発します。
原文は、誰が、誰に対して、何を伝えたいために書かれたものであるのか、そしてどのような人に対して何を伝えるために翻訳されるのかを、まずできるかぎり具体的にイメージしてください。このイメージがもてなければ、基本的に翻訳という作業は、不可能なはずです。
これらのことは、翻訳原文を読むなかでも掴んでいかなければならないのですが、原文からだけでは、こうしたバックグランド情報を詳細に把握するのは、なかなか難しいものがあります。ではどうすればよいでしょうか。

依頼人にたずねる
なによりも、依頼してきた人にたずねるのが一番です。依頼してきたぐらいですから、翻訳者が知らない情報をもっている可能性が非常に高いと考えられます。ですから今回であれば、依頼者である翻訳会社にたずねればよいわけです。「今回いただいた英文の書き手についてお教えください」「読み手は誰に設定すればよいですか」「文体はなにか指定がありますか」など、どんな質問でもよいと思います。
「えっ、そんなこと、してもいいの? それって、ルール違反じゃないの?」とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れません。
いいえ、ルール違反ではありません。それどころか、それが翻訳のクオリティを向上させることにつながるのであれば、翻訳会社を困らせるぐらい質問をしてもよいのです。翻訳会社が知らなければ、情報リソースとなるクライアントに翻訳会社経由でたずねてもらうこともできます(ただしこれは営業がらみの話になるので、クライアントの様子をみながらということになり、現実には難しいケースもあります)。
クライアント・翻訳会社・翻訳者が共通にもっている目標は、その翻訳ジョブをできるかぎりよいものにしたいという、その一点に尽きますよね。ですから、その目標を達成するために必要なことは、原則的にすべてOKなはずです。逆に、その目標を達成するためにしなければならないのにそれをしなかったとすれば、それこそ「ルール違反」と呼ぶべきではないでしょうか。

自分で調べる
次にするべきことは、依頼者にたずねるだけでなく、自分でも出来る限りの情報を集めることです。この際の有効なツールとなるのが、まずはインターネットでしょう。たとえば、今回の英文はどうやら通信分野と株式に関係していそうですね。であれば、そこらへんの用語をキーワードとして検索をかけてみるという方法があります。ひょっとすると原文に非常に近い英語が見つかる可能性も大いにあります。そのほか、辞書や専門書をながめるのも有効です。またこうした分野に詳しい友人・知人がいれば、たずねてみるという手もあります。
このようにして、とにかく自分自身でもできるかぎりの情報を集めることです。翻訳者というと、とかく文章を翻訳する能力ばかりに目がいきがちですが、実はこの情報収集の能力が文章をつくる能力と同じぐらいに重要だということを、忘れるべきではありません。

2.原文を読む
バックグランド情報がおおよそ把握できたら、次に原文を読みましょう(ただし実際には、バックグランド情報の把握と原文のリーディングとは、同時並行的に行われるのが一般的です)。
原文の読み方には一人一人のくせがあるようです。ここではひとつの参考として、わたしの読み方をご紹介します。ただしこれはあくまでひとつのご参考です。皆さんは皆さんで自分にあった読み方を見つけられればよいと思います。

内容把握の音読
さてわたしの場合、原文をもらうと、全体の内容を知るためにまず最低2回、音読をします。この2回は全体の内容を把握するための読みですから、辞書などは引きません。とにかく全体をどんどん読み進めていきます。
なぜ2回かというと、わたしの能力では、少なくとも2回は読まないと全体がつかめないからです。これはもっと能力の高いひとであれば1回で十分なのでしょう。わたしの場合は、理解のむずかしい文章となると2回では足りず、5回も6回も読み直すこともあります。
なぜ「音読」かというと、これもわたしの場合は黙読だと内容がきっちりと把握できないからです。声を出すことは理解を大きく助けてくれます。音読とは、自分が自分に対して読み聞かせていることであるからかも知れません。理解のむずかしい文章に出会うと、音読の声がどんどん大声になっていくのが自分でもわかります。把握できない文章を夢中で音読をしていてふと気づいたら、ほとんど怒鳴り声になっていたというケースもあります。
個人翻訳者のころは、まだそうした音読ができる場所がなかったので、よく近くのファミリーレストランに出かけました。ファミリーレストランは、何杯でもコーヒーがおかわりでき、けっこうガヤガヤしているので、ちょっとぐらい音読をしても目立ちません。まさに翻訳者のためにつくられたような場所です。それでも一度、あまりに熱中して大声で音読をしていて、ウェイトレスから「他のお客様にめいわくなので大声を出すのはご遠慮ください」などとつめたく注意されたこともありました。髪がぼさぼさでひげもじゃの汚い格好でやってきてはコーヒーをやたらおかわりし、そのうえ思いつめたような表情で大声で英語を読み上げ始めるのですから、レストラン側からみれば、相当に“あぶない”お客だったかも知れません。いまは事務所でハードコピーを片手にうろうろと歩き回りながら読むのがわたしのスタイルですが、あまり人に見せられる姿ではないので、通常は夜中にやっています。

詳細把握の黙読
全体内容がつかめたら次に詳細をつかむための読みをします。これは音読ではありません。片手に筆記道具をもっての黙読です。一文一文ていねいに読んでいき、わからない単語があれば辞書で調べます。構文把握などにも注意を払います。これを怠ると、単語の意味ミスや構文の取り違えといったつまらないミスを犯すことになります。
また固有名詞などもこの段階でチェックします。今回のケースではたくさんの会社名が出てきています。これらは正式名称をかならず調べるようにします。ここでもインターネットがたいへんに有効なツールとなります。もちろんそれでも正式名などがわからないものが残りますが、それらについては、かならず注記などをつけて調べきれなかった旨を翻訳会社に知らせます。

翻訳文をイメージしながらの黙読
次の段階では、原文を読みながら翻訳文をイメージします。この段階ではすでに文章の意味は詳細につかんでいますので、読むこと自体に多大の労力を使う必要はもはやなくなっています。
ゆっくりと読みながら、対応する文章を頭のなかでつくっていきますが、まだ固まった文章になっている必要はありません。ぼんやりと、こういった文章になるだろうという、イメージをつくっていきます。このイメージの出来不出来が、最終プロダクツとなる翻訳文のクオリティに、けっこう深く関係しているようです。

3.翻訳文をつくる
内容把握の音読、詳細把握の黙読、翻訳文をイメージしながらの黙読と、3つの読みの段階を終えると、いよいよ実際の翻訳の開始です。原文ハードコピーを横において、キーボードに指をのせます。原文をゆっくりと読みながら、イメージにある訳文をキーボードを使ってモニターの上に文字として焼き付けていきます。これは役者でいえば、本読みから稽古を経て本番の舞台にあがった、その瞬間です。ここからはもう一人一人の力量にまかされる世界です。もうじたばたしても仕方がないので、どんどん訳していくしかありません。つまり、この段階では勝負の行方はすでにほぼついているのです。

4.編集的視点からの読みと修正
バックグランド情報の把握、原文の読み、翻訳文の作成という段階を経て、第一次原稿が完成しました。ここで、この原稿を少なくとも一晩「寝かせ」ます。この一晩「寝かせる」工程はクオリティアップのためには非常に重要です。翌日、寝かせた原稿を取り出したときには、翻訳者は「作り手」としての視点を捨てて、こんどは「読み手」としての視点をもって、原文と訳文を読みます。そして翻訳原稿に手を加えていきます。このように「作り手」から「読み手(編集者)」へと別人格化するには、どうしても一晩寝ることが必要なようです。
こうしてようやく最終原稿の出来上がりとなります。ここの紹介したプロセスには個人的な手法も入ってはいますが、基本的には多くの翻訳者の方がよく似たやり方を採用されていると思います。

(2) コーズ/イフェクト・エッセイ

原因(Cause)と結果(Effect)を述べていくテキストである。「ブロック」タイプと「チェーン」タイプの2タイプがある。「ブロックタイプ」では原因と結果を別々のブロックにまとめてからつなぎ、「チェーン」タイプでは原因/結果のペアをチェーンのようにつなげていく。

コーズ/イフェクト・エッセイの例として、ここでは経済分野ではきわめて有名な(ただし異論も多い)ケインズの乗数効果を挙げることにする。

乗数効果
経済運営にとって最大の脅威の一つは、需要の減退である。社会全体での需要が減退すると、それに伴って供給が減らざるを得ない。すると企業業績が悪くなり、それが失業を生み、それが需要のさらなる減退につながる。こうした悪循環をいかにすれば食い止めることができるのか。その回答の一つが、ジョン・メイナード・ケインズが提唱した公共投資の実施であり、その理論基盤となるのが「乗数効果」である。
「乗数効果」とは、投資が増大すると、それが様々な産業の生産や所得、消費の増大をひきおこし、最終的に当初投資額の何倍かの国民所得の増大をもたらすという理論である。たとえば、経済全体の公共投資が1兆円増えたとする。するとこの1兆円はどこかの企業に対する需要となり、さらに最終的には、その企業の社員たちの所得になる。その企業の社員たちが、この新たな所得1兆円のうち一定割合、例えばCの割合(ただしCの値は0以上1未満)だけを消費するとすると、このC兆円は、また別の企業に対する需要となり、さらに最終的には、この別の企業の社員たちの所得になる。このプロセスは無限に続くから、当初の1兆円は最終的に
1+C+C2+C3+…=1/(1-C)
となる。1-Cは1より小さいので、結局もとの1兆円の需要増の数倍の需要が、最終的に経済内に作り出されることになる。例えば、消費性向Cが0.8であったとすれば、1/(1-C)は5になるため、1兆円の当初の需要増は最終的に経済内に5兆円の需要を作り出すことになる。
このプロセスのことを「乗数効果」といい、この理論のことを「乗数理論」という。上の例でいえば1兆円の公共投資で5兆円の効果があるというのだから、これを利用しない手はない。不況の際に政府が公共投資を積極的に行うのはこうした理由からである。

(3) コンパリズン/コントラスト・エッセイ

複数の対象を比較したり対照させたりするタイプである。このタイプのエッセイはきわめて書きやすい。身近に適切な題材がいくらでもころがっているからだ。たとえば、男と女の比較、日本と外国(米国、中国、韓国など)の文化の比較などだ。ここでは翻訳者と通訳者の比較対照を挙げておく。

通訳者vs翻訳者
通訳者と翻訳者。どちらも言語と言語のあいだをつなぐ仕事ではある。だから一般的には、とてもよく似た仕事をしているように思われている。しかし実際には、この2つの仕事のあいだにはきわめて大きな違いが存在する。それも音声と文字といった単なるコミュニケーション媒体の違いということではなく、さらに本質的な違いなのだ。
第一の違いは、作業時間の長さである。通訳者の場合、ソース言語とターゲットに変換するために用意された時間はきわめて短い。逐次通訳であってもほんの数十秒、同時通訳にいたっては零コンマ数秒という驚異的な短さである。そのなかで通訳者は通訳作業を終えてしまわなければならない。いっぽう翻訳者がソース言語とターゲットに変換するために用意された時間はきわめて長い。わずか数ページのテキストを一週間かけて翻訳するというケースさえもある。
第二の違いは、訳出の精密度である。きわめて限られた時間内に作業を終えなければならない通訳者は、中核情報ではないディテイル(細部)については省略するほかに道はない。通訳にとって重要なことは、捨てるべきものはきっちりと捨て、そのうえで伝えるべきもっとも重要なものを的確につかみ出し、そしてそれを正確に伝えることである。いっぽう翻訳者は通訳ならば省略するようなディテイルであってもけっして省略することはできない。翻訳においてはディテイルこそがクオリティの源泉であるからである。だから翻訳者は、ひとつのthe、ひとつのcouldにまで徹底的にこだわる。
そして第三の違いは、仕事の環境である。当たり前の話だが、通訳者がいる仕事場には必ず他の多くの人々がまわりにいる。通訳は生(なま)の人間と人間の心をつなぐ仕事だからだ。いっぽう翻訳者の仕事場には基本的に他の人はいない。翻訳は生(なま)ではない人間同士をつなぐ仕事だからである。だから翻訳者は、まるで隠遁者のように仕事場にひきこもり、一人きりでこつこつと原稿を紡ぎだしていく。
以上からわかることは、通訳者とは、目にもとまらぬサーブを瞬時に判断し、そして的確に打ち返す一流テニスプレーヤーに近い存在であり、いっぽう翻訳者とは、機織り機の前に座り込み、こつこつと布を織り上げていく機織り職人に近い存在だということだ。前者には卓越した反射神経と相手の動きを読む洞察力が必要であり、後者には間違いを引き起こさない注意力と長時間の作業に耐えうる忍耐力が必要となる。テニスプレーヤーと機織り職人を兼ねることが難しいように、通訳者と翻訳者を兼ねることも難しい。この2つは本質的に違う仕事なのだ。

(4) アーギュメンタティブ・エッセイ

この「アーギュメンタティブ・エッセイ」こそ、アカデミック・ライティングの大本命である。同時に、日本人がもっとも苦手とするライティング・パターンでもある。

アーギュメンタティブ・エッセイとは、ある論題について、みずからの立場を定め(賛成か反対か)、そのうえで反対側の立場にいる論者の論を的確に論破し、かつみずからの論を正当に論証するというエッセイである。ふう…、こう書くだけで、すでに疲れる。ようするに「朝まで生テレビ」での議論のまともなものだと思えばよい(あの番組自体はただのショーだが)。

なにしろ欧米の人間は議論好きである。そして議論のやり方についても長い時間をかけて洗練を繰り返してきた。その洗練の繰り返しが、アーギュメンタティブ・エッセイというかたちにまで昇華されたのである。

アーギュメンタティブ・エッセイは以下の主要要素から構成される。

論題の解説
主張(Thesis Statement)の提示
反対論証(Opposing arguments)の要約
反対論証に対する反論(Rebuttals)
自分自身の論証

まず何を議論するかを述べ、つぎに自分の主張を述べ、そして自分とは異なる主張を紹介し、それを反論し、最後に自分の主張の根拠を述べる――これがアーギュメンタティブ・エッセイというやり方の基本である。

組み立て方としては、相手の主張への反論をまとめて行ったあとで自分の手法をまとめて論証する「ひとまとめ」パターンと、相手の主張への反論と自分の手法の論証をひとつずつ行っていく「個別」パターンの2つがある。

議論するトピックについては、憲法第九条について、死刑について、二酸化炭素排出権取引について、公共投資について、道州制の導入について、子供の携帯電話の規制について、消費税の値上げについて、新工場の建設について、日雇い派遣の規制について、社内での禁煙について、遺伝子組み換え作物について、米国牛肉の輸入について、野良猫へのえさやりについて。カラスの駆除について、次の日曜日のお出かけについて、などなど、身のまわりに本当にいくらでもころがっている。これはつまりアーギュメンタティブ・エッセイが我々の日常を考える際にきわめて重要なツールであるということを如実に示している。そうした膨大なトピックのなかから、ここではひとつの例として、小学校での英語教育の是非について論じてみた。

小学校での英語教育は必要ない
①Aくんは、来年から小学校にあがることになった。でもお母さんは、いまとても悩んでいる。Aくんを近くの英会話スクールにかよわせるかどうかを迷っているのだ。まわりのお母さんたちは、これからの時代には英語ぐらい話せるようにならないと将来がない、だから小さい頃から英語を習わせるのはもう当たり前だという。そして、あそこの英会話スクールの先生はいいだとか、やっぱりネイティブでないと発音が心配だとか、いろいろな噂話をしているようだ。Aくんのお母さんは人の噂話が苦手なので、そうした話題はなるべく聞かないようにしてきた。けれども最近は「英語は中学からでは遅すぎる」といったような広告を街で特によく目にするし、それに聞くところによると今度小学校から英語が正式の科目になるらしい。勉強に遅れないようにするためには、やはりAくんにも、いまから英語を習わせたほうがよいのかしら、とAくんのお母さんは悩むのだ。
②お母さんに一言いいたい。Aくんを英会話スクールにかよわせる必要などまったくない。なぜなら小学校での英語教育をはじめても、英語力は向上しないばかりか、かえって他方面での教育が大きく阻害されることになるからだ。
③小学校からの英語教育を推奨する人々は、外国語に習熟するためには、できるだけ小さい頃からはじめるほうがよいという。そしてその論拠として、言葉の習得は12歳ごろを臨界期として、それ以降に学習をはじめるとネイティブ並みの能力は決して身につけることができないという学説を持ち出したりもする。
④しかしレネバーグの提唱した「言語12歳臨界期説」は、12歳以前に学習をはじめなければ英語が身につかない、などといっているのではない。12歳をすぎて学習をはじめると、ネイティブとしての英語が身につかない、つまりノンネイティブの特徴が残ってしまうといっているのである。レネバーグの理論が正しいのだとして、そして日本人全員が英語のネイティブスピーカーになる必要があるのであれば、小学校からの英語教育はたしかに不可欠である。しかし日本人全員が英語ネイティブになる必要などどこにもないではないか。日本人として必要な英語力とは、他の文化の人々と通わせることのできるコミュニケーションツールとしてのノンネイティブ英語つまり「国際英語」(English as an International Language, EIL)である。「ネイティブ英語」(English as Native Language, ENL)では決してない。
このことについて一つの逸話をご紹介しておく。以下は分子生物学者の福岡伸一のエッセイ(日経新聞、2008.7.10夕刊)からの抜粋である。

ある大きな分子生物学の国際学会での出来事。一日目は、学会を主導する世界的に有名な重鎮科学者によるキー・ノート・アドレス(基調講演)から開始された。神妙に聞き耳をたてる聴衆たち。当然のことながら、国際学会の使用言語は英語である。重鎮はおもむろに話しはじめた。「科学の世界の共通語は英語ではありません」
会場は水を打ったようにしんとした。重鎮はドイツ系スイス人。その彼のしゃべる英語はあまりうまくない。まさか、いまさら、科学はドイツ語に限る、なんてのたまうんじゃないだろうな。重鎮が次になんというか。視線が一斉に集中した。
「科学の世界の共通語は」一呼吸おいてから彼はこういった。「へたな英語(poor English)です。私のようにね。世界中からお集まりの皆さん、どうか活発な議論を交わしてください」。すばらしい開会宣言に会場は大きな拍手につつまれた。

ここからもわかるように、私たち日本人にとって必要な英語とは、世界中の人々と活発な議論を交わすことのできる「へたな英語」すなわち国際英語なのである。であれば、なにもネイティブ英語にこだわることはない。つまりことさら小さいころからの英語学習は必要はない。もっと知的レベルが上がってからで十分である。
⑤小学校からの英語教育が必要不可欠だとする論拠の第二は、小学生から学習をはじめたほうが学習効率がよいというものである。なぜなら言語学習では多くの単語や例文を覚えなければならす、それには暗記力が大人よりも勝っている子供のほうが向いているという主張である。
⑥小学生から学習をはじめたほうが学習効率がよいというのはただの幻想である。たしかに小学生の記憶力は大人よりも優れているが、そのいっぽうで小学生の知識レベルは大人よりはるかに低い。子供は大人にくらべて容易に言葉を覚えていくが、その内容はきわめて幼稚で簡単なものにすぎない。その程度の内容であれば、大人になってからでも十分に効率的にマスターできるのである。
⑦以上みてきたように、小学校から英語をはじめなければならない理由はない。我々に必要なのはネイティブ英語ではなく国際英語である。国際英語を学ぶのであれば、中学や高校、いやもっと遅くなってからでも十分である。また学習の効率性についても、小学生で学習を始めることが有利であるというわけではない。英語学習に対する意欲が高まり、同時に十分な知性をすでに有しているときのほうが学習は効率的とも考えられる。
⑧私たちにいま必要な英語とは、上記の国際会議のような場で世界の人々と議論を交わすための「へたな英語」である。その英語にとって不可欠な能力は「豊かな知性」である。そしてこの豊かな知性を支えているのが母語、つまり日本語の力である。日本語という母語の力こそが、英語という外国語の力の土台なのだ。小学生という日本語という土台が未完成な時期に、英語という建物をその上に構築しはじめるのは、賢明な策ではない。日本語という土台をつくる時間が削られてしまうからである。子供を詰め込み教育の犠牲者にしたくないのであれば、子供の生活のなかで勉強にあてる時間は限定しなければならない。したがって勉強の内容の優先順位を決めることが重要なのだが、英語という勉強の優先順位など、きわめて下位レベルなのである。Aくんのお母さん、Aくんを英会話スクールなどに通わせることはありませんよ。それよりも、いまはAくんのために、どうかたくさんの本を読みきかせてあげてください。それこそが、Aくんの日本語の力を伸ばし、考える力を伸ばし、そして将来、英語の力を伸ばすことになるのですから。

①はイントロダクションである。②の「小学校での英語教育をはじめても、英語力は向上しないばかりか、かえって他方面での教育が大きく阻害されることになる」が、このエッセイの主張だ。③の「外国語は12歳以下の始めなければ遅い」が第一の反対論証の要約。④がそれに対する反論だ。⑤の「小学生から学習をはじめたほうが学習効率がよい」が第二の反対論証の要約。⑥がそれに対する反論である。そして⑦と⑧が自身の論証とまとめである。

実践演習

練習問題1

ここまで解説された以下のトピックについて、自分なりの考えをまとめて、英文エッセイをつくってみてください。

過労死
翻訳作業プロセスについて(プロセス・エッセイ)
乗数効果(コーズ/イフェクト・エッセイ)
通訳者vs翻訳者(コンパリズン/コントラスト・エッセイ)
小学校での英語教育は必要ない(アーギュメンタティブ・エッセイ)

練習問題2

以下の文章は拓殖大学学長の渡辺利夫のエッセイ(「正論」産経新聞 2008年5月12日)です。これを自分なりにまとめるかたちで、アカデミック・ライティングの形式にそった英文エッセイを書いてみてください。

国益を毀損するODA削減

世界第5位転落の意味
「縮みゆく日本」。この表現が端的に表れているのがODA(政府開発援助)である。
4月初旬、G8(主要8カ国)の開発協力担当大臣会議が東京で開催された際に、OECD(経済開発協力機構)のDAC(開発援助委員会)により2007年の各国のODA実績値が公表された。これによると2006年においてアメリカ、イギリスに次いで第3位であった日本のODA供与額はドイツ、フランスにも追い抜かれ第5位となってしまった。
対GNI(国民総所得)比は2006年の0・25%から0・17%へと減少、日本はDAC加盟22カ国のうち20位である。1990年代に世界最大のODA規模を誇った日本の現状は惨たるものとなったといわざるをえない。
貧困撲滅、初等教育普及、乳児死亡率や妊産婦死亡率の低減、環境の持続可能性などの諸指標から成るMDGs(ミレニアム開発目標)の実現は現下の世界において解決を要すべき最重要課題として位置づけられ、これを2,015年までに達成することが国際的公約として掲げられている。
MDGsの策定や定量的指標の設定に主導的な役割を演じたのは、他ならぬ日本政府である。

PKO貢献でも韓国の下
やや統計が古くならざるをえないが、1998年から2005年までの間に日本の無償援助が50%以上削減された国の数は142カ国中59カ国に及ぶ。さらにかつては第1、2位を占めていたUNDP(国連開発計画)、UNFPA(国連人口基金)、UNICEF(国連児童基金)など国際機関への分担金・拠出金も現在では第5、6位へと軒並み順位を下げている。
国際秩序形成に軍事力をもって臨むことを厳しく制約されている日本にとってODAはその外交力を支える重要な手段であり、国益を守るための国際行為である。ODAが今日、国際社会において熾烈な国益拡大競争の場となっていることを忘れるわけにはいかない。
中近東に発しインド洋、マラッカ海峡を経て日本にいたる長大なシーレーンを守る軍事力はわが国にはない。国際的テロリズムに独自で立ち向かうこともできない。この日本がみずからを生存させるすべは外交力以外にはない。
ODAとは別の国際協力においても日本のプレゼンスは小さい。自衛隊の国際平和協力活動は、昨年1月の防衛省昇格と同時に「本隊任務」とされたものの、国連PKO(平和維持活動)に対する日本の貢献はG8の中で最低であるばかりか、中国や韓国の後塵をも拝している。
海上自衛隊のインド洋での給油・給水活動がテロ対策特別措置法の期限切れにより中断を余儀なくされた。新テロ特別法によってこれが再開されたことは幸いであったが、この新法も来年1月には再び期限切れを迎える。しかし特別法恒久化への議論はまだ始まってはいない。再々度の中断があれば日本は「自分勝手な国」だとの烙印を押されかねない。

大胆な政治判断が必要
中国、インド、韓国など新興のODA供与国が勢いを増している。特に中国のODA攻勢が顕著であり、インドシナやアフリカはいずれ中国の「植民地」になりかねないほどに大量の資金と人力がここに流入している。すでに開通した、雲南省の昆明に発しラオスを経由してバンコクにいたるハイウェイや橋梁の建設資金の最大の供与国は中国である。
原油や鉱物資源を求めて中国はアフリカ諸国に低利融資の供与をつづけている。数値は定かならぬも、アフリカに対する最大のODA供与国はおそらく中国であろうとDAC議長のドイッチャー氏は過日の面談時に私に語った。
5月末に横浜でアフリカ開発会議、7月初旬に洞爺湖でサミット(主要国首脳会議)が開かれる。いずれも日本が議長国である。開発途上国問題が優先課題となる。2006年の「骨太の方針」により財政プライマリーバランス達成目標年2011年にいたるまでODA予算は年2%から4%の幅で削減やむなしとされている。
しかしここは政治判断が必要である。両会議において首相が、日本は2010年までにODAの対GNI比を0・25%にまで引き戻し、かつ義務的予算削減を終了する2012年以降は、国際公約である同比率0・7%を2015年までに達成するよう努めることを明言すべきである。

練習問題3

以下の内容を「シーシス・ステートメント」として、エッセイのイントロダクションを書いてください。

武士はいかにして誕生したか(プロセス・エッセイ)
ホームページのつくりかた(プロセス・エッセイ)
なぜバブル経済は起こったのか(コーズ/イフェクト・エッセイ)
ダイエットとエクササイズ(コーズ/イフェクト・エッセイ)
対人関係における日本文化と中国文化の違い(コンパリズン/コントラスト・エッセイ)
若者ファッションと大人ファッション(コンパリズン/コントラスト・エッセイ)
公的年金と医療保険はすべて税金でまかなうべきである(アーギュメンタティブ・エッセイ)
日本橋のうえを通る首都高速道路は撤去すべきである(アーギュメンタティブ・エッセイ)
その他、それぞれに興味があるトピックについて(5つ以上)

練習問題4

上のイントロダクションにつづいて、エッセイのボディを書いてください。

練習問題5

上の「ボディ」につづいて、エッセイのコンクルージョンを書いてください。

IV.総合演習

問題A

以下の日本語の文章を読み、その内容を自分なりに理解し、まとめたうえで、アカデミック・ライティングのかたちで、英文エッセイにしてみてください。

A-1
ナスを秋まで楽しむために

ナスを4月に植えつけた方は、順調に大きく育った株から、ひと通りの収穫を楽しんだことでしょう。盛夏はナスの株も体力を消耗しますから、秋の収穫を充実させるには、ひと休みさせてあげることがポイント。また体力を盛り返して、おいしい秋ナスを収穫できます。
ナスは水が大好きな野菜です。梅雨明けから盛夏にかけては乾燥が続くので、その対策のためのケアがポイントになります。
一つめのポイントは、株の根元に地面が見えなくなるくらいに、たっぷりとワラを敷くこと。ワラはホームセンターなどで手に入ります。ワラを敷くことで、土が乾燥するのを防ぎ、地温を下げる効果があります。また、土の表面を覆うので、雑草を防ぐこともできて、「一石三鳥」というわけです。
二つめのポイントは、気温の下がる夕方に、たっぷりと水やりをすることです。株の根元に十分与えるのはもちろん、葉にもシャワーのように勢いよく水をかけましょう。水の勢いで、葉などについたアブラムシをはじき落とすことができます。病虫害対策の薬剤の量を減らすことにもなりますよ。
ナスがぐんぐん成長すると、7月下旬ごろには枝が込み合ってきます。すると日当たりが悪くなり、実の質が落ちてきます。
そこで、この時期から8月上旬までの間に、株全体の2分の1から3分の1の高さまでを切り戻します。この作業を「更新剪定」といい、これを行うことで再び株が勢いを取り戻し、秋ナスが楽しめるというわけです。
剪定と同時に、株のまわりにスコップをさし込み、根を切って新しい根が出るのを促します。さらに追肥をして、株を充実させます。
もしかしたら、続けてナスの収穫を楽しみたい、という方もいるかも知れませんね。その場合は、半分は剪定せずに夏の間も収穫を続け、残りの半分は秋ナス用に剪定する、というプランにすると、途切れることなく収穫を楽しめます。
(「NHK 趣味の園芸ビギナーズ&やさいの時間」
(2008年7月号)より)

A-2
室内飼いのネコはストレスがたまるのか

ネコは本来、警戒心の強い生き物です。この警戒心とは、敵の気配を察したらすぐに逃げられるように、つまりネコが自分の身を守るために持っている本能です。しかし、心から安心できる環境にいるネコは、幸か不幸かこの能力を使わずにすんでいるのです。
つまり室内飼いのネコにとって、室内ほど安心できる場所はないのです。敵もいないし、エサもあるし、トイレだってあります。自分の愛してやまない飼い主が用意してくれた環境なのですから、悪いはずがありません。したがって、「室内飼いのネコが外に出られないからストレスがたまっている」という考え方を、全てのネコに当てはめることはできないのです。
(『ネコともっと楽しく暮らす本』(南部和也・南部美香)より)

A-3
オトコの肌の取り扱い方

最新のシューズとウェアを手に入れても、フォームやペースに関する最低限の知識がないと良いランナーになれない。同様に、グルーミングの達人を目指すなら、百貨店やドラッグストアでメンズコスメを買い揃える前に、肌の仕組みとスキンケアの基礎的テクを学ぶ必要がある。
肌質は男性ホルモンの影響を受けやすく男女差が大きい。「男性の方が女性よりも皮膚が厚く、皮脂分泌が活発。肌色を決めるメラニンの量も多い傾向があります」(皮膚科医の吉木伸子先生)。彼女の受け売りで満足せず、男にはオトコの肌に合ったスキンケアの手引きが要るのだ。
男の人生はある意味脂肪との戦い。内臓脂肪が増えすぎるとメタボが怖いし、皮脂をうまく処理しないと肌がギトギトでせっかくの男前が泣く。
皮脂は毛穴の奥に皮脂線から分泌されるアブラ。男性ホルモンは皮脂線の活動を促すので、男の皮脂は女性に2倍にもなる。皮脂が作る皮脂膜は肌を乾燥から守る善玉と信じている人がいるけれど、それは勘違い。皮脂の主な役割は体毛に脂分を補うことで、「保湿力は弱く、肌の水分の2~3%を保っているにすぎない」(吉木先生)のである。
皮脂との戦いがしばしば苦戦に陥るのは、皮脂を徹底的に洗い流そうと神経質になればなるほど、逆に分泌が増えるというやっかいな性質があるから。
皮膚には、皮脂膜の厚みを一定レベル(飽和皮脂膜)に保とうとする働きがある。毛穴の奥にある圧力センサーで皮脂膜の厚みをチェックしていて、飽和レベル以下だと皮脂分泌は活発になり、飽和レベルになると抑えられるのだ。だから少々ベタついたくらいで何度も洗顔していると、いつまで経っても飽和レベルに達しないから、皮脂はダラダラと出っぱなしの状態となる。すると皮脂腺が発達して皮脂の分泌能力が向上。結果的にベタつきは加速する。
要するに皮脂は洗いすぎても放置してもダメ。日々の洗顔による皮脂対策は美肌作りとアンチエイジングのもっとも重要なポイントなのだ。
(『ターザン』515号「爽快ターザンのスキンケアマニュアル!」から抜粋)

A-4
遺伝子組み換え作物

細菌などの遺伝子の一部を切り取って、別の生物の遺伝子に組み入れたりすることができるようになりました。そうした遺伝子組み換え技術で作り出した作物や、その作物を原料として使った食品を遺伝子組み換え食品と呼びます。例えば、特定の除草剤を分解する性質を持った細菌から、その性質を発現させる遺伝子を、大豆の細胞に挿入することで、その除草剤に強い大豆が偶然作り出されています。
遺伝子組み換え技術を応用した食品は、除草剤耐性の大豆や殺虫性のトウモロコシなどの農作物と、遺伝子組み換え大腸菌に作らせた牛成長ホルモンのように、組み換え体そのものを食べない食品添加物のようなものに分けられます。
遺伝子組み換え技術を応用することで、生物の種類に関係なく品種改良の材料にすることができるようになりました。従来の人工交配による品種改良でも遺伝情報は混ぜられており、また人工的に起こした遺伝情報の突然変異を利用することもあります。しかし、生物の「種の壁」を越えることはできませんでした。
遺伝子組み換え技術が従来の品種改良と異なる点は、人工的に遺伝子を組み換えるため、種の壁を越えて他の生物に遺伝子を導入することができる点です。結果、改良の範囲が拡大し、改良期間の短縮が可能です
安全性の確認は、挿入遺伝子の安全性(急性毒性)、挿入遺伝子により産生される蛋白質の有害性の有無(急性毒性)、アレルギー誘発性の有無(既知のアレルゲンと似てない)、挿入遺伝子が間接的に作用して他の有害物質を産生する可能性の有無(姿、形の変化の有無)、遺伝子を挿入したことにより成分に重大な変化を起こす可能性の有無(主要成分の大きな変化)などを、開発企業の提出した書類によって、審査しています。第三者機関による試験は実施していません。
遺伝子組み換えを容認している国の政府や、開発企業の安全性評価の考え方は、経済協力開発機構(OECD)が決めた「バイオテクノロジー応用食品の安全性評価:概念と原則」に基礎を置いたもので、「実質的同等性」という考え方です。これは、組み換えられた生物が、その姿、形、主要な成分において組み換え前のものと大体同じならば、細かい成分比較や中・長期の毒性試験は行わなくて良い、とするものです。
この考え方は、あまりにも開発企業寄りなので、世界中から危惧する声が高まってきた結果、現在CODEX(世界保健機構WHOと世界食料機構FAOによる食品に関する合同機関)においてバイオテクノロジー特別部会(議長国=日本)が設けられ遺伝子組み替え食品の安全性についての論議が、ようやく開始(2000年3月~)されました。
現在の日本における安全性評価指針は、遺伝子組み換え食品を製造する業者等が任意に従う指針(ガイドライン)で、法的な強制力はなく、指針への適合性の確認を厚生大臣に申請するかどうかは任意です。厚生省では、2001年4月から、安全性審査の行われていない食品の製造・輸入等を禁止することとしています。
(http://www.no-gmo.org/gmguide/gmguide.htm より抜粋)

A-5
デモクラシーのモラルと秩序
うつろいゆく民意

現代における「平等意識の変容」と、その下での「新しい個人主義」の台頭の結果、民主主義の意味もまた変わりつつある。その一つの現れとして、民主主義を語るにあたってしばしば用いられる「民意」という言葉に注目してみたい。
選挙のたびに、「この投票結果に示された民意は何か」という問いが立てられる。もちろん一人ひとりの有権者には、それぞれに投票の意図がある。しかしながら、投票結果を全体として見るならば、個別の意図を越えた何らかの集団的な意図を、事後的にではあれ見いだすことができるはずである。そのような前提が「民意」という言葉の背景にあるし、またそのような前提のうえに、代議制民主主義は成り立ってきた。
しかしながら、今日、そのような「民意」の存在を疑う声は少なくない。ほんとうに有権者の集団的な意図というようなものがあるのだろうか。あるとしても、それはあたかも集団的な人格があるかのような、単一の意思なのだろうか。それはむしろ、はてしなく個別化した一つひとつの意思の、瞬間的な集合にすぎないのではないか。
2005年9月の衆議院選挙における小泉首相(当時)率いる自民党の圧勝を受け、中曽根元首相が朝日新聞のインタビューにこたえ語った「粘土が砂になった」という言葉は、このような思いを率直に表現したものであろう。同元首相はさらに、砂は粘土には戻らないとも語った。
この問題の微妙さは、現在の日本政治にも大きな影響を及ぼしている。前回の衆議院選挙では、郵政民営化を中核とする小泉首相の改革を支持する「民意」が示されたとしばしば指摘される。しかし、2007年7月の参議院選挙では、小泉改革の結果もたらされた格差に対して批判的な声が多数を占め、新たな「民意」となった。現在の衆参両院の「ねじれ」とは、2005年と2007年の二つの「民意」のねじれとも言えるのである。
そうしたなか、確実にいえるのは、現代の民主主義を語るにあたって、多数者の声を素朴に想定することがますます難しくなっていることである。もはや民主主義とは単なる多数者支配ではなく、「自分らしく」ありたいと思う、一人ひとりの個人の異なった声と向き合うことなのである。個別化し断片化した声をくみ上げ、そこに共通の地平を築くような、より高度な感度を持った民主主義がいまこそ求められているといえよう。
(日本経済新聞 2008.6.18 「やさしい経済学――21世紀と文明 デモクラシーのモラルと秩序 うつろいゆく民意」(東京大学准教授 宇野重規)より)

A-6
食糧の有限性、鮮明に

太陽と光と水、土地があれば再生可能な無限の資源とみられてきた食糧だが、水や土地の制約により有限性を帯びてきた。
食糧の有限資源化である。すなわち、世界の食糧市場では2000年代に入って、中国など新興国の旺盛な消費に生産が追いつかず、世界の穀物在庫が取り崩されるという構図である。
2008年6月発表の米農務省需給報告によると、00年に30%超であった世界の穀物在庫率は07年度には16%に急落し、直近では15%台で推移している。これを反映してシカゴ商品取引所の穀物取引価格は軒並み上昇。一時を除き、過去三十年程ほぼ1ブッシェル3ドル前後で推移していた小麦は08年2月には13.34ドルまで上昇。大豆は00年の5ドル前後から08年6月には16ドル手前まで上昇し、トウモロコシは同2ドル台から7.6ドルといずれも史上最高値を更新した。直近の価格は米中西部コーンベルト地帯での大雨・洪水の影響があるにせよ、ここ数年の価格上昇の背景には構造的な需給の逼迫がある。
こうした中、新たな需給逼迫要因として懸念されるのが、世界的なバイオ燃料ブームだ。一般的に1トンのエタノールを生産するのに約3トンのトウモロコシが必要となる計算だ。これに伴い、今後、世界では限られた食糧をめぐり三つの面での争奪戦が起こる可能性が高い。
第一は国家間の争奪戦である。既に小麦や米を巡る争奪戦が始まっている。第二はエネルギーと食糧の市場間での争奪戦である。急速に進む地球温暖化対策や原油高を背景に、ガソリン代替材としてバイオ燃料の導入が始まった。バイオ燃料需要の拡大は原料のトウモロコシ価格などを高騰させ、直接、貧困層に飢えを広げるかもしれない。第三は工業部門と農業部門での水と土の争奪戦である。中国などの新興国の工業化は、工業用水や生活用水、工場用地や住宅地を拡大する。その結果、工業に比べ付加価値生産性の低い農業は、次第に限界地に追いやられ、需給逼迫を加速させかねない。
(日本経済新聞 2008.6.18 「ゼミナール 資源と経済 穀物資源――需要動向」、
丸紅経済研究所より)

A-7
子供の貧困 「機会均等」の前提崩す

子供の貧困が注目されている。ある研究によれば、未婚の子を含む世帯の貧困率は約15%。特にひとり親世帯で高く、また1990年代後半から増加傾向にある。今という時代を理解する上で、貧困という主題自体欠くことができない。とりわけ、「子供の」貧困は格段の重要性を持つ。なぜか。
現代社会は、業績に応じて富が配分されることを正当だと認める社会である。競争の結果として、富の不平等が生まれるのは当然の帰結にすぎない。ただし条件が付く。機会均等という条件である。その限りにおいて、結果の不平等は正当であり、受け入れなければならない。
子供の貧困はこの条件を欠く。機会均等という業績主義社会を支える「公正」前提が、容易に突き崩されてしまうからである。子供の貧困は、人生のスタートラインにおいて、機会がけっして平等に開かれているわけではないことを端的に示すからである。
このことはまた、次のことを教える。子供にとって親の貧困は、自己責任ではなく強制される貧困にほかならない。だから親世代の貧困の放置は、子供の機会均等の放棄に等しい。親世代の不平等は子供にとって機会の格差に転化する。それゆえ、親世代の不平等に介入してこれを是正しなければ、子供の貧困はなくならない。この認識を欠いた政策は、公正な社会を実現することができない。
(日本経済新聞 2008.7.7「まなび再考 子供の貧困 「機会均等」の前提崩す」、
お茶の水女子大学教授 耳塚寛明より)

A-8
日本語の歩むべき道

日本語が揺れている。カタカナ語の氾濫を嘆く声がある一方で、英語の公用語化という提案が論議されている。あるいは「声に出して読みたい日本語」ブームに象徴されるように正統日本語への回帰現象もみられる。しかし、このような表層的な問題について考察する以前に、我々がまず捉えておかなければならないことがある。それは、我々の生きる現在とはどのような時代なのかということである。
これまで人類の歴史にはいくつかの大変革期があった。それは都市と農業の誕生、文字の発明、科学革命、産業革命などである。しかしそれらはすべて人類「内」の変革にすぎなかった。だがいま人類は、そうしたものとは根元的に異なるひとつの大変革に直面している。
近年の生命科学の爆発的な発展は、新たな生命体を生み出すことさえ可能性にした。クローン技術はすでに一般的なものとなった。クローン人間の誕生さえ目前に迫っている。将来的には人間と他の生物の融合さえ不可能ではない。
すなわち生命科学の発展とは、人間そのものを変えてしまう変革である。新しい生命体を発生させることさえ可能とする、人類「外」の変革である。かくして人類の前史は終焉した。いま人類の後史が始まろうとしている。
このような根元的変化に直面して、ほとんどの人々は思考を停止している。そして精神の安定を保持するため、民衆は旧来の道徳や迷信にしがみき、知識人は歴史の連続性を護持の対象とする。深い思索と論議を経ることのない、やみくもなクローン人間反対の合唱は、それらの具体的な反応のひとつである。それは、未知の変化に対する戦慄と恐怖の一表現である。底知れぬ不気味さを放つ未来に対する戦慄と恐怖。これが我々の時代の基調音である。
日本語の問題を、これと比較して捉えてみよう。約150年前、日本は西洋という未知と遭遇し、変革を余儀なくされた。それは人類の歴史でいえば、都市と農業の誕生、文字の発明、科学革命、産業革命に匹敵するほどの大事件であった。この時期、日本語は語彙、構文、表現のすべてを大きく変化させていった。新社会に必要な新造語がつぎつぎと発案され、定着していった。句読点が整備され、欧米文法を規範とする文法が新しくつくられた。こうして明治後期になって、現在日本語の基礎が完成するに至った。
しかしこの大変革でさえ、歴史の連続性の上に立脚していたことを、我々は忘れてはなるまい。西洋文化を吸収する装置として明治人が活用したのは、千数百年にわたり日本人が蓄積し洗練してきた漢文化の伝統であった。明治時代の新造語や新構文はすべて漢文化の伝統を利用していた。伝統を強力な武器として、彼等は西洋文化の受容という課題に立ち向っていったのである。すなわちそれは日本の「内」の変革であった。明治の人々は、日本「外」には直面しなかった。底知れぬ不気味さを持つ未来に対する戦慄と恐怖など、感じることはなかった。その意味で、彼等は幸福であった。
では、我々はどうなのか。明治には西洋文明の受容という明確な目標があった。そして言語的にそれを達成するために、漢文化という伝統を利用することができた。しかし我々には、そのどちらも、もはや手の内にはないのだ。
「西洋に追いつき追い越せ」のスローガンが機能しなくなって久しい。それは日本が西洋に追いつき追い越してしまったからでは決してない。そうではなく、西洋に追いつき追い越すという問題のたて方自体が、有効性を失ってしまったのだ。現在の日本は、東洋ではない。だが、西洋でもない。東洋でも西洋でもなく、また歴史伝統からも切り離されたアウトサイダー、それが現代日本の真の姿である。我々が直面しているのは、日本「内」の変化ではない。日本「外」の変化なのだ。
そこで、日本語について、我々は次のようにいうことができる。「このような根元的変化に直面して、ほとんどの日本人は思考を停止している。そして精神の安定を保持するため、民衆は言葉に関して旧来の道徳や迷信にしがみき(「日本語は情緒的で日本人にしか理解できない」)、知識人は言葉に関する歴史の連続性を護持の対象とする(「正統的日本語をなんとしても守らなければならない」)。深い思索と論議を経ることのない、日本語変革へのやみくもな反発は、それらの具体的な反応のひとつである(「英語の公用語化はあり得ない」「カタカナの氾濫は許せない」)。それは、未知の変化に対する戦慄と恐怖の一表現である。底知れぬ不気味さを放つ未来に対する戦慄と恐怖。これが我々の時代における日本語に関する基調音である」と。
では、我々はどうすればよいのか。我々の進むべき道は一体どこにあるというのか。
ここにひとつの道がみえる。それは、日本語の来るべき変異と進化を、無条件に肯定するという道である。すなわち、漢字やその他の「よき」伝統が失われ、規範からはずれた「無教養な」語法や文法が生み出され、カタカナや英文の「浮ついた」表現が次々と流入してくる状況を、ただひたすらに許容するということである。
これはあまりにも危険な道にみえる。しかし、危険や安全を判定する価値観そのものを覆るような価値観の転換のなかに我々がいるとしたら、どうであろうか。
かくして日本語の前史は終焉した。いま日本語の後史が始まろうとしている。

A-9
アメリカの景気と日経平均株価

さて、アメリカでも日本でも景気が低迷すると政策当局は金利を引き下げて資金の流通が活発になるように対策します。景気が低迷して金利が引き下げられた国の通貨は安くなり、好況で金利が高い国の通貨は高くなる傾向があります。アメリカの景気、金利は対円で円高・円安の大きな要因として作用します。日本の代表的な株式指標の日経平均株価にはハイテク株が29社も採用されているので過度の円高は輸出比率の高いハイテク企業の業績にとってマイナスに作用するケースが多いものです。アメリカが景気低迷、金利引下げに走ると日本のハイテク企業は輸出と為替面のダブルパンチを受け、日経平均株価には下落圧力となることが多いので、アメリカの金融政策には関心を払っておきましょう。

A-10
次世代の機械翻訳技術について

日英言語間の翻訳を中心に、現在多くの機械翻訳システムが開発され、翻訳現場への適用例も増えてきました。ここ何年間かの研究開発の結果、日本の機械翻訳技術は世界の最先端に躍りでた観があります。しかし、日本語と英語の違いは、英語、仏語などのインドヨーロッパ系の言語間の違いに比べて大きいこともあって、その翻訳は決して容易ではありません。言語はそれを使用する集団の文化的産物ですから、ものの見方や捉え方の違いが、言語の構造や表現法にも反映しています。このような観点から、第二世代と言われる現在の翻訳技術の問題点と、最近の新しい試みを中心に、次世代の機械翻訳技術の展望について述べたいと思います。
機械翻訳を考えると、誰もがまず、単語対単語に置き換えて翻訳することを考えます。第一世代は、文や表現の形式を手がかりに、原言語と目的言語の間で、対応する単語の関係を決めれば翻訳できると考えられていた時代で、構文解析の技術を背景に、投資をすれば機械翻訳システムは実現できると考えられていました。しかし、一つの単語にも数々の意味があるため、それが文中でどのような意味で使われているか知らなければ、目的言語に対応させることが出来ません。表現の構造を解釈するにも、単語の意味が影響します。そこで、第二世代では、構文解析技術に加えて、単語の意味を決めるための種々の技術が研究されてきました。動詞と名詞との関係で単語の意味を扱う格文法や、単語の意味を意味素に分解する方法など、単語の意味を処理する方法により、第二世代では、かなりの程度単語対単語型の翻訳が出来るようになったわけです。
機械翻訳の前に人手で行なわれる前処理の内容を見ますと、①一つの単語は一つの意味でしか使用しないこと、修飾句は修飾するものの直前に置いたり、埋め込み関係を複雑にしないことなどにより、なるべく構文として複数の解釈を生じないようにすること、主語や目的語を補って、英語にするとき不足する要素が内容にすること、諺や熟語などの慣用的な表現は使用しないこと、等を基準に日本文を書き換えています。これらの基準を見ますと、いずれも直訳しにくい表現を直訳できるように編集していることに気がつきます。
単語対単語置き換え型の翻訳、いわゆる直訳の方法は、技術的には要素合成法とも言われ、大きな前提(フレーゲの定理)があります。すなわち、言語表現の意味は単語の意味に分解できること、また、分解して処理した結果を組み合わせれば元の意味が復元できると言う前提です。言語は慣用表現の集まりと思っても良いと言われるくらいですから、自然言語では原理的には、この前提の成り立たないことが明かです。そして、言語の差が大きいほど、この前提は成り立ちにくくなります。
現在、前編集をすればある程度訳せると言うことは、逆に言えば、日本語と英語は元来、違いの大きい言語であるにもかかわらず、明治以降の欧米の文化の輸入に伴う日本語表現の変化もあって、要素合成法の成り立つ表現の領域がかなりあり、そこを実用化で狙ってきたことになります。
第二世代の翻訳方式は意味処理を考えることに特徴があると言いましたが、そこで言う意味処理の考え方は、計算言語学におけるチョムスキーの生成文法の意味論に基づいています。すなわち、意味は実際の表現(表層構造)とは別のところ(深層構造)にあるもので、言語に共通のものだとされてきました。中間言語を意味的表現とし、それを介して翻訳する現在の機械翻訳の方式は、このような意味論に支えられています。しかし、言語は、まず「対象」があって、それを見る話者の「認識」が生まれ、さらにその認識が「表現」に表されると言う過程を持つことを考えれば、言語に共通なのは「対象」だけであり、認識(見方、捉え方)以降は言語によって異なることになります。現在までの結果を見れば、言語共通の意味としての「深層構造」は、要素合成法の扱う範囲の意味と等価で、直訳型の翻訳の実現によって、その役割を終えたと言えるかも知れません。
(池原悟 鳥取大学工学部知能情報工学科教授の論文より抜粋)

A-11
アメリカ帰りが多すぎる

明治の頃から、我が国の指導者層には留学経験者が多い。若い頃に海外で見聞を広めることはよいことである。しかし、どこに留学したかが本人のその後の哲学や行動に決定的影響を及ぼすことには、本人も周囲の人も割合と無頓着である。
個人のレベルなら、その人の個性に何らかの色をつけるだけでさしたる問題はない。しかし指導者層の大多数が同一国へ留学したり駐在したり、となると話は別である。
戦前、陸軍においてドイツ留学はエリートコースと考えられていた。宇垣一成、永田鉄山、石原莞爾、東条英機、山下奉文など、有力者の多くがドイツ帰りであった。一方の海軍では、軍令部総長や連合艦隊司令長官などを見ると、永野修身と山本五十六はアメリカ、米内光政はロシアとドイツ、嶋田繁太郎はイタリア、豊田副武はイギリスなどと分散している。
満州事変の頃から、戦線を次々に拡大していった陸軍と、リベラルな考えをもち他の選択肢がなくなる段階まで日米開戦に慎重だった海軍との差は、こんな所にもあったに違いない。大戦中の首相、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎もすべてドイツ帰りであった。一国に偏ることの危うさである。
私は二十代末から三年間、アメリカの大学で研究生活に携わっていた。帰国してしばらく、日本の何もかもが腹立たしかった。すべてが論理と合理で小気味よく処理されるアメリカと比べ、長幼、面子、慣習などにしばられ、論理や合理は二の次の日本が、いかにも旧態依然と映った。
私はアメリカ式の発想と行動を躊躇なく実行し、教授会などでは長幼や面子を一顧だにせず、自説を強く主張し他説を論難し、大胆な改革により旧習を打破しようとした。当然ながらひんしゅくを買った。若気の至りであった。
帰国後十年余りして、こんどはイギリスのケンブリッジ大学で一年間、研究教育に従事した。ここでは、激しく論陣を張るなどというのは、アメリカ的として軽蔑された。日本に似て、婉曲やユーモアを表現に交えたり、相手の気持ちを忖度したりすることが、紳士の態度とされていた。改善になるか改悪になるかよくわからない改革に憂き身をやつすより、しきたりや伝統に身をまかせながら穏やかな心でいたい、というのが当地の人々の気持ちだった。
アメリカと正反対だった。かくも保守的な人々からなるケンブリッジ大学が、戦後だけで四十以上のノーベル賞を輩出しているのは興味深い。私はイギリスを経験してはじめてアメリカの呪縛から解かれた。
現代日本の各界リーダーの大半はアメリカ帰りである。アメリカは多くの点で魅力ある国である。例えば、能力が他のどの国より公正に評価されている。一般的に能力の高い、長期滞在の外国人にとって、アメリカはどこよりも住みやすい国と言える。しかし彼等には、国民の大半を占める能力の高くない人々が、実力主義や競争社会の中でどれほどの苦悩や欲求不満にあえいでいるかは見えにくい。
論理の裏に、日本に比べ人口当たり二十倍の弁護士や恐るべき訴訟社会のあること、合理の裏に、果てしないリストラや日本の数十倍の精神カウンセラーがいること、などは見えにくい。実力主義の裏の、上位1パーセントが国富の半分近くを所有する、という極端な弱肉強食も見落としがちである。90年代の経済絶好調の中でも、貧困層が増加していたことは、彼の国の特殊事情と片付けがちである。
美醜は常に表裏だが、一定期間後に帰国する者にとって、裏の部分はいわばどうでもよいことである。自国がアメリカに学ぶ際は、表をとり裏には何か対策を講ずればよいと安易に考える。アメリカは堂々たる論理的整合性を備えたシステムであり、他国が都合のよい部分だけをとり入れてもうまく機能しない。
最近の経済の教育における改革がどれもうまくいかないのは、アメリカ帰りが多くなり過ぎたことにも一因があるのではないか。市場経済、規制緩和、小さな政府、実力主義、リストラ、新会計基準などは、ことごとくアメリカのものである。ゆとり教育や子供中心主義などもそうである。
ヨーロッパやアジアの歴史ある国々が著しく特殊な大国アメリカの方式をとれば、国策を誤りやすいばかりか、固有の伝統、文化、情緒、美風など国の魂とでも言うべきものを深く傷つけてしまう。
我が国も改革の名の下、信頼の象徴でもあった金融機関はズタズタにされ、「読み書きそろばん」に支えられた世界に誇るべき教育レベルの高さも失われた。特定の国の価値観に染まることは、いつの時代でも国を危うくする。
(『祖国とは国語』、藤原正彦、新潮文庫より)

A-12
始動する「会社法」の現代化

ここ数年、日本の企業法制度は経済のグローバル化の嵐の中で、改正を繰り返してきた。法制度は企業活動のインフラとして、企業の世界的な競争においてその優劣を決定する貴重な経営資源となっている。米国企業の世界経済における優越性の多くは、その企業組織法、税法、知的財産権法とともに米国の100万人を超える専門性豊かな弁護士達とホームタウンディシジョン(州法の独自性が強いことを背景とした地元流法解釈)がしばしば幅を効かせる司法制度に依拠しているといわれる。
世界の主要資本主義国は会社法と税法の改正ラッシュに血眼になっている。これらの規制が旧態依然のものであったのでは、国際競争に勝ち抜けないから、各国とも必死で企業に使い勝手の良い法律と税制を求めて、国家間競争を展開している。この面でも国家レベルとしての連邦法としては商法を保有せず、州法として取り扱う米国は飛び抜けて自由な法制度の構築が可能である。州の独自性に任せているために、大企業の本社誘致を促進しようとする州と、それを望まない州とでは商法の規制も大きく異なっている。デラウェア州のように企業活動を保護し、裁判制度を含めて大企業が本社を置きやすいような独自の州法を制定する州に米国の巨大企業の60パーセント以上が本社を登録し、自由な資本政策を教授している。ドイツやフランス、日本など「一国一商法」の国としては、この競争に負けないためには米デラウェア商法を追いかける素早い改正を余儀なくされている。この改正競争に遅れを取れば、企業は国籍を変えて逃げ出し、その国の空洞化につながるからである。
わが国でも、2001(平成13)年に3回、200年(平成14)年に大改正を1回行っているが、その結果、商法全体の整合性に歪みが生じている。現行の商法は1899(明治32)年に、有限会社法は1938(昭和13)年に制定され、未だに片仮名文語体で表記され、現在ではほとんど使用されないような語いも多く用いられている。そのため法務大臣の諮問機関である法制審議会の会社法部会は今年10月22日「会社法制の現代化に関する要綱試案」を取りまとめ、具体的改正作業に着手することとなった。
そのポイントは第一にカタカナ文語体をひらがな口語体に直す現代語化である。第二に商法の会社法部分に有限会社に関する特則を定めた「有限会社法」と大小会社の特例を定めた「商法特例法」を合体させる新会社法を創設することの二点となる予定である。
第一はともかくとして、第二については様々なテーマが目白押しである。(1)商号についての類似商号規制を撤廃し、(2)合名・合資会社を同一類型として、また株式会社と有限会社を同一の類型として規律する方向で検討(3)設立関係の全面的な規制緩和をし、最低資本金制度の見直しを行う(4)機関関係では取締役の過失責任化について委員会等設置会社と監査役設置会社との差異の修正や会計監査人についても多くの改正を予定(5)計算関係では、利益配当、中間配当、自己株式取得、減資などを一律に剰余金部分の株主への払い戻しととらえて、横断的な規制(6)米国では税制上のメリットもあるため活発に利用されているLLC(Limited Liability Company)のような、対外的には有限責任であるが内部関係については組合的な規律が適用される新たな会社類型も検討される――などのテーマである。
おそらく平成17年の通常国会には法案が提出され、翌18年から施行されることが期待されている。この施行により平成13年からの一連の改正が集大成されるであろうが、企業の収益は商法によるよりも税制に影響を受けるところが大きいので、先進国並みの商法とバランスのとれた税法改正が、今後期待される。LLCが商法上認められたとしても米国のようなパス・スルー課税と呼ばれる税制上のメリットがなければ、誰もこの制度を使わないであろう。企業の競争力の源泉が「物的資源」から「人的資源」へとシフトしている現在、ソフトウェアやIT産業、投資銀行などの金融産業、会計士、弁護士やコンサルタントによる経営支援サービスなど有限責任型人的会社のニーズは高まっている。このタイプの会社に直ちに法人税課税がふさわしいとは考えられない。構成員課税など米国型の税制メリットをセットで提供できるような税法改正に直ちに取り組むべきである。
(日経ネット「経済羅針盤」、久保利英明、http://www.nikkei.co.jp/money1/20031225r46cp000_25.htmlより)

A-13
日米所得税比較

「日本では妻がパートに出ても収入が103万円を超えると配偶者控除額が減るために実質的には収入が増えない仕組みになっていて、女性の社会進出を税制が妨げている」という議論がある。また、諸外国に比べて課税最低限が高すぎ、税金を払っていない人が多すぎるともいわれる。果たしてそうだろうか、アメリカと比較してみた。

実効税率の比較

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実効税率とは税額を収入で除したものである。日本政府が2001年9月に発行した「税の話をしよう」というパンフレットにも同じようなグラフがあるが単身者の実効税率が書かれていない。アメリカでは結婚した妻が退職すると合算課税(夫婦が均等に収入を得たものとして計算する。二分二乗方式ともいう)のために夫にかかる所得税はかなり減少する(図の太線と細線のちがいと思っていただいてよい)。実際には働いている婦人が多いようだが、子育てのために一時退職することを税制が推奨しているということもできる。日本も少子化がいわれているのだから子育て推奨税制を考えるべきかもしれない。こういう点から考えると配偶者控除を減らすなどというのはニーズに逆行しているともいえる。
日本では給与所得控除というのがあり、給与所得は給与収入よりもかなり低くなる。給与所得控除額が多すぎるという意見もあるようだが、中小企業の社長も自分と家族に給与を支払ったことにして給与所得控除を受け会社の所得を小さくして節税しているわけであり、決してサラリーマンだけが恩恵に浴しているわけではない。日本では赤字法人が多いといわれるが家族従業員に払う給与を高くしてわざと赤字にしている企業も多いのである。

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物価レベルを反映した為替レートを使うと結果はかなり異なってくる。それでもやはり低所得層では日本のほうが税率は低い。日本では定率減税(所得税は20%減で最高25万円、住民税は15%で最高4万円)が行われているがその分だけアメリカよりも税率が低いように見える。
所得税・住民税以外にも消費税があるし、社会保険料も違うので一概に比較は難しい。また、日本では退職金は分離課税になっていて税率が低いし、通勤交通費や安い社宅の提供などが非課税になっているという点も見逃せない。

妻の収入で税額はどう変わるか

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パート収入が103万円を超えると税額が急に増えると聞いていたがそういうことはないようだ。実はその急変を避ける目的のために配偶者特別控除が設けられたのである。実際には夫の会社の家族手当とか、健康保険などで扶養家族になれなくなるというのが問題ではないのだろうか。

日本の所得税との違い
当然のことだが日米の所得税はかなり異なる。比較をすること自体あまり意味はないようにも思われるが、それでも比較をすると何かおもしろいことがわかるかもしれない。最高税率は1999年の恒久的減税を反映してある。

項目 米国連邦所得税 日本の所得税
自国民・永住権保持者への課税 全世界どこに住んでいても全所得に課税 居住者のみに課税
確定申告 ほぼ全員必要 特殊なケースのみ
最高限界税率 39.6% 37%
地方税を含めた最高限界税率(米国はアラバマ州) 42.5% 50%
夫婦合算課税 あり なし
配偶者の所得が増えると配偶者控除が減少? 減少しない 減少する
所得のないものと結婚すると税額は? かなり減少(合算課税) 少し減少(配偶者控除)
同程度の所得のあるもの同士が結婚すると税額は? 増える 変わらない
給与所得控除 なし あり
項目別控除(Itemized deduction) あり 給与所得控除が大きく
実質的にはない
社会保険料控除 なし あり
生命・損害保険料控除 なし あり
住宅ローン控除 あり あり
固定資産税控除 あり なし
介護費用控除 あり なし
引っ越し費用控除 あり なし
離婚した相手への支払い額控除 あり なし
利子配当課税 総合課税 源泉分離課税
生命保険満期返戻金 総合課税 一時所得となり、半分以上控除できる
退職金課税 総合課税 (低率)分離課税
当局のホームページ 詳細な資料がある 「あらまし」のみ

(http://decatur.hp.infoseek.co.jp/taxcomp.htmより)

A-14
多言語制作物のつくり方

準備
まず決めるべきは「誰に」「何のために」「何を」「いつまでに」つくるのかだ。同じ多言語企業向け制作物といっても研究機関向けと企業向けではずいぶんとちがう。今回のケースは研究機関向けだから、それにあわせた思想や設計が必要だ。近所の買い物に自動車を使いたい人にベンツやポルシェの購入を勧めるのはお門違いだ。今回のプロジェクトは自動車どころか自転車でもすみそうな用途だ。ようするに会議情報が正確かつわかりやすく伝わればよい。下手なケレン味はいらない。今回は英語と日本語の二言語のパンフレットをつくり、それがWebにもPDFファイルとしてアップされる予定。カラーは白黒。複雑な図表やモーションピクチャーはない。ようするに、きわめてシンプルなモノづくりだ。自動車の製作というより自転車づくりに近い。締め切りの確認はきわめて重要だ。スケジュールがそこからの逆算で決まるからだ。
チームをつくる:チーム構成は図にできなければ意味がない。責任分担や情報経路が明確にならないからだ。今回のプロジェクトでは以下の組織図をつくった。ポイントはディレター/デザイナー/エディターがひとくくりにされ、外注先とつながっていること。これはかなり異例だ。
スケジュールを組む:スケジュールも表にできなければ意味がない。作成にはエクセルを使うのが一般的だが、こうしたものは会社単位でテンプレート(ひな型)を用意しておくべきだ。

設計図を書く
設計図をつくらないで自動車を製作しようとする人間はいない。ところが設計図をつくらないでパンフレットをつくろうとする人間はごまんといる。かくいう私もそうだった。いきあたりばったりに制作をはじめて結局のところ仕事を全部無駄にしてした経験が何度もある。皆さんにはそうなってほしくない。
スペックシート:設計図の第一はスペックシート(仕様書)だ。スペックシートとは制作物の設計仕様をすべて数値で表現したものだ。音楽でいえば楽譜にあたる。
サムネイル:単一のページだけでは、パンフレット全体のイメージがつかめない。そこでパンフレット全体を一覧するため、各ページを5分の1程度に縮小して並べてみる。1ページが親指のつめ(サムネイル)ほどに小さくなるので「サムネイル」と呼ばれる。ワードの画面で「25%」表示にしたと思えばよい。
テンプレート:一度つくったスペックシート、サンプルページ、サムネイルは、できるかぎり「使いまわし」をするべきだ。そうすれば仕事の量がぐんと少なくなる。簡単なパンフレットなど、基本的にほぼ同じフォーマットでよいのだ。

部品をつくる
スペックシート、サンプルページ、サムネイルという設計作業が終わったら、それにあわせてそれぞれの部品をつくっていく。部品には大きく分けてテキスト(本文、表紙、目次、索引、他)とイメージ(画像、表、図、他)がある。
テキスト:日英パンフのテキストは日本語と英語だ。と考えることがすでに間違いのもと。英語と日本語、と考えるべきである。だから最初の考えるべきは、英文テキストについてである。日本語テキストについてではない。
英文テキスト:英文テキストそのものは、基本的に外部(会議参加者、文執筆者論、など)から入手するものとする(一部は内部で書くあるいは翻訳するにしても)。
問題は、そのテキストをどのように処理してパンフレットに載せるに値するものに仕上げていくかにある。ポイントは次の2つだ。
ルールにあっているか――英文テキストには守るべきルールが厳然としてある。ただしそれは法律といった類のものではく、いわば業界の自主ルールのようなものだ。そのルールをまとめてルールブックもある。新聞業界や出版業界で使われるChicago、おもに科学論文に使われるMLA、APAがその代表格だ。これらのルールブックに準拠してテキストを処理していく必要があるのだが、これらのルールに習熟した英文エディターおよびプルーフリーダーが日本には少ない。これが日本での日英パンフレット制作での最大の問題点なのだが、いずれにしろChicago、MLA、APAに精通したプルーフリーダーなしでは、よい日英パンフレットはつくれない。どこかから見つけてくるか、あるいは内部で育てるしかない。
読みやすいか――たとえルールにはあっていても、ちゃんと読めないようでは、お話にはならない。そこで可読性(Readability)の高いテキスト紙面づくりが求められるのだが、そのために必要不可欠なのが優秀な英文ページセッターの存在である。
今回のような簡単な学術系パンフでのテキストづくりのポイントは、とにかく「凝らない」ことだ。デザインはシンプルであればあるほどよい。書体もTimesとHelveticaというベーシックで十分だ。それをどこか「デザインらしく」しようとすると逆効果になることが多い。とにかく読みやすく、シンプルに。それが要諦だ。
イメージ:イメージつまり画像、表、図などの作成についてはテキストエディターの仕事ではなくデザイナーの仕事となる。画像、表、図などのテキスト処理で気をつけることはただ一つ。画像、表、図になってしまったあとは、絶対に修正を求めないことだ。つまり、テキストが自分の手から離れてデザイナーのところへいったら、それですべておしまい、ということだ。この原則をきっちりと守らないと、ミスやスケジュール遅れやコストアップの大きな要因となる。ところが、この原則を守らない、というか守れないエディターは多い。なにしろお客さんがこうしたことなど無視して、イメージになってからどんどんとテキストを修正してくる。対応しないわけにはいかないので、デザイナーに無理をいって対応してもらうことになる。するとまた修正が入る。そこで無理をいって対応してもらう。するとまた修正が入る。そこで無理をいって……と、これが3、4回も続くと、さすがにデザイナーも切れる。スケジュールも遅れに遅れる。さらにクオリティも下がりに下がる。こうした状況にならないようにするのが、ディレクターの手腕である。簡単な方法は、お客の理不尽な要望は突っぱねることなのだが、そのためにはきわめて周到な根回しが必要だ。これはそう簡単ではないとだけ、いっておこう。

部品を組み立てる
部品ができると、つぎにそれを組み立てる。だが部品がきっちりとできてさえいれば、組み立ては何もむずかしくない。気をつけるとすれば、テキストでは行末のハイフンの連続、WidowやOrphanの処理である。これらについては専門書をみてもらいたいが、最近ではソフトウェアのほうでちゃんと処理してくれることが多い。まったく楽な時代になったものだ。ただしエディターはそうしたルールについては、ちゃんと知っていること。それでないとただのトーシローと変わりがなくなってしまう。

調整する
トヨタの米国工場での話だ。ある米国トヨタのスタッフが「カイゼン」の一環として、パーツ組み立てにおけるパーツ同士のわずかなズレをいかにスムーズに修正するかを工夫していた。ようやくアイデアがまとまり日本人チーフのところに持っていくと、チーフはまったく興味を示さない。不満に思ったスタッフは、なぜ自分のアイデアを評価してくれないのかと問いただした。すると日本人チーフは次のように答えた。「そもそもトヨタの部品に“わずかなズレ”などないはずです」。
組み立てのときには少しでもズレがあっては実務的に困る。たとえばテキストでいえば、あるテキストと別のテキストの書体や用語の使い方がずれていては困るということだ。
目次のページ数や索引なども注意点のひとつだ。特にページ数は最後の最後まで動くことが多いので要注意である。

メンテナンス
基本的にパンフレット制作にメンテナンスは必要ない。印刷物は印刷してしまえばそれで一巻の終わり。メンテナンスのしようがないからだ。
ただパンフレット制作にともなってウェブ制作をおこなう場合にはメンテナンス作業が重要になってくる。この点については別の機会に詳しく述べることにする。

問題B

自分の好きなテーマで、アカデミック・ライディングのそれぞれのかたち(プロセス・エッセイ、コーズ/イフェクト・エッセイ、コンパリズン/コントラスト・エッセイ、アーギュメンタティブ・エッセイ)のものを、少なくとも2つずつ書いてみてください。

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