翻訳のための基本知識

2011年9月14日

(これは私のつくった講座テキストである『翻訳のための基本知識』からの抜粋です。ワード原稿からの転載のためにレイアウトの乱れなどが数多くみられることをご容赦ください。完全版をご覧になりたい方はJEIアーカイブからPDFファイルをダウンロードしてください。)

 

目次

1.言語とは
(1) 言語の共通性と個別性
(2) 「思考の単位」としての意味チャンク
(3) 「思考の手続き」としての文法
(4) 線条性
(5) 動的理解と静的理解
(6) 先取り理解
(7) 理解の無意識化
(8) 曖昧さとパターン理解
(9) 理知表現と情意表現
(10) 部分と全体
(11) 言葉とイメージ

2.英語の世界
(1) 英語は二項関係の言語
(2) 英語のセンテンスの基本構造
(3) 英語では「配列」が「形態」よりも優先
(4) 英語のテキスト構造
(5) 英語の語彙構造
(6) 英語名詞の認識
(7) 英語動詞の認識
(8) 英語の否定表現

3.日本語の世界
(1) 日本語は「場」の言語
(2) 日本語では「形態」が「配列」よりも優先
(3) 日本語の文の基本構造
(4) 日本語の文章構造
(5) 日本語の語彙構造
(6) 日本語名詞の認識
(7) 日本語動詞の認識

4.翻訳とは
(1) 翻訳と通訳
(2) 何を訳すのか
(3) 翻訳の規律
(4) 翻訳のプロセス
(5) 直訳
(6) 英文和訳
(7) 心と心をつなぐ

☆☆☆

1.言語とは

(1) 言語の共通性と個別性

すべての言語は人間のものです。ですからすべての言語のあいだに共通の特性があることは間違いないでしょう。最近ではFOXP2という言語に関係する遺伝子も見つかっています。従って異言語間での翻訳も不可能ではないはずです。

一方、人間はただ生まれただけでは言語を使うことができません。言語はそれぞれの社会や文化のなかで習得されていくものであり、その社会や文化が異なれば、言語構造のみならず認識や思考の方法さえも異なっています。そのため英語と日本語のように社会文化的背景が大きく異なる言語のあいだでは、翻訳はきわめて複雑で難しいものになるのです。

(2) 「思考の単位」としての意味チャンク

人間はどのようにしてものごとを考えているのでしょうか。その「思考の単位」になるものはどのようなものなのでしょうか。

「何がどうである」「何をどうする」などという、まとまった1つの思考をあらわす語のかたまりのことを「意味チャンク」といいます。この意味チャンクを次々と順番に並べていくことで私たちは自分の考えを表現しています。逆に人の言葉を理解するときにも、この意味チャンクを順番に汲み取っていきます。この意味チャンクが私たちの「思考の単位」といってよいでしょう。

従来の文法概念とはちがって意味チャンクという概念はそれほど厳密なものではありません。かたちもさまざまです。例えば「翻訳は面白い」は意味チャンクですが、「翻訳の面白さ」もまた意味チャンクといえます。「英語から日本語へ翻訳する」のほか、「英語から日本語への翻訳」、さらには「日英翻訳」も意味チャンクだとみなすことができます。

(3) 「思考の手続き」としての文法

意味チャンクをただでたらめに並べただけでは、うまくものを考えたり、それを伝えたりすることはできません。例えばこの直前の文を「ものを考えたり、並べたのでは、ことはできません、ただでたらめに、意味チャンクを、伝えたり。」と並べ換えてしまうと何をいいたいのかまったくわかりません。

それぞれの言語にはそれぞれの言語の特性にあわせた「思考の手続き」があります。その手続きにあわせて言葉を使うことで、私たちはものを考えたり、ほかの人の言葉を理解しています。こうした言葉による思考の手続きのことを「文法」といいます。

この「文法」は皆さんがよくご存知の「英文法」とは違うものです。皆さんの知っている英文法は英語という言語を体系化するためにつくられたものです。「思考の手続き」としての文法ではありません。そのため実際に英語でものを考えたり何かを伝えようとするときには、あまりうまく機能しないのです。

(4) 線条性

まだテープレコーダーというものがあったときのことです(古いですねえ)。好きな音楽テープを逆回しにして聴いてみたことがあります。するといつも聞いている音楽がまったく違うものに聴こえるではありませんか。音楽は順番を逆にすると別のものになってしまうのです。当たり前のようですが、同じ芸術作品でも絵画や彫刻では全体をいっぺんに理解できます。時間軸にあわせて一方向にしか理解できないことは音楽の持つ大きな特性というべきでしょう。

音楽と同じように、自分の考えや気持ちを言葉で表現するときにも時間軸にあわせて一方向にしか進めません。上に述べた意味チャンクを前から1つずつ順番に並べていかなければならないのです。音楽や言語が持っているこの特性のことを「線条性」(リニアリティ)といいます。

(5) 動的理解と静的理解

音楽も言語も前から順番にしか意味を理解できないということは、逆にいえば全部いっぺんには理解できないということです。最初のほうを理解しているときには真ん中や後ろのほうについてはまだ理解できていません。言語に即して具体的にいえば、まず1番目の意味チャンクを受け取ってそれを理解したのち、次に2番目の意味チャンクを受け取ってそれを理解するということです。こうして前から前から少しずつ理解を深めていくのです。

こうした理解においては、例えば2番目の意味チャンクを受け取ったことで1番目の意味チャンクの理解のあり方が変化するかもしれません。同じように3番目の意味チャンクを受け取ったときに1番目と2番目の意味チャンクの意味が変わるかもしれません。新しい意味チャンクを受け取るごとにそれまでの意味チャンクの意味はどんどんと変化していくのです。このように前から順番に意味の理解を次々と変えながら理解をしていくやり方のことを「動的理解」といいます。

それに対して、全体を見渡して全部いっぺんに理解してしまうやり方のことを「静的理解」といいます。絵画の理解は静的理解の1つです。言語理解でも英文和訳のように全体を読みとってから分析して意味を理解していくのであれば、それは静的理解です。

(6) 先取り理解

上手いサッカー選手と下手なサッカー選手の大きな違いは「ゲームを読める」かどうか、つまり次のプレイがどうなるかを正確に予測できる能力にあるそうです(もちろん技術や体力は大切でしょうが)。ゲームの行方を「先取り」できる選手こそがグッドプレイヤーということです。

言語でも同じことがいえます。私たちは言語を理解するとき、新しい意味チャンクを受け取って理解すると同時に、その次にどのような意味チャンクがくるかを前もって予測しています。「我輩は」と聞くと私たちはすでに「猫である」を先取っています。「腹が減っては」であれば「戦はできぬ」、「犬も歩けば」であれば「棒にあたる」が頭に浮かびます。もちろんこうした有名なものだけではなく、「翻訳は」と聞くとその次には「面白い」「むずかしい」「いま勉強中である」などの表現がくることを予測しています。一方、「翻訳は」と聞いて「ごはんを食べたい」とか「テレビを見た」などの意味チャンクが次にこないことも予測できます。こうした理解のあり方のことを「先取り理解」といいます。
動的理解と先取り理解は、言語を処理するうえで必要不可欠な能力です。私たちは母語ではこの2つの能力を自然と身につけていきます。日本人であれば日本語を使うときには動的理解と先取り理解を駆使しながら理解を進めているのです。ところが英語のような外国語を理解しようとする際には、この2つの能力をうまく使うことができません。そのために自分の耳や目の中に次々と飛び込んでくる意味チャンクを迅速に処理できなくなります。そのうちに情報が脳のなかでオーバーフローして脳がフリーズしてしまうのです。英語を英文和訳しながら聞きとろうとすると、このような状態に陥って頭が真っ白になってしまったという経験は、多くの方がお持ちではないかと思います。

(7) 理解の無意識化

「燃えよドラゴン」という映画(これも古いですねえ)のなかで主人公であるブルース・リーは次のようにいっています。「考えるな、感じるんだ」。うーん、名セリフですねえ。私も少しばかり武道をやっていたのでよくわかるのですが、考えてから体を動かすのでは遅いのです。本当に強くなるには無意識に体が動くようにしなければなりません。とても難しいことなのですが、そうなるために武道家は日々稽古を積み重ねています。

言語も同じことです。例えば英語を聴いたり読んだりするときに、上に述べた動的理解や先取り理解を「意識的に」行っているようでは、本当に英語力がついたとはいえません。本当の英語力がついた状態とは、こうした理解のあり方を「無意識のうちに」できるようになったときのことです。これが英語ネイティブの理解のあり方です。私たちも母語である日本語については無意識のうちに理解しています。英語でもそうなることが英語を学習する日本人の目標です。

(8) 曖昧さとパターン理解

人間の心は本当に複雑です。イエスであると同時にノーであったり、好きなのに嫌いといってみたり……。コンピュータのようにイエスかノーだけでコトがすむものではありません。なかなか一筋縄ではいきないのが人間の心というもの。奥が深いですねえ。

人間の心と同様に、人間の言語もこうした複雑さと曖昧さを持っています。「道」という語があります。これがあらわすのは人の通る道かもしれせんし、電気や水の通る道かもしれません。あるいは華道や茶道のような精神的な道かもしれません。ひょっとすると「道」という名の人なのかもしれません。

語彙だけでなく文構造も曖昧で多義的です。「AするBのC」は「[AするB]のC」と「Aする[BのC]」のどちらにもとることができます。「昨日新宿で会ったAさんの妹」の場合、会ったのはAさんでしょうか、その妹でしょうか。

人間の言語を特徴づけているもう1つの特性に「パターン理解」というものがあります。これは一部の情報から全体を類推して補完する思考過程のことをいいます。例えば次に示す文を皆さんは理解できますか?

「むかし○○○あると○ろに、お○いさんと○ばあ○○がい○した。」

もちろん理解できますね。ではなぜできるのでしょうか。それは私たちがこの文章のパターンを知っていて、みえていない部分についてはそれを補完して理解しているからです。

コンピュータはこうしたふうには人間の言葉を理解できません。人間の言葉を隅々にまで理解できるのはやはり人間だけです。人間だけが人間を理解できる―ー当たり前のことなのですが、現在のコンピュータ万能社会のなかで私たちはそのことをつい忘れてしまってはいないでしょうか。

(9) 理知表現と情意表現

言語は人間の心の全体を表現するものですから、理知(客観)の部分と情意(主観)の2つの部分があります。理知部分は文の内容を通して表現されます。感情部分は日本語では「~たい」「~らしい」「~つもりだ」などの助詞、英語ではwill, may, mustなどの助動詞がおもに表現します。

注意したいのは、日本語は情意表現に秀でた言語である一方で、情意表現抜きのニュートラルな表現がむずかしいということです。英語のI am a cat.は単なるニュートラルな表現ですが、日本語の「我輩は猫である。」には様々な情意が含まれています。ですから「我輩は猫である。」をI am a cat.と訳すのは本当の意味でいえば誤訳になるのです。でも実際の翻訳では、そのように訳されていることも多いようですね。英語が抜群にできた漱石のことですから、ひょっとするとあの世で苦笑いをしているかもしれません。

(10) 部分と全体

人の個性は他人と比べてみてはじめてわかるものです。背が高いというのは他人に比べて高いのであり、おしゃべりであるというのは他人に比べて口数が多いということです。

言語の持つ意味にも、これと同じことがいえます。「赤」という言葉は青や黄と比較してみてはじめて赤であり、「走る」という言葉は「歩く」という言葉とともにあってはじめてその意味が決まります。個々の言語表現はすべてが全体の一部であり、それぞれに違いをもつ表現が有機体としての1つのネットワークを構築しています。

翻訳においても、英語表現と日本語表現とが完全に一対一で対応することはありません。英語も日本語もそれぞれの言語ネットワークのなかに占める位置こそが意味なのですから。従って部分同士を対応させる翻訳はあくまで便宜的なものにすぎません。部分にとらわれることなくテキスト全体をそのまま翻訳することが最終的にめざすべき翻訳のすがたといえるでしょう。

(11) 言葉とイメージ

二本足で立っていて、二本の手があり、首のうえに頭があって、目が2つ、耳が2つ、鼻と口が1つずつ――日本人でもアメリカ人でもブラジル人でも人間はみな同じすがたをしています。ガイジンだからといってミミズのように目も手も足も何もなかったり、クラゲのように海のなかを漂っているわけではありません。だからこそ言語は異なっても人間はみな空間や動きに対して共通のイメージを持っているのです。どの言語でも上方や前に向かうのは良いイメージですし、下方や後ろに向かうのは悪いイメージです。大きさや速さに対するイメージも言語を越えてほぼ一定です。このようなイメージの普遍性を活かしながら原文表現をイメージに落とし込み、それを参考に翻訳をするという手法がよくとられます。以下に英語の前置詞のイメージと日本語の格助詞のイメージを挙げておきます。

英語の前置詞のイメージ


日本語の格助詞のイメージ

「~が」
「~が」は英語の主語に対応するとされていますが、それだけでは日本語全体をカバーできません。「マイケルが日本語を勉強する。」なら確かに英語の主語に対応しますが、「電車が見える。」「カネがいる。」では英語の主語に対応しません。電車が何かを見るわけではなく、カネが何かを必要とするわけではないからです。
「~が」のイメージは「焦点化」です。場にある「モノ」にスポットライトを当てることで、それがコミュニケーションの中心であることを示します。「マイケルが日本語を勉強する。」「電車が見える。」「カネがいる。」では、「マイケル」「電車」「カネ」がそれぞれ焦点化されているわけです。



「~を」
「~を」は英語の目的語にあたるとされていますが、「~が」と同様に、それだけでは日本語表現全体をカバーできません。たとえば「お湯をわかす。」「黒板を消す。」「ご飯を炊く。」などです。お湯を沸かすと水蒸気になり、黒板を消すとスーパーイリュージョンになります。
「~を」のイメージは「コト」への「直接関与」です。「マイケルが日本語を勉強する。」では、「勉強する」という述語に「日本語」が直接的に関係します。「(やかんで)お湯をわかす。」の場合には「わかす」という述語に対して「お湯」が直接的に関係します。ただし直接関係があるからといっても目的語とはかぎりません。「お湯を」と「わかす」はあくまで関係が直接的であることだけが条件であり、それが「主語・目的語」になるかどうかではありません。



「~に」「~へ」
「~を」のイメージが「直接」関与であるのに対して、「~に」「~へ」のイメージは「間接」関与です。「エベレストを登る」の直接的なイメージと「エベレストに登る」「エベレストへ登る」の間接的なイメージとを比較してみてください。
具体的にいえば「~に」「~へ」はともにイメージとして「方向性」を持っています。また「~に」は到着点とつながるイメージであり、「~へ」は到着点とつながるかどうかとは無関係のイメージです。「中国にいく。」と「中国へいく。」はどちらもおかしくありませんが、「椅子に座る。」と「椅子へ座る。」になると、後者には少しだけ違和感が残ります。「椅子へ」では到着点(椅子)とつながるイメージがあまり明確でないからです。「翻訳者になる」と「翻訳者へなる」では、後者は日本語として成り立ちません。「なる」という動詞には到着点(ここでは「翻訳者」)とつながイメージが不可欠だからです。



「~と」
「~と」のイメージの基本は「つながり」です。「モノ」と「モノ」が「と」でつながることもあれば(ユキちゃんとハナちゃん)、「モノ」と「コト」が「と」でつながることもあります(ユキちゃんとあそぶ。)。あるいは「コト」と「コト」が「と」でつながることもあります(ユキちゃんとあそぶときめた。)。



「~で」
「~で」のイメージの基本は、「コト」に対する「背景説明」(つけ足し情報)です。たとえば「寝る」というコトには次のような「~で」がつきます。



☆☆☆

2.英語の世界

(1) 英語は二項関係の言語

皆さん、この世界ってどんなふうにできていると思いますか?――と急に問われても、なんのことやらわからないかもしれませんね。

じつは世界の捉え方というのは、文化や言語の違いによって根本的に違うところがあるのです。ある文化の人たちは時間は直線的ではなく円環のように流れていると捉えています。また別の文化の人たちは世界は神様が一週間でつくったということや、進化論はすべてウソであるということを本気で信じています。そう、本気でです。

さて英語を母語とする人たちのことです。そうした人たちの多くが、この「世界」とは個物(individual)の集合体であるとみなしています。そして「言葉」とは異なる属性を持つ個物と個物のあいだの関係性を示すものだと捉えています。こうした世界の捉え方は英語を母語とする人たちのあいだだけではありません。フランス語を母語とする人たちもドイツ語を母語とする人たちも、つまり欧米世界のすべての人たちに共通する世界認識です。この認識をあり方を図にすると次のとおりです。



この図の1番目の個物1をN1、2番目の個物2をN2、関係性をV、個物の属性をMとします。そうすると英語の基本構文は以下のようになります。



さらにこの図に表される事柄全体にも属性があるとします。それを付け加えると以下の図のようになります。



上の図が表しているのは、N1という個物(Mn1という属性)とN2という個物(Mn2という属性)とのあいだにV(Mv1という属性)という関係性があるということです。そして、その関係性全体がMv2という属性を持っているのです。

(2) 英語のセンテンスの基本構造

上に述べた英語の世界認識の構造を「文法」の観点からみてみますと、N1が主語(Subject)、Vが述語動詞(Predicative Verb)、N2が目的語(Object)か補語(Complement)にあたります。そして、Mv1が形容詞的修飾語句(Adjective Modifier, Madj)、Mv2が副詞的修飾語句(Adverbial Modifier, Madv)です。符合を文法的なものに変えると以下のようになります。



実際の英語センテンスでは以下のようなさまざまな変形パターンも数多くみられます。



英語のネイティブはこうした構造をイメージしながら英語の動的理解と先取り理解を行っています。

(3) 英語では「配列」が「形態」よりも優先

ここでとてもシンプルですが英語を本当にマスターするうえで絶対に欠かせないことを述べたいと思います。それは英語の語彙の品詞は語の形態(かたち)ではなく配列(並べ方)で決まるということです。かたちではありません。並べ方こそが英語の意味を決めるのです。

例えばchairという語はI sit on a chair.ならば「椅子」という名詞です。しかしI chair the meeting.ならば「議長を務める」という動詞になります。waterではI drink a cup of water.ならば「水」ですが、I water a plant.なら「水をやる」になります。averageやlevelもまた置かれる場所によって名詞にも形容詞にも動詞にもなります。

英語の品詞が形態ではなく配列で決まるという事実を頭で知っていても、心からわかっている日本人の英語学習者は多くありません。例えば「deskの品詞はなんでしょうか?」と誰かに尋ねてみるとします。すると多くは「名詞です」という答えが返ってくるでしょう。しかしdeskも配列次第で動詞になるのです。「事務職につける、内勤にする」という意味です。

なぜdeskを日本人は名詞と直観的に思ってしまうのでしょうか。それは日本語の場合、「机」といった語はあくまで名詞でしかなく動詞になることは決してないからです。冗談ならともかく「机(つくえ)る」といった日本語はありません。

英語の授業でもdeskが配列次第で動詞になることについては教えてくれません。そのためchairもwaterもdeskも「かたちとして」名詞であると多くの日本人が思い込んでいるのです。このことは日本人の英語理解における最大の問題点の1つです。英語構文を認識するあり方そのものが根本的に間違っているからです。これでは「思考の手続き」としての英文法が習得できません。

(4) 英語のテキスト構造

英語のテキストとは例えていえばレンガ造りの家のようなものです。ここでいう「レンガ」はセンテンスのことです。そして設計図にあわせて1つ1つのレンガを順序よく整然と積み上げていって壁や屋根を作り、最後に家にするのです 。

そのテキストを作る際の「設計図」として英米社会で最もよく使われているものが「アカデミック・ライティング」という形式です。アカデミック・ライティングというと、まるでアカデミック(学術)専門のもののように思えますが、そうではありません。アカデミック・ライティング形式は、学術関係の文書にとどまらず行政関係の文書やビジネスの文書などにおいて幅広く用いられています。英米社会における知的英語文章の標準タイプといってもよいでしょう(一方で、アカデミック・ライティング形式をとらない英語の文章も多いことも同時に覚えておくべきです)。

アカデミック・ライティングの最大の特徴は、最もシンプルなかたちの論理展開にあわせて組み立てられていることです。その基本は「トピック・コメント」という組み合わせです。

アカデミック・ライティングでの具体的な構成要素は「センテンス」「パラグラフ」「テキスト」の3つです。センテンスの種類としてはトピックセンテンス、サポートセンテンス、コンクルーディングセンテンスがあり、それらが組み合わされてパラグラフになります。そして複数のパラグラフがイントロダクション、ボディ、コンクルージョンという各パートを構成し、それがまとまってテキストになります。パラグラフにはトピックが1つだけといったルールがあり、これらのルールに則ってつくっていけば誰でも同じタイプの「レンガ造りの家」のテキストが完成するというわけです。アカデミック・ライティングの基本形式を以下に挙げておきます。



(5) 英語の語彙構造

私は英単語を覚えるのが大の苦手です。40年以上も英語を勉強していますが、いまでも英語の本を読んでいると知らない単語がどんどん出てきます。本当にがっくりします。いまは脳科学が急速に進歩していますから、いつか英単語がたちまち覚えられる方法が見つからないものでしょうか。まあそんな虫のいい話は考えずに、1つずつ覚える努力を続けることにしましょう。

さて英語の語彙の話です。西ヨーロッパの諸言語は、ラテン語系の言語とゲルマン語系の言語に大きく分けることができます。おおざっぱにいうとラテン語系が南方の言語、ゲルマン語系が北方の言語です。具体的にはイタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語などはラテン語系の言葉で、ドイツ語、オランダ語、英語、デンマーク語、スウェーデン語などはゲルマン語系の言葉です。同系列の言葉のあいだでは語彙や文法が酷似しています。例えばイタリア語とスペイン語のあいだではかなり言葉が通じ合うようです。日本でいえば津軽弁と鹿児島弁ぐらいの違いかもしれません。ゲルマン語系の言葉でもドイツ語とオランダ語もとてもよく似ています。少しおおげさにいえば日本語での関東弁と関西弁の違いぐらいかもしれません。

さて英語ですが、これがちょっと変わった言語です。もともとドイツ語やオランダ語と兄弟関係にあるゲルマン系の言語なのですが、ジュリアス・シーザーのころからローマの影響を強く受け、さらには11世紀から15世紀にかけてはイギリス全体がフランスに支配されてしまいました。その結果、言語そのものが大きく変わってしまったのです。
どのように変わったのでしょうか。例えば英語の語彙には本来のゲルマン語系の語彙のほかにラテン語系/ギリシャ語系の語彙がきわめて数多く混じっています。日常生活では母語であるゲルマン系の語彙が数多く用いられるのですが、学術や司法や行政といった分野ではおもにラテン語系やギリシャ語系の語彙が用いられています。英語の世界ではラテン/ギリシャ系の語彙を使わなければ学術・司法・行政といった知的分野の英語は成り立たないといって過言ではないでしょう。

この事実は日本語において漢語を使わなければ知的分野の議論が成り立たないのとよく似ています。イギリスも日本も巨大な文明圏の周辺に位置しますので、言語においても似ている部分があるのです。

(6) 英語名詞の認識

世界中の言語を調べている学者たちの意見によると世界の言語すべてに共通して分類できる品詞は名詞と動詞だそうです。形容詞や副詞などについては分類ができない(または不要な)言語もあるそうですが、名詞つまり「モノ」の表現と動詞つまり「コト」の表現についてはすべての言語に存在しなければなりません。どうやら人間はこの世界を「モノ・ゴト」のかたまりとして捉えているようです。

ここからは英語における「モノ」の表現つまり名詞の特徴についてお話します。英語のネイティブが「モノ」を認識する際には次の3つの認識を順番に行っています。A. 既知か未知か、B. 可算か不可算か。C. 単数か複数かの3つです。以下、この3つの認識について詳しく説明しましょう。

A. 既知か未知か
英語の場合、聞き手/読み手も既に知っていると話し手/書き手が判断した「モノ」については、theから始めます。theは、語源的にthatから派生したものであり、「あの例の」という意味を持つものです。一方、まだ知らないと判断した場合にはtheから始めません。この判断を行ったのちにBの「可算か不可算か」の判断に移ります。

B. 可算か不可算か
次に対象となる「モノ」が数えられるものと話す手/書き手が認識した「モノ」については、Cの「単数か複数か」の認識に移ります。一方、数えられないものと認識した場合にはそのままにしておきます。

C. 単数か複数か
Bで数えられる「モノ」だと判断したもののうち、1つだけの場合にはaからはじめます。aは語源的にoneから派生したものであり、「1つの」という意味を持つものです。2つ以上の場合は複数形にします。

以上の3つの認識はすべてのモノ(名詞)において必ずおこなわれます。例えばdogという語は、既知・未知、可算・不可算、単数・複数の認識判断によって、dog, dogs, a dog, the dog, the dogsとさまざまにかたちを変ます。

こうした3種類の認識方法はインドヨーロッパ語族と呼ばれる諸言語に特有のもので、日本語を含む世界の他の言語にはありません。日本人を含む非ヨーロッパ人が英語の冠詞や単数複数の使い方に苦労するのはそのためです。

(7) 英語動詞の認識

世界の「モノ・ゴト」のうち「コト」を表す言語表現を「動詞」といいます。英語の動詞では次の4つの認識を順番におこないます。

A. ヴォイス(態)
動作を表す(~する)動詞においてはS+V+O/C構文のSとO/Cの関係を判断し、SのほうがO/Cに影響を与えていると認識した場合には何もしないでおきます。これが能動態です。逆にO/CのほうがSに影響を与えていると認識した場合には受動態にします。

B. アスペクト(相)
動作を表す(~する)動詞においては「コト」が「すでに終わっている」「いまも続いている」の2点の観点から認識し、それぞれにふさわしいかたち(完了形、進行形)に変形します。2つの観点を組み合わせることも可能です(完了進行形)。

C. テンス(時制)
すべての動詞において「コト」が過去のことなのかそうでないのかを認識判断し、過去と判断した場合には過去形にします。

D. ムード(法)
すべての動詞において「コト」が現実のことであると認識判断した場合(直説法)には、そのままでなにもしません。一方、ただ頭の中で考えただけのことで現実かどうかは判断できない場合(仮定法)にはテンスを1つ過去に向けてずらします(現在形は過去形、過去形は過去完了)。
以上のことをまとめると、以下の図になります。Madj、Madvのなかの要素でも同様の認識判断がなされています。



(8) 英語の否定表現

英語では名詞の前にnoをつけるとその名詞が否定されます。また動詞の前にnotをつけるとその動詞が否定されます。例えばno dogならばdogは「存在しない」ことになり、not eatならばeatは「おこなわない」のです。
動詞だけではなく名詞でも否定表現を用いることができること、否定表現が否定する名詞や動詞の前に置かれることのの2つの特徴は英語が「モノ」中心でVO型の言語であることの証であり、「コト」中心でOV型の言語である日本語の否定表現である「~ない」との本質的な違いです。

☆☆☆

3.日本語の世界

皆さん、日本語がどのような言語かを外国人にうまく説明できますか? はい、と答えられる方はそれほど多くはないのではないでしょうか。

私たちはいつも日本語を使って生活をしていますが、その日本語についてしっかりと学んだ経験がありません。学校の国語という教科はどちらかというと文学を学ぶものであり、日本語という言語を学ぶものではありません(それはそれで役に立つのですが)。中学や高校では国文法を学びますが、それが役に立っていると思っている方はほとんどいないでしょう。文章の書き方や作法についても学ぶ機会がほとんどありません。私たち日本人は日本語に関するきっちりとした訓練を受けることもなく、ただなんとなく日本語を話し、なんとなく日本語を書いているのです。

これは本当に大きな問題です。コミュニケーションの重要性が強く認識され、グローバルコミュニケーションのツールとしての英語の必要性が声高に叫ばれている昨今ですが、日本人の場合、そのグローバルコミュニケーションの基盤であるべき母語についての正しい理解がほとんどできていないのです。自分の言語のこともまともに知らないのに他人の言語のことなど、わかるはずもありません。

まず日本語をよく知るべきです。その正しい姿を理解することです。幸いなことに、この数十年で日本語の研究が進み、これまではよくわかっていなかった日本語の姿がわかるようになってきました。以下、そうした日本語研究の成果を取り入れながら日本語という言語についてご説明をしたいと思います。

(1) 日本語は「場」の言語

欧米人とは異なり、日本人はこの世界を個物(Individual)の集合体とはみなしていません。私たちにとって世界はそれ自体が1つの「場」であり、個物はそのなかの要素にすぎません。場が主役、個物が脇役です。

「場」は世界全体のときもあれば、その一部のときもあります。いずれの場合も「場の調和」がとても大切です。日本語では場のなかで他との調和がとれていないことが最も嫌われます。これを「場違い」といいます。

また日本語では、場のなかの誰もが知っていることについては述べる必要がありません。そこで欧米的な発想でいう「省略」手法がきわめて多く用いられます 。逆にそれを表現してしまえば、くどくなります。

時間に対する認識についても日本人の捉え方は欧米人と本質的に違っています。欧米人は時間を現在を基点に過去と未来に伸びる一直線であると捉えています。しかし日本人は時間を物理的なものだけではなく人間の心のなかにあるものだと捉えています。そのため物理的には過去のことであっても心理的に現在だと捉えれば現在のこととして表現します。欧米人は物理的な時間感覚が強く、日本人は心理的な時間感覚が強いといえるでしょう。
ただし、上に述べたような伝統的な日本語の世界認識方法以外に、明治以降の日本人は西欧的な世界認識方法を積極的に日本語に移植してきました。そのため、私たちがいま用いている現代日本語は、伝統的な日本語の認識と西欧的な認識とを併せ持つ「ハイブリッド」型になっています。このようにハイブリッド化した言語は、世界でもとても珍しいものです。

(2) 日本語では「形態」が「配列」よりも優先

英語では配列〔並べ方)が形態(かたち)よりも重視されますが、日本語はそうではありません。日本語では形態のほうが配列よりも重視されます。日本語には英語にない「格助詞」(~が、~を、~と、~で、~に、~へ、~から、~より、など)があるからです。格助詞を使うことで名詞句と動詞とのあいだの関係を配列にかかわらず明確につかむことができるのです。日本語とは格助詞の言語だといってよいかもしれません。

(3) 日本語の文の基本構造

上に述べた日本語と英語の個性の違いから、日本語の文の構造は英語のセンテンスの構造とはまったく違うものになっています。日本語の文の基本構造は以下のとおりです。

以下、日本語の文の特徴について説明します。

A. トピック表示としての「~は」
日本語ではまずなによりも先に「場」を設定します。上の基本構造でいえば、一番外側の点線の四角にあたるところです。この四角が実線ではなく点線になっているのは、その場がどのようなものかわかっている場合には表現されないからです。

日本語は、わかっていることについては表現しないでおこうとする性質がとても強い言語です。日本語では、できるかぎりいうのがよいのではなく、なるべくいわないほうがよいのです 。

「場」は認知的な概念ですが、これを文法的な概念に置きかえてみると「トピック(主題、テーマ)」ということになります。日本語にはトピックを示すための言語マーカーとして「~は」という助詞があります。例えば「明日は日曜です。」というのは、これから明日というトピックについて述べるのであり、その内容が「日曜である」ということです。
数十年前まで「~は」と「~が」のどちらもが英語の「主語」にあたるという考え方が一般的でした。しかしそれでは「タロウはハナコが好きだ。」「象は鼻が長い。」「その人形は私がつくりました。」といった文の「~は」と「~が」の使い方の説明がつきません。「~は」が主語を表すのかどうかについて言語研究者のあいだでずいぶん論争があったのですが、現在では研究者のほとんどが「~は」は主語ではなくトピックの言語マーカーだと考えています。確かに主語にあたることもあるけれども、それ以外の要素にあたることもあるということです。

トピックの言語マーカーを持つ言語のことをトピック・コメント型言語といいます。日本語のほかに韓国語もトピック・コメント型の言語です。一方、英語はトピック・コメント型言語ではなく主語・述語型言語です。

B. 日本語の基本文は「動詞」
上に表示した「日本語の文の基本構造」の中で点線の部分は省略ができるところでした。なるべくいわないほうがよいところです。よくみるとほとんどの部分が点線です。点線でないのは動詞の部分だけ。つまり日本語の文において絶対に表現しなければならないのは動詞だけです。
例えば日本語では次のような会話が成り立ちます。

「する?」「うん、する。」
「ほしい?」「ほしくない。」

英語ではこうした会話は不可能です。

“do?” “do.”
“want?” “don’t want.”

これでは英語になりません。英語のセンテンスでは少なくともSVがなければ英語として成り立たないのです。”Will you do it?” “Yes, I will.”や”Do you want it?” “No, I don’t.”としなければなりません。文頭のSV中心の英語と文末の動詞中心の日本語では言語構造そのものが根本的に違っています。

翻訳をする際、こうしたことを考慮せずに主語は主語、動詞は動詞などと割りきって訳すことはナンセンスです。日英の言語としての根本的な差異をよく頭においたうえ、全体をよくみきわめながら訳出しなければなりません。

C. 終助詞
図をみると、文末の動詞の後ろに点線の四角で「終助詞」がついています。終助詞は、その名のとおり文を「終わらせる」助詞のことです。具体的には、「~な」「~ぞ」「~ね」「~よ」「~ぜ」「~とも」「~の」「~わ」などです。
日本語の会話では終助詞がくるまで文は終わりません。例えば

「昨日、Aさんに会った」

とまで聞いたとします。これで終わりかもしれませんが、しかしこのあとに

「昨日、Aさんに会った場所は新宿だった…」
「昨日、Aさんに会った夢をみたんだけど…」

などと、まだ先が続く可能性もあります。しかし、終助詞がきて

「昨日、Aさんに会ったよ」

となると、そこから文がさらに続くことはありません。

書き言葉では終助詞はあまり使われません。文末の句点(。)が終助詞の代わりをしてくれています。

C. 文末決定性
日本語の文では終助詞または句点で締めくくられる文末の動詞が文における中心点です。そのため動詞の意味が決定しなければ、その前のすべての部分の意味が決定しません。このように、文末の語がその前の語をすべて支配する言語の特性のことを「文末決定性」といいます。日本語はきわめて文末決定性の強い言語です。
例えば彼女とはじめてのデートをしているとします。たまたまタイ料理の店の前を通ると彼女がこうたずねてきました。

「××さん、タイ料理は好き?」。

そこで、まず正直に

「タイ料理は好きじゃない」

といってから、彼女の顔をちらっとみます。すると彼女はなんとなく悲しげな顔をしているではありませんか。そこですかさず、

「という人もいるみたいだけど、僕は好きだなあ。」

などと付け加えればよいのです。そうすれば彼女の顔もほころぶというわけです。(そんなにうまくいくとはかぎりませんが)。

一方、英語は文末決定性を持ちません。英語のセンテンスの基本はS+V+O/Cですが、ここまでが決まってしまうと、そこで意味が確定してしまいます。上の会話では

Do you like Thai food?

ときかれて

I don’t like it.

と答えてしまうと、そこで意味が確定してしまいますので取り返しはつきません。彼女の顔がほころびることはありません。うーん、残念。

文末まで意味が決まらないということは、上の例のように当意即妙の会話を生み出すこともできますが、実際には言語理解を阻害するほうが多いようです。文末決定性があると文末までの距離が長いほど文の理解が難しくなるのです。

なぜ文の理解が難しくなるのでしょうか。まず文の長さが長くなれば「思考の単位」である意味チャンクの数が増えます。人間の脳は短期記憶として一度に7つまでの意味チャンクしか記憶できないことが脳科学で判明しています。もし意味チャンクの数が10も15もなってしまうと文末にいくまでに最初のほうの意味チャンクを忘れてしまいます。

また長くなることに伴って「思考の手続き」である文法が複雑化します。例えば入れ子構造が増える可能性があります。二重入れ子ならともかく三重入れ子、四重入れ子になると人間の脳の処理能力を超えてしまいます。次の文は入れ子が増えたことで意味がとれなくなった一例です。「太郎は次郎が三郎が四郎が添削した文章を添削した文章を添削した文章を添削したようだね。」

(4) 日本語の文章構造

「英語のテキスト構造」のところで英語のテキストはレンガ造りの家のようなものだと述べました。では日本語(ただし伝統的な日本語に限ります)の文章構造は何にあたるのでしょうか。私はそれを美しい織物のようだと考えています。

伝統的な日本語の文章においては、欧米テキストのように設計図どおりに精密に組み立てるという発想はありません。そのかわりに文章の流れが重要視されます。さまざまな趣向を持ちながら(あやをなしながら)たおやかに流れ進んでいくところに、日本人は文章としての魅力を感じるといえるでしょう。それは源氏物語の昔から現在のエッセイや小説に至るまで同じことです。日本人にとって、文章はまさに織りなすものではないでしょうか。

一方で、理知を表現する文章についてはまったく事情が異なります。江戸時代まで日本人は理知的表現を行う際には、漢文または漢文訓読体を用いていました。漢文には定型がありますので、その定型にあわせて文章をつくればそれなりに格好がつきました。紋切り型といえばまったくの紋切り型なのですが。

明治以降になると、漢文訓読体のかわりに欧文訓読体つまり翻訳文体が用いられるようになりました。ただあまりに性急に欧米の文明や文化を移植しようとしたものですから、言語の表面的な移植はできても本質的な部分にまでは手が回りませんでした。その結果として、欧文のテキスト構造については日本語に移植ができませんでした。その一方、江戸時代まで用いていた漢文的な定型文は捨て去ってしまったものですから、結局のところ、日本人のお手本となる知的文章の型が何もなくなってしまったのです。

こうした歴史的な経緯から、現在の日本語の知的文章には、広く一般的に用いられる定型的な文章構造がありません。一部に英米のテキスト形式を移植しようとする動きもあるのですが、それほど普及していません。いまのところ、日本語の理知的な文章をつくるには個々人がそれぞれに作文の技量を磨いていくほかに方法がないのです。これでは多くの日本人がうまく文章を書けないのは当然のことではないでしょうか。私たちの焦眉の課題は、日本語の理知的文章づくりの定型を作り出すことです。

(5) 日本語の語彙構造

英語の語彙構造はゲルマン系語彙とラテン/ギリシャ系語彙の二重構造だと説明しました。じつはこうした二重構造を持っているヨーロッパ言語はそれほど多くありません。フランス語やイタリア語の語彙はほぼすべてラテン語系です。逆にドイツ語などはゲルマン系の語彙がほとんどです。そうした観点からみると、英語の語彙はまるでウマとロバとのあいだに生まれたラバみたいです。

ところが、日本語の語彙の雑種ぶりはその上をいっています。日本語の語彙構造は和語・漢語・翻訳語の三重構造をしているのです。

まず日本語の語彙の基層はなんといっても和語です。和語は数千年(あるいは数万年)前から日本列島に住んでいた人々が使ってきた言葉です。「め」「はな」「て」「うえ」「した」「やま」「かわ」などが和語の例です。和語は主に私たちの日常生活のなかで数多く用いられています。

一方、およそ1500年前から1000年前にかけて中国大陸からやってきた外来語彙が漢語です。当時の中国は圧倒的な文明国であり、日本人はその文明を積極的に摂取しようとしました。「眼(がん)」「鼻(び)」「手(しゅ)」「上(じょう)」「下(げ)」「山(さん)」「河(が)」などが漢語の例です。漢語は学問、司法行政、ビジネスなどの分野で多く用いられています。

そしておよそ200年前から現在にかけて欧米から受け容れてきた外来語彙が翻訳語です。現在では翻訳語はカタカナで表記することがほとんどですが、明治期から大正期にかけてはすべて漢語に翻訳していました。翻訳漢語です。その数は数万語にのぼるといわれています。「理性」「科学」「会計」「正義」「風俗」「社会」などが翻訳漢語の例です。翻訳漢語は従来からの漢語と一体となって現在の学問、司法行政、ビジネスなど知的分野の基盤となっています。翻訳漢語なしでは現在の日本語はあり得ません。この文章も翻訳漢語なしでは書くことはできません。

語彙が三重化していることで、日本語では同じ内容をさまざまなやり方で示すことができます。例えばすぐ上の「語彙が三重化していることで、日本語では同じ内容をさまざまなやり方で示すことができます。」という文も、「ボキャブラリーが三重化しているので、日本語では同一のコンテンツを多様なスタイルで表現することが可能です。」と書くこともできます。もちろんこのほかにもさまざまな書き方のバリエーションが考えられます。

このように選択肢が多いということには表現が豊かになるという良い側面がありますが、その一方、どう書いてよいのかの判断がつきかねるという悪い側面も併せ持っています。選択肢が多すぎると選べなくなるというのは認知心理学でよく知られている事実です。

(6) 日本語名詞の認識

すでにご紹介したように、英語の名詞では既知・未知、可算・不可算、単数・複数という3つの認識をつねに必要とします。それに対して日本語の名詞はそうした認識を必要としません。英語のdogは既知・未知、可算・不可算、単数・複数の認識によってdog, dogs, a dog, the dog, the dogsとかたちを変えますが、日本語の「いぬ」は知っていようといまいと、可算的(具体的)であろうと不可算的(抽象的)であろうと、一匹であろうと数匹であろうと、いつでも「いぬ」です。

これは日本語だけではなく中国語も朝鮮語もインドネシア語もスワヒリ語でも同じことです。英語のところで述べましたが、世界の言語のなかで名詞に複雑な認識判断を求める言語はインドヨーロッパ語族の諸言語に限られています。それ以外の言語では既知・未知、可算・不可算、単数・複数といった情報を名詞に与えたいときには、それに必要な表現を付加するのが一般的です。言語としてそれで十分に機能するからです。敢えていえば日本語が特殊なのではなく英語のほうが特殊なのです。

(7) 日本語動詞の認識

英語の動詞にはヴォイス(態)、アスペクト(相)、テンス(相)、ムード(法)という4つの認識がつねに必要です。名詞の認識は3つですから、動詞はさらにややこしいですね。

こうした西欧的な概念にあてはめてみると、日本語の動詞に必要な認識基準はヴォイスとアスペクトだけです。テンスとムードについては必要がありません。日本語の場合、テンスについてはアスペクトの完了相である「~た」で代替できます。終わってしまったことは過去のことですから。これは中国語などでも同様です。ムード(そのコトが事実か想念上のことかの認識)については、必要な場合だけ別の表現方式を付加します。

ヴォイスとアスペクトですが、ヴォイス(態)については、あるモノが他のモノや「場」全体から影響を与えられる場合には動詞の後ろに「れる、られる」を付加します。「れる、られる」をつけるとそのモノは他のモノや「場」の影響下に入るわけですから、そこから「被害、無力」といった意味も生まれてきます。「雨に降られた」「妻に死なれた」などといった表現がこれにあたります。

アスペクト(相)ですが、完了相については「~た」で認識します。進行相については、存在を示す「ある、いる」を流用して「~てある、~ている」で認識します。

(8) 日本語の否定表現

英語では動詞とともに名詞も否定することができます。Anyone did not come.とNo one came.は内容的には同じことを意味するものです。一方、日本語で否定できるのは動詞だけで、名詞は否定できません。「誰もこなかった。」とはいえても「存在しない誰かがきた。」とはいえないのです。ここからも日本語がモノ中心ではなくコト中心の言葉であることがわかります。

さらに厳密にいえば、日本語では否定といってもそのコト自体を否定しているのではなく、そのコトが場に「ない」ことを示しているにすぎません。「食べない」というのは英語でいうところのnot eatではなく、少し脱線を承知でいえばthere is no eat.(食べるということがない)に近い表現です。

言語、英語の構造、日本語の構造についての解説は、これでおしまいです。いいたいことはまだまだあるのですが、きりがありません。それにこれは「つぼ」の本ですから、あまりにたくさんいうと肝心の「つぼ」をはずしてしまいます。ここらへんでおひらきにします。

☆☆☆

4.翻訳とは

言語の基本知識に続いて、ここからは翻訳の解説をしたいと思います。

(1) 翻訳と通訳

まず翻訳と通訳の違いから考えてみることにしましょう。翻訳と通訳、この2つはいったい何が同じで、何が違うのでしょうか。

翻訳も通訳も異なる言語を使う人間の心と心をつなぐ営みですから、基本は同じです。いずれの場合も卓越した言語能力、豊かな知識、熟達した言語運用技術が必要となります。大きな違いといえるのは、通訳は「エッセンス」指向、翻訳は「精密」指向だということです。

通訳は時間との勝負です。卓球のプレーヤーが猛スピードで向かってくるボールを間髪をいれずに打ち返すのと同じように、通訳者は自分に向かって次々ととんでくる言葉を別の言葉に変えて間髪いれずに打ち返すのです。その際に大事なことは、ボールの真芯を適確に捉えること。つまり言葉のうちのエッセンス部分をきっちりと捉まえ、それを別の言葉で表現することです。細かなことに妙にこだわっているようでは、うまく通訳できません。

翻訳には通訳のような時間的な制約がありません。しかしその一方で、翻訳されたものは後々にまで残ります。10年後、20年後、ひょっとすると100年後、200年後にも読まれる可能性があるのです(あくまで可能性ですが)。これほどまで長い時間にわたって自分の仕事の評価がなされる可能性があるわけですから、翻訳者は仕事の精密さにこだわります。ちょうど着物の生地を織り上げる織物師が糸の一本一本にまで気を使うように、翻訳者は自分が作りだす表現の細部の細部にいたるまで神経を尖らせるのです。

このような翻訳者の緻密な態度には良い面もあるのですが、悪い面もあります。1つは、細かいことばかりに眼を奪われて全体の姿を見失ってしまいがちになることです。「木をみて森をみず」の状態に陥るのです。またミスを恐れるあまりに文章としての魅力や迫力を失ってしまう傾向もよくみられます。そのために翻訳の文章は正確だけれどもつまらないものになりがちです。真面目で間違いはないけれども、話していてちっとも楽しくない男の子のようです。実際のところ、男性翻訳者は(私を含めて)どちらかといえばネクラで女性にもてそうにないタイプが多いようです。

(2) 何を訳すのか

話を変えましょう。翻訳で何を訳すのかです。翻訳で訳すべき要素は次の4つです。

A. 内容(事実、論理、他)
まず当然のことながら、なによりも翻訳するべきものは言葉に込められている内容そのものです。ここでいう「内容」とは言語として表現されている事実、主張、論理などのことです。通常はこれのみが翻訳の対象とみなされていますので、ここで敢えてこれ以上いうべきことはありませんね。

B. 構造的特徴(読みやすさ/わかりやすさ、他)
しかし、翻訳するべきものは内容だけはありません。「読みやすさ」「わかりやすさ」といった言語としての構造的特徴もまた訳出するべきものです。英語には英語として「読みやすく」「わかりやすい」構造があります。一方で日本語には日本語としての「読みやすく」「わかりやすい」構造があります。この構造の違いを越えて「読みやすさ」「わかりやすさ」というものを翻訳するのです。

ここで1つ疑問がわいてきます。では「読みにくくてわかりにくい」原文であれば訳文も「読みにくくてわかりにくい」ものにするべきなのでしょうか。この質問は私の翻訳講座で何度も受けてきたものです。皆さんはどう思いますか?

そんなはず、ありませんね。常識で考えてみてください。わざわざ訳文をわかりにくいものにすることにどんな意味があるのでしょうか(芸術的価値を持っている場合は別ですが)。そのほうが翻訳として「正しい」から? ナンセンスですね。どんなときでもできるだけわかりやすく訳すこと、それが翻訳者の使命です。

C. 情意(モダリティ、他)
翻訳すべき第3の要素は、原文にこめられている原作者の「気持ち」です。言語的にいえば理知表現と情意表現のうちの情意表現にあたります。

文芸翻訳は別にして、実務翻訳の世界では一般的に内容の翻訳にのみ的が絞られており、気持ちの部分の表現はほとんど翻訳対象になっていません。しかし実務であろうとなんであろうと、人間の言葉にはすべて情意が込められています。いくら客観を装おうとも人間の言葉は人間の主観から逃げられないのです。ところが実務翻訳に携わる人の中には、主観的であることをまるで悪いことのようにみなして、つねに客観を装って訳出しようとする人たちもいます。

これは翻訳者として間違った態度だと思います。いかなる翻訳であれ、気持ちの部分を翻訳の対象としないことは一種の「逃げ」だと私は考えます。翻訳は言葉と言葉でなく人間の心と心をつなぐものですから、心の重要な一部分である情意の部分も大事にしなければなりません。理知的な部分と同様に情意の部分に踏み込んで訳出をするべきです。

D. 言語的魅力(文体、レトリック、リズム、音、視覚効果、他)
翻訳すべき第4の要素が言語的な「魅力」です。これこそが翻訳として最も難しく、また最も面白いところです。

なぜ「魅力」を翻訳することがそれほどまでに難しいのでしょうか。それは「魅力」ということ自体が捉えることの難しい概念だからです。その難しい概念である魅力を外国語において捉えなければならないのですから、至難の技です。さらにはそれを日本語の「魅力」に移さなければなりません。ということは、日本語の「魅力」についても精通していなければなりせん。ハードルはさらにさらに高くなるというわけです。

皆さんの中には、実務に関する翻訳ではなく小説やエッセイを訳してみたいという方も数多くいらっしゃると思います。なぜかというと、そのほうが面白そうだからですね。ではなぜ面白そうだと思うかというと、それがこの「魅力」の部分にあるではないかと思います。

しかし、実務系の翻訳でも魅力はやはり不可欠です。たしかに実務系翻訳では、文学的な魅力は必要ありません。裁判の判決文が詩のようであっては困ります。しかし一方で、判決文には判決文としての魅力がなければならないのです。決して文学的魅力ではありませんが、それはやはり言葉の魅力と呼ぶべき何かです。それが欠けていると言葉は人の心にまでは届かないのです。

(3) 翻訳の規律

ここまでは何を訳すかについて考えてきました。ここからは「いかに」訳すのかについて考えることにします。
最初に翻訳を行う際に守らなければならないこと、すなわち「翻訳の規律」についてお話をします。翻訳の規律は大きくいってしまえばたった2つしかありません。

A. わからないことは訳してはいけない
B. よい文章しか書いてはいけない

の2つです。この2つの規律さえしっかりと守ることができれば、その翻訳は必ずよいものになります。

A. わからないことは訳してはいけない
1つめの規律からみていきましょう。原文の意味がわからないままで訳してはいけないというのは、あまりに当然のことのように思われます。しかし現実には多くの翻訳がじつはそうではないのです。といいますのも、英文和訳(直訳)という手法を使えば内容はわからずとも、とりあえずかたちだけは「翻訳」できてしまうからです。世の中にはこうした翻訳「もどき」が山ほどあります。アマチュアの翻訳だけではありません。プロと称される人の翻訳のなかにもこうした例がいくらでも見つかります。ホンモノでなくニセモノであっても通用してしまう――これこそが翻訳という仕事のおそろしいところです。

もう1つ考えなければならないのが「わかっている」とはどういうことなのかということです。こういいかえてもよいでしょう。自分がわかっていないということをどうやってわかるのかと。翻訳講座の講師をしていて面白いと感じるのは、「原文がわからない」と深刻な顔をしている受講生ほど本当はわかっているということです。逆に、わかったような顔をしている受講生は往々にしてよくわかっていません。つまり自分がわかっていないということがわかっていないのです。ややこしい話ですが。

このように「わかる」というのはどこまでも個人的な感覚です。ですから「わからなければ訳してはいけない」というのは客観的な規律ではなく、あくまで自分自身の心のなかでの規律なのです。「わかった!と自分自身で十分に納得できるまでは翻訳してはいけない」ということです。こういうとなんだか頼りないような話に思えますが、そうではありません。この規律を守ることで翻訳力は必ず向上します。間違いありません。

B. よい文章しか書いてはいけない
2つめ規律である「よい文章しか書いてはいけない」も客観的なものではありません。「よい、悪い」という基準はあくまで個人的なものですから。しかしこの規律もまた、それを守ることで翻訳力は間違いなく向上します。なぜでしょうか。

さきの「わからないことは訳してはいけない」のところで、「英文和訳(直訳)という手法を使えば内容はわからずとも、とりあえずかたちだけは翻訳できてしまう」と解説したうえで、これが翻訳のおそろしいところだといいました。じつは翻訳という仕事にはもう1つおそろしいところがあります。それは「翻訳なのだから文章については少しぐらい変でも仕方がない」という考え方が、ある程度通用してしまうところです。

皆さんが翻訳書を読むとき、読みにくいなあと感じることはありませんか? けれども、それと同時に「まあ、翻訳なのだから、ある程度は仕方がないのかなあ」などとも思ったりはしませんか? 私などは翻訳書が少しでも読みにくいと思ったらすぐに読むのをやめてしまうのですが、私のような無慈悲な読者は少数派のようです。たいていの人はもっと慈悲深くて「せっかく翻訳者が頑張って翻訳したのだから」と我慢して読んでくれるのです。本当に仏様のようですね。

しかし、この仏の行為が翻訳者を堕落させるのです。こうした読者の慈悲に甘えることで、翻訳者は「あまりよい文章とはいえないけれど、でも翻訳としては許される範囲かな」などと勝手に判断してしまうわけです。人間ってほんとに弱い生き物ですね。しかしこれではよい翻訳には決してなりません。また翻訳者としての成長も見込めません。
こうした事態に陥ることを避けるには、翻訳だからという甘えをきっぱりと捨てなければなりません。翻訳であろうとなかろうと、よくない文章はよくないのです。このことを自分自身に叩き込まなければなりません。いいですか、翻訳であろうとなかろうと、よくない文章はよくない。だからよい文章しかつくってはいけない。これをお経のように何度でも心の中で繰り返しましょう。

(4) 翻訳のプロセス

「いかに訳すか」における2つの規律がわかったところで、次に実際の翻訳作業でどのようなプロセスで行うのかを考えてみることにしましょう。話がだんだんと翻訳の実務に近くなってきました。以下、プロセスにあわせてご説明します。

A. 原文を読み込む

一般に翻訳者は「翻訳する」ことが仕事と思われています。もちろん、それはそのとおりですが、しかし実際に翻訳者が最も時間をかけているのは翻訳ではありません。原文を読むことです。
翻訳者というのは、皆さんが思っている以上に原文を何度も何度も読むものです。1つめの規律の「原文の意味がわからないままで訳してはいけない」を遵守するには、なによりも原文を徹底的に読み込むことが不可欠だからです。そのため、読む方法も眼で読むだけでは十分ではありません。耳でも読み、手でも読みます。声を出して読んだり、書き写したりもするのです。

こうしたさまざまな方法を駆使して、ときに10回も20回も原文を読み込み、できるかぎり原作者の心と自分の心とを一致させようとします。まるで恐山の巫女のように自分を原作者の分身に仕立てあげようとするのです。
もちろん原作者の分身になることが可能だと信じているわけではありませんよ。オカルトじゃありませんから。あくまで主観的な話なのですが、しかし実際のところ、自分を原作者の分身にしようと強く思い込まないかぎり、本当によい翻訳というのはできないものなのです。

B. バックグランド情報を調べる

こうして原文を読み込みながら、それと並行的に原文の背景にある情報を徹底的に調査します。これも「原文の意味がわからないままで訳してはいけない」という規律を遵守するためには欠くことのできない作業です。

翻訳というのは、世間によく知られていないことがらを扱うものです。世間によく知られていることはわざわざ翻訳する必要などありませんから。従って原文には知らないことやわからないことがたくさん詰まっています。それを1つずつ丁寧に調査し、解明していくのです。

こうした調査でよく使うのが、書物とインターネットです。ほとんどの情報は書物とインターネットから得るといってよいでしょう。現在はインターネットの情報をきわめてよく用いるようになりましたが、それでも本を読むことは絶対に欠かせません。ときには1行を訳すために数冊の本を読むということもあります。そうしたことから翻訳者は膨大な数の本を読まざるを得ません。翻訳者の日常は本を読むためにあるようなものです。

C. 訳文をつくる

こうして原文を読み調査を行いつつ、少しずつ理解を深めていくのですが、その理解がある段階にまでくると、そこで訳文を作りはじめます。最初はあくまで「イメージ」の段階であり、きっちりとした言語表現にはなっていません。銀河が生まれるときのように、頭の中で星ならぬ「訳文の素」がぐるぐる回っている感じです。

そのうちに、頭の中で訳文が次第にかたちになってきます。それは一種類ではなく、多種多様なかたちをしています。その数が多ければ多いほど最終的な訳文はよいものになります。

こうして頭の中で訳文がほぼできあがると、パソコンの前に座ってキーボードに手をのせてタイプアウトします。訳文はすでに頭の中にほぼありますので、それを一気に吐き出すという感じです。ピアニストに例えていえば、練習に練習を積み重ねてきた楽曲をコンサートで披露するようなものです。

D. 推敲(見直し)

こうして訳文の初稿ができあがりました。ここで、その訳文を一度「ねかせ」ます。翻訳者側からいえば、翻訳から思考を切り離します。このことは、自分を翻訳者から編集者へと変身させるための大事な手続きです。具体的には自分も寝てしまうのが一番ですが、それほどの時間がないときには、私の場合にはシャワーを浴びたり、散歩に出かけたりします。

こうして自分を翻訳者から編集者へと変身させたのち、訳文の推敲(見直し)に入ります。すると、翻訳者という立場では見えていなかった問題点が次々と見えてきます。これほどまで問題があったのかと驚くほどです。翻訳者はどうしても原文にひきずられてしまい、自分の訳文については客観的に見れないものです。たとえ訳文にわかりにくい部分があっても、なにしろ原文が十分にわかっているものですから、それをわかりにくいと感じること自体が難しいのです。翻訳書の中であきれるほどにわかりにくい文章のものをときどき見かけますが、あれは翻訳者がわざとわかりにくくしているのではありません。本人としてはわかりやすいと思っているのです。それほどまでに翻訳者というのは自分の訳文のクオリティがよく見えないものなのです。

(5) 直訳

さてここからは、翻訳の実際についてさらに具体的なトピックを取り上げることにしましょう。まず翻訳モデルの問題です。モデルとは「型」のこと。例えば水泳でも背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライといった型がありますね。ここでは翻訳をする際にどのような型、つまりモデルを使えばよいのかを検討していきたいと思います。翻訳モデルで最も有名なものといえば、なんといっても「直訳」でしょう。直訳とは辞書的にいえば「語句や文法に忠実に翻訳すること」。これに対して「意味に忠実に訳すこと」を「意訳」といいます 。

「直訳か意訳か」という議論は、翻訳論における定番中の定番です。ただ翻訳研究が進んだ現在、直訳という翻訳モデルがきわめて精度の低い翻訳モデルであることは、翻訳専門家のあいだでは、すでにコンセンサスがとれています。

そうはいっても、世間一般では翻訳とは直訳のことであるといった考え方が、まだまだ一般的です。それどころか、法律や会計など一部の分野では直訳でなければならないとする風潮がいまでも強く残っています。そこで、ここからは直訳とはどのようなものかを、もう少し詳しく説明したうえで、なぜ直訳が現在も日本社会で根強く残っているのかの理由についても解説したいと思います。

語彙と語法の一対一対応直訳をイメージ図にすると以下のようなものになります。

この図では英語の世界の語彙と語法が丸で、日本語の世界の語彙と語法が四角で表されています。「言語とは」「英語の世界」「日本語の世界」でみてきたように、英語と日本語とでは世界の認識の方法や、その表現の方法が根本的に違うからです。その根本的な違いを丸と四角というかたちの違いで表しています。

そのうえで英語の語彙と日本語の語彙、英語の文法と日本語の文法を実線で結んでいます。図ではいくつかの丸と四角しか結んでいませんが、実際にはすべての丸と四角が結ばれていると考えてください。

この線付けが表しているのが「一対一対応」です。この図では実線以外に点線もいくつか描かれています。この点線は英語と日本語のあいだの「一対一対応」を「一対多」対応に変えているのです。直訳の世界でも実際は「一対一対応」ではなく「一対多対応」「多対多対応」だということです。辞書をみると1つの語にいくつもの訳語が対応しています。これが語彙における「多対多」のすがたです。直訳するとは、英語のテキストと日本語の文章とのあいだでこのような「一体一」「一体多」「多対多」の線付け作業を行うことです。

「直訳」が翻訳として精度の低いものであることは明らかです。すでに皆さんもおわかりのように日本語と英語では世界の認識の仕方、その表現の仕方が根本的に違います。従って語彙にしても文法にしても個と個の対応は完全にはできません。線付けそのものがうまくはできないのです。現実的にも直訳でよい翻訳はありません。本当によい翻訳の仕事、例えば現代でいえば上田敦生のドラッカー翻訳などは直訳から最もかけ離れたものです。

ところがその不完全な翻訳モデルである直訳が、いまもなお日本社会で用いられています。それどころか一部の分野では直訳でなければならないとされています。これはいったいどうしたことでしょうか。

直訳という名の誤訳

日本語において欧文直訳体が生まれたのは明治時代のことです 。西欧列強の脅威にさらされた日本は明治維新を断行し、その後は日本社会の近代化(西欧化)をめざして西欧の文明文化を急速に取り入れていきました。それはまさに突貫工事と呼ぶにふさわしいものであり、鴎外はその様子を『普請中』という小説のなかで書き、漱石は『三四郎』の中で「西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰返している」と喝破しています。そしてその突貫工事の最大の道具となったのが翻訳です。当時の日本人は西欧の知識という知識を片端から翻訳していきました。その数は膨大で、明治以降のわずか十数年のあいだに数千冊の本が翻訳されたといいます。考えてみてください。明治が始まる時点で日本人の中に英語やフランス語やドイツ語ができる人間など皆無に近かったのです。それがわずか10年ちょっとのうちに数千冊の専門書が訳されたのですから、その営みがいかに突貫工事であったかがわかります。

ただ当時は翻訳の詳しい研究などありませんでしたから、伝統的な漢文訓読の方法を西欧文の翻訳に応用しました。つまりそれぞれの語に「テニオハ」をつけたのち、語の順番を変えて読み下したのです。そうです、これが「直訳体」です。つまり直訳とは実際には漢文訓読の近代版のことなのです。

この直訳文体は当初から自然でわかりやすい日本語からほど遠いものでした。世界認識も言語構造もまったく違う西欧言語を無理やりに日本語にあてはめていくですから当然のことです。しかし翻訳は西欧の「先進的」知識を取り入れるための最大の道具でしたので、不自然でよくない日本語であるにもかかわらず、特に知識層のあいだではその文体が高く評価されました。いまでもそうですが、日本人の知識人たちは「舶来」に弱いのです。

こうして直訳文体は日本語としてレベルが低いにもかかわらず「知的」な文章とみなされるようになり、さらには翻訳でない普通の日本語の文章においても積極的に用いられるようになりました。この結果、日本人の言語感覚は大きく歪められ、その状況が現在にまで続いています。この状況について外山滋比古は「悪文をありがたかって読んでいるうちに日本の知識人の頭脳はかなり大きな損傷を受けたように思われる。」などと述べていますが 、まったくそのとおりです。

(6) 英文和訳

それでもやはり直訳の日本語のレベルの低さは気になったようで、これを修正するために、いろいろな工夫がなされてきました。このように直訳の上に修正がほどこされた訳文のことを「英文和訳」といいます。直訳から英文和訳へと修正された例を挙げておきます。

I have two brothers.
(直訳体)私は二人の兄弟を持っている。→ (英文和訳体)私には兄弟が二人いる。

Illness prevented him from attending the meeting.
(直訳体)病気が彼を会議に出席することから妨げた。
→ (英文和訳体)彼は病気だったので、その会議に出席できなかった。

This road will lead you to the station.
(直訳体)この道があなたを駅へ導くだろう。
→ (英文和訳体)この道を行けば、駅に出ます。

こうした訳文の修正は明治の頃からすでに行われていたようです。その意味では日本人の翻訳における伝統芸といえるかもしれません。いまでも「翻訳がうまい」といえば、こうした訳文の工夫のうまいことだというイメージが一部にはあるようです。

しかしこれは間違いです。「英文和訳」がうまいことと「翻訳」がうまいこととは関係がありません。これまでに学んできたことを思い出してみてください。言語理解とは何だったでしょうか。それは意味チャンクを思考の単位として、思考の手続きとしての文法を用いながら、時間にあわせて進む線条性のもとに、曖昧性とパターン理解を駆使しながら、動的理解と先取り理解を、無意識のもとにおいて行うというものでした。

英文和訳の英語理解は、こうしたプロセスをきちんと経ているでしょうか。そうではありません。まず直訳のかたちで日本語にして内容を理解し、そのうえで日本語をよりよいものにしていくというのが英文和訳の考え方です。つまり英文理解の面では直訳と英文和訳とは何も変わりはないのです。訳文の修正はあくまで日本語の問題であって翻訳の問題ではありません。ただ日本語を日本語に書き換えているだけです。

英文和訳がうまいからといって翻訳がうまいとはかぎらないという事実は意外と知られていないようです。私の受け持つ翻訳講座でも、翻訳能力の習得ではなく、上に述べたような日本語の書き換え能力としての英文和訳の習得を求めてやってこられる方もいらっしゃいます。そういう方々は私の話をきいてまずびっくりされ、そしてその後は本当の翻訳を学ぶつもりになるか、講座をやめてしまわれるかのどちらかです。

(7) 心と心をつなぐ

では英文和訳ではない本当の翻訳とはどのようなものでしょうか。それを考えるうえでのベースとして、まず翻訳に関係するすべてのプロセスをご説明したいと思います。「翻訳のプロセス」ではありません。「翻訳に関係するすべてのプロセス」です。

ここからは、このプロセスを図にあわせて詳しく説明していきます。

まず、テキストの原作者としての人間を設定します。人間のかわりに「心」ということでもいいです。この原作者をAさんとしましょう。このAさんがなにかを考えて「テキストα」を作ります。このAさんは母語が英語です。つまり英語文化のなかで生まれて育った人です。そこでAさんのテキストαは英語でつくられます。ただしこのテキストαは最終バージョンであり、その向こうに無数の別バージョンがあるはずです。図にすると、下図のようになります。

次に、AさんがつくったこのテキストαをBさんが読みます。このときのBさんは、英語でものを考え、英語でテキストを読んでいます。たとえBさんが日本人であったとしても、このときばかりは英語の世界のひとです。Bさんはテキストαを何度も何度も読み返して、Aさんの「心」に迫ろうとします。そして自分なりのテキストαの「意味」を作りだしていきます。Bさんが作りだしたテキストαの「意味」は、テキストαから自然発生するものではありません。それはBさんという人間が作りだしたものです。こうしてテキストαはAさんのものでもあると同時に、Bさんのものにもなります。図にすると以下のようになります。

Bさんはこうやってテキストαの「意味」を作りだしました。このときBさんが持っている「英語の世界観」が豊かなものであればあるほど、またBさんのAさんという人間に対する理解が深ければ深いほど、Bさんが作りだしたテキストαの意味とAさんが最初に作りだしたテキストαの意味との共通部分は大きくなります。逆にBさんの英語の力が貧弱で、Aさんに対する理解が浅い場合には、テキストαにおけるAさんのつくった「意味」とBさんのつくった「意味」に大きな隔たりができることになります。

ここまでが「英語のテキストを英語として読む」という行為です。普通はここまででおしまいなのですが、ここでのBさんは単なる読者ではなく、翻訳者でもあります。そうすると、Bさんはテキストαから作りだした「意味」を、今度は日本語のテキストとして表現しなければなりません。ここでBさんは、読者から作者へと変身するのです。このときにBさんは、日本語でものを考え、日本語で文章を書く「日本語の人」に変身しています。こうして、Bさんはテキストβを作ります。テキストβの背後には無数のバリエーションがあることも、テキストαと同じです。図にすると以下のとおりです。

そして、このテクストβを今度はCさんが読みます。このCさんは完全に日本語の世界の人です。日本語で生まれ育ち、日本語でものを考えています。そしてBさんがテキストαを読むときと同じように、テキストβから自分で意味を作りだしていきます。

これがAさんの心とCさんの心とをつなぐこと、つまり「翻訳」のプロセスです。ここに出てくるのは原文と訳文という2つのテキストだけではありません。2つのテキストのほかに、Aさん、Bさん、Cさんという3人の人間、そして英語と日本語という2つの言語の世界がそこにあります。それにしてもAさんの心とCさんの心とをつなぐことはいかにたいへんなことでしょうか。そしてそのすべての作業のかなめの位置にいるのがBさん、すなわち翻訳者です。翻訳とは単にテキストとテキストをつなぐことではなく、言語文化を越えて人の心と心をつなぐ、そういう営みなのです。

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