成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

言葉と心

2011年10月3日

言葉と心の関係はじつに不思議である。通常、私たちは心に思ったことを言葉にのせて他の人に伝えていると考えている。心が先にあって言葉がその後にあるというわけである。だがそれは一面的な見方にすぎない。というのも、言葉がなければ、そもそも心に何かを思うこともできないからだ。そういう観点からみれば、心が先で言葉が後なのではなく、じつは言葉が先で心が後ともいえる。心と言葉はタマゴとニワトリの関係のように、それぞれがそれぞれの原因かつ結果なのだ。

ところで、言葉が先で心が後だとすれば、使う言葉が変わると心もまた変わってしまうことになる。たとえば日本語と英語のバイリンガルの場合、それが同一人物であったとしても、日本語を使う際の心と英語を使う際の心はそれぞれに異なるものということだ。実際のところ、こうした多言語性による人格分離は植民地体制下の人々にしばしば見られることだという。ある本ではこのような現象を以下のような図で表している 。



ここでいう心とは根源的な自己のことであり、いっぽうのインターフェイスとは、いわゆる社会的自己のことである。他者つまり外界からは、その人の心はみえないがインターフェイスは、みることができる。このインターフェイスによってみえるものが、世間一般でいうところの、その人の「個性」である。

ところで人格の分離しているバイリンガルでは、この心とインターフェイスとが断絶している。そのため、本来の自己と社会的な自己は必ずしも一致していないのである。さらに、母国語環境でのインターフェイスと外国語環境でのインターフェイスもまた断絶しているため、母国語環境での個性と外国語環境での個性もまた、必ずしも一致しない。

たとえば人格の分離している日英バイリンガルの場合、日本語で話しているときにはおとなしく引っ込み思案な性格だが、英語で話しはじめると積極的かつ攻撃的になるというケースが往々にして見られるという。しかし、おとなしく引っ込み思案という個性と積極的かつ攻撃的という個性のいずれも、じつはその人本来の心の反映ではなく、日本語と英語という外界に適応するためのインターフェイス上の自分にすぎないのである。

インターフェイス上の自己(社会的存在としての自己)が本当の自己ではないといっているのではない。心とインターフェイスの統合された自己こそが本来あるべき姿だといっているのである。人格の分離しているバイリンガルの場合には、そのふたつの自己がうまく統合化されていないことに問題があるのだ。

もちろんバイリンガルやマルチリンガルだからといって、必ずしも人格が分離しているわけではない。心と言語がスムーズに接続し、つねに自分の感覚に基づいた表現をするならば、何語を使っていようとも、それは同一人格である。こうした統合化された人格のあり方を図に表せば、以下のようになる 。これが人格の統合されたバイリンガルの姿である。



人格の統合されたバイリンガルは、心とインターフェイスが統合化されているため、本来の自己と社会的自己とのあいだに矛盾がない。外部からみえる個性がまさにその人自身の個性そのものである。さらに自国語に対応するインターフェイスと外国語に対応するインターフェイスとのあいだにも断絶がないため、自国語であろうが外国語であろうが、その人の個性はまったく揺らがない。人格の統合されたバイリンガルの場合、その個性はつねに同一なのである。

このように人格の統合されたバイリンガルこそが、私たちのめざすべき本当のバイリンガルの姿であろう。統合化された心とインターフェイスを持ち、日本語の環境だけでなく外国語の環境においても確固たる自己を保つことができる統一的人格こそ、私たちにいま求められているものである。

私たちが英語を勉強するということは、自分自身をそうした人格の統合化されたバイリンガルの姿に近づけることである。そしてそれは人間としての成長を遂げていくことにもほかならない。

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