成瀬由紀夫コラム ことのは道中記

What Writing Is

2011年9月16日

書くとはどういうことか


テレパシー。そう、ものを書くっていうのはテレパシーなんだ。考えてみると、まったくびっくりだね。

テレパシーについてはこれまでずいぶんと論じられてきた。あるという人もいれば、ないという人もいる。J・B・ラインなんていう科学者はテレパシーを実際に検知しようとしてやっきになっていたぐらいだ。でもね、テレパシーは実際にあるんだ。それも僕たちのすぐそばに。エドガ・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の手紙のようにね。

程度の差はあるけれど、そもそもアートはすべてテレパシーだといえる。でもそのなかで、ものを書くっていうのはまさに最高級のテレパシーだ。もちろんこれには身びいきがずいぶんと入っているけれど、それでいいと思う。だってこの本は、ものを書きたい人たちのためのものなんだから。

僕の名はスティーブン・キング。いまは1997年12月のある日の朝。雪が降っている。僕は家の軒下の机で、この原稿を書いている(まだ初稿だけど)。

僕の頭のなかにはいろいろなことが渦巻いている。心配なこともあれば(目の調子が悪いこと、クリスマスの買い物が終わっていないこと、うちの奥さんが風邪を引いたこと)、うれしいこともある(下の大学生の息子が急に帰ってきたこと、コンサートでザ・ウォール・フラワーズとヴィンス・テイラーのBrand New Cadillacを一緒に演奏することになったこと)。でも、ものを書いているいま、そんなことはみんなどこかにすっとんでしまっているんだ。

本当の僕がいるのは、この家の軒下じゃない。別の場所だ。明るい光がいっぱいで鮮やかなイメージに満ちた、そんなところ。そこは、僕が数十年をかけて自分のために作り上げてきた「ベースメント」だ。そこにいると、僕ははるか遠くまで見通すことができる。ベースメント(地階)なのに遠くまで見通せるなんてなんだか矛盾しているみたいだけれど、でも、それが僕のやり方なんだから仕方がない。

君が君なりに遠くまで見通せる場所は、いったいどこなんだろう。ひょっとすると木のうえにつくった小屋かもしれないし、(いまはもうないけれど)ワールドトレードセンターの屋上かもしれないし、グランドキャニオンの崖の上かもしれないね。でも、たとえそれがどこであったとしても、そこは君だけのための場所なんだ。ロバート・マカモンのいう「リトル・レッド・ワゴン」というところかな。

この原稿は順調にいけば2000年の夏の終わりには本になって発刊されているはず。ということで君はおそらく、その後のどこかの時点でこの本を読んでいるにちがいない。そしてたぶん、いま君がいる場所は、遠くまでを見通せる(僕からのテレパシーを感じることのできる)君の「リトル・レッド・ワゴン」じゃないかと思う。

でも必ずしもそこにいなくちゃならないことはないってことも、またたしか。というのは、本ってやつは持ち運び自由自在の魔法の道具だからね。たとえば僕なんぞは車を運転しているときにオーディオブックをかけて「読む」(本当は聞くんだけど)のが日課になっている(ただし完全版にかぎる。縮約版ってやつは最低だ)。

それから出かけるときには必ず本はもっていくことにしている。いつなんどき本に逃げ込まなければならない事態が起こるかは誰にもわからないからね。君が大学生だとすると、ある講座の履修中止届へのサインを指導教授からもらわなければならないのに、その教授がちょうど頭のいかれたマスかき野郎にとっつかまって(そいつは教授にまとわりつきながら「Custom Kurmfurling 101の単位をいただけないなら自殺します!」なんてわめいているわけさ)、殺風景な大学構内の建物の前で教授があらわれるまで15分も待たなくちゃならないような、たとえば、そんなときだ。

それから、空港の待合室とか、雨の日の午後のコインランドリー、とか。なかでも最悪なのは、病院に診断結果を聞きにいったところ、医者がまだやってきていなくて、30分も待たされるときだ(これはきつい。心をやすりで削られるみたいだ)。

こんなときでさえ、本さえあれば僕は大丈夫だ。もっといえば、たとえ煉獄で天国にいくためのお浄めを受けているときであっても、そこに小さな貸本屋さえあれば僕はなんとかやっていけると思う(でも、煉獄の貸本屋なら、たぶんダニエル・スティールの小説と「チキンスープ」シリーズぐらいしか置いていないだろうなあ[1]。もちろんスティーブン・キングの本はないよね、はは。)

ということで僕はどこでだって本を読む。でも、やっぱりお気に入りの場所はある。たぶん君にだってあるだろう。たとえば光が十分にあって、いつでも落ち着いた気分でいられるところ。僕の場合は書斎の青い椅子がそこにあたる。君の場合はサンポーチの長椅子や台所のロッキングチェアがそうかもしれないな。あるいは背もたれをうまく工夫したベッドとか。そうしたベッドで本を読むのはまさに天国だ。ただし光が十分にあって、それから、君にコーヒーやコニャックをこぼす癖がない場合にかぎるけど。

さて僕も君もそんな最高に居心地のいい場所にいて、テレパシーを送ったり受けたりするのには最高の条件にあるとしよう。ここから僕たちは「霊能力者」としての作業をこなさなければならない。なにしろ空間だけでなく時間までを飛び越えなければならないんだからね。といっても実際には難しいことなんか何もない。だって僕たちはディケンズやシェークスピア、それに(ちょっと脚注さえつけてもらえれば)ヘロドトスでさえ読めるんだから。1997年と2000年のあいだのギャップなんてお茶の子さいさいのはず。じゃあ、やろう。テレパシーの実演だ。もちろん種も仕掛けもない。口をぱくぱく動かしているわけでもない。君だってそうだろう。では、スタート。

さて皆さん、ここにテーブルがあります。赤いテーブルクロスがかけてあります。そのうえにカゴがあります。カゴの大きさは小さな水槽ぐらいです。カゴのなかには白いうさぎがいます。鼻がピンクで、目のまわりもピンクです。前足にはかじりかけの人参をもっていて、むしゃむしゃと満足そうにかじっています。うさぎの背中には、数字の「8」が、青いインクではっきりと描かれています。

どうだった? 同じものが見えたかな。まったく同じかどうかはお互いが詳細なノートでもつくって比べてみないとわからないけれど、でも、たぶん同じものが見えたと僕は思う。もちろん細かいところは違っているだろう。おなじ赤のテーブルクロスといっても、その赤はターキーレッドかもしれないし、スカーレットかもしれないし、別のタイプの赤かもしれない(色覚の問題のあるひとは、たばこの灰と同じくグレーにみえるかもしれない)。テーブルクロスの縁は直線かもしれないし波型かもしれない。人によってはレース付きかもしれない。でも、それでいい。それぞれが自分なりのテーブルクロスをイメージできれば、それでなんの問題もないんだ。

テーブルクロスだけじゃない。カゴだって見方はそれぞれに違うはず。なぜというとカゴについての説明がかなり大ざっぱだからだ。でも君と僕とが同じように世界をみているなら、これだけでも十分に通じあうはずだ。

たしかに水槽とカゴを比べるなんていう大ざっぱなやり方では、いい加減なところが出てくる。けれども逆に細かいところまで目を配りすぎると、今度は書くことの醍醐味がなくなってしまう。たとえば「テーブルのうえには縦3フィート6インチ、横2フィート、高さ14インチのカゴがあります」とでも書いたら、どうだろう? これじゃあ本当に書いたことにならない。たんなるマニュアルづくりだ。

カゴの材質についても何もいってはいない。金網でできているのか金属棒でできているのか、それともガラスなのか、それはわからない。でもそんなことがわかったところで何になる。カゴはカゴ。それ以上のことなんかどうだっていい。

一番大事なのはなんだろう。テーブルクロスやカゴじゃない。人参をもぐもぐ齧っているうさぎでもない。ウサギの背中に描かれた数字だ。6じゃない。4じゃない。19.5でもない。「8」だ。この数字の8こそ、僕たちが一緒にみているものなんだ。

このことを僕は君にいわなかった。君も僕にたずねなかった。僕は君に話しかけなかったし、君も僕に話しかけなかった。僕たちは同じ年をすごしているわけでもないし、同じ部屋のなかにいるわけでもない。でも僕たちはいま一緒にいる。僕たちの心はいま通いあっている。

背中に青インクで8の数字が描かれたうさぎの入っているカゴが置いてある、赤いテーブルクロスのかかったテーブルを僕は君に送信した。そして君はそれをすべて(なかでも青色の8という数字)を受け取ることができた。どうだい、これこそテレパシーじゃないか。それもインチキじゃなく、正真正銘のテレパシーだ。そうだろ?

くどくどいうつもりなんかない。でもここから話を先に進めるには、僕がこれからいうことを君はまじめに受け取らなければならない。僕は本気だ。一番大事なことだからだ。

ものを書くにはいろいろなやり方があっていい。悩みながら書いてもいいし、高揚しながら書いてもいい。あるいは絶望に打ちひしがれながら書いたってかまわない(そもそも自分の考えや思いを100パーセント表現することなど絶対にできないことだから、絶望を感じるのは当たり前)。誰に負けない最高の作家になってやると、こぶしを握りしめ、唇を噛みしめながら書くのもいいだろう。ある女の子と結婚したいから書くのもいいかもしれないし、世界を変えてやろうと思って書くのもいいかもしれない。

ものを書くというのはどんな理由からでもいいんだ。でもたったひとつだけ、絶対にやっちゃいけないことがある。それは、いい加減な気持ちで書くこと。もう一度いう。いい加減な気持ちで、ものを書いちゃ、いけない。

なにも敬虔な気持ちや断固たる決意をもってものを書けといってるんじゃない。政治的な正しさなんぞはどうでもいいし、(もしあればの話だが)ユーモア精神を捨てなさいといってるわけでもない。

ものを書くのは人気者になるためじゃない。モラルを体現するためでもない。宗教を広めるためなんかでもない。ものと書くっていうのは車を洗うことじゃない、お化粧をすることでもない。それは、ものを書くってことなんだ。もし君がこのことをまじめに受け取ってくれるのなら、僕と君はこれからもうまくやっていけると思う。そうじゃなければ、君はこの本をここで閉じて別のことをやったほうがいい。そうだな、車を洗う、とか。


[1]どちらも米国の大ベストセラー。ダニエル・スティールは敬虔なカトリック信者。「チキンスープ」シリーズは精神性をテーマにしたもの。


☆☆☆


What Writing Is

Telepathy, of course. It’s amazing when you stop to think about it–for years people have argued about whether or not such a thing exists, folks like J. B. Rhine have busted their brains trying to create a valid testing process to isolate it , and all the time it’s been right there, lying out in the open like Mr. Poe’s Purloined Letter. All the arts depend upon telepathy to some degree, but I believe that writing offers the purest distillation. Perhaps I’m prejudiced, but even if I am we may as well stick with writing, since it’s what we came here to think and talk about.

My name is Stephen King. I’m writing the first draft of this part at my desk (the one under the eave) on a snowy morning in December of 1997. There are things on my mind. Some are worries (bad eyes, Christmas shopping not even started, wife under the weather with a virus), some are good things (our younger son made a surprise visit home from college, I got to play Vince Taylor’s “Brand New Cadillac” with The Wall-flowers at a concert), but right now all that stuff is up top. I’m in another place, a basement place where there are lots of bright lights and clear images. This is the place I’ve built for myself over the years. It’s a far-seeing place. I know it’s a little strange, a little bit of a contradiction, that a far-seeing place should also be a basement place, but that’s how it is with me. If you construct your own far-seeing place, you might put it in a treetop or on the roof of the World Trade Center or on the edge of the Grand Canyon. That’s your little red wagon, as Robert McCammon says in one of his novels.

This book is scheduled to be published in the late summer or early fall of 2000. If that’s how things work out, then you are somewhere downstream on the timeline from me…but you’re quite likely in your far-seeing place, the one where you go to receive telepathic messages. Not that you have to be there; books are a uniquely portable magic. I usually listen to one in the car (always unabridged; I think abridged audio-books are the pits), and carry another wherever I go. You just never know when you’ll want an escape hatch: mile-long line of tollbooth plazas, the fifteen minutes you have to spend in the hall of some boring college building waiting for your advisor (who’s got some yank-off in there threatening to commit suicide because he/she is flunking Custom Kurmfurling 101) to come out so you can get his signiture on a drop-card, airport boarding lounges, laundromats on rainy afternoons, and the absolute worst, which is the doctor’s office when the guy is running late and you have to wait half an hour in order to have something sensitive mauled. At such times I find a book vital. If I have to spend time in purgatory before going to one place to the other, I guess I’ll be all right as long as there’s a lending library (if there is it’s probably stocked with nothing but novels by Danielle Steel and Chicken Soup books, ha-ha, joke’s on you, Steve).

So I read where I can, but I have a favorite place and probably you do, too–a place where the light is good and the vibe is usually strong. For me it’s the blue chair in my study. For you it might be the couch on the sunporch, the rocker in the kitchen, or maybe it’s propped up in your bed–reading in bed can be heaven, assuming you can get just the right amount of light on the page and aren’t prone to spilling your coffee or cognac on the sheets.

So let’s assume that you’re in your favorite receiving place just as I am in the place where I do my best transmitting. We’ll have to perform our mentalist routine not just over distance but over time as well, yet that presents no real problem; if we can still read Dickens, Shakespeare, and (with the help of a footnote or two) Herodotus, I think we can manage the gap between 1997 and 2000. And here we go–actual telepathy in action. You’ll notice I have nothing up my sleeves and that my lips never move. Neither, most likely, do yours.

Look–here’s a table covered with a red cloth. On it is a cage the size of a small fish aquarium. In the cage is a white rabbit with a pink nose and pink-rimmed eyes. In its front paws is a carrot-stub upon which it is contentedly munching. On its back, clearly marked in blue ink, is the numeral 8.

Do we see the same thing? We’d have to get together and compare notes to make absolutely sure, but I think we do. There will be necessary variations, of course: some receivers will see a cloth which is turkey red, some will see one that’s scarlet, while others may see still other shades (To color-blind receivers, the red tablecloth is the dark gray of cigar ashes.) Some may see scalloped edges, some may see straight ones. Decorative souls may add a little lace, and welcome–may tablecloth is your tablecloth, knock yourself out.

Likewise, the matter of the cage leaves quite a lot of room for individual interpretation. For one thing, it is described n terms of rough comparison, which is useful only if you and I see the world and measure the things in it with similar eyes. It’s easy to become careless when making rough comparisons, but the alternative is a prissy attention to detail that takes all the fun out of writing. What am I going to say, “on the table is a cage three feet, six inches in length, two feet in width, and fourteen inches high”? that’s not prose, that’s an instruction manual. The paragraph also doesn’t tell us what sort of material the cage is made of–wire mesh? steel rods? glass?–but does it really matter? We all understand the cage is a see-through medium; beyond that, we don’t care. The most interesting thing here isn’t even the carrot-munching rabbit in the cage, but the number on its back. Not a six, not a four, not nineteen-point-five. It’s an eight. This is what we’re looking at, and we all see it. I didn’t tell you. You didn’t ask me. I never opened my mouth and you never opened yours. We’re not even in the same year together, let alone the same room…except we are together. We’re close.

We’re having a meeting of the minds.

I sent you a table with red cloth on it, a cage, a rabbit, and the number eight in blue ink. You get them all, especially that blue eight. We’ve engaged in an act of telepathy. No mythy-mountain shit; real telepathy. I’m not going to belabor the point, but before we go any further you have to understand that I’m not trying to be cute; there is a point to be made.

You can approach the act of writing with nervousness,, excitement, hopefulness, or even despair–the sense that you can never completely put on the page what’s in you mind and heart. You can come to the act with your fists clenched and your eyes narrowed, ready to kick ass and take down names. You can come to it because you want a girl to marry you or because you want to change the world. Come to it any way but lightly. Let me say it again: you must not come lightly to the blank page.

I’m not asking you to come reverently or unquestioningly; I’m not asking you to be politically correct or cast aside your sense of humor (please God you have one). This isn’t a popularity contest, it’s not the moral Olympics, and it’s not church. But it’s writing, damn it, not washing the car or putting on eyeliner. If you can take it seriously, we can do business. If you can’t or won’t, it’s time for you to close the book and do something else.

Wash the car, maybe.

(On Writing, Stephen King, Pocket Books, pp.103-7)

 

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